天からマナが降ってきた


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2006/11/19)

引用聖句:出エジプト記16章13節−21節
13それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
14その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
15イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
16主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
17そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
18しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
19モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
20彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
21彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。

マナが天から降って来る箇所は、誰もが大好きな箇所と思うのですけど、今日はこの箇所から、主が、イエス様がこの地上にあっても、わたしたちを養ってくださることへの信頼について共に学んでみたいと思います。
本当に、そのことを信頼できたら、どんなにこの地上での歩みが平安になるだろうかと思うのですけど、わたしたちは、いつも目に見える物に追われこの地上で朽ちるものに全力を尽くしてしまいます。

先週日曜朝のニュース見てたら、竜巻の町へインタビューへ行ってたんです。
インタビューされてた方の中であるおじいさんが、あの、一瞬にして家が吹き飛んで行って、もうおしまいやーみたいなこと、失望の中でおっしゃてて。ほんの一瞬に、みんな飛ばされた。もう本当に力抜け切った中で、「わしの人生みんな飛ばされた。」って、おっしゃてて。
本当に、イエス様知らなかったらそうとしか言いようないだろうなーと思ったんです。1分間に何もかも竜巻が吹き飛ばしてしまったんですね。

ルカの福音書18:22
22イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

地上の宝は、竜巻が来たら飛んでしまう。本当の宝は竜巻が来ても飛ばされない。わたしたちも何度も聖書を読んでその事が痛いほどわかってるつもりなのに、いつも、そこにアクセスしてしまう。

図書館に、大草原の小さな家の第一シーズンのビデオが全巻あるので、上の子たちが小さい頃見ててなつかしいので、この間、放送開始の2〜3話あたり見てたんですね。
チャールズ父さんとキャロライン母さんが、放浪からやっとプラムクリークでしたっけ。あの物語の舞台になる村で、土地を買う。でも、十分なお金がないので、秋の収穫を担保に、農機具や種を分けてもらう。
お父さんは、明るいうちはハンソンさんの製材所で木を削って、それから夕方、大工仕事の手伝いしてかせいで、暗くなりかけから、自分の畑を耕す。一日20時間近く働く。

ある日曜日、みんなが家族で礼拝へ行くとき、チャールズ父さんがもう疲れて寝こけてる。で、家族は父さんを置いて、礼拝へ行く。
そして、その日のオルソン牧師のメッセージが、礼拝がいかに大切かってメッセージで、キャロライン母さんは、心に残って帰って来たら、なんと目覚めたチャールズ父さんが、日曜日に畑を耕しているんですね。
で、キャロライン母さんが激怒するんです。「父さん、最初から礼拝さぼって畑を耕すつもりだったのね。」って父さんにかみつく。そのときチャールズがキャロラインに叫ぶんですね。「神様が畑を耕してくれるのかい!」って...

今畑を耕して、秋に収穫をなんとか得なければ、せっかくの安住の地も奪われるかもしれない。「神様が畑を耕してくれるのか。」って、ついつい私たちが叫んでしまう叫びのように思います。
結果的にチャールズはけがをして働けなくなる。キャロラインが夜に暗い中、牛をひいて畑を耕す。で、その1時間の物語の最後のほうで、けがしたチャールズが、キャロラインに、「お前だいじょうぶか?」って聞いたときにキャロラインがやりかえす言葉が、「神様は、確かに耕してはくださらいけど、農夫の妻なら牛くらいひけるでしょうって、ずっと励ましてくださるわ。」って言葉があるんですね。

そのストーリーは、結局動けないお父さんにかわって穀物の袋を運んでる小さなローラとお姉さんを見て、町中の人が、助けることになって終わる。
わたしたちも、信頼、信頼と言いながら、どこかでいつも「それじゃ、神様が耕してくれるのか!」って叫んでしまう者なのではないでしょうか。

毎日狭い事務所にこもって仕事してると、アメリカでとうもろこし畑でも、トラクターで耕すような映画に出てくるような生活だったら爽快だろうなーと思うのですけど、とうもろこし畑の農夫さんて、神経性胃潰瘍が多いそうだって記事がある雑誌に載っていました。
お天気ひとつなんですね。どんなに努力してもお天気に左右される。お天気の心配で、とうもろこし畑のオーナーに神経性胃潰瘍が多いそうなんですね。人間、どんな仕事してても同じだなーと思いました。

