10人のらい病人


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2006/05/21)

一昨年の秋から、イエス様の恵みの一方的な大きさについて、1テーマで学んできています。
シリーズの第一回目は、マタイの福音書20章14節から学びました。

マタイの福音書20:14
14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。

ぶどう園の5時から労働者を通して、恵みは私たちが何かをした対価として与えられるものではなく一方的にイエス様の憐れみによって与えられるものであることを学びました。
この世には、朝の5時から働いているようなたくましき生きているような人たちがたくさんいるように見えるかもしれません。
もがいても、苦しんでも、そのようにならず、やっと仕事が見つかったのは、午後の5時。もう日も傾く頃。あせりと裏腹に、そんなに働く時間もありませんでした。

でも、そこで、神様は、驚くべきことをなしてくださいました。神様は、朝の早くから働いた人と同じだけの賃金を、夕方から少しだけしか働けなかった私たちにくださいました。
神様は、わたしたちを単に夕方から働いた者とは見ずに、仕事が見つかるまで、わたしたちがどんなにあせり、苦労して、傷つきもし、痛んだかもみんな知っていてくださいました。

以前、ある兄弟がこちらでメッセージしてくださった時に、「この世の今の状態は、まさに、たくさん働いた者がたくさん報酬を得る。目に見えて役に立たない者はリストラする。そのような経営が賞賛されているのは、サタンの喜びの世界だ。」とおっしゃったのも、忘れられません。
恵みの世界はなんだろう。このぶどう園にたとえは、バィンヤードとかビンヤードとか言われて、ほんとうに、イエス様の恵みを覚える箇所で、ここから出発しました。

エピソード2は、ピレモンへの手紙の18節でした。

ピレモンへの手紙1:18
18もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。

ここのテーマは、私たちはみな主のオネシモであるというテーマでした。
ピレモンへの手紙は、「わたしがオネシモの負債を払いましょう。」、パウロが自筆でサインして書きました。オネシモの債務の代理返済の予約の申し立てでした。パウロのサインはその保証のサインでした。
この時に、わたしが学生時代、お金がないので、天丼屋さんで天丼を食べてしまって無銭飲食して許してもらった話しをしました。

わたしたちの状態は、まさに払えない負債を負っている、お金は持っていない、でももう天丼は、あらかた私の胃袋の中。どうしようもない。
愛のないわがままで、多くの人を傷つけ罪を犯し、それを償いようのない状態に置かれている。その負債を、ぜんぶ私が払いましょうというのが、十字架の福音である。
その保証のサインは、2,000年前にゴルゴダの丘の上に立った十字架であることを学びました。

エピソード3は、

ルカの福音書19:9-10
9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ザアカイストーリーから学びました。そこで学んだことは、イエス様のまなざしの中心になるのはなんでしょうかということでした。
この世では、本来イエス様のまなざしの中心にあるべきものが周辺に追いやられ、周辺と中心の逆転が起こっている。
でも、イエス様のまなざしの中心にあったのはなんでしょうか。イエス様のまなざしの中心にあったのは、いつも一番弱いひと。一番、傷ついてるひと、苦しみひと、助けを求めているひとでした。

ザアカイ・ストーリーの中で、わたしたちは、「わたしは、失われた人を探して救うために来たんだ。」というイエス様の宣言を学びました。
そして、去年の夏は、エピソード4、5、放蕩息子と良きサマリヤ人について2回に分けて学びました。
良きサマリヤ人では、自分自身を、傷ついて道ばたに倒れた旅人の中に見い出す時に、福音の扉が開かれることを学びました。

ルカの福音書15:20
20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

放蕩息子で学んだのは、待ち続けて、走り寄ってくださるほどの神様のご愛でした。
そして、その放蕩息子のストーリーの初めに、身代を分けたときに、息子が家出するときに、この待ち続ける父は、悔い改めれば赦される赦しの道を用意して準備していました。
ここまでが、去年の夏までの復習でした。こうやって福音書をあらためて見てくると、私たちの神様の愛に対する理解が、どれだけ小さなものになってしまっているか思わされます。わたしたちが、気が付いて理解している神様の愛は、なんと小さいのでしょう。

