交わりへのご招待


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2009/11/15)

引用聖句:ヨハネの手紙第I、1章6節-7節
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「へそが茶を沸かす」って、昔母がよく言っていましたが、交わりの苦手な私が、交わりについて話すと、へそがいっぱい茶を沸かしそうで恥ずかしいですけど、少しだけ交わりについて学んでみたいと思いました。
私は、ご存知の方はご存知のように、集会の有志の非公式な交わりのインターネットのメーリングリストの雑用・メンテナンス係を長くさせて頂いています。
表に出るメールの交わり以外にも、これを通してたくさんの交わりと恵みを頂いています。

ある兄は、体と心ともに病いを負って、集会も年に数度しか行けないのですが、祈りの課題があるごとに電話をしてくださり、「今日は、診察日だけど沈みがひどくて外に出れないので祈ってください。」で、祈ってくださいって、電話でその場でいつも祈ることをリクエストされてはっとさせられます。
最近、その兄と祈ったことで、心の病のリハビリの集いがあるそうなんですけど、そこに行っても、みんな変で、最初の行く気力もうせてしまうから祈って下さいって、一緒に祈りました。
小さなことで、一つ一つつまづきになることが多のだそうです。

それを聞いて一緒に祈りながら、そのケースは決して特殊ではなくて、私達の交わりは、みんな一緒だなと思いました。私達、弱い者は、いつも、おっかなびっくり、交わりの場に出ていって、うまくいかなくて、また引っ込んでしまう。
カメが甲羅の中に縮こまるみたいに縮こまってしまうことも多いと思います。
そんなこんなで、今日は少し、ひとりひとりに励ましになればとイエス様が下さる交わりについて学んでみたいと思いました。

キリスト者の交わりについて、15年ほど前に、ベック兄が、キリスト者の使命シリーズでメッセージ下さったとき、キリスト者の使命の中の「交わり」でメッセージ下さったことがありました。
その中で、とても印象に残る人物のお話しがありました。最初、聞き取れなくて、詳しい兄に聞いてわかったのです。ドイツのビーレフェストのベーテルの街のボーダーシュビングについてベック兄が語ってくださいました。
ボーダーシュビングは後で話しますが、息子も有名ですが、パパ・ボーダーシュビングです。

ビーレフェルド(Bielefeld)のベーテル(Bethel)の町のボーデル・シュビング(Friedrich Bodershwing)は、ドイツにいる多くのクリスチャンたちが知り、貧乏人、ルンペンの父親と呼ばれている人なのです。その町は現在も社会的弱者の人達のためへの働きがあります。
そして、彼は召される前に聞こえなくなったのです。けれども必ず毎週、集会に行ったのです。ある人は、おかしいのではないか、不思議じゃないかと思っていたのです。
そして、メモを書いて聞いたらしいのです。「何も聞こえないのにどうして、毎週毎週熱心に、出席するのか。」と。そのとき、彼は何と言ったかといいますと「聖徒たちの交わりは、なにものにも勝ってすばらしいものだよ。」と言ったそうです。

ダビデの気持ちもそういうものであったと思うのです。

詩篇16:3
3地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。

パウロも似ている言葉を書いたのですが、テサロニケ人への手紙第Iの手紙をちょっと見て見ましょうか。

テサロニケ人への手紙第I、2:19-20
19私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
20あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

このボーダーシュビングさんに比べたら私達は、今日は○○さんと話せて良かったねとか、今日は、ばたばたしてゆっくり誰とも話せなかったはとか、表面的な出来事で交わりをとらえているのかなと思います。
何も聞こえなくても、そこに共に座っているだけでも、すばらしいとボーダーシュビングさんは感じていました。
そして、さっきも、交わりはせっかく出て行っても、つまづくことや傷つくことや、ショックも多くて、またこもってしまうって話しを最初にしましたが、そのメッセージの中で、コリントの教会についてパウロが語ったことをベック兄が紹介してくださっていました。

コリント人への手紙第I、1:9-10
9神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
10さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