仕事をずっとしていると、「利益」って、言う概念にいつもとらわれます。で、うちのすぐ近くが税務署なんですけど、二回大きな取調べがあったんですけど。
一応、正直申告してるので、二回とも追徴金なしの一切お咎めなしでしたけど。利益にあわせて税金を払うんですけど、その利益って言うのがとても不思議です。
大学生の頃、経済学部だったので、経営の単位もとれて、「複式簿記原論」「財務諸評論」とか、実務には役に立たないのばっかりやらされた気がするんですけど、良かったなと思うのは、利益とは何かって。
単純に考えたら収入から費用をひいたら利益が出てくる。で、たくさん利益があったら儲かってる。単純ではっきりしてるようで、この「利益」って概念は、実は、つきつめるとたいへん不確かな実体のない概念であることに気がつきます。

わたしたち零細経営をやってると、仕入れを起こして在庫になっても買掛金が在庫って資産に移動するだけでマイナスの費用にならない。名目上は、儲かってるように見えて、キャッシュフローって言うか現金がまわりが少なくなる。
で、その利益って、なんだろうとつきつめれば、非情に実体のないものなんですね。利益って言うのは、非実体概念なんですね。
ですから利益が上がっているのに資金繰りが苦しいなんて、ことが起こって、それが実は実体のないたいへん不確かな概念でしかないと気がつかないと、わたしたちはその実体のないものに追いまくられてしまう。

ある兄弟が、現代の会社がどんどんリストラして、切捨て経営が賞賛されたり、サタンの支配の中にいるのを覚えさせられると語ってくださったことがありました。
わたしたちは、この世、サタンの支配する世の中で、この世で生きていかなきゃ。そこにばっかり目が向いてしまうと、チャールズ父さんみたいに「じゃ、キャロライン。神様が、この畑を耕してくれるのかい。」て、ところに飛んでしまうように思います。
わたしは、20年前に自分で会社を作ったんですけど。まだ上の子ふたりも小さかったし。本当にチャールズ父さんと一緒で、神様はかせいでくれない。神様は養ってくれない。私が家族を養うんだって燃えていました。

ある兄弟が前にメッセージの中で、こんなふうにおっしゃってくださっていたのが心に残っています。
人生で大切なものって、数字にできない。逆に計量できると言うか、測ってこれだけありましたよと言えるものに大事なものはない。
逆に、イエス様の喜びも、救われた安らぎも、赦された平安も共にある喜びも、大事なものは、全部、数字にしてこれだけうれしいとか表示できない。

みなさん「メネメネテケルウ・パルシン」って、ご存知でしょうか。メネは、数えられたって意味なんですけど、おしまいだーって意味でもあります。
テケルは、足りないよー。そしてパルシンは、ばらばらだー。これが何語かはなぞなんですけど。
傲慢をしていて、私はできるんだわよって、歩んで見えなくなっているとき、「メネメネテケルウパルシン」、「おしまいだー、おしまいだー、たいりないよー、ばらばだー。」、あんた終わりよ----って、主が語られる。

旧約聖書のダニエル書5章25節に出てきます。大宴会で、傲慢の頂点にあったベルシャツァル王に主が語られた言葉。
この言葉どおり絶頂期バビロンは崩壊する。

ダニエル書5:25-28
25その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
26そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
27『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。
28『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。

仕事がうまくいってるときとか、子供がまだ小さいときとか、家族も表面上なんとかなりますからそんなふうに表面上うまくいってるときって、メッキで通用する。
でも、そこに本当のへりくだりがなくて、本当に主の前に小さくなる心がなかったら、わたしがそうだったんですけど、主が、メネメネテケルウパルシンでくずされる。
わたしたちはクリスチャンとして歩んでいましたが、本当のへりくだり本当の救われた喜びもそこになかったんだなーと思って。

本当に、自分で仕事をはじめても、まだまだ傲慢のかたまりだったので、どんどん打ち砕かれるのに時間がかかりましたし、苦しいときも通らされました。
でも、その中で、イエス様は倒れきるところまでいかにように導いてくださったように思います。
いつも証しに出しますが、一番大好きな箇所は、

