あなたを、慕いあえぎます


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2007/08/19)

この詩篇42篇は、1997年の4月13日にメッセージさせて頂いたとき、ちょうど10年前にも引用させて頂いた箇所になりますが、いつも忘れないように、今日もここから学ばさせてください。

詩篇42:7
7あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。

この詩篇を祈った人が、深い淵の中にあるのを覚えます。
信仰を持って歩みをなしても、本当に、淵が淵が呼び起こし、大波が私の上を越えていく多くの体験を私たちは体験させられるのではないかなと思います。
本当に私たちの歩みは、いつもきれいなさらさらした小川のせせらぎの横を歩けたらいいんですけど、また私たちはそう願うのですけど、イエス様が多くの困難を私たちにくださいます。

詩篇42:6
6私の神よ。私のたましいは御前に絶望しています。それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から私はあなたを思い起こします。

わたしはイスラエルには行ったこともないんですけど、本を読むと、ヘルモン山の積もった雪が、暖かくなると、溶けてヨルダン河に流れて来る。
この自然の状況を、この詩篇は自分自身の心の、あるいは霊の状況、自分の居場所の状況をそう表現しています。
リビングバイブルでは、7節、「神様のさかまく大波が、私の頭の上を越え、悲しみの洪水がとどろく大滝のようにふりかかってきます。」

英語のGNB、
「Here in exile my heart is breaking.」、追放されて異国の地にあって、マイハートが壊れちゃった。
「So I turn my thought to him.」、御前にわたしの思いをターンします。
「He has sent waves of sorrow over my soul;」、悲しみのウェーブが私のたましいの上に主が送られた。
「chaos roars at me like a flood」、混沌混乱が洪水のように私にほえ叫ぶ
「like waterfalls thundering downs to the Jordan from Mount Hermon and Mount Mizar」、流れる滝のような水が、まるで雷のように落ちてきます。

この詩篇は、ダビデが追われながら荒れ野で祈ったのではとも言われていますが、本来の居場所から離れて、異国で、居場所がない。
しかもいろんな困難が自分の押し寄せている。もう自分の力ではどうにもならない。
その中で、1節

詩篇42:1
1鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

詩篇42篇の祈りが、とても正直なのは、1節から3節までの祈りの中で、詩篇の祈り手は、確信を持って堂々とではなく、あえぐように、うめくように祈っています。
詩篇42篇の祈り手は、どんなに大きな大滝が来ようとも、それは、「あなたの大滝である」と語っているように、すべての困難や苦しみや悲しみの向こうに神様がいらっしゃって、すべてが主が許された中で起こっていると言うキリスト者としての立場は、揺らいでいないように思います。
けれども、1節から3節の中で、この詩篇の祈りが、どうしてあえぎ、うめいているかと言うと、その困難や試練の中で、神様の助けがどこにあるかを見いだせなくて、神様の助けが見えない。だから叫んでいる。

リビングバイブルでは、
「ああ、神様。鹿が水をあえぎ求めるように、私も神様を慕い求めます。
焼けつくような渇きを覚えながら、私の神様を慕っています。
どこへ行けば、お目どおりがかなうのでしょうか。」

昼も夜も涙にむせびながら、神様のお助けを祈っています。
かたわらでは敵が、「おまえの神様とやらはどこへ行ったんだとあざけるのです。」
神様、神様・・・って言うのはへブルの原語では「エロヒーム」って、聞こえるので、きっとこの詩篇をへブル語で読み上げられたときはヒームヒームと悲痛に聞こえたのではと思います。エロヒームの詩篇とも呼ばれているそうです。

ここで1節から3節で、ほんとうに、「いま、わたしは、渇いています。わたしは、いま、ぼろぼろです。わたしは、いま、たいへんです。」
慕っているというのは、美しい姿勢ではなくて、ほんとうに叫びうめいてるように思います。
「おまえの神はどこにいるのか。」というのは、また、私たちの自身の心の叫びでもあるように思います。

