引用聖句:ガラテヤ人の手紙5章1節-12節
せっかく救われて喜んでいたのに、喜びをなくして沈んでしまう兄弟姉妹によく出会いますし、わたしも、すぐに喜びをなくしてしまう弱い者です。 ベック兄が、よくおっしゃるように、大喜びしていても、その数分後に、たった一本の心騒がせる電話ひとつで、わたしたちは、すぐに落ち込んでしまう者です。 ガラテヤの人たちもせっかく救われたのに、パウロが激しく叱責するほど、後戻りしちゃった人たちでした。イエス様は、わたしたちに、もっと生き生きと喜んでいてほしいと思います。「自由への救い」ということで、少しガラテヤ人への手紙から学んでみたいと思います。 割礼というのは、ご存知のようにユダヤ人であることを男性が自分の体にマーキングするということで、男性の性器、男性の大事な部分の先の皮を切り取る。 きっと大事なところに刻み込む意味があるんだろうなあと想像されます。 ヨシュア記5:7-8
これは40年の荒れ野の生活のうちに生まれた子達が割礼を受けてなかったので、カナンの地に入る前に割礼を受けるシーンです。 旧約聖書の中に、割礼を受けさせて痛くて動きにくいところに攻めていったという記事がありますから、痛かったんだろうなあと思います。もともと子供が幼児のときにするものですから、大人が割礼するのは、すんごく痛かったみたいです。 ガラテヤ人への手紙の中で、キリスト者に割礼がいるのかいないのかが論争になっているのですが、パウロは非常に激しい言葉で割礼なんかいらないと言っています。12節は、たいへん上品に翻訳されていますが、 ガラテヤ人の手紙5:12
この意味は、みなさんわかりますでしょうか。最近、お友達にBBN聖書放送って、聖書の解説メッセージを無料でネットで聴かせてくれるところを教えてもらって、ガラテヤ人への手紙で10時間ちょっとのお話しがあって、聴いてて、このところの意味を教えてもらって、はっとしました。 平たく表現しますと、あなたがたが、大事なところの先の皮を切り取る割礼にそんなにこだわって割礼割礼と言うなら、いっそのこと、大事なところを根元からちょん切ってしまえばどうですかって、パウロは憤慨しています。 清い書物である聖書に、「おまえたち、あそこをちょん切ってしまえ。」ってあるから、相当な激しい言葉ですよね。パウロがどうして、そこまで激しい言葉を吐かなければならなかったか、その背景を少しでも、今日は紹介できたら、ガラテヤ人への手紙がとっても親しい書物のひとつになるお手伝いができるのではと思います。 それで、パウロがそんなに激しい言葉を発する背景で、ガラテヤの教会の背景を見ていたいのですが、ガラテヤの教会は、たいへん喜んで救われて、そして、あまりにも簡単に惑わされて間違った教えに走ってしまった。 よく、私たちは、「イエス様に出会って180度変わりました。」って、証しの中のフレーズに使いますが、たまに間違えて、「いやーもうイエス様と出会って全く変わりました。360度かわりました。」って人がいますが、360度回ったらもとに戻ってしまいます。 ガラテヤの教会は、180度からもう180度回って360度回ってもとに戻ったしまったんですね。 ガラテヤ人の手紙3:1
ガラテヤ人って、パウロがどの範囲の広さをさして使ったかで違ってくるので、ガラテヤ人の手紙がいつ書かれたのかは、断定できないそうなんですけど、パウロがせっかく福音の種をまき、多くの人が救われた後で、間違った教えを持った人たちがやってきました。 反パウロ。間違った教えを広めた彼らの主張は、二つに要約できるのです。一つは、パウロなんて、何者ですか。彼は、使徒なんかじゃない。パウロの使徒性へ攻撃をかけてきました。ですから、ガラテヤ人の手紙の1章1節は、「使徒となったパウロ」で始まります。 二つ目は、信じるだけで救われるなんて、甘いですよ。やっぱり神の民は、割礼を受けなければなりませんと、「信じるだけで救われる。」ってことに疑問を投げかけて、救われるために、新たな条件を人間が作り出してきた。 こんなふうに、喜んでるガラテヤの人たちは、この二つの点でゆすられてきます。パウロの使徒性についての追求は、パウロ批判にまで及んでいたと思います。 コリント人への手紙第II、10:10
きっとガラテヤでもあなたがたは、パウロによって福音を聞いたがパウロなんてなんの権威もないんだと、福音を伝えたパウロを批判することもあったと思います。 信じて救われていたガラテヤ人が、ああ、割礼を受けなければいけないんだと不安になり迷ってしまいました。 つぎにパウロの反論ですが、まず第一点、パウロの使徒としての正当性ですが、 ガラテヤ人への手紙1:1
わたしは、エルサレムの教会の人たちに承認されて使徒となったのでも、宣教団体の認定試験に合格したのでも、人間的なものに一切よらない。 私は、イエス様をよみがえらされた父なる神様から使徒とされました。 ローマ人への手紙1:1
