引用聖句:創世記21章8節-19節
喜びの集いへ行くと、本当に、「イエス様が来てくださる日は近い。この地上では寄留者なんだ。」と思うのですけど、こうやってまた地上の営みに埋もれていると、この世にどっぷり浸かり始めて、霊的に沈んでしまうのですけど、沈み切る前に、また家庭集会があって、また次の喜びの集いがあって。今度は、できたら、夏から秋へ喜びの集いへたくさん行きたいなーと思っています。 御代田に行く前にも、兄弟姉妹の所に泊まりに行ったり、御代田でも、たくさんの交わりを持って、「居場所」ということで多くを思わされたので、今日は少しの時間、「わたしの居場所は、どこにありますか?」と言うことで考えてみたいと思います。 集会で救われたみなさんは、聖歌や日々の歌で、賛美歌はあまり歌われなかったかもと思うのですけど、教会や福音ラジオなんかを聞いてたみなさんは、よくご存知と思うのですけど、きょうのハガルの箇所では、賛美歌の244番が頭に浮かびます。 わたしは集会をまだ知る前、朝早い福音ラジオ放送とかで、よく聞きました賛美歌です。 ゆけどもゆけどもただ砂原 道なき所をひとりたどる ささやく如くに御声きこゆ 疲れしわが友我に来たれ やけたる砂原痛む裸足 渇きのきわみに絶ゆる命 しずかにやさしきみ声聞こゆ 命のいずみに来たりて飲め かえるに家なく疲れ果てて 望みもなき身は死をぞねがう さやかにちからの御声聞こゆ 帰れや父なる神のもとに この賛美歌は作詞者、作曲者ともに日本の方です。 作詞者は長坂鑒次郎(かんじろう)という方で、1871年高崎市に生れました。神戸女学院教授、神戸女子神学校校長、聖和女子学院神学部長とかされた方だそうです。これは1951年の讃美歌懸賞募集に応募当選したもので、この方の最後の作品だそうです。 作曲者も日本の方で。純日本産の賛美歌だそうです。 この詩は、どこまで行っても砂原で、砂漠で、足は焼け付いて、皮袋の水もない。 この長坂鑒次郎さんはきっと創世記のこのハガルの箇所を想定したのではないかと、思う方は多いのではと思います。 創世記の中でも、このハガルの箇所は中盤のクライマックスではないかと思うほど、いつも淡々と記す聖書の中で、ドラマチックに書かれているように思います。 アブラハム家の問題は、でも不妊のサラがとうとう、子を産んでご本家の子供ができるに及んで子供同士の問題になります。 ハガルを追い出せとサラに迫られてアブラハムは悩むのですが、アブラハムは祈って主に尋ね、とうとうハガルを追い出してしまう。それが、さっき読んでもらった、ハガルの砂漠の逃避行になるのですね。 ハガルには、アブラハムの家に居場所がありませんでした。荒れ野をさすらっていました。、皮袋にもう水がありませんでした。さっきの賛美歌244番状態だったんです。 ゆけどもゆけどもただ砂原 道なき所をひとりたどる やけたる砂原痛む裸足 渇きのきわみに絶ゆる命 かえるに家なく疲れ果てて 望みもなき身は死をぞねがう 今日のテーマを選んだのは、最近、多くの交わりの中で、この地上にあって、苦しみや痛みが多くて、本当に、ほっとする居場所は、キリスト者にあるのだろうか。そう言う問いかけを本当に、多く耳にします。 ハガルは、人間関係で悩みました。アブラハム家に、ハガルの居場所はありませんでした。一時は、女奴隷から、跡継ぎの母親にと、思えた境遇も、今は、ハガルもイシュマエルも邪魔者でした。 彼女の目には、砂漠があって、水のない皮袋でした。わたしたちの今居る場は、どうでしょうか。会社、家族、仲間、友人...その中にみなさんは自分の居場所はあるのでしょうか。 わたしたちキリスト者はヨハネの福音書14章でイエス様は確かに天の御国で居場所を備えに行くと約束されました。 ヨハネの福音書14:1-3
それは、やがてイエス様が迎えに来てくださる再臨の時に約束された居場所で、わたしたちには、この地上では痛みや苦しみのみがあって、本当にほっとする居場所はないのでしょうか。 旅人であり奇留者であるとは、どういう意味なのでしょうか。 キリスト者がキリスト者として歩むなら、この地上では、この世の価値観と全く違う所に位置しているわけですから、本流から離れてしまう事は間違いないと思うのです。わたしたちにとって、この地上は痛みや悩みや病気や苦しみの中で、痛んで叫ぶだけの場所なのでしょうか。 ある時、ある兄弟が、クリスチャンのこの世の歩みについて、こんなふうに語られたことがありました。 エレベーターに乗る時、もう一杯の厚かましい元気な人たちが乗ってしまっている。わたしの居場所がないと私たちは思ってしまいます。でも、神様は、不思議にちゃんと、あともう一人、私が乗れる隙間を用意してくださっている。 乗ったら、ビーーとブサーが鳴って、みんなから降りてよと白い目で見られるのではないかしら。