私たちの信仰の試練は、いつも、もし神様がいて、聖書に書いてあるように「神は愛です」であるならば、いったいこの状況をどう受け取ったらいいのだろう。この出来事をどう受け取ったらいいのだろう。
「お前の神はどこにいるのか。」という問いかけは、「それじゃ、神様の助けはどこにいまあるのだ。」という問いかけに思います。
本当に何年信じて来ようが、信仰って積み上げられないなーと思います。いつも朝起きたら、0の初心者からの出発に思います。

わたしたち夫婦も、「神様の助けはどこにあるんだろう。」とあえいだ時期、わたしたちが思ったことは、生きていくってなんでこんな、しんどいことばっかり起こるのやろうなーということでした。なんで、こんなにしんどいやろう。
「お前の神はどこにいるのか。」に対して、答えられない。
詩篇の祈りは、夜明け前の暗闇の中の叫びがたくさんあると言われていますが、1節から3節はまさに夜明け前の祈りではないでしょうか。

現実の私たちの姿は、困難の中にあって、問題の中で、試練の中で、一番祈りと信仰が必要な時に神様を見失ってしまい祈れない、「神様の助けはどこにあるのだろう。」と叫んでしまう自分ではないかと思います。
詩篇を伝えてきた多くの信仰者の歩みの中で、詩篇は、祈れない私にかわってキリストが祈ってくださる祈りであると伝えてきました。

わたしは18歳の時の夏に、イエス様に「私の救い主になってください。」と祈りました。19歳で洗礼を受けました。それからずっと落ちこぼれそうになりながらも35年、イエス様を信じて歩んできました。
でもイエス様は、私の歩みを見て、十字架を知ってからの歩みをもどかしいと思われているのではないかと思います。
困難に直面して祈りと、「これは主から来たことです。」と告白が必要な時に、どうやったらいいか、どう祈ったらいいかわからなくなって、祈れない本当に情けない歩みをしてきました。

けれども、続く4節の祈りが恵みに満ちているのは、ここで、その心を偽らずにそのままに神様に注ぎ出しますと祈っています。
そしてイエス様は、祈れない私たちを裁かれるお方ではなくて、祈れない私たちに変わって祈ってくださるお方であることをわたしたちは、困難の中で、混乱の中で知る体験をさせられるように思います。

詩篇42:4
4私はあの事などを思い起こし、御前に私の心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

この詩篇の作者が苦しい心の混乱の中でしたことは、主の前にそのまま心を注ぎだしたことでした。
きっと敵となる悪魔が、他者が、そしてわたしの心の片隅でさえ「お前の神はどこにいるのか。」と問いかけますと、そのままを祈ったのではないでしょうか。
そして、4節の後半は、主を礼拝した喜びを思い出しています。

「私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。」は、祝祭日の神殿に巡礼した姿がここに描かれています。
つまり礼拝の風景です。混乱の中からの信仰の復帰の第一歩が、主への礼拝を、思い出すことからスタートしています。
いま、混乱と困難の中にあります。でも私は、主が救ってくださり、心から主を賛美し礼拝した者でした。あのとき私の心には、「喜びと感謝」があったのではないでしょうか。

礼拝が、私たちの生活にどうして必要かがこの詩篇の中で本当にわかります。
私たちは試練や問題の中でうちしおれてしまいます。詩篇102篇の3節から7節に私たちの姿が描かれています。

詩篇102:3-7
3私の日は煙の中に尽き果て、私の骨は炉のように燃えていますから。
4私の心は、青菜のように打たれ、しおれ、パンを食べることさえ忘れました。
5私の嘆く声で私の骨と皮はくっついてしまいました。
6私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。
7私はやせ衰えて、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。

詩篇の102篇。パンが食べれない。拒食症か摂食障害でしょうか。
前に紹介したように、ペリカンもふくろうも忌み嫌われる鳥なんですね。私は、嫌われているやっかい者だ。屋根の上と言うのは、屋根の下の暖かな交わりからも疎外されてひとりぼっちになっている。みじめの極みのどん底の姿が102篇には描かれています。
詩篇42篇はエロヒームエロヒーム、ヒーヒーのあえぎならヒーヒーの詩篇。詩篇102篇は、へブル語で、叫び「シャウアー?」って何度も出てくるので、42篇があえぎの詩篇なら102篇は叫びの詩篇。

