4つの種


辻田兄

(名古屋喜びの集い、2005/02/19)

引用聖句:ルカの福音書8章4節-15節
4さて、大ぜいの人の群れが集まり、また方々の町からも人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。
5「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。
6また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。
7また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。
8また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスは、これらのことを話しながら「聞く耳のある者は聞きなさい。」と叫ばれた。
9さて、弟子たちは、このたとえがどんな意味かをイエスに尋ねた。
10そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
11このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。
12道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。
13岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。
14いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。
15しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

この種を蒔く人のたとえというのは、福音書の中でもマタイの福音書にも、マルコの福音書にも、またルカの福音書にも出てまいります。
今日はその中でルカの福音書の中からみなさんとご一緒に考えてまいりたいと思います。

このたとえの意味について色んな受け取り方があろうかと思います。ひとつは、この種というのを「神のみことばです。」とイエス様が解説されておりますように、またイエス様のこのお話を大ぜいの人が押しかけて聞きに駆けつけたという場面から考えますと、イエス様は多くの色んな人たちが集われた中で、神のみことばを宣べ伝えられたと。
聞く人はまちまちでしたけれども、まんべんなく種を蒔かれたという観点からですし。

もうひとつは逆に、そのみことばを聞く側、受け取る側の方からの見かたもできるかと思います。
今日はこのみことばを、受け取る側から見てまいりたいと思います。
耳を傾けて、真剣にイエス様のみことばを聞く者だけが、この個所にあるように、豊かに実を結ぶことになりますと最後の15節に書かれております。

ルカの福音書8:15
15しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

とあります。
本来、神のことばであるみことばを聞くときに、このような姿勢で私たちがみことばに耳を傾け、またみことばを読むときに、その人たちひとりひとりにこの実を結び、ひとつの種が50倍、100倍と実りがそれだけ増えるということであるとイエス様は仰っています。
けれども私たち、この聖書を読みながら、色んな心の状態がありますから、必ずしもこの15節のように受け取れないのが、残念ながら私たちの心の状態であります。

最初にこのみことば、神のことばである種のことについて考えてみたいと思いますが、イエス様は神のことばを種にたとえてお話しになりました。
これから春になりますと、色んな畑とかあるいはちっちゃな農園とかにも、みなさんも植物の種を蒔かれるかと思います。
ちっちゃな種がだんだんと芽を出し、大きく成長するのは、どなたも経験されるところであります。種が蒔かれますと、その種がいかにちっちゃくてか弱く見えても、やがて芽を出し大きく成長してまいります。

イエス様のことばである神のことばも、この種のように私たちの中に受け取られたときに、成長する力はもっているわけであります。
神のことばのもっともすばらしい点は、人の心にまことの信仰を造り出す力をもっているということです。
みことばが宣べ伝えられると、信仰がその人の心の中に生み出されてまいります。私たちの救いはみことばの力によるのであります。

ローマ人への手紙10:17
17信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

とあります。信仰は聞くことから始まります。聞くという行為であります。
今みなさんに私も聖書のことばを申し上げましたけれども、この聞くという行為であります。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

聞くことは、聞いてただ聞きっぱなしというのじゃないのですね。聞いて従うという行為が伴わなければならないわけです。
ですから最初の、「信仰は聞くことから始まり、」、というのは単純に「聞く」という行為ですけれども、「聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」という場合の、この「聞く」ことというのは、聞いてかつそのみことばに従うという行為であります。

聞いて従うときに、キリストについてのみことば、キリストについて語られている福音のメッセージによって、信仰が生まれ育つということをパウロはこのローマ人への手紙の中で説明しております。
また、テモテへの手紙第IIの3章15節の中でも、ここでは聖書と書いていますけれども、