列王記第I、17:14
14イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』

ツァレファテで預言者エリヤが出会ったひとりの女は、生活苦でどん詰まりまで来ていた女だったんですね。
もう希望がない。最後の粉と最後の油。もうそれで、最後のパンを作ったら息子と二人で心中しよう。もう希望がない。
そのとき、主は語られる。「そのかめの粉はなくならずそのつぼの油はなくならない。」

養ってくださるのは、主であること。そのことを知ることは、とてもむつかしいことで、同時にそのことを知ることは大きな平安への扉のように思います。
なかなか私たちは、天からのマナを期待し、天からのマナを拾うところへ行かない。
マナはどうしようもない荒野の中で降ったんですけど、わたしたちはその荒野にイエス様に導かれると思います。

さて、今日の箇所に具体的に見ていくと、見方によったらめちゃくちゃ面白い。いろんなとんでもない人が出てくる。そのとんでもない人たちが私たちにたいへん似ている。
まず欲張りさんがいます。
人間の目には少ししか集められなかった人と、たいへんたくさん集めるのに成功した人がいたように見えた。この文章どういうことなんでしょうか。測ってみたら1オメル2.3リットルだったってことなんでしょうね。

それから貯蓄大好きさんがいました。
それから、神様は、その日の分だけを集めなさいと言われたのに、明日が心配。明日もマナが降ると言う保証がどこにもないから明日の分も残しておこうとする人が出てきました。
私は、欲張ってたくさん集めそうとか明日に残しておこうとしそうとかいろいろ想像できてしまいます。私は、明日に残しておこうとか危ないでしょうか。

このあいだうちの祖母の33回忌をやったんですけど、昔、中華料理を明治生まれですけど、祖母と食べに行ったら、竹の皮みたいな出して大皿に残ったのを、入れようとするんで、みんなで止めたのを思い出す。
おばあちゃん、最初から竹の皮を用意していくと言うのがすごいなーと思うのですけど。
マナも残して明日食べようって人たちが出てきた。で、それも、きっと隠れてこそっと明日の分をとっておこう。これくらいしてもばれないだろうとしたと思うのですけど、翌日には悪臭をはなってばればれになっただろうと言うのが、このマナはすごいなーと思うんです。

さらに不思議なのは、安息日の前に降るマナは、一日貯蔵がきく週末スペシャル・マナが降ったんですね。
で、ここで、無計画安息日破りさんが出てくる。みんなは、週末スペシャル・マナを二日分集めて、安息日を静まったのに、安息日に集めようと野に出る人がいた。
わたしは、これらのは一読すると、とんでもない人たちに見えますが、ものすごい共感を覚えてします。わたしがそこにいたら、欲張り集めに貯蔵に、安息日のマナ集めにみんなやってしまうのではと思います。

そして、決して、その人たちが悪意だと言うよりも、心配したらそうなってしまうと言うかものすごい同情を覚えます。
今日マナが降ったから、明日もマナが降ると言う保証は何も彼らになかった。
現代は、もっと私たちは難しい所に立たされていると思うのは、わたしたちがいるこの世は、まさに、このマナをたくさん集めよう、明日のために貯蔵しよう、一日も休まず安息日も何もない今日も明日も集め続けようとって、価値観とそう言う人たちの中に私たちは生かされている。

自営業をやっててひとつだけいいのは、この世の誰にも支配されないでマイペースでイエス様についていけるってことがあると思います。
この世と一緒にやっていくってむつかしいなあと思ったのは、一度、学習教材を販売するのに、個別指導教室を立ち上げる所からフランチャイズみたいに、理解の遅い子の自立支援学習を作ろうってことになって兵庫県の教材製作会社と組んだことがありました。
で、関西一円は、うちが独占販売する。ロイヤリティーと教材収入が定期的に入ってくる。

でも、うちのほうが会社小さいので、やっぱり相手の方針にうちが従わなあかんようになって、20軒くらいになったところで、もっと拡大できないかで、説明会とか教材展示会も開いてくれと言われて。
で、相手は、学習塾の塾長先生になるんで、平日は授業あるので、そのうち日曜日も説明会を開いてくれとなって。で、電話してたときに、うちの得意先はクリスチャンも多いんですけどある先生に、電話してたときに、日曜は都合が悪くて行けませんって言われてよく考えたら、そのお客さんは礼拝に行かれる日だって気がついて、、。
自分はなんか完全にこの世の側に立ってるなあと思って、、。