わたしは、メールの交わりがたくさんあって、集会に来れなくなった方々も、集会に帰れなくなって、いまは、別のところで礼拝されてる方とも、交わりがあります。
もう時効になってるからいいと思うのですけど、ある時、ある兄から、「私は帰っていいのだろうか?」と問いかけられたことがありました。もうイエス様も集会も捨てる。みんな失望した、この世の中に歩むと歩まれたのですけど、そこにあったのは、もっと悲しい出来事でした。
そこで、イエス様が自分を引き戻そうとされてるって、気がつかれて。そうでないと、そのようなことtがつぎつぎに起こされるのは、理解できない。で、イエス様の所に帰りたいという思いを持たれて。

でも、帰れないとおっしゃるんですね。この世に本当の平安がない。喜びのがないのがわかっても、イエス様に一度、徹底的に背を向けた自分が帰れるように思えない。イエス様のところに帰れるだろうか。
だいぶ昔で、その頃、わたしもまだ確信を持って何も的確にお返事することができなかったのですけど、みなさんなら、どのような答えを持つでしょうか。
最近いろいろ示されて、私の中で浮かび上がってきているひとつの答えがあるんですけど、その答えは、イエス様の前にへりくだって立ったとき、誰もが持つような答えに思います。

その答えは「私もあなたと同じです。」という答えに思います。私もあなたと同じで、50歩、100歩。イエス様を悲しませた者です。
今も、知らない所で悲しませているかもしれません。でも、ゴルゴダの十字架の赦しを、イエス様の赦しを、イエス様の血潮が、十分であることを信じるから、赦されていることを信じているかいまここに集っています。そういう答えが浮かび上がってくるように思います。

わたしたちの信仰、聖書の信仰は、リハビリテーションの信仰に思います。
イエス様のお弟子さんたちは、どうだったでしょう。あの十字架の夜、迫害を恐れて逃げまどい、ペテロは三度も主を否みました。あの主を否んだペテロの姿は、お弟子さんたちの代表として記されているように思います。
3年間、まさに生ける主とともに歩みながら、十字架の夜、主を見捨ててにげていったその情けない姿と挫折。三度、主を否んだペテロに、三度わたしを愛しますかとイエス様は尋ねます。

ヨハネの福音書21:17
17イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

イエス様のペテロに対するカウンセリングで、心のリハビリてーションに思います。
ペテロの叫びは、愛しますと言うと同時に、わたしの愛が、どんなにボロボロがあなたはすでにご存知でしょうという叫びにも聞こえます。
ほんとうに、みんな例外なしに、リハビリ中の信徒と思います。

復習の最後に、エピソード6は、今年の春に長血の女を学びました。
そこで、学んだのは、「私の方を振り向いて下さるイエス様」でした。

マルコの福音書5:30
30イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

そこに居合わせた人たちの関心は、みなヤイロの娘にありました。
ヤイロの娘をイエス様はどのように扱われるのだろうか。またまた奇蹟が起きるのか。みんなの関心がそこにあり、道ばたの長血の女のことなんて、世界中の誰一人として、気にかけないときに、イエス様は、その長血の女に気がつかれ探し振り向かれました。
ここまでが、エピソード6までの復習でした。イエス様の恵みの大きさを覚えます。わたしたちはきっと筆箱の中の20cmくらいのい定規で、通天閣くらい大きなイエス様の愛をはかろうとします。はかってもはかれるわけがありません。

エペソ人への手紙3:18-19
18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

ほんとうに、「イエス様の愛をもっと知らしめてください。」、祈らずにはおれません。
今日、エピソード7でいよいよ10人のライ病人にはいります。今日のテーマは、「10人のらい病人。イエス様の一次テストと二次テスト」です。
今日の箇所では、今までの6つの箇所とは違って、新たに問われてくることがあります。それは、そのイエス様の愛に対して、わたしたちは、どのように応答するのかという、私たちの応答に対する問いかけです。

ルカの福音書17:13
13声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。

10人のらい病人が、同じように、イエス様に向かって叫びました。
彼らは、社会から隔離されてあるものですから、イエス様の所に走り寄ることができませんでした。ですから、彼らは大声叫びました。一人が叫んでも聞こえなかったかもしれません。でも、彼らは、10人よって大合唱でイエス様に呼びかけました。
彼らの方では、イエス様の方へ走り寄れないので、イエス様が気が付いて、対応してくださるのが彼らの希望でした。体裁もかっこうも回りも気にせず、イエス様に向かって叫ぶ事ができた。ある意味、彼らのすばらしかったところに思います。