テモテへの手紙第II、3:15
15聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

同じように、コリント人への手紙第Iの2章の4節、5節にも、パウロ自身、このみことばを宣べ伝えるときに、

コリント人への手紙第I、2:4
4私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、

と、人間の知恵によって支えられたみことばによるのじゃなくて、御霊と御力の現われでした。

コリント人への手紙第I、2:5
5それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。

とパウロは述べております。
このように、人間の言葉ではなくて、本当に聖書のことば、神のことばは、人間の目に見えない力をもっているのであります。

みことばの上に私たち人間の知恵や力を付け加える必要はないのであります。神のことばには、聖霊を通して働くみことば自体に力があるわけであります。
人間の知恵などでそれにことばを付け加えたり、ことばを減らしたりすることは不要なのであります。
ですからパウロはガラテヤの信者に対して、ガラテヤ人への手紙3章2節でこのように問いかけております。

ガラテヤ人への手紙3:2
2あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

パウロが言わんとしたのは、信仰をもって聞いたから、あなたがたは御霊を受けたのですと言いたかったわけであります。
二番目に今日のテーマですが、神の力あるみことばを私たちはどういう態度で聞いたらよろしいのでしょうか。

みことばを聞く者たちのとり方はそれぞれでしょう。
みことばが私たちの心の中にしっかりと根を下ろすような聞き方をすることができる方もあるでしょうし、何となく上の空で聞いてしまうということもあるかもしれません。
ただやはり大事なことは、本当にこのみことばが、ひとりひとりの心の中に根を下ろすような聞き方をすることではないでしょうか。そのためにイエス様は4つの種の落ちた場所を仰ったわけです。

一つが、道ばたに落ちた種と仰ってます。
私たち、畑に種を蒔くときに道ばたなんかには蒔きませんし、また二番目にあります岩の上に落としたり、あるいは十分いばらが出てくるような畑には蒔かないものです。
しっかり耕した畑に、土の上に蒔こうとすると思います。

ただイエス様がここで仰ったのは、イエス様自身はどんどん道ばたにも、岩の上にも、あるいはいばらが生えてきそうな土の上にも、あるいは良い土の上にもまんべんなく種を蒔かれたけれども、結果としては、良い地に落ちた種でないと成長しないと仰っているわけであります。
順を追ってもう一度見てまいりたいと思いますが。道ばたに落ちた種というのは、イエス様が解説されているように、そのまま鳥がすぐ食べてしまったと、空の鳥が食べてしまったとあります。そしてその解説として、

ルカの福音書8:12
12道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。

と細かく解説くださっております。
この悪魔、サタンこそこの地上を支配する王者であります。また悪魔は、私たちがイエス様を救い主として受け入れることを、大変嫌がる者であります。

ですから私たちが本当に、道ばたに落ちるような種であると、すぐに悪魔が食べて取り去ってしまう。鳥に食べさせてしまうのであります。
みことばを聞いても、少しもそれを役に立たせることができない人であります。ですから、みことばをすぐに鳥にさらわれ、サタンに盗まれるのであります。

彼らは神のことばを聞くには聞きますけれども、神のことばが本当にその人の心の中で働く前に、すっかりその心の中からみことばが取り去られてしまうのであります。
メッセージを実際に聞いていながらも、上の空で聞き、何をメッセージされたのか少しも覚えていない人は、この種であります。
道ばたに種が落ちた場合には、道ばたと言うと踏み固められておりますから、当然その種も芽を出すことができません。ですから、そのままに...

次の岩の上に落ちた、岩の上、土の薄い岩地という表現の仕方も、別の福音書にありますけれども、薄っすらとその土がある上に落ちた種の場合も、芽だけは出すけれども、十分な水分がなかったので、芽が枯れてしまうというような状況であります。

ルカの福音書8:13
13岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

私たちも先に救われた者として、多くの人たちに聖書の話をしたりします。
そういうときに本当に喜んで集会に出席され、また喜んで主の御名を賛美される方があります。
けれどもその方自身が、ちょっとした試練に会われますと、もうそちらのほうに振り回されて、あの喜びはどこへ行ったんだろうというような状況に陥ってしまわれます。非常にいのちの短い信仰であります。

