苦しみの中の祈り賛美歌ヒストリー【前編】


高橋義夫兄

(和歌山・橋本家庭集会、2014/03/15)

引用聖句:イザヤ40章11節
11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。


【日々の歌204番】:アメリカ金融恐慌と、賛美歌「主われを愛す」アンナ・ウォーナー

今日は、はじめて来られた皆さんに、私たちが歌ってる賛美の歌について、どんなふうな経緯で作詩されて歌い継がれてきたかを考えながら、その賛美が伝えようとしているイエス様について、少し考えることができたら、幸いです。
最初に、日々の歌204番です。このメロディーは、みなさんどこかで聞かれたのではないでしょうか。「主われを愛す」で始まる歌詞の方が有名でしょうか。
日本語でもとても古い賛美で、はじめて日本語に訳したのは横浜の女性宣教師、クロスビーさんが、明治5年(1872年)に訳しました。その訳がとっても、雰囲気があるので紹介します。

耶蘇(やそ)我を愛す、左様聖書まおす
帰すれば子たち、弱いも強い

ハイ耶蘇愛す、ハイ耶蘇愛す
ハイ耶蘇愛す、ハイ聖書申す

もとの英語の詩の作詞者は、アメリカのアンナ・ウォーナーさんです。この人については、あまりよく知られていなくて、市立図書館まで行って調べたのですけど、アンナについて書いてある本がありました。
1827年にニューヨークの北のハドソン川の川辺で、アンナは生まれます。2歳でお母さんが病死してしまいます。けれどもこのお母さんの妹が、後妻となって、アンナを育てるのですが、彼女がとても良いお母さんでした。
1837年、アメリカで金融恐慌が起こって、それまでの好景気から7年ほど続く、不景気に入り、アメリカに失業者が溢れるたいへんな時代になります。

で、アンナのお父さんは、弁護士の資格を持って不動産売買をしていたのですが、この恐慌で、一気に貧乏になります。とうとう1846年には、今で言う自己破産のように、アンナの家の何もかもが競売にかけられます。
そんな中、姉のスーザンとアンナに文才があるのを見つけた母は、小説を書かせます。お姉さんの「The Wide, Wide World」は、「アンクルトムの小屋」がベストセラーになった時代に、それにつぐベストセラーになり、アンナも、何冊か本を出します。
この日々の歌204番を書く8年前に、アンナは、「私たちは主イエスに会いたい」って賛美歌を書きます。

私たちは主イエスに会いたい。
私たちの人生には、暗い影が長くたなびいている
私たちは主イエスに会いたい。
人生の決定的な辛い戦いにむけて
私たちの弱い信仰を強めて頂くために・・。

アメリカに起こった金融恐慌は、多くの人々から豊かな生活を奪ってしまいました。でも、本当の豊かさは、イエス様がくださる豊かさであることを、アンナは知るようになります。
この、日々の歌204番は、1860年頃に書かれました。1860年に、スーザンとアンナが共著で、「Say and seal」と言う小説で、日曜学校の教師である登場人物が、重い病気で苦しんでいる少年を抱きかかえて、歌う歌が、「主われを愛す」であったそうです。
英語のもとの詩を日本語に直訳しますと、こんなふうになります。折り返しの部分は、作曲者のブラッドベリーが付け加えたそうです。

イエス様は、私を愛しておられます。
聖書はそのように私に告げています。
子供たちは主のものです。
彼らは弱くても、主は強い。

(おりかえし)
ほんとうにイエス様は私を愛しておられる
ほんとうにイエス様は私を愛しておられる
ほんとうにイエス様は私を愛しておられる。

人間って、順風満帆の時には、なかなか本当のものが見えない。暗闇や苦しみにあう時に、光が見える。ろうそくの灯火は、明るい所では見えないけど、暗い所で見える。多くの賛美歌が苦しみを通して生まれたのは、そう言う所にもあるのかなと思いました。
アンナが住んだ家の近くに、ウエスト・ポイント米国陸軍士官学校があって、そこの青年たちを招いて、アンナ達は長い長い間、今日のような家庭集会を定期的に開きました。40年、その家庭集会は続いたそうです。聖書のお話しが、すむと、お茶とジンジャー・パンが出たそうです。
こんなふうに、親しまれた一つ一つの賛美歌に歴史があり、イエス様を紹介したいと奉仕した兄弟姉妹の思いがこもっているんだなあと思います。


