貧しいけれども愛されている私


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2013/08/18)

きょうは、「愛されている私」ということで、短く学びたいと思います。
集会になかなか来れない兄姉と、よくお交わりするのですが、みなさんがよく共通しておっしゃることがあります。それは、「自分はだめだ。」ってことです。「元気に集会集っている兄弟姉妹が、まぶしい。みんな立派に見える。とても私はその中に入っていけない。」と申されます。
確かに、自分がダメでみじめな者であることを知ることは、キリスト者にとってとても大切なことですし、そのことを知っていることは、とてもとても大きな恵みに思います。

ただ、それは、車軸の片方のタイヤと思うのですね。自分はみじめだ、どうしようもない者だ。そのことを知っただけでは、この地上にあって、地上の生活を元気に歩んでいけないと思います。
もう片方のタイヤ。だめでみじめな者であるけれども、愛されていると知ることはとても大切なことだと思います。
私は、みじめでどうしようもない罪人です、ということと、そんな私が宝のように愛されています。このふたつのことが車の両輪に思ます。そしてその両輪を結んでいる車軸は、もちろんイエス様の十字架で赦しです。

去年から今年にかけて、キャンパスクルセードの「4つの法則」にかけて、いくつかのメッセージもされて、懐かしくお聞きしたのですけど、神は愛、人は罪、救いは十字架、信じましょうの4つに聖書をまとめた小さな冊子で。
わたしたちは、学生の頃、40年前リアルタイムで、キャンパス・クルセードで活動していました。それで一番目の提示が、「人は罪」ではなくて、「神は愛」が来てるその順番がとても大切なんだと教えられました。
罪だ、罪だと言っても、人の心は開かれない。ですから、人は罪だと言うのは、二番目に提示されて、一番目には、神様は愛です。と言うのが、提示されます。

で、クリスチャン学生が集まって三泊か四泊して、四つの法則を使って、伝道研修会と言うのにも行きました。研修の途中で、町に出て行って、全く知らない人に、いきなり4つの法則をって、伝道してみましょうと言うのもやりました。イエス様を伝えるということで、とても楽しかったのを覚えています。
帰ってからも、ぼくは中百舌鳥の府大だったんですけど、お昼休みに、それをもって伝道して回ると言うのも流行りました。小さな大学の学生仲間なんかでは、卒業するまでに、全学生にともかく神様の愛を語るんだって、決意した人もいました。
卒業しても、学生伝道のために働く、キャンパス・クルセードのスタッフの方も居ました。

先ほども話しましたように、みじめでぼろぼろのダメな自分であることと、ダメでぼろぼろでありながらも、愛されている自分であることは、車軸の右と左で、とても大事なことに思います。どちらもとても必要なことに思います。
わたしたちの地上の歩みは、私たち凡人には、本当に、ネガティブに否定されることが多いと思います。みなさん、最近、いつ誉められたでしょうか。
教育心理学で、誰かから期待されたら、その人は伸びるって言うのをピグマリオン効果って言うそうです。ピグマリオンって言うのは、ギリシャ神話の登場人物だそうですけど。この反対に、誰にも期待されなかったら、ぜんぜん伸びないと言うのをゴーレム効果って言うそうです。

ピグマリオン効果について調べていたら、マウスネズミを使った実験も出てきます。餌までに障害置いたりするのでしょうか。ねずみの実験でも、大事にされたネズミとぞんざいにされたねずみで、成績が違うって論文もあるそうです。ねずみでも、自分が大事にされてるか期待されてるかわかるのでしょうか。
人間の成長に、誉められ期待されることは大事だとわかるんですけど、誉める親って少ないですよね。わたしたちも自分の子供が幼児のときは、歩いただけでも、「まあよくできましたあ」って誉めてるかもしれないんですけど、子供が大きくなるにつれて、早くしなさい。かたずけしなさい。勉強しなさい。なにしてますねんって叱る方が増えてきてしまうと思います。
「あんたみたいな子知らんわ」とか、「なんで、あんたは、そないなことも、でけへんのやとか。」

わたしたちの世代が小さいときって「涙がちょちょ切れる」って言われなかったでしょうか。「あんたを見てたら親として涙がちょちょ切れるわ。」っていうふうに使われたとおもいます。
わたしたちって自己評価が低くて、その原因のひとつは誉められることが少ないのですね。期待されることも少ない。みなさん賞状もらったり、誉められたりした記憶って人生に何度あるでしょうか。
惨めでどうしようもない罪人の自分であるけれども、神様に愛されている私であると言うところをしっかり捕まえていることは、とても大切なことだと思います。

さきほど司会の兄に読んでもらった箇所を開きましょう

イザヤ書43:3-4
3わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
4わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

「エジプトをあなたの身代金とし」と言うのは、出エジプトの時、民をエジプトから解放するために追ってのエジプト軍を海の中に飲み込んでしまったことを思い起こします。
クシュとセバは、エチオピアのことだと思いますが、歴代誌第II、14章の11〜13節の事件のことを言っていると思います。

歴代誌第II、14:11-13
11アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」
12主はアサの前とユダの前に、クシュ人を打ち破られたので、クシュ人は逃げ去った。
13アサおよび彼とともにいた民は、彼らをゲラルまで追いつめた。クシュ人は倒れ、生きている者はなかった。主の前、その宿営の前に、打ち砕かれたからである。そこで、彼らは非常に多くの分捕り物を持ち帰った。