そう思ってしまうけど、歩み出して乗ってみたら、この世のエレベーターに、不思議と私の乗る私の隙間を用意してくださっている。キリスト者のこの世の居場所って、そのような感じではないだろうかと語られて、すごく印象に残りました。 アブラハムの生涯についても、最近創世記を読んでいて思わされたのは、アブラハムは、あなたから出た民が星のようになると語られたビッグな約束を持ちつつ、実際に、この地上での所有権を得たのは、ヘテ人エフロンから銀400シュケルで買ったささやかな墓地の土地だったんですね。 でも、それは、アブラハムにとって、とっても大きな意味のある土地だったのではないかと思います。 わたしたちもこの世の中で、居場所がないように見えて、小さくささやかかもしれないけど、天の御国の約束のお部屋を予兆するような、ほっとする居場所を神様が与えていてくださってるのではないでしょうか。 そこを見いだすことができていたら、たくさんの問題や、悩みや苦しみに出会う時も、私たちはその居場所、隠れ場で、神様にかくまっていただいて支えられることができるのではないでしょうか。 鉄道マニアの方々がよく乗るんでしょうか。たまにJRがミステリー列車と言って、行き先のわからない発車駅での出発時間と到着時間だけがお客さんに告げられるような列車が運行されますが、私たちのこの地上での旅もそれに似ていると思います。 主に信頼して、わたしたちは、この地上で明日がわからないですけれども、旅をしています。 こども集会でときどき賛美してる歌で、 明日はどんな日か、わたしは知らない。 晴れか嵐か曇りになるか わたしは明日を心配しない、イエスがわたしをまもられるから 明日はわたしにはわからないけど、あすをまもられる イエスがおられる、 日々の歩みは、日々に明るく肩の重荷は次第に軽い 輝く太陽涙かわかし仰ぐ空には虹のかけはし 明日はわたしにはわからないけど、あすをまもられる イエスがおられる、 明日はどんな日かわたしはしらない どんなみちすじが先にあるか だけどわたしは心配しないイエスがおられる私のそばに 明日はわたしにはわからないけど、あすをまもられる イエスがおられる、 私たちにとって、明日はどうなるかさっぱりわかりません。ただ、ひとつのことだけが、私たちにわかる。それは、明日もイエス様が私を支えられる。この信仰に立てたらどんなに楽でしょう。 わたしたちは、ちょっとしたことで、沈んで不安に襲われてしまいます。わたしたちもすぐに痛み沈んでしまいます。 どんなに喜んで今晩満たされても、明日の朝、一本の心配な電話で、誰かのひとことで、何かのトラブルで、すぐに谷底に落ちてしまうものです。 でも、ベック兄がいつも悩みながら苦しみながらも喜ぶことができるんだよとおっしゃるように、この地上の歩みの中でも喜んで歩んだ方々を見ると、ああ、自分の信仰はいったいどこにあるんだろうと思わされます。 集会でもビデオや映画や本を見られた方がたくさんいますが、「私の隠れ場」のコーリー・テンブームが、「どんなに深い穴の中にも主が共にいてくださる。」と、そう言う表現をされていました。 収容所か、そういう所に入れられて、仲間が順番にガス室に送られていく。そんな中でもイエス様が隠れ場を用意された。そんなことを思うと、わたしたちが悩んでる問題はなんなのでしょうと思わされます。 わたしたちは、この地上にあって、どんな旅人でしょうか。 詩篇39:12
この一節の中には、ほんとうにたくさんのうめきがありますが、ようく読むと、このうめきの中にたくさんの祈りと告白がこめられていあす。 主は、叫びを聞いてくださる主であること。涙に黙っていない主であること。 詩篇56:8
ここでは「旅人」と言う表現ではなくて「さすらい」と言う表現で出てきます。 そして、主が、私たちの涙のひとつひとつを決して見捨てられずに、それを革袋にたくわえ覚えていてくださる。 イザヤ書25:4
ほんとうに御言葉に信頼することができたら、どんどん楽になれるように思うのですけどもこのイザヤ書の25章4節も、恵みに満ちています。 わたしたちは、弱り、貧しく、悩む者として、この地上を歩みます。あらしと暑さと悩みに満ちています。けれども主は、弱った者をかくまうとりでとなり、暑さを避ける陰となる。 あと、もう一カ所大好きな箇所です。 イザヤ書58:11