【日々の歌198番】:母ひとり子ひとり貧しさの中から「きよしこの夜」ヨーゼフ

クリスチャンであるかないかにかかわらず、たぶん皆さんが一番慣れ親しんだ賛美歌は、クリスマスになると誰でも歌う「きよしこの夜」ではないかと思います。
私は、実はお寺で生まれた子供で、仏教寺院で育ったんですけど、うちの父は、開かれた坊さんで、クリスマスも、サンタさんも、クリスマス・ケーキもしてくれました。父は、ずっと高校で、40年ほど教師をしたんですけど、卒業生にケーキ関係の方がいて、毎年、クリスマス・イブにケーキを持ってきてくれました。
父は、演劇部とワンダーフォーゲルの顧問をしていて、生徒から随分慕われていたんだなあと思います。

さて、この「きよしこの夜」は、1818年の12月24日に、オーストリアのフランツ・グルーバーによって、作曲されました。グルーバー自筆の楽譜と言うのも残っています。
英語の教科書とかでも、きよしこの夜物語は、出て来たりして有名なお話しです。
グルーバーは、小学校の先生でオルガン奏者でした。で、オーストリアのザルツブルグ州のオーベルンドルフの聖ニコラウス教会だったんですけど、クリスマス・イブに教会のオルガンが壊れちゃったんですね。

どうして、壊れたかについては、いくつかの説があるのですが、たぶんそうだろうと言うのは、オーストリアのねずみちゃんが、オルガンの大事な部品をかじって食べちゃったらしい。
さて、困りました。明日は大事なクリスマスのミサなのに、オルガンが音が出ない。で、教会にはギターがありましたが、ギターではうまく伴奏できません。で、ヨゼフ助任司祭が、すらすらとこの「きよしこの夜」の詩を書いたってエピソードもあるのですけど、本当は、2年ほど前に書いて暖めていた詩であって、それが、この「きよしこの夜」の詩だと言われています。
日々の歌、198番です。日本では、1909年に賛美歌2篇に掲載されて教会でよく歌われました。1961年から30年近く小学校の音楽教科書にも、掲載されました。

で、ヨゼフ・モールさんは、イエス様に仕える神父さんになったのですけど、お父さんの顔を知らずに、母ひとり、子ひとりの二人の貧しい家庭で育ちました。でも、歌うことが大好きで、合唱隊にはいって、合唱隊の責任者に才能を発見されて、その合唱隊の指導者の養子になって、ザルツブルグの神学校に進学させてもらえます。
この詩の中には、ヨゼフが父親のいない家庭と貧しさの痛みの中から、ヨセフとマリヤに見守られ、まぶねの中に眠るヨセフ、マリヤ、イエスの三人の家族の暖かい姿が描かれていると思います。
原曲は、6番まであったようです。

ルカの福音書2:11
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ねずみちゃんが、オルガン壊さなかったら、この曲は生まれなかったのかもしれないですね。
ぜひ、みなさんも、今年のクリスマスに「きよしこの夜」にこんなエピソードがあることを思ってください。

聖く静かに、夜は更けて、
みどりごイエスはうまやの桶に、
眠りたもう、安らかに。

高く御空に、歌は響く。
「栄光は御子に、地には平和を。」
生まれたもう、救い主イエス。

聖く静かに、心合わせ、
たたえて歌う、十字架の恵み、
救われた、喜びを。


【日々の歌132番】:身長145cm盲目の女性書き続けた賛美歌4,000曲ファニー・クロスビー

つぎに日々の歌132番について、お話しさせてください。

さっきは、グルーバーが一晩で作曲して、言い伝えによると、曲の完成は、ミサが始まるぎりぎりだったと言われていますが、この132番の詩はなんと、30分で書き上げられたと言われています。
アメリカのニューヨーク州の田舎で、1868年のある日。すでに、クロスビーの詩で何曲か賛美歌を作っていたウィリアム・ドーンが彼女の家に訪れます。クロスビーは、全盲で楽譜が読めなかったので、ドーンは、自分が作ったこの曲を、クロスビーの前で口ずさみます。
実は、汽車の時間まで40分しかありませんが、この曲にあう詩があるでしょうか?と尋ねられて、クロスビーは、聞いた途端に、それは、イエスの御腕にって曲になりますよって答えます。
で、祈らせて下さいと自室にこもって30分でクロスビーは、この詩を書き上げたと言われています。