イエス様との交わりについて、キリスト者どうしの交わりについて考えるといつも、ヨハネの福音書15章を思い出します。「私は、ぶどうの木、あなたがたはその枝である」
これは、決して組織的な関係を意味するのではなく、一つの有機体だともちろん分かります。
ぶどうの木と枝は、同じ生命をもっています。イエス様との結び付きによってイエス様との同じ永遠の命を持っている人たちは、聖書の中で教会と呼ばれています。

聖書を見るとただ一つの交わりが書かれています。それは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりです。
コリント人への手紙第Iの1章の9節にパウロは次のように書き記したのでありますが、

コリント人への手紙第I、1:9
9神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

このコリントの教会は、決していい教会ではなかってのです。メチャクチャな教会だったのでありますが、それにしてもパウロは、喜びを持って、確信を持ってこのように書き記すことができたのです。
コリントの教会はめちゃくちゃな教会だった。変な人がいっぱいで、つまづくようなこともいっぱいあった。それにも、かかわらず、パウロは、イエス様に召されて、この交わりに入れられましたと語りました。
私達は交わりについて考えると、いつも横のつながりを見てしまいます。でも、ベック兄が教えてくださっているのは、交わりで一番、大切なのは、私達ひとりひとりが、イエス様の命に結びついているかということに思います。

先日も、メッセージを車の中で聞いていたら、引用箇所がヨハネの福音書15章でした。大切なことは、まずイエス様に結びついて私達がイエス様の命を頂いていることと思います。
そんなふうにモデル化は実際はできないと思うのですけど、キリスト者の状態を二種類に分けたら、枝だけの人と、幹、イエス様につながっている人の二つに分けれるように思います。
枝だけの人は、たえず人につまづいて、また群れの破れを見つけるとほれ見たことかとそこを批判してしまいます。私自身の内省ですが...。小さな破れを大きく問題にし、自分自身はその破れを繕うことはしません。

一方、幹に結びついている人は、つまづきを覚えそうな時も誤解されても、共に命にある者として祈りをもって対応します。
群れの中に破れを見つけたら、批判するかわりに、少しでも繕うように影なる奉仕をします。
この二種類の人の違いは、幹に結びついて命を持っているかどうかということに思います。

それから、コリントの教会が傷ついていたように、例外なしに、すべてのキリスト者の群れ、集会、教会が不完全であり、やがてくる天のエルサレムを待ち望んで、傷を負いつつ歩んでいると言う理解は、とても助けになると思いました。
あの教会は傷だらけだったけど、この集会は素晴らしいと思っていると、大きくずっこけてしまいます。
私達は、イエス様と顔と顔を見合わせて出会うその日まで、イエス様の似姿に近づけられつつも、間違いなく地上では罪人であり続けて、罪の性質を持ち続ける弱い、連続して悔い改めを必要とする不完全な者です。

同じようにすべての群れが傷ついています。破れがあり、不完全で愛に欠けています。
ですから、いつもイエス様の方を向いていないと、その交わりが壊れそうになります。
集会でも、家族でも、親子でも夫婦でも、すべての人間関係の原則に思います。

ヨハネの手紙第I、1:6-7
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

この箇所も交わりについて語っています。ベック兄がこのように語られていました。
「彼が、光でいますように我々も光のうちを歩むならば真の交わりを持つ。」
と書いてあります。光のうちを歩むことこそが交わりの秘密です。多くの信じるものの悩みは、光のうちを歩むどころか、光のうちに立つことすらできないでいることではないでしょうか。

イエス様の光に照らされますと、私たちの生まれつきのものは、決定的に駄目であり、役に立たない汚れたののであることが分かるようになります。もしイエス様との交わりが正しくなると、お互いの横の交わりも正しくなります。
この交わりとは、どういうものであるかといいますと、一言で言いますと光の交わりです。命の交わりです。愛の交わりです。
イエス様から離れては、私たちは真の実を結ぶことができませんし、お互いに愛することもできませんし、又、世に対してはっきりとした態度をとることもできません。