福音は信じても困難や迫害に出会うと、すぐに信仰を捨ててしまう人のことであります。
このような人は一般に、神のことばには感動しやすいです。非常に感情的で、敏感であります。メッセージを聞いて非常に感激なさいます。また、賛美の歌に本当に胸を打たれて、涙ながらに賛美されます。
感激してメッセージを聞いているうちに目頭が熱くなり、涙が溢れ出ますけれども、しかしこの気持ちがずっと続かないのであります。

感受性の豊かな人はとかくこのような危険に陥りやすいものであります。
それはやはり、このような人が一方では自分自身の感情に支配され続ける。自分の生き方にこだわりながら、同時に神さまの助けも受けようとする結果として、神さまが中心でなくて、自分自身がその自分の心の中で王者であるからであります。

本人は、福音を受け入れたと思っていましたけれども、よくよく見ますと色んな迫害、困難に出会いますと、知らぬ間に毎日の生活の中において、神さまが中心となっていない状況に陥るわけです。
知らず知らずのうちに、神さまへの助けを求めない、あるいは神さまは私が願っているのを助けてくださらないのではないかと思ったり、不信に陥ってしまうわけであります。

この人たちのことをもう少し見てみると、やはり自分自身の中にもってる罪というものを十分に悔い改めていないという状況、それに気付かされてないからであります。
もちろん十分にみことばを受け入れていると自負している人でも、この自分の罪の深さ、またその罪を悔い改めるということ、これは日々大切なことであります。

本当に油断をいたしますと、すぐ自分の罪につまずき、悔い改めの気持ちも知らぬ間に失ってしまうものであります。
「悔い改めのない信仰は本物の信仰ではない。」とあります。本当に悔い改めの実が育たないと、花が開いても完全な実を実らせることができないわけです。

信仰生活が長い方にあっても、どうしてもこのような危険性に陥るものであります。私自身もいつも悔い改めの気持ちをもたされる日常であります。
ダビデは詩篇の中でこのように祈っております。ちょっとみなさんとご一緒に見たいと思います。

詩篇139:23-24
23神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

本当にみことばを読んでいながらも、ダビデが祈ったように、私たちの日々の歩みの中においても、
「私を探り、私の心を知ってください。私の思い煩いを知ってください。また、傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道、正しい道へ導いてください。」といつも悔い改めながら祈ることが大切であります。
木になっているリンゴも、はた目には美しく見えても、ちょっとした振動によって落ちることがあります。よくよく見ると、そのリンゴに虫が付いていて、その虫によってリンゴが落ちるわけです。

また元に戻りまして、三つ目のいばらの真中に落ちた種のことであります。
種を蒔くときには、もちろんいばらが生い茂った中に種を蒔いたのではないんです。いばらも土の中に埋まってた状況です。ですから、そのように種を蒔かれました。
しかし蒔いた種と一緒にいばらも実を出したわけであります。しかも、いばらのほうが成長が早く、また成長が強くて、それで蒔いた種のほうがすっかりふさがれてしまったという例えであります。

みことばを聞きはしたけれども、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのですとイエス様は仰っています。
なまぬるい信仰、この世のことでふさがれてしまった信仰であります。
いばらの中に落ちた種とは、福音を信じてはいても、舞い上がって、世の中のことで色々と心配になったり、あるいは富に目がくらんだりするような人であります。

信仰を告白してバプテスマを受けても、何かあるとすぐに、知らぬうちに集会から遠ざかってしまう人であります。
こういう方は、福音を喜んで受け入れたように見えますけれども、とかく自分のことだけを考え、自分の関心をもち、興味をもつことに心を第一としている。心の中でそれらを第一にしている。そしてそれに仕えている人であります。
神さまに仕えたいという気持ちももちろん少しはもっていますけれども、結局は心を支配してしまうのは、この世の心づかいとか、富等であります。