イザヤ書40:11
11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

この賛美歌は、幼くして召されたこどもさんの葬儀で、その後よく歌われるようになりました。それは、クロスビーが、30歳の時に生まれてすぐ召された自分の赤ちゃんのことを思いつつ記したからではと思います。
ファニー・クロスビーは、1820年にニューヨーク州の田舎に生まれます。生まれて6週間で、目がおかしいと気がついたお母さんが、お医者さんの所へファニーを連れて行きますが、どうも医療ミスがあったようで、完全に失明してしまいます。
それから、お父さんは、クロスビーが1歳になる前に亡くなりました。母親とともに、クリスチャンであった祖母のもとで、育てられます。

このあばあちゃんが良い人で、ファニーにずっと物語や詩を聞かせて育てて、それがファニーの才能につながったのかなあと思います。
ファニーは、1850年の11月20日に、ファニーが自分の「11月体験」と呼ぶ人生の転機を体験します。
タバナクルのリバイバルと呼ばれる大きな集会の中で、聖歌の613番を聞いたときに、起こります。

聖歌613番
虫にも等しきもののために主はかくもむごきめにあいしか。

この5番の「めぐみに報ゆるすべを知らずすべてを投げだしひれふすのみ」を聞いたときに、自分の中に洪水のように光が溢れ流れたとファニーは記しています。
それまでの自分は、片手でこの世にしがみついて、もう一つの手だけでイエス様にすがっていた。」
ファニーは、世俗的な詩を書いて、賞賛も得ていました。この11月体験を経て、ファニーは、イエス様のことだけを考えて歩みたいと思います。

そんなファニーに、30歳の時に大きな試練が起こります。27歳で盲学校の教師となったファニーは、同じ学校の10歳年上の音楽の教師のアレキサンダーと結婚します。
30歳の時、自分に家族や子供を持つなんて考えられないと思っていたファニーに赤ん坊が生まれるのですが、すぐに召されてしまいます。ファニーは、口を開くこともできず心身ともに消耗したと言われています。
1864年に、ファニーは、「主われを愛す」の作曲者の、ウィリアム・ブラッドベリに出会いますが、彼女の才能を見抜いたブラッドベリが、ぜひ賛美歌の詩を書きなさいと勧めます。ブラッドベリとの出会いから三日後に、ファニーの賛美歌の歌詞製作が始まり、留まることを知らずに、彼女は、6,000曲とも9,000曲とも言われる詩を産み出します。

この日々の歌132番は、ファニーが召された自分の赤ちゃんが、いま御腕の中で休らっている姿を思って書かれたと言われています。
幼子が天国で主イエス様の御腕の中に休らっていることを信じます。そして、いつか私たちも天国の岸辺で命の川の輝きを見るでしょうって信仰告白に思います。
大塚野百合さんが、ファニーの英語のもとの詩から直訳してくださったのが本に載っていて、直訳はこんな詩になります。

安らかに主イエスのみ腕にいだかれて、安らかにやさしいみ胸
によりそって、主の愛の影におおわれて、私の心は憩います。
ああ、あれは天使の歌声です。栄えに満ちた野山を越えて、
碧玉の海をこえて私の耳に響くのは

Safe in the arms of Jesus, safe on His gentle breast,
There by His love o'er shaded, sweetly my soul shall rest.
Hark! 'tis the voice of angels, borne in a song to me.
Over the fields of glory, over the jasper sea.