神様は、エジプトからもエチオピアからも、あなたを救い出した。それは、私の目に、あなたは高価で尊いからだと、主はおっしゃいます。ここで「私の目には・・」と書かれているのは、イエス様の目から見たらと言うことで、そのことは、この聖句のキーポイントと思います。
あなたは高価ですと言うとき、誰が言ったかが一番大きな問題と思います。あなたが高価で尊いと言われる時、誰がそれを言われたかと言うのが、とても大事なことに思います。
自分の目に自分がどんなに見えても、イエス様が、わたしの目には、あんたは高価で尊いとおっしゃいます。時には、自分で自分がみじめで仕方なく思えても、その自分に対して、イエス様が、「あなたは、高価で尊い」と語ってくださいます。

前に一度話した、死刑執行された獄中でクリスチャンになった短歌を書いた人がいるんですけど、彼をイエス様に導いたのは、人生でたった一度、誉められたことがあるということだったんですね。
彼は、蓄膿症、百日咳、中耳炎などを患って、集中力や根気に欠ける子で、学校で成績は最低。先生やクラスメイトからは「低能児」と呼ばれたそうです。生活に困って強盗にはいって、人をあやめてしまって、死刑囚になってしまう。
獄中で、ふりかえった時に、人生に一度だけ、小学校の図画の時間に絵を誉められたのを思い出して、その先生と連絡をとって、彼の回復がはじまって、獄中で悔い改めてクリスチャンになられた。それほど、自分は、みじめでどうしようもない者ではあるけれど、愛されている存在であることを知ることは大切なことに思います。

キリスト者にとって、みじめでぼろぼろなどうしようもない自分であることを知ることはとても大切なことですが、それと同時に、その片方の側で、そのどうしようもない自分が愛されていると知ることが、同じように大事なことに思います。
イエス様の地上での生涯の歩みは、いつも一番低いところ。最もさげすまれた所。一番弱い所にある人々に歩みよる地上生涯だったと思います。
エリコの盲人はどうだったでしょうか。

ルカの福音書18:37-39
37ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
38彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
39彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

この盲人に対するこの世の評価は、どうだったでしょうか。
39節のうるさいから「黙らせようとした」が、この世の評価なんですね。

ルカの福音書18:40
40イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。

ここで、イエス様は、彼らのために立ち止まられる。ここの「立ち止まって」って動詞の意味は、とても大きいように思います。
この世が、わたしたちを邪魔者だと思っても、イエス様にとって、わたしたち一人一人は、そこで、時間を犠牲にして立ち止まり、かまって下さる価値のある者なんですね。
私が前に出てきた教会で、疑問に感じたことで、何度も話していますが、人間が集まり、イエス様の思いではなく、人間の思いが支配すると、中心と周辺が逆転してしまう。

キリスト者の集まりって、とても不思議で、やっぱい罪人の集まりですから、人間の思いが支配すると、イエス様の眼差しではなくて、この世的に有能であり元気で、頑張れる人達がどんどん中心になり、ほんとうに、一番イエス様を必要としている、疲れた人、弱った人、衰えた人、病気の人が周辺におしやられ居場所がなくなってしまいます。
イエス様の目で見ればひとりひとりが、みんな宝で、一番弱っている人、難儀の中にある人が、イエス様の眼差しの中心にあるべきなのに、周辺におしやられて居場所がなくなってしまう。中心と周辺の逆転現象が、キリスト者の群れで起こっていることが多いように思います。
サタンが一番恐れているのは、わたしたちが愛し合うことと、ひとりひとりが、イエス様に愛されていることを知って喜ぶことに思います。そこにいかさないために、サタンは、一生懸命いろんな「サタンの目くらまし」をまいているといます。サタンの恐れる言葉が、同じページにあります。

ルカの福音書19:9-10
9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

「この失われた私を救うために、イエス様は来てくださったんです。」、私たちがそう告白することを恐れて、サタンはいろんな手を使って失望させようとしてきます。
「私はみじめです」と、「私は愛されています」、この両輪がしっかりしてないキリスト者は、「わたしばかよね」ばっかり繰り返してると思います。
「わたしは、みじめです。わたしはばかです。」って、そんなんあなたが言わなくても、あなたがばかなことくらい、みんなとっくに100万年前から知ってるわって、言いたくなりますよね。でも聖書のすごい所は、そんな私が、愛されている。宝とされている。ということに思います。

ルカの福音書15:22
22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

これは、帰って来た放蕩息子に対する父親の態度ですけど、着物に、くつに指輪をはめるんです。
イエス様のくださる指輪は、目には見えないけど、きっと素晴らしいオリジナルな指輪に思います。わたしたち、ひとりひとりに用意された指輪で、その指輪が、心の目で見えることが大切なことに思います。
どうして、こんなみじめな私が愛され、指輪やくつをイエス様にもらえるのか、その理由は、明白で、コリント人への手紙第Iのはじめに書いてあります。

コリント人への手紙第I、1:26-28
26兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

この基本を、しっかりいつも押さえていたら、サタンの目くらましにあうことも少ないし、ずいぶん楽になれるのではないかと思います。
わたし自身のうちになんのいさおしもない。愛される理由が、私のうちになくわたしの外にある。そのことを知れば知るほど楽になれると思います。そして喜ぶことができるのではと思います。
片方の車輪は、「わたしはみじめで小さな罪人です」もう片方の車輪は「そんな私がイエス様に愛されています。」です。このふたつの車輪の車軸は、イエス様の十字架で、どんな罪をも赦すゴルゴダの十字架です。




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