一つのことを覚えましょう。すなわち私たちが必要なことは、イエス様を知ることであり、主との交わりを持つことです。イエス様は、命であり、聖きであり、謙遜であり、愛であられます。
聖きとは何でしょうか。私たちは、だんだん少しずつ聖くなることでしょうか。決してそうではありません。
これは、聖きの実です。表われです。主とのつながっていることの結果です。

交わりの中で、足りない者は互いにへりくだされ、イエス様の光の中に立たされる。そして、イエス様の命によって、この交わりの中へ導き入れられている。
もう5年以上前で、昔、私が雑用係をさせて頂いているメーリングリストの参加者で、何かにつけ、文句を言われる方がいました。その方は救われていたので、私達のメールの交わりからは強制的に退会して頂きました。
その方が退会するまで、お世話係をしていた私のことも随分、批判されました。批判と言うよりも事実かもしれないのですけど、「その場しのぎの腐った管理人」と言うのが、その方の私への評価でした。

それから、私はいつも、時間稼ぎに笑ってごまかすのですけど、一緒に参加してる方からも、「笑いに持っていって真剣でなくて、人をバカにしている。」とか、批判を頂いたり。おろおろしました。
でもその方が、ベック兄のことまで批判された時、出て行ってもらうことを祈って、ある夜、一緒に参加して重荷を負ってくださってる兄たちに連絡して、SOSを出しました。
一緒に、参加している皆さんに彼に退会してもらう説明の文章まで、みんな兄たちが作文下さったのですが、その文章が、私には、本当に交わりとは何かをとらえる印象に残る文章になりました。

文章の趣旨は、私達の集会の交わりは、イエス様だけが中心となり、誰も先生がいない。みんな迷える羊で、共にイエス様を見上げて歩む交わりである。
私達の交わりを破壊するのは、間違った意見や、感情的になる態度や、そのような表面に出るものではなくて、先生になろうとする者がその交わりに入ってくる態度である。先生の態度は、交わりを破壊するって、内容に私自身はとらえました。
さしさわりのない所だけまとめると、

私達の交わりは互いに徳を積むための霊的な交わりを目的としています。誰でも、間違ったことを言ってしまったり、うっかり口がすべること。またついかっとなって・・・などいくらでもありますが、そう言う個々の出来事が問題なのではありません。
問題になるのは、「先生」になろうとする立場です。私達の集会には牧師も教職もいませんが、ご本人の態度が、他者に教えようとする先生の立場になっていたと思います。そして、それは、私達の集会の交わりに相容れないものです。・・・
私達の交わりは、罪赦された罪人同士の交わりであり、そこにはいつも砕かれた霊による悔い改めと、主に対する感謝があるはずです。

この文章でうなずけますか?ってメールで5人ほどの兄に回覧して、アーメンですって了承頂いて、彼に退会処置をとって、皆さんにどうして退会の処置をしたかでこの文章を掲載しました。
自分自身が、誰かのつまずきにならないためにも、私にとってはとても大切な文章にしています。
さっきも話したように、あなたはその場しのぎで腐った人だと私におしゃった方は、その通りなので謝ってもらう必要はないのですが、2年くらいして突然、あの時は、ごめんなさいっておっしゃってくださいました。とても感謝でした。

2003年の西神集会で、メッセージの中で次のように語られました。
「交わりの主催者はイエス様です。私達の集会は、どこの集会でも交わりをしていますから、とても日常的です。でも、いつのまにかすっかり交わりに慣れて、これが私たちの特権だと言うことを忘れてしまいます。
と言うのは、イエス様から招待状を頂き、特別にこの交わりに入れて頂いたと言う意識が、はじめから私にはなかったように思います。」

兄弟は、交わりは、イエス様の特別な招待状を頂いて預かる恵みの交わりだとおっしゃいました。そして交わりの中に、二つの命があるとおっしゃいました。
私達を贖うために、私達を招待するために身代りに十字架にかかられたイエス様の贖いの命、そして、贖われて招待状を頂いた私達の命。

ヨハネの福音書15:16-17
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
17あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