安らかに主イエスのみ腕にいだかれるとき、やつれるほどの
労苦を忘れ、世の誘惑から守られ、罪も私をそこないません。
悲嘆によって砕けた心も癒やされ、疑い恐れからときはなたれ
ます。試練に涙することも少しはあるでしょうが、それもしば
しのことです。

Safe in the arms of Jesus, safe on His gentle breast
There by His love o'er shaded, sweetly my soul shall rest.

Safe in the arms of Jesus, safe from corroding care,
Safe from the world's temptations, sin cannot harm me there.
Free from the blight of sorrow, free from my doubts and fears;
Only a few more trials, only a few more tears!

主イエスは、わたしの尊い避け所、主イエスは私のために死な
れました。千歳のいわおによりすがり、とこしえに主を信頼し
ます。この地上で、忍耐をもって待ちわびます。闇夜の明ける
まで、朝がふたたび訪れて、黄金の岸が輝く日まで。

Jesus, my heart's dear Refuge, Jesus has died for me;
Firm on the Rock of Ages, ever my trust shall be.
Here let me wait with patience, wait till the night is over;
Wait till I see the morning break on the golden shore.

corrodingcareやつれるような労苦
the blight of sorrow悲嘆によってくじけた心

これらは、ファニーが赤ちゃんを亡くした悲しみを歌っていますが、イエス様がその悲しみの海に襲われる時の避難所であるとファニーは歌っています。

小さな私の名前を呼び、
主は抱き上げて御腕の中に。
功と誉れ少しもなく
主のあわれみで救いの中に。

*私は御腕に抱かれていて、
いつも語らう愛の主イエスと。

小さな私をその御腕で、
かくまい守る愛の深さよ。
罪のこの身をいのち捨てて
贖われた主、そのあわれみよ。
(*おりかえし)

小さな私に目を注いで、
優しく守る愛の眼差し。
心のままを主に告げれば
すぐにほほ笑み聞いてくださる。
(*おりかえし)


【日々の歌176番】:ドロップアウトした優等生ジョン・ニュートンとアメージング・グレース

さて、今日の最後に、日々の歌176番。アメージング・グレースにまつわるエピソードについて考えてみたいと思います。
この曲は、ダイヤモンドのCMでも有名になったし、多くの未信者の方もご存知の曲ではと思います。
この曲は、よく元奴隷船の船長が書いた詩とか聞かれて、かなり悪だった人が書いたのかしらとも思われたかもしれません。NHKでも、この曲の成立について番組がありました。

ジョン・ニュートンは、最初、なかなか英才教育を受けました。ジョンのお母さんのエリザベスは、熱心なクリスチャンで、ロンドンの町で、小さい頃から、ジョンを牧師にしようと願いました。
三才から教育をして、4才で聖書についての勉強、キリスト教の教理問答、賛美歌を学ばせます。で、ラテン語が必要だと6才で、ラテン語の勉強も始めます。ところが、このジョンが牧師になるのをひたすら願ったお母さんが、ジョンが7才になる前に亡くなってしまいます。
お父さんが船乗りだったので、11才から船乗りになります。17才の時に、14歳の少女ポリーに大恋愛してしまって、乗らないといけない船に乗り遅れたりで、ジョンの人生が狂い始めます。
港で父が用意してくれた民間の船に乗らずうろうろしていたジョンは当時、フランスとの植民地戦争のために船に乗れる若者を強制徴兵していた軍隊に捕まって、海軍の船に乗せられてしまいます。さらに、ポリーに会いたくて脱走未遂をして、最低の三等兵にさせられてしまいます。こうして、海軍の船に2年間乗せられ辛い体験をします。

やがて、海軍と民間の商船の船員トレードで、民間の貿易船に乗せられます。クロウと言う奴隷商人の船のお手伝いをするのですが、その商人が留守の時に、黒人の奥さんから、なぜかひどい扱いを受けます。病気の時も食事も十分に与えられず心がすさんでいきます。
お父さんの尽力もあって、そこから15ヶ月で救い出されて、イギリスの船「グレイハウンド号」でとうとう帰国の旅につけることになれます。
ジョンは、船乗りとして、どっぷりこの世に浸った生活をしてきて、幼い頃に聞いた信仰をばかにしてきました。けれども船の中で、彼は、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」って、言うキリスト信仰の古典的書物の現代訳を読んで、魂の救いを求め始めます。