それから、彼らにイエス様は、ひとつの難題を投げかけます。彼らは、その場で、イエス様が彼らに触れて下さり、「さあ、清くなれ。」と癒してくださることを期待したのではないでしょうか。
でも、イエス様の答えは、

ルカの福音書17:14
14イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。

「行きなさい。祭司に見せない。」、だったんです。まだ、癒されてもいない。何もしてくれないじゃなないの。この状態のまま、祭司の所に行ってどうするの。
旧約聖書で、ナアマン将軍は、ヨルダンに7回身を浸せと言われましたが、なかなか浸すことができませんでした。聖書には、詳しく記されてはいませんが、彼らもこのイエス様のお返事にびっくりして、どうずべきか悩んだと思うのです。
でも10人一致で、まだ癒されないまま祭司の所へ向いました。きっと、これが、イエス様の一次試験。センター入試。予備テストだって、彼らは、見事に合格で、その祭司に向かう途中、イエス様の言葉に従ったときに彼らは癒されました。彼らが癒されないまま祭司のところに出発したことはすごいことだったと思います。

さて、ここからが、イエス様が用意されてた本試験、二次テストだったと思うのです。
この後、聖書が記しているのは、9人は、癒されたことを喜んで、祭司の所へ直行していった。そして、たった一人サマリヤ人の外国人のらい病人だけがイエス様の所へ戻ってきました。

10人のらい病人は、わたしの大好きな箇所で、何度も、何度も読み返しました。どうしてなんだろう。
イエス様は、確かに、祭司の所に行きなさいと言われました。9人は、その通りにしたのではないでしょうか。イエス様の言葉の通りにしなかったのは、むしろ、イエス様の所にバックしたサマリヤ人のらい病人じゃないのかしら。
でも、ルカの福音書17章の17節で、イエス様は、「9人はどこにいるのか?」と問いかけられました。えっ。18節では、神をあがめるために、戻ってきたのは、このひとりのほかにいないのかと語られます。

彼らはずっと隔離されて、健常者の生活からも遠く離れ、歩んできました。今、らい病が癒されたとき、まず、祭司の所に行って、あなたは治った。あなたは、もうらい病ではない。清いと宣言されることは、彼らにとって、一番大事なことはなかったのでしょうか。
学校でも、学校指定の伝染病とかになったら、最後校医さんの所で、もう伝染しません、治ってますって、診断書をもらってきなさいと言われることがあります。9人の行動は、わたしたちには、とてもよく納得できます。
ただ、それはほんとうに一番たいせつなものを、一番たいせつにすることだったのでしょうか。そこに、イエス様の問いかけがあり、イエス様の二次テストがあったように思います。

わたしたちも問題の中に立たされたときに、よく本当の出口を見失ってしまいます。出口を間違えてしまいます。
わたしたちをイエス様に向かって叫ばせるために、イエス様はしばしば私たちを問題の中に立たせられます。それは、自分自身の問題であったり、子供の問題であったり、家族の問題であったり、私たちが普通に生活が立ちいかない所にイエス様が置かれます。
その問題によって、私たちはイエス様に叫び、礼拝のある所に導き出され、集会に集わされます。

でも、そこでイエス様が憐れみをもって、現実の具体的な問題の厳しさを和らげてくださったとき、私たちは、イエス様に必死に叫んだこと、イエス様だけから励ましを受けようとしたこと、もう、そこにしか救いはないと思ったこと。必死にイエス様にすがったことを忘れてしまうことはないでしょうか。
前にも何度も話しましたが、今ふり返って思うのは、ほんとうに、集会に集う少し前、集会に集い始めた頃。軽い鬱状態だったと思うのですけど睡眠障害がずっと続いて苦しんでいた頃。

詩篇102:4-6
4私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。
5私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。
6私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。

ほんとうにしおれた青菜のようになっていた頃。どうしようもないままイエス様に叫ばされる日々を送っていた頃。その頃、ほんとうにイエス様に向かって叫び、イエス様しかいなかったように思うのですね。
仕事も十分に手に着かないので、少しでも明るくなれたらと、油絵の具の通信教育セットを買って、よく公園に写生に行きました。あの日々が本当になつかしいですけど。
でも少し状況がよくなって健康も取り戻すと、普通の生活が少し出来るようになってくると急に世間に戻されてします。自分の肉の力で、これもできそうだ。あれもできるかも。