わたしたちは、その姿のままに礼拝に集うんですね。そしてその礼拝に回復がある。
パンとぶどう液と励ましの御言葉を持って、礼拝で、神様がわたしたちひとりひとりに出会ってくださる。
「わたしの神様はどこにいるんですか?」って叫ぶ私たちに、神様は、「私は、いま、ここにいます。」と礼拝の中で語りかけてくださいます。

42篇にもどって、

詩篇42:5
5わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。

リビングバイブルって、結構、ひどい訳ってされることも多いですけど、よく読んでみたらすごくいろいろ教えられます。
リビングバイブルで、4節から6節を読んでみます。

「さあわたしのたましいよ。元気を出せ。あの日のことを思い出すのだ。よもや忘れはしまい。あの祭りの日、多くの人の先頭に立って神の宮に参り、喜びの満たされて賛美の歌をうたったこと!
どうしてそんなに沈み込む必要があるのか?どうして悲しげにしょげ込んでいるのだ。神様に望みを託すがよい。そうだ。お助けを信じて、もう一度神様をほめたたえよう。
それでもなお、私は意気消沈し、ふさぎ込んでいます。しかし、やがてその思いは、ヨルダン川が流れ、ヘルモンとミツァル山のそびえる美しいこの地に注がれている神様をほめたたえよう。」

「そうだ、お助けを信じて、もう一度神様をほめたたよう。」って、それこそ礼拝に思います。
そして礼拝の中で、主がわたしたち一人一人にパンとブドウ液を通して、もう一度十字架の恵みを確信させて回復させてくださる。
さらに続いて8節から10節を読むと、素直に素人読みしたら、むちゃくちゃ文章に思います。こいついったいなんやねんと叫んでしまうと思うのです。8節ではっきり告白したと思ったら、また9節と10節でどんと来る。

詩篇42:8-10
8昼には、主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。私のいのち、神への、祈りが。
9私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」
10私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、一日中、「おまえの神はどこにいるか。」と私に言っています。

ちょっと添削して、前半に神様に文句を言ったり疑問を抱く部分を持ってきて、後半に神様を賛美する部分を編集したら、もっとわかりやすい勝利の詩篇になるんじゃないと思います。でも聖書は、一見ぐちゃぐちゃに進んでいく。
わたしたちの混乱の中に、間違いもなくイエス様の恵みが愛が降り注がれ続けているように思います。わたしたちの勝利と、イエス様の勝利は違うように思います。
わたしたちは問題が解決したら、この心の重荷がとれたら、ここが変えられたら勝利と思ってしまいます。でもイエス様の勝利は、問題のただ中で、重荷のただ中で、「主が共におられる。」ということが勝利であり奇蹟であるように思います。

わたしたちは、祈っている家族が救われたら、祈っている子供がイエス様のところに帰ってきたら、この病気から解放されたら、主のご栄光が表わされ勝利と思ってしまいます。
でもイエス様は、今、その問題の、重荷の、苦しみのただ中で、イエス様がともにいてとりなしてくださり、いま、「主がともにいてくださる。」それが、神様の栄光であり勝利であるとおっしゃってくださっているように思います。
地上の歩みは、本質的に苦しい歩みだとイエス様はおっしゃっているように思います。でもその中で、イエス様が共にいてくださることを知るとき、ベック兄がいつもおっしゃるように「悩みながら、苦しみながら喜び」を得ることができるように思います。

平安というのもきっと、イエス様の平安は「混乱しながらの平安」のように思います。
わたしたちは、「ああ、イエス様感謝ですー。」と言ってハイテンションの時よりも、しおれそうにながら「イエス様!」って、叫んでいる時、一番イエス様のみそばにいるかもしれません。
詩篇102篇の13節から17節を読んで終わります。

詩篇102:13-17
13あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。
14まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。
15こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
16なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、
17窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。




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