ヘブル人への手紙6:4-6
4一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
5神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
6しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

この一度光を受けて、堕落してしまった人とは、小さい時、母から聖書を教わり将来は、みことばを伝える牧師になりなさいと育てられながら、今、放蕩の末に、船に乗っている自分の姿にジョンには、思えたことと思います。
そして、3月21日、グレイハウンド号は大嵐にあいます。なすすべもなく船は浸水し、もう、誰も助からないと思えました。

ジョンの伝記より引用します。

『ジョンは9時間以上の排水作業で疲れ切り、半ばあきらめたように横になり休んでいると、しばらくして船長から呼ばれて舵を任されます。
彼は、荒れ狂う海原を前に舵輪を握りしめながら、ふとこれまでの22年間の自分の人生を思い起こしていました。母親の死、父親との航海、彼女(ポリー)との出会い、海軍への連行、脱走、黒人取引。
母の教えを忘れ、父の期待を裏切り、軍役から逃げ出し、そして神さまを愚弄しあざ笑っていた自分。沈み行かんとする船の上で我々が助かるとすればもはや神様の奇跡以外にはありえない。

しかし僕のように罪深き人間を神様はきっと赦してくれないだろう。彼はそんな絶望的な思いを抱きつつも、最後まで諦めることなく一縷の望みにかけて舵を握り続けたのでした。
どのくらいの時間が経っていたのでしょうか。船員総出の努力の甲斐があってか、気が付けば漏水はおさまり、船の揺れも幾分穏やかになっていました。
沈没の危機をからくも脱したグレイハウンド号の甲板の上で、ジョンは自分が助かったことがまだ信じられず、ただ呆然と立ちつくしていました。

もちろんまだ陸についたわけではなく、危険な状況であることには変わりはなかったものの、絶望的とも思えた危機的状況を乗り越えたジョンの目は、まばゆい光の中で自分に手を差し伸べる神様の姿が確かに映っていました。
「僕はまだ生きている。今まで数々の不徳を繰り返してきたこの僕が。これが神の所業というものか?神はこんな僕を助けてくれたというのか?」

沈没の危機を乗り越えたものの、「食料不足」という問題が彼らを更に苦しめました。船体の一部を破壊する程の強風と荒波により、家畜はすべて海に投げ出され、食料を入れた樽は砕けて中身が飛び散り、もはや食べられる状態ではなくなっていました。
運良く残っていたのは塩漬けのタラと飲料水の樽。これらも少しずつ大切に摂らなければすぐになくなってしまう程の量でした。しかも節約しても岸に着くまで食料が持つという保障は全くなく、風で更に沖へ流されてしまったらもはやそれまでという状況だったのです。
気が付くと船はアイルランドの西方沖をただよっていました。遥か遠くのかすみの中に陸らしきものが見えてきたものの、食料が尽きる前に港へ辿りつかんとする船員達の願いもむなしく沖へ沖へと吹き付ける風。

なかなか港に近づけずに波間を漂っている間にも確実に減っていく食料。折角必死の努力で嵐の中を乗り越えたのに、自分達はこのまま船上で飢えてしまうのではないか。船員達は不安と空腹と必死に戦いながら、最後の気力を振り絞って、船を陸へ近づけようとできる限りの努力を続けました。
そんな彼らの願いが神様に届いたのでしょうか。イングランド沖を2週間も風に流され、食料もまさに底をつきようとし、船員達もなかば諦めかけていたその時、突然風向きが変わり、彼らを陸の方へ導き始めたのです。
穏やかな風は、壊れかけた船体を優しくいたわる様に船を港へと近づけていき、ついに彼らは嵐の日から約1ヶ月後の1748年4月8日、アイルランド北部のドニゴール州スウィリー湾(Lough Swilly/Donegal)にたどり着きました。