私たち日常において、本当にこのようなこととの戦いではないでしょうか。油断をしてますと、色んなこの世のことに振り回されてしまう危険性をいつももっているわけであります。
知らず知らずのうちに、私たちの心の中にいばらで占められてしまうという危険な状況になることであります。
ダビデが詩篇の中で別の個所でもこのように祈っております。

詩篇86:11
11主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

本当に私自身、軌道修正をして、本当にイエス様のみことばの真理のうちを歩み続けることが大切であります。
心を一つにして、本当にこの道を歩むことが大切であります。

種を蒔くときには土に覆われていたいばらは、種が芽を出した穀物といっしょに生え育ちます。
いばらの芽は初めのうちはそれほど悪く見えなかったわけですが、やがてだんだんと成長するときに、いばらは穀物をいっしょに大きくなり、やがていばらの茂みは穀物よりはるかに強くなり、蒔いた穀物の柔らかい芽を全部ふさいでしまうほどまでに大きく成長してしまうのであります。
この世の心づかいや、富や、欲望が心の座を占めてしまうのです。

イエス様がこのたとえをお話しになったときには、みな神のことばに耳を傾けた人たちでした。
彼らの心の中に、自分はクリスチャンであるとの思いが育ち始めていました。しかしながら、心の中にほかのものもたくさん育っていたわけです。

ルカの福音書8:14
14いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。

とあるように、本当に油断をしてますと、このようなものに振り回されてしまう弱さをもっているわけであります。
聖書の中で、神さまにも仕えまた富にも仕えるということはできませんと、マタイの福音書の中で宣言されておりますし、また、

テモテへの手紙第I、6:9
9金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

とあります。お金や富は、私たちの霊的生活を何と多く破壊していることでしょうか。
私たち、この通貨制度が発達している現代の社会においては、お金なくしてはもちろん生活することはできません。それだけに、お金によって逆に身を滅ぼす機会も多くなります。
このことはお金をたくさんもっていても、あるいはお金が不足であっても両方に当てはまります。どちらも場合も心配ですし、思い煩うようになるからです。

私たちはどうしても自分のことについては、いつもくよくよと心配いたします。
健康の問題。仕事の問題。あるいは自分の人生の将来のこと。あるいは子どものこと。あるいは子どもの将来のこと。
本当に心配をしだしたら尽きない種であります。不安と心配の連続であります。

しかし、このような場合もイエス様はみことばを通して、神を信頼するか、あるいはこのような生活にふさがれるかと私たちにその選択を迫っております。
みことばによって成長するか、いばらに心を占められるかと、私たちに選択を迫っていらっしゃいます。

マタイの福音書6:24
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

やはり、本当に私たちの順位は、神さまに仕えることが大切であることを教えてくださっております。
この世の心づかい、富、快楽の道は私たちにはまったく別々のように見えますけれども、もちろんこの三つについて思い煩う人と、あるいは現代だけに、その日その日が楽しくあればいいやと軽薄な生き方をする人と出てまいりますけれども、しかし大きな違いはないのではないでしょうか。

軽薄な生活というのは、不信仰から出ることですし、また同時に思い煩うことも不信仰から出てまいります。
軽薄な生活も思い煩いもいばらのようなものであります。

それでは、四つ目の良い地に蒔かれるとは、良い地に蒔かれると大いに成長して、一つの種が100倍、あるいは50倍、あるいは30倍に実を結ぶと書かれております。
正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
このような良い地に蒔かれる種こそ、本当にこのイエス様が望んでいらっしゃる理想的な信仰者であります。根を下ろした信仰者であります。

良い地とは、福音を聞いて信じ、深く理解できて、みことばに従って生活する人であります。
このような人たちは本当に豊かな実を結ぶことができます。イエス様は私たちがこのようになることを、いつも願っていらっしゃいます。

(テープ A面 → B面)

