望みの神


高橋義夫兄

(林佐位子姉前夜式、2014/03/21)

姉妹とは礼拝で、日曜ごとにご一緒させて頂いていました。娘さんとは同じ歳で、それからその娘さんはうちの娘とほぼ同じ歳で、こども集会では、姉妹のひ孫さんとうちの孫がご一緒させて頂いています。
考えましたら、姉妹、娘さん、お孫さん、ひ孫さんと、親子4代、4世代で、礼拝に参加されていたんだなあと思います。
今日、このようにして愛する姉妹の葬儀で、姉妹が生前に愛した人々。また姉妹を愛されたご家族、ご親戚、友人が、一同に集められ感謝です。死んでこの地上で別れることとは、確かに辛いこです。悲しいことですし、寂しいことです。けれども、私たちには、天国で、再び会って愛する者と会うことができるということは、大きな大きな希望に思います。

プログラムに書いてある御言葉は、姉妹が好きだったみことばをご家族に、4つ選んで頂きました。

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

姉妹も、イエス様に出会われて、わたしたちと日曜日共に集う者になられました。
別の箇所では、つぎのように力強い言葉が書かれています。

ヨハネの福音書11:25
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

死んだから終わりではない。聖書の中心になるメッセージには、希望があります。
愛する姉妹との死の別れは、一時的なものに過ぎないと聖書は語ります。必ず再会できると言う確信は、大きな慰めなのではないでしょうか。
聖書からもう1節を読みます。

ローマ人への手紙15:13
13どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

この地上で生きていくことには、たくさんの悩み苦しみがあり、姉妹もたくさんの悩み苦しみを通ったことを思いますが、聖書は、「その悩み苦しみに満ちた世界にも、ほんとうの希望があるよ。喜びがあるよ。」と語ります。
だから、この聖書の箇所は、私たちにとって大きな励ましになり、喜びになります。

聖書は、わたしたち一人一人を愛してくださり、私たちひとりひとりの代わりに十字架の上で死んで罰せられたイエス様だけが、望みの源です。
そして望みの神は、望みなく絶望している失望している者の神ですと伝えます。
どんなことがあっても、イエス様は、永遠に変わらない望みの神です。

けれども、望みの神は、いったいどうしたら我々ちっぽけな人間の心を絶えざる喜びと平安に満たしてくださることができるのでしょうか。
どうしたら、私たちは今日も、悩みに満ちたこの地上にあって、望みに溢れることができるのでしょうか。

信じるって言葉はむつかしいのですけど、言い換えると、望みの神様に信頼することによって、喜びと平安と望みに溢れさせられると聖書は語ります。
どんな悩み、どんな悲しみの中にあっても、主イエス様は慰めと望みの神で、慰めを与え、望みを与えることができると聖書は語ります。

愛する姉妹は、イエス様に出会って、祈るようになりました。
何を祈ったのでしょうか。「私の過ち、私のわがままをお赦しになってください。わたしの救い主になってください。」とイエス様にお祈りしました。このような祈りは、必ず答えられます。

確かにわたしたちの人間の理性でもって、この考えられない素晴らしい事実、すなわち赦された、受け入れられた、行き先は決まり天国であると掴むのはむつかしいし、気持ち的にも通じなかったでしょう。
けれども、愛する姉妹はわかった。すなわち大切なのは、人間の考えていること、人間の思っていること、人間の感じていることは、大切ではなくて、十字架の上で犠牲になり、罪を赦すために死なれたイエス様の約束が大切であることを知りました。イエス様を、素直に信じました。

ローマ人への手紙4:25
25主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

ローマ人への手紙5:1
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

わたしは、子ども集会でよく姉妹のひ孫さん、セラちゃんと一緒に遊ばせてもらっています。とても素晴らしい名前です。旧約聖書の詩篇に出てくるのです。正確には断言できないのですが、「セラ」は、たぶん、「休止符」ではないかと言われています。
今、世界がどんどん速度を上げて進んでいます。今日お集いの皆さんも、仕事にかかわらず忙しい時期なのではないでしょうか。うちも小さな出版社を自営業でしてるんですけど、4月1日の消費税増税でたいへんです。一晩で、販売管理システムの価格を書き換える。3月の月末は、眠れない夜を過ごす方も多いのじゃないかと思います。
みんながみんな急いで歩いている時代ではないでしょうか。どうやって休んだらいいかわからない。休む場所がわからない。それが、現代人の様子ではないでしょうか。

その中で必要なのは、「セラ」、本当の休止符、ほんとうの安らぎではないかと思います。
姉妹は、娘さんの紹介でイエス様に出会われ、イエス様の中に本当の休息、本当の安らぎがあることを発見されました。
そのイエス様のセラの休憩所に入るのは、「ごめんさい」するだけで入れる。