焼け付く土地。キリスト者にとって、時にこの地上は焼け付く土地のようなものだと語られています。 でも、同時に、その土地にあっても、骨を強くする支えられると主は語られ約束してくださいます。 現実とは、なんでしょうか。私たちは、目で見て、この耳で聞いて、この手で触る。それが、間違いない現実だと認識します。でも、その現実は、本当に見えている現実でしょうか。本当に確かなものでしょうか。 創世記21章で、とても不思議なのは、ハガルの見ていた現実です。ハガルの目に映っていたのは、完全な絶望的状態だったと思うんです。 そこは砂漠でした。唯一のたよりは革袋の水でした。その革袋の水も尽きました。もう死ぬしかない。自分の子が苦しむのを見たくない。彼女は矢の届くほど離れた距離で子供と自分が死んでいくのを泣きながら待つしかない。それがハガルの目の見た現実だったんです。 でも、本当の現実はどうだったでしょうか。創世記21章19節 ハガルは、悲しみにうめきながら、すぐそばに、革袋に何回でも何回でも水を満たして余りある井戸がすぐ近くにあるのに全く気がつかなかった。 ハガルが現実と思っていた絶望は、現実ではなかった。そこに神様が井戸を用意して待っていてくださったのに、ハガルは全く気がつかなかった。 このことは、最初のエレベーターのエピソードにも似ています。わたしの入る居場所はないと、それが現実だ。 こんな厳しい現実に私は立たされていますと私は語りますが、それは現実ではない。 ちゃんと神様は、わたし一人の隙間隠れ場居場所をこの地上にあって、用意してくださっている。それこそが、現実である。アブラハムにも、小さなお墓のささやかな所有地がありました。 わたしたちに主が用意してくださるそれぞれの居場所は、そんなに華やかな広いものではないような気がします。もし、この地上で、あんまり居心地良かったら、ちょっと問題かもしれません。 また、わたしたちは病気や、悩みや、たくさんの問題の中に置かれてそれが解決できない所にあるかもしれません。 わたしたちには、主の恵みの本当の現実が見えずに、五感で感じるだけの絶望や失望の現実だけが迫るかもしれません。そのとき、主を見つめ続けることができれば、なんと幸いでしょう。 居場所がないと言えば、体の病いは、目で見えるのですけど、心の病は目で見えない。 時々、心を病んでいる兄弟姉妹が、健常者と言うか、自称・健康な兄弟姉妹から、厳しいことを言われて落ち込んでしまう。で、健常者の人々は、すぐにその病いが治って社会復帰をはたせて、そこに主のご栄光があらわされるみたいになってしまう。 で、お医者さんにかかったり、薬を飲んでいたり、社会復帰をはたせないと、ますます肩身が狭くて居場所がなくなってします。で、自分はダメだ、ダメが攻撃をしてしまう。 ある方が最近こうおっしゃってくださったんですけど、「私は、集会に来て、病気を隠さなくてもよくって、随分楽になりました。ありのままの自分を受入れていただいていると思えるからです。集会も、また、主が与えてくださった、私のための居場所です。」 あ、本当にそうだなと思いました。わたしたちにとって、集会って、本当にそう言う居場所だなと思いました。 わたしは、18歳の時にイエス様を受け入れて、35年近くたちました。少しも成長しない者だけど、ひとつだけ、いろんな所やいろんな群れの中を通って、これはわかって良かったなーと思うことがります。 すばらしいと思った人がずっこけたり、ここに愛があると思った群れが裁きあいになったり、この人に着いていきたいと思った先輩が信仰から迷子になったり。 そんな中で、自分もぼろぼろだけど、みんなもぼろぼろじゃないと気がつかせて頂いたとき、すごく楽になりました。 イエス様は、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人ですと語られました。なかには、わたしは健康だから、関係ないはと思うかもしれません。でも、イエス様がおっしゃるのは、「お前も病人じゃ。」ってことに思います。 ハガルは、主の用意してくださった井戸のそばで、「居場所がない居場所がない」と叫んでいました。大声で主の前に叫んだとき、主の前に泣けたときに、そこに居場所があることに気がつきました。 イエス様は、もう頑張らなくていい。わたしの所に来なさい。ぼろぼろでいいとおっしゃってくださっています。 わたしたちは、自分の目で表面的な現実を見て、勝手に失望して絶望してしまいます。その自分の目で見ているものが、一番、確かなものだと理解してしまいます。 でも、わたしたちが、これこそ間違いない現実だと思い込んでいる状況は、それは、自分の心配と思い煩いで作り出した現実かもしれない。 ハガルの本当の現実は、彼女は、いつでも、何杯でも自分の皮袋に水を満たしておつりがいっぱいあるほどの井戸のすぐ近くにいました。 でも、それに全く気がつきませんでした。神様の語りかけを聞いたときに、ハガルの目は開かれて、ほんとうの神様の恵みの現実の中に立たされました。 最後に詩篇から五箇所読んで終わります。 詩篇30:5
詩篇39:12
詩篇56:8
詩篇84:6
詩篇116:8
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