引用聖句:ローマ人への手紙8章26節
わたしの大好きな箇所のひとつです。短い1節にたくさんの神様のメッセージが含まれています。 「わたしたちは弱い」さらに「どのように祈ったらよいかわからない者である」、アーメンです。 「深いうめきによって御霊がとりなしてくださる」って意味は、まだまだその深さは理解できないでいます。 わたしは、いつのまにか57歳になってしまって。自分がそんな年になるとは想像もしてなかったんですけど。イエス様に出会ったのは、18歳のときでした。 今までの歩みを振り返って思うのは、ほんとうに、この時こそ祈りの力が必要だと言うときに、わたしたちは案外、祈りの言葉を失った状態になってしまうものだなあと思いました。 わたしたちは、祈りにおいても、とても貧しい自分であることを覚えておく必要があると思います。 と、同時に、言葉がないような祈りであっても、苦しみの中で、心を注ぎ出すのが祈りでもあると思います。 サムエル記第I、1:13-15
祈りは、心を注ぎ出すものであった。そこには、何の形式も定型文もない。 ひょんなことで友人になったある兄弟が、よく電話してきてくれる。心の病いがひどくて、めったに集会に集えないのですけど、一人暮らししてて、「今日は、通院日なんだけど、予約したんだけど、しんどくて、外に出れないからよっちゃん、早く祈ってください。」って、電話で祈らされる。 それが、とても自然なリクエストで、こちらが、逆にはっとさせられます。わたしたちも、もっともっと日々、祈りを身近なものとして、イエス様に叫び訴える者になりたいなあと思います。 聖書の中には、先ほどのハンナの祈りのほかにも、いろんな有名な祈りがあります。聖書の中のたくさんの祈りのひとつひとつを身近に覚えることも、どうやって祈ったらいいかわからない時に、とても助けになると思います。 今日の本題の、ヨナの祈り。ヨナの祈りが、今日から、わたしたちが、すぐに開けられる親しいお祈りになるように、少し一緒に見てみたいと思います。 今日は、ああ、ヨナの祈りって、こんな祈りがあったんだと覚えてくださったら、それだけで感謝だと思います。 ヨナ書2:1
ちょうど紀元前700年。アッシリアって大きな国があって、その首都がニネベ。そこへ悔い改めの伝道に行けと言われたヨナは、スペインの方へ逃げてしまいます。 逃げる途中、ヨナの乗った船に神様は大きな嵐を送られます。そして、とうとうヨナは、神様が、逃亡した自分に嵐を通して迫られていることを知って、みんなに自分を海に投げ込めと死を覚悟する。 けれども神様は、大きな魚を用意してヨナを助けられた。大きな魚に飲み込まれて生きていたと言うのはとても不思議な奇跡的な事実です。 ヨナ書2:2
祈りは、苦しみの中からの叫びであると語っています。 ベック兄がいつも「悩まないと祈らないでしょう。」とおっしゃいますが、わたしたちは苦しむことによって、悩むことによって、祈ることを学びます。 ヨナ書2:3-5
5節のような「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。」そんな深い淵をわたしたちは、通らされて、イエス様に叫ぶことを学ぶのではないかなと思います。 その深い淵は、痛みの淵であり、また、孤独な、たったひとりでイエス様の前に立たされる淵であるかもしれないと思います。 わたしたちは、イエス様以外のたくさんのものを見つめてしまいますが、深い淵の中に落ちたとき、やっと、イエス様だけを見れるようになれるのではないかなと思います。 私なんかは、きっと小さな試練で、小さな淵なんでしょうけど、自分自身の深い淵と言うと、やっぱり睡眠障害が続いたり、自分だけは、倒れないと思っていった自分が、くずれていった時に思います。 わたしは、小さい時から肋膜、喘息、肝炎とたくさん病気をしましたが、いつも、しぶとくがんばり続ける子供、がんばり続ける人でした。わたしだけは、倒れない、くずれないと思っていました。 そんな自分が、不安で眠れなくなって、昼間も、普通に仕事ができないようになって、苦しくなっていった時に、はじめて、自分自身のうちに自分を支えるものがないと言う体験をしました。そのとき、はじめて、イエス様に心から叫ぶことができたように思います。 ヨナ書2:5