着岸したとき船のキッチンでは鍋で最後の食料を調理していたところでした。更に驚くべきことに、彼らが2時間前にいた風の穏やかな海上は、彼らの船が陸の近くの安全な海域まで達するや否や、嵐のような天候に一変し、それはまるで神が彼らのために少しの間だけ晴れ間をもたらしてくれていたかのようでした。
奇跡とも言うべき数々の現象を目の当たりにしたジョン(当時22歳)は、心の底から沸き上がる確信とともにこうつぶやくのでした。
「私には分かる。祈りを聞き届けてくださる神は存在すると。私はもはや以前のような不信な者ではない。私はこれまでの不敬を断ち切ることを心から誓う。私は神の慈悲に触れ、今までの自分の行動を心から反省している。私は生まれ変わったのだ。」』

彼は、イギリスに帰って、若い時から好きだったポリーと24才の時、結婚します。このポリーと言う少女は、周りからは、ずばぬけた美人でも、何か才能があるとかでもなく、地味な平凡な女性に見えて、なぜ、ジョンが熱を上げ続けたのかわからないと周りの証言が残っているのですが、ジョンはずっと、「ポリーの愛情は、全世界の富とも変えることはできない。」と終生、共にします。
当時、奴隷を商売するのは、当たり前のことで、そのことが神様を悲しませることに気がつかず、その後もジョンは、奴隷船を一艘任されて、アフリカで買った奴隷を船底に押し込めて、売りに行く仕事に従事していましたが、病気になってしまいます。
病気をきっかけに、船乗りをやめて、リバプールの港で、潮流観測員の仕事につきます。

当時、イギリスには、大きな信仰のうねり、リバイバルが起こっていて、彼は、ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield/1714-1770)と出会い、自分の救いを確信します。
そして、そのリバイバルの発端となったJohn Wesleyとも交流を深めていきました。
アメージング・グレースの歌詞は、ジョンが50代半ばで、イギリスで書き上げました。その後、いろんなメロディーで歌われ、アメリカで今の曲がつけられました。ジョンは80才過ぎて召されますが、召される前に残した言葉あります。

"My memory is nearly gone, but I remember two things, that I am a great sinner, and that Christ is a great Saviour."
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」

この、「驚くばかりの恵みなりき」って歌詞は、まさにこのことで、わたしは、放蕩を尽くし奴隷を売買し人を傷つけ、どうしようもない罪人である。でも、イエス・キリストは、そのどうしようもない罪をすべて赦すことができる救い主である。と言う意味です。

恵みは優しく降り注いで、
私を聖めて救いたもう。

恵みは静かに降り注いで、
私を見つめて愛したもう。

恵みはいつでも降り注いで、
私を御腕で守りたもう。

恵みは果てなく降り注いで、
御国に歌声高く響く。

ここまでが、賛美歌ヒストリーの前編です。
わたしたちに共通する大きな疑問は、神様がいらっしゃって、その神様が愛の神様であるなら、どうして、こんなに苦しいこと、辛いことが私の周りに満ちているのだろう。
いま、みた、4つの賛美歌の作詞者も、みな、その苦しみや、辛さを通った方だったと思います。

わたしたちも、集会にたどりついた頃、家内の両親があいついで病気で召されて、家内の妹が重い鬱になって、つぎつぎと辛いことが起こりました。
信仰で乗り越えるどころか、私たちは夫婦ともども睡眠障害になって、ずっこけました。
でも、それにもかかわらず、今イエス様は、ご愛に溢れたお方ですと、告白できる者にされていることは、大きな奇蹟だなあと思います。

わたしは、イエス様に出会って、40数年が過ぎましたけど、イエス様に出会った頃、朝早い時間に、ラジオで福音放送があって、それを聞くのがクリスチャンの友達の間で流行りました。羽鳥明って方がよく話されていましたが、こんなお話しが印象に残っています。
夜明け前が一番暗いって、お話しでした。試練のトンネルで、いよいよどん底で、もう真っ暗って、思うときって、案外夜明け前で、トンネルの出口の近くに居るのかもしれないと思います。
そして、イエス様は、支えてトンネルを抜け出させてくださって主は慈しみ深いと叫べる者にしてくださる。

最初の聖書の言葉を読んで終わりたいと思います。

イザヤ書40:11
11主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。




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