神様によって、主イエス様によって私は使徒として立たされているんだと言う強い確信が、パウロにありました。 わたしたちは、知らず知らずのうちに人間的な承認や認定に惑わせていないでしょうか。むかし、同級生が牧師になったんですけど、牧師のライセンスにも、ちゃんと格と言うか、レベルがあるんですね。神学校を出てすぐの頃や、まだ独身の牧師は、フルライセンスではなくて、リミテッド・ライセンスなんですね。洗礼式ができないとか、祝祷ができないとか。 フルライセンスになって全部できるとか、人間の組織が作ったライセンスがあって、その中に居た時は疑問を感じなかった。でも、初代教会から見たらおかしいなあと思います。 集会は、便宜上、当番表がありますが、わたしたちは、みなイエス様によって、イエス様のご愛を伝える者にされている。そこに立たなかったら、普通の教会、宗教となんら変わらなくなってしまいます。イエス様に立たされているから、みんなあんなに多くの犠牲を払って動いてくださる。 先週来てくださった兄弟は、北海道へ行ってくださってる。先々週、来てくださった兄弟は沖縄にも行ってくださってる。「わたしは、枕が変わったらよう寝ないし、知らない人に人見知りして緊張するので、いやー考えただけでもしんどいわー。」って言ったんですけど、喜びいっぱいで帰ってくるんですって。 わたしには、とてもできないなあと思います。それは、ひとりひとりの兄弟たちが、イエス様にあって立てられ遣わされているからかなあと思います。そして、厭わずに大きな犠牲を払ってくださっているから感謝です。 パウロは、パウロの使徒性を批判してくるものに、わたしは、神様によって使徒となりましたと、語りました。 そして、二つ目のポイント。割礼を受けることも大事だと言う考えには、 ガラテヤ人への手紙、5:4-6
と語ります。 もし、救いの必要条件として、あなたがたが割礼を受けようとするなら、あなたがたは恵みから落ちたんだって、すごいきつい表現だと思います。 信仰と宗教と言うことが、集会ではよくメッセージしてくださいます。宗教の特徴のひとつは、信仰以外に、これもなければ救われないという、人間が作った条件を付け足していくことにもひとつの特徴があるように思います。 そして純粋な信仰が、宗教化してしまう危機は、いつも私たちが持っている危機のように思います。教会が宗教で、集会が信仰と言うような公式は決して成り立たない。集会にいても、たえず私たちの信仰がどこかで宗教になってしまう危機がある。それは、救いの原因がわたしたちのうちに全くなくて、わたしたちが十字架だけで救われたのを忘れてしまうことに思います。 ガラテヤ人への手紙、5:9
わたしたちに、何のいさおし(功績)もないと言うのが、信仰の基本ですが、わたしたちは、自分自身のうちに何か良きものを見つけようとしてしまいます。 熱心に集会に集っている自分、熱心に奉仕している自分、熱心に伝道している自分。少しでもそこに目にいってしまうと、それがわすかなパン種となって、わたしたちの十字架だけで救われたと言う土台を揺るがしてしまう。 また、その土台が揺るぐとサタンがついてくる。 よく、「私自身を見ていると、とても、私が天国に行けるとは思えない。」って、兄姉がいらっしゃいますが、それって悩み方が間違ってると思うんですね。 「救われても、私は、こんなにみじめなんです。救われているのでしょうか。」きっとイエス様は、「あんたがみじめで、救われてもなお罪を持っているなんて、2,000年前から知ってるわ。」とおっしゃると思います。そんなこと、はじめからわかってるやろう。どうしようもない私だから救われた。 そして、キリスト者の群れが傷を負ってるように、私たちひとりひとりも、天に召される日まで、罪ある肉の性質を持ちつつ清められつつ歩んでるだけであって、私のうちに罪の性質があるということ実は、死ぬまで変わることがない。「救われても、こんな罪人です。」と告白する方に、「あたりまえじゃ。」て聖書は言ってると思います。 サタンは、私たちを失望させるのが、とても上手に思います。「それでも、お前は救われているのか?」って、たえず迫ってくると思います。そう迫れたらよほど自分が見えない人以外は、落ち込みそうになると思います。 なんと自分は愛が少ないのだろう。なんと心が醜いのだろう。どうして、こんなことをしてしまったのだろう。どうして、こんなことができなかったのだろう。 サタンが、ほれほれと、私たちの心に訴えかけてくるとき、これでも、私は救われた人間なんだろうかと落ち込んでしまって当然の者に思います。 その時、わたしたしの救いの原因がわたしたちのうちにない。