これは、もうおぼれている姿そのものに思います。よく私達は思ってしまいます。どうせ助けてくださるのなら、もっと早く助けてくださったら良いのに。 もっと早く助けてくださったら、こんなに苦しまなくてすんだのにと、わたしたちはそんな経験をすることが多いと思います。 けれども、私たちが力尽きる前に助けられたら、私たちは本当に、イエス様の恵みだけで、救われたことを知り得ないかもしれない。だから、力尽きるのを待っておられる。 試練を通して、祈りを学んだ人のすごさを、証しや交わりの中で学びます。 ある喜びの集いで交わってた方は、家族がたいへんになってて、もう、どうすんのって、聞いてて思うのですけど、いくとこまでいって、自分の力ではどうしようもないから、私は、もう心配しない。イエス様にだけ頼るっておっしゃった方と夜ずっとお話ししてて、ああ、これが祈りなんだなあと思いました。 それが、変な力みもなくて、とても自然なお姿だって、こちらが励まされました。 ヨナ書2:6-7
この7節は、新共同訳では8節になるんですけど、「息絶えようとするとき、わたしは、主の御名を唱えた」とあって、これはこれですばらしい訳だと思います。苦しみの中から叫んだときに、その祈りが、主の宮に届いた。 旧約聖書を読むと、よく、祈りや恵みの記念に祭壇を築いたり、石を積み上げたりする箇所があります。大洪水が終わって、最初に陸地に立った時に、ノアは、そこに祭壇を築きました。ヤコブは荒野の旅に出た時に、天のはしごの夢を見て、枕にした石をたてて柱にして、祈念碑を建てました。 ヨシュア記では、ヨルダン川を渡ったときに、その川底の石を主の奇跡の祈念碑にしました。 ヨシュア記3:13、4:3、7
わたしたちも、ここで祈って主が答えられたって、祈念碑を持たないといけない。そして、その祈念碑の石をたてたら、迷ったとき、ふたたびさまよった時、その祈りの石、恵みの石を積んだところに戻らないといけない。 私は心が煩って、睡眠障害で眠れない日が続いたとき、油絵の具セットを買って写生をしに行っていました。イエス様は、そこからちゃんと支えてきてくださった。そこに帰ると、とても平安になります。 ここで、イエス様に祈って、イエス様に支えられましたって、石をたくさん積んで、そこの一つ一つに帰るとき、平安を取り戻すことができると思います。 神様を忘れそうになるとき、ヨシュアたちは、川底の石を見たと思います。 神様は橋のないところで川を渡らせてくださった。ぎりぎりの所で神様に向かった所。そこに記念碑があって、そこに帰ると、いつも平安になります。 ヨナ書2:9
「救いは主のものです。」は、欄外に注があって、「救いは、主から来ます。」、とも訳せるそうです。 詩篇60:11
とあります。 詩篇33:16-17
この世で、それがあったら救われると言うもので、わたしたちは本当に救われることはない。 詩篇121:1-2
この地上でまじめに生きることは、本質的に、苦しみを伴うものだと思います。聖書は、その苦しみが神様が許されて起こっている悲しみで、その中で、私に向かって祈り叫びなさいと語っておられるように思います。 その苦しみの中で、わたしたちは祈り、主に答えて頂いて、そこに石を積む。神様はこの時、ここで助けてくださった。そして、次の試練に向かう。そう言うのが、この地上でのクリスチャンの生活のように思います。 ヨナの祈りに通じる祈りを詩篇から2カ所読んで終わりたいと思います。 詩篇61:2
詩篇142:3
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