9人のらい病人の一番たいせつなことは、社会復帰だったのではないかと思うのです。この世的には、9人のらい病人が祭司のところへ駈けて行ったことを私たちは十分に理解してあげられると思います。今まで苦しんだでしょう。さびしかったでしょう。あんなことをしたいと思ったのにできなかったでしょう。
もう、痛まなくていいんです。社会から村八分にされることもありません。行きたかった所へも自由に行けます。面倒みてあげられなかった家族の面倒もみれます。早く祭司の所へ行かなくちゃ。早く祭司に遭いに行かなくちゃ。
でも、イエス様の二次テストはそこにあったように思います。そこで、イエス様は、「一番たいせつなものはなんですか?」と問いかけられる。

わたしたちは子供が学校へ行けなくなったら、なんとかこの子が普通の子のように学校へ行って欲しいと願います。仕事がつまずいたら、なんとか仕事が軌道に乗るように祈ります。人間関係がこわれたら、なんとか修復を願います。病気になったら一日も早く適切な診断と治療ができるように祈ります。
そのことは、間違ってはいませんし、その中で、イエス様にそのことを切実に祈ることも大切なことに思います。でも、それが、一番大切ですか。それが最終のゴールでしたか。目標ですかと、イエス様は問いかけられます。
9人は、一番たいせつなものを間違えたので、自分たちが本当の救い主に会ったことを気が付きませんでした。

ルカの福音書17:15
15そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

たったひとりのサマリヤ人のらい病人は、社会復帰よりも、もっと大事なものがあることに気が付きました。
自分が出会った方が、どんなに自分に必要な方であり、これからもずっと必要な忘れられない方であることに気が付きました。彼は、ただひとり引き返しました。
わたしたちも、みな問題をかかえて集会や、イエス様のもとに集わされました。でも、私たちは、その問題をイエス様がとらえて、その問題の重荷を軽くしてくださったとき、このサマリヤ人のように「ひきかえす」と言う行動を起こしたでしょうか。あるいは社会復帰に邁進してでしょうか。

ルカの福音書17:16
16イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

彼は、大声で賛美しながら帰ってきて、イエス様の前にひれふしました。
彼は、ユダヤ人から嫌われているサマリヤ人であったので、癒されて当然とも思っていませんでした。自分が癒される資格がないこと。もし、癒されるなら、原因がイエス様の憐れみだけにあることも知っていたのではないでしょうか。

ルカの福音書17:19
19それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

彼は、イエス様から「あなたの信仰が、あなたを直したのです。」と、二次テストの合格も告げられました。
そしてイエス様から、立ち上がって行きなさいという励ましも頂きました。9人は、社会復帰には熱心でしたが、ほんとうに大切なものを見失いました。

そろそろ終わりの項目にはいりたいと思うのですけど。
ずっと福音書から神様の一方的な恵みの大きさを学んできました。それらは、今まで見てきたようにとても不思議で大きなものでした。
わたしたちは人生がうまくいっている時には、なかなかそれらには気が付かない。神様は、私たちにそれに気が付いて欲しいから、私たちを大きな淵や苦しみの中に置かれます。

わたしたちは、その中で、もうそこにしか救いがない状況に置かれて叫びます。そして、一方的なイエス様の恵みに出会います。
わたしたちが、迷ってしまいそうになる時、決して、このイエス様の福音から落ちないではずれないで、この世に飲み込まれないで、社会復帰党にならないで、歩むひとつの方法は、その叫んだ日のことを忘れないことに思います。
私たちは、すぐに迷子になりますが、迷子になったらそこに戻ります。

最後の最後に、詩篇の深い淵トリオを開いて終わりたいと思います。
詩篇に4カ所」「深い淵」が出てきますが、わたしを深い淵に置かれるで3カ所出てきます。
詩篇69篇15節、88篇6節、130篇1節の三カ所です。

詩篇69:15-16
15大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。
16主よ。私に答えてください。あなたの恵みはまことに深いのです。あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。

詩篇88:6
6あなたは私を最も深い穴に置いておられます。そこは暗い所、深い淵です。

詩篇130:1-2
1主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。
2主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。




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