この分厚い聖書が語っているのは、人間は、罪の中で失われている存在です。人間は、自分で自分を救うことができません。どんな良い行いも、いかなる努力も修行も自分を救うことはできません。
でも「神様、ごめんなさい。憐れんで下さい。」この態度をとり祈る者は、神様の休憩所に、本当の安心の中に入れて頂けると聖書は語ります。
イエス様が、自分のいっさいのわがまま、過ちを贖う救いの代価を払ったと、姉妹は信じました。

イエス様が自分のいっさいのわがままを、過ちを贖う救いの代価を払ってくださった。
そして、救われる条件とは、「ごめんなさい」だけです。
プログラムのもうひとつのみことばを読みましょう

ピリピ人への手紙4:6-7
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

いつも急いで、本当の休息場所を持たないのが現代人の様相だとさっき考えましたが、聖書のこの箇所の描く平安、平和、安らぎは、なんと素晴らしいのでしょうか。
「人のすべての考えにまさる神の平安」、英語の聖書ではthe peace of God, which transcends all undrestandig、人の思いや理解をみんな越えたほっとする本当の平安が、そこにあると聖書は語ります。
ダビデ王様は、次のように言いました。

詩篇23:4
4たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

このような平安を持ち確信できることは、なんと言う幸いでしょうか。
イエス様は、あらゆる災いを抑する偉大な救い主です。けれども、それだけではなくイエス様は、いかなる罪をも喜んでお赦しになる偉大なる贖い主です。
それから、イエス様は、あらゆる悩み、苦しみ、束縛から解き放って下さる偉大なる解放者ですとも聖書は語ります。

イエス様は、死の恐怖につながれて、奴隷となっていた人々を、解放してくださるために来られ、十字架の上で救いの代価を払ってくださいました。
愛する姉妹は、多くの人々の後で救われたけど、追い抜いて先にゴールインする恵みに預かるようになりました。私たちは、皆、残されている者です。
姉妹はもう今、痛みもないし、苦しみもないし、孤独もないし、イエス様とともにある喜びばかりです。

プログラムの、ヨハネの黙示録の言葉お読みください。

ヨハネの黙示録21:4
4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

こう言う箇所を読むと。ちょっとピンと来ないと思うかもしれません。。夢の世界じゃないのと思うかもしれません。
わたしたちには考えられない。涙を知らない世界、死を知らない世界、悲しみ、叫び、苦しみのない世界。わたしたちにとっては夢の世界です。想像できない。
けれども、本当なのです。だから聖書ははっきり言っています。

詩篇16:11
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

詩篇73:28
28しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。

ローマ人への手紙8:18
18今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

愛する姉妹も、この御言葉を信じました。
死を前にして、生き生きとした希望を持つことは、当たり前なことではありません。この希望と確信の根拠はなんでしょうか。自分のわがままは赦されているということ実です。

今、天国で、イエス様の近くで大いに喜んでいる愛する姉妹の願いは次のようなものでしょう。
「主イエス様の救う力を知ってもらいたい。肉親の方々、知り合いの方々、親戚のひとりひとりは、みな、例外なく主イエス様に頼って欲しい。」

時を忘れてって詩を紹介します。

「時を忘れて」

目を閉じなければ見えない世界がある
口を閉じなければ言えない言葉がある
耳を塞がなければ聞こえない声がある
歩み止めなければ会えない人がいる

少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり真理であり命である主に
尋ね求める時を忘れて

この歌は、病気に苦しまれた方が書かれた詩です。

ほんとうに、じっとしていられない忙しい時代に、わたしたちは生かされています。けれども時には目を閉じ、口を閉じ耳をふさぐことも必要ではないでしょうか。
本当の平安とはなんだろうか。本当の安らぎとはなんだろうか。自分はそう言うものを持っているのだろうか。
今朝、姉妹が残してくださった御言葉をたよりに私たちも静まって振り返る機会になりましたら、感謝です。

愛する姉妹の呼びかけ、告白とは、次のような事実です。

ペテロの手紙第I、1:18-19
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

2,000年前にゴルゴダの丘に歴史的な事実として、十字架が立っています。無神論者がどんなに否定しようとして、哲学者がどんなに頑張っても、その歴史的な事実は、くつがえせません。2,000年前にゴルゴダの丘に十字架は立っています。
そして聖書は、その2,000年前ゴルゴダの丘に立つ十字架が、神様の私たちへのご愛の証しであると語ります。

わたしたちの罪を背負ってくださったイエス様は、わたしたちを天国に迎え入れて下さる準備をしてくださって、わたしたちをまた迎えに来てくださるとも聖書に書いてあります。なんと幸いなことでしょうか。
最後に4つめのみことばを読んで終わります。

ヨハネの黙示録22:20
20これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

共にイエス様の十字架を仰ぎ、姉妹が先に行かれた天国に、思いをはせることができたら幸いです。




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