私達の救いの原因は、2,000年前にゴルゴダの丘に立っている十字架の上にあるというところに立ち返ったら、平安になれると思います。 パウロが、なぜにこれほどに激しく割礼派の人たちに言い返したのでしょうか。割礼を受けるということは、自分のうちに自分の救いの原因のひとつを作ろうということにあったように思います。 そしてわたしたちが、ひとつのかけらでも、自分自身のうちに救いの原因を作ろうとするなら、もはや十字架の救いはむなしくなってしまうとパウロは語っていると思います。 自分が落ち込むだけならいいのですけど、私達はエルサレムから来てガラテヤの人を惑わしてしまった割礼派の人たちのように、人をつまずかせる者になる可能性を持っていることも要注意に思います。 人をつまずかせ、人を裁く人は、どこかで自分自身のうちに自分の救いの原因を作ろうとしている。熱心に奉仕しているつもりの人は、そこに自分の義をもとめて、熱心でない人を裁きます。きっとイエス様の目から見れば50歩100歩なのだと思います。 けれども、自分の義に少しでも立ってしまうと、その「ご自分様の義」をもって他者を裁いてしまう...遠くから集会に集ってくる人は、集会に集わない人を裁く。偶像を捨てた人は、まだ偶像が家にある人を裁く。そして、当時、割礼を受けた人は、まだ割礼を受けていない人を裁きました。 こんなふうにガラテヤ人への手紙の書かれた背景を思い浮かべていくと、ガラテヤ人への手紙の一句一句が心に響いてくるのではないでしょうか。 救いの原因が、全く私の外にある。今の私の状態にかかわらず、私は確かに救われているというのは、とても不思議なことに思います。 むかし、なんとかクルセードって伝道集会がよくありました。集会のあと、よく歌われた賛美歌が「いさおなきわれを」でした。 いさおなき我を血をもて購い、 イエス招き給う、み許にわれゆく。 いさおがない。わたしのうちに救われるべき原因がこれっぽっちぽない。それなのに、恵みによって救ってくださった。それが信仰の土台に思います。 ガラテヤの教会に起こった迷いについて見てきましたが、こうして見てきて、イエス様の福音が、どんな福音であるかがすごくはっきりしてくると思います。 イエス様の救いに、人間的に加えるものは何もない。もし、イエス様が2,000年前に私の罪の身代わりにゴルゴダの十字架にかかられたことを信じます。それ以外に、何か必要なものを付け足そうとするなら、それは、宗教であり、偽物である。 ベック兄が以前火曜の学びで人間の働きによって、何かを加えることで、私たちは救われるという誤った見解について語ってくださったことが、とても印象に残りました。 「もうひとつの誤った見解は、働きです。多くの人は、働きや良い行いによって、救われると信じています。それらの人々は、悔い改めと節制のために働こうとします。施しをしようとします。いけにえを捧げたり、祈ったりします。また彼らは、病人や囚人を訪ねます。そして非常に長くかかる巡礼を企てたり、自分の身をむち打ったりします。この人達は、そうすることによって、天国へ入るものと信じています。 イエス様といっしょに十字架につけられた強盗は、救われるために、何をやったでしょうか。その強盗は、良い働きをすることができませんでした。なぜなら、彼の両手は、十字架に釘付けになったからです。(ここは、とても大事に思います。)彼は、何ひとつやらなかったのです。 けど、それにもかかわらず、イエス様は彼を救いました。人間の救いの計画は、「する(自分が何かする)」という言葉を強調しますけど、主なる神は、「する」じゃなくて「した(神様が私たちのために何かをした)」と言われます。」 人間は、どうしても何かをやりたいのであり、何かを支払いたいのです。人間は救いのために働いて、自分のものにしたいのです。けど主なる神は、「終わった」とおっしゃっています。 もう、そこには何かやるものは、少しも残っていません。イエス様は、すべてをなされたのですから。まことの救いは、贈り物です。プレゼントのようなものです。 わたしなんか、エネルギーがなくて、役立たずにぼーーとしている方で、活発な兄姉を見てると、うらやましい。 でも、ほんとうに御霊に満たされた兄姉のそばにいると暖かな平安があると思います。 そして、自分の力でときにはエネルギー過多みたいに、何かをしている兄弟姉妹は、周りに平安を与えないで、不安にさせるように思います。それは、きっと御霊様の働きではなくて、ご自分様の肉力で動かれているからに思います。 イエス様の隣の強盗が、十字架にはりつけにされて、何もできなくなったように、わたしたちも、迷い出たらもう一度静まって、イエス様のお隣にゴルゴダの十字架に張り付けられる体験をさせられるように思います。 その中で、ただ恵みによって救われることを知るように思います。 ありがとうございました。 |