最後に、息子のボーダーシュビングのことを少し紹介して終りたいと思います。
その耳が聞こえなくても、聖徒たちの交わりは素晴らしいと言ったパパ。
ボーダーシュビングに育てられた息子のボーダーシュビングは、パパの信仰を受け、キリスト者として歩み、ベーテルの障害者の施設の三代目施設長にまでなります。

彼が施設長の時に、第二次世界大戦になります。ナチスの命令で、ドイツ内の障害者施設で労働力調査が実施しされたそうなんです。
どれだけナチス・ドイツの役に立つ人間か。一番最低の、この人は普通には労働できないは、赤い+マークが二つ診断表に書かれたそうです。
そして、赤い+マークふたつの人は、列車に乗ってみんな移送させられていった。ナチスは、別の収容所に収容すると言って連れて行ったんですけど、そのような収容所は存在しなくて、列車に乗せられた人みんな抹殺されたそうなんです。

ドイツ国内で多くの障害者が犠牲となったときに、ボーダーシュビング息子が、ナチスと戦ってベーテルの施設を救った。
日本語でも数種類の本が出ているんですけど、ボーダーシュビングは、ふたつのことをナチスの担当軍人に言った。
「もし、この障害を持つ人を殺そうとするなら、その前に、自分を殺して欲しい。自分を殺してから、この人達を連れて行きなさい。」それから、もう一つは、「この人達は、ベーテルの街の宝です。」

もめているうちに終戦になって、ベーテルの街からは一人もその移送列車に連れ去られなかったと言われているそうです。
1993年の9月に、天皇皇后が、ヨーロッパ訪問がありました。その時、ヒューステンベッグ節子さんて、ベーテルで働いてる日本人のキリスト者の方が、天皇にお手紙を書きました。
本当のドイツの心はベーテルにあります。ぜひベーテルの施設を訪問して下さいって、お手紙を書いた。天皇陛下はえらいなと思ったのは、日程を無理してその手紙に答えてベーテルの施設を訪問しています。

ベーテルの街の名の由来の、ベテルのヤコブのはしごの聖書劇を見たり、主を誉めよの大合唱を聞いたり、患者さんたちと談笑したそうなんです。
その節子さんの本に、ボーダーシュビング息子さんについて書いていました。
ボーダーシュビングが施設の見習い研修の時に、人と人との交わりを知った様子についてこんなふうに書いていました。

「最初に、彼が看護することになった病人は、床ずれにかかり、排泄物でベッドを汚し、曲がり固まった関節は始終、けいれんしていました。
その小さなおばけのようになった青年を目にしたボーダーシュビングは、嫌悪感がわき無我夢中でおむつをあて、ふとんかけ、「こんな所には一日だっていられない。」と思ってしまいました。
その時、突然、その気味の悪い固まりと彼が思った青年が、片腕を高く宙にさしのばしたのです。オドオド驚いている彼に、じっと様子を見ていた病棟主任が、ボーダーシュビングに言いました。

「まだ、わからないの?フリッツ(患者の名前)は、あなたに有り難うを言いたいのよ。」と声をかけました。この時の思い出をボーダーシュビングは、こう綴っています。
「まともな人間だと思っていた私が、人間同士の交わりに疎くて、反対に私が人間である事すら疑わしいと思っていた知的障害の彼から、はじめて人間としての交わりの能力を教わったのです。」」
ベーテルの街をヒットラーから救ったのは、交わりの力だと、ヒューステンベック節子さんが書いてられたのが印象に残りました。

わたしたち、よろこびの集いの時みたいにここに名札つけたら、どうでしょう。この人は、赤の+がひとつ。この人は、ちょっと役に立ってるから青のプラス」で、赤の+がふたつついたら、次から出入り禁止です。そんなふうにしたら、来れる人いなくなるかもですね。
イエス様は、ボーダーシュビングが命をはったみたいに、命がけで私達を招待してくださいました。そして、同じように、+赤のいっぱいの私達に、あなたは宝ですとおっしゃってくださっています。

ヨハネの手紙第I、1:6-7
6もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。




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