やっぱりイエス様にあって仕事していこうって言うのが、自営でやってる意味があるのに、いったい自分は何に支配されてるんだろうと、その時、思いました。
その企画、せっかく20教室ほどできたところで残念だったんですけど、全部降りて、そこから教材をうちは買ってあげるだけのフィフティーフィフティーの立場に戻りました。

わたしたちは、どうしたら、この地上にあって、イエス様が養っていてくださる形が違うけれども、わたしたちにも、また形を変えてマナが降ってきてるんだ。そのことを確信できるのでしょうか。
それは、体験で学べない。その信頼は、まず前提にないといけない。
意志というか決断というか、わたしは、神様が養ってくださる。そのことを信じて一歩踏み出しますと言う前提があって、信頼があってはじめて、「ああ、今日もイエス様が養ってくださった。」そう思えるのではと思います。

マタイの福音書6:25-26
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

兄弟たちがよく引用される、チャールズスポルジョンがこの箇所から「心配してはいけません」ってメッセージをされててそれを紹介したいと思います。

「わたしたちは、いつもいらぬ心配をするものです。いらいらしたり、ビクビクしたり、疑い深かったり、すぐ恐くなったりする人もいます。
自らをペシミスト(悲観論者)と認めていなくとも、ペシミストは、あちらこちらにたくさんいます。そんな人にとって、災いはいつも差し迫っており、一寸先は闇なのです。

鳥といえば、不吉なフクロウかカラス。ハクチョウを思い浮かべても、黒いハクチョウだけです。
もし、今日が雨なら明日も必ず雨、その次も、そのまた次も雨、そして十中八九、大洪水になるだろうと考えます。
あるいは、もし今日が晴れなら明日も乾燥した日になり、それが何ヶ月も続き、ついには大地とすべての草地が干ばつでだめになるだろうと考えます。

そのように考える人は仕方ないのですが、クリスチャンはそうであってはならないと私は思います。
なぜなら、次のように主のみことばが明らかに約束しているからです。「自分のいのちのことで心配してはいけません。」
信仰者にとって、思い煩いは禁じられたものであり、そしてまた必要のないものです。

天におられる御父が顧みてくださるならば、どんな小鳥でさえ、世界中どこででも大麦の二粒さえ持っていなくても枝でさえずっているとというのに、あなたは恥ずかしくなりませんか。
神が空の鳥を顧みてくださるゆえに、鳥は思い煩うことなく生きています。わたしたちもそのように生きようではありませんか。

主は思い煩いが役に立たないと言うことも教えられました。
なぜなら、私たちはどんなに心配しようと自分の命を一刻たりとも延ばせないからです。イライラと心配したからといって、それで、どうにかなりますか。
雨の降らないことを農夫が悲しんだとして、どうなるものでしょう。農夫が気をもめば、天の給水栓が開きますか。最善を尽くして、あとは思い煩いを神にゆだねるほうが、かぎりなく懸命です。

用心することは賢明であり、それは手段を目的に適ったものとします。しかし、心配することは愚かであり、それは悩みと呻きをもたらすばかりで何の益もありません。
加えて「こういうものはみな異邦人が切に求めているものなのです。」
神を信頼しないのは、幼稚で恥ずべきことです。

神を信頼できないとしたら、自力でどうにかするほうが首尾よくできるでしょうか。
自分の力よりむしろ、「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っている」ほうがまさっているのではないでしょうか。」

仕事って、作業療法みたいなところがあるし、わたしたちの信仰のリハビリにみたいに思えるようになったんですけど、この地上は、たいへんに溢れています。
その中で、問いかけられているのは明日も、ちゃんとマナが降ることを信じますかと言うことに思います。

いろんなことが、特に仕事でうまくいかないのは、とてもよいことなのかもしれません。
仕事がうまく行って、業績が良いとき、何か自分ができるように思って傲慢でした。そしてそこには平安がありませんでした。
いろいろ自分でどうにもならない所を通らされる中で、イエス様助けてーと叫けばされます。そして、「あなたは、私が天からマナを降らせる主であることを信じますか?」と問いかけられます。

いつもついつい不安に襲われ、明日の心配より明後日の心配をする者です。
でも、「はい、信じます。あなたは、天からマナを降らせてくださる主です。弱い愚かな私を日が暮れるまで助けてください。」、そう朝に叫んで歩み始めるとき、なんて平安なのでしょう。
ありがとうございました。




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