・・・語りかけを受け、霊の目が開かれた者は、神さまに召された、愛された人であります。新しく造り変えられた人であります。

そのためにも私たちはいつも主に祈ることが大切です。
「主よ。私はあなたの御声に耳を傾けていますから、みことばを聞かせてください。また私の罪、咎、過ちを私に立ち返らせてください。あなたがお語りになるときに主の御声を聞き分けるようにしてください。」と祈ることが大切であります。
「みことばを聞かせてください。自分自身の罪を自分に悟らせてください。そして御声を聞き分けるようにしてください。」と祈ることが大切であります。

このようにして日ごと、神さまからのことばを待つ人には、信仰の芽がすみやかに巡り、50倍、100倍となるものであります。
だれでも最初は自分自身の罪を知らされ、その罪の重荷に苦しみ、また悲しむものです。
それでもその罪について、イエス様がすでに十字架につけてくださった。もうすでに解決済みだということをみことばを通して確信できたときに、イエス様なしには生きることができない人へと変えられるのであります。

私たちの心の中に神のことばが根を下ろして、成長することができる心というのはどのようなものでしょうか。それはみことばに聞き従う姿勢をいつももつことであります。また、みことばとしっかり堅く結び付くことであります。
イエス様は、「良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」と仰っております。本当にみことばをしっかりと守り、またよく耐えて実を結ばせるように、堅く結び付くことが大切であります。

みことばを聞いても、すぐに理解できない個所もあろうかと思います。
それでも本当に素直にみことば受け入れる姿勢をもつときに、必然とそのみことばを私たちに働きかけてくださり、理解できるようにしてくださるものであります。
イエス様の母マリヤも、彼女がみごもって、男の子を産むと言われたときに、「まだ結婚もしてない、男も知りません。どうしてみごもるのですか。」と理解できませんでした。しかし彼女は、「私は主のはしためです。」と言うことができました。

ルカの福音書1:38
38マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

イエス様の誕生は神の聖霊による誕生であります。本当にこのマリヤがイエス様をみごもったときに、彼女はこのように、「あなたのみことばどおりこの身になりますように。」とすべてをみことばにゆだねております。

あるいは、長血をわずらった女性も、イエス様の御衣に触れるだけでもその病がいやされるということばに確信をもって、イエス様の衣に後ろからそっと触れ、その病をいやされました。
本当にこのみことばをしっかりつかんでいることの大切さを、この長血をわずらった女性も私たちに教えてくれております。

マルコの福音書9:23
23するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

本当に確信をもっている人に対しては神さまはどんなことでもできますと仰ってくださっております。
本当に神さまにとって不可能なことはないと仰っております。ですから本当に私たちは日々神さまのことばに堅く結び付いていることが大切なのであります。

イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と仰いました。みことばをしっかりとつかんでください。
神のことばは私たちの意思ではできないことを成し遂げてあげると仰っているわけです。ですから、「聞く耳のある者は聞きなさい。」、「みことばをしっかりつかむようにしてください。」と仰ってくださっております。神のことばには奇蹟を行なう力があるわけです。

神さまには不可能なことはありません。そのためにも私たちは本当にこの神のことばを素直に受け入れるためにも、私たちの心の中にある数々の罪を払い除けなければならないわけです。
その罪はすでにイエス様が十字架により解決してくださっているわけです。ですから、本当にこの自分の中にある罪を自覚して、本当に主の前に悔い改めの気持ちをもつときに、主は豊かに働いてくださる方であります。
ダビデ王も知らず知らずのうちに多くの罪を犯しました。それゆえにダビデは主の前に祈りことができました。

詩篇51:17
17神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

本当に私たち自身もこの砕かれたたましい、砕かれた悔いた心が大切であります。そのときに主は私たちに奇蹟を起こしてくださる方であります。
そのためにも私たちは本当にこの神のことばから離れないようにし、また、いつも主にダビデのように祈り続けることが大切ではないでしょうか。

イエス様はこの種を蒔くたとえを通して、本当に私たちひとりひとりが良い地であってほしい、そしてみことばがその人の心の中で30倍、50倍、100倍と実ってほしい。
また、みことばを聞いた人が50人、100人と救われてほしいと仰って、このたとえをお話しいただいたのではないでしょうか。




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