買い戻す人


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2010/09/19)

大阪集会では、メッセンジャーごとになにかしら分担分野があって、「宇宙」は本来、広田兄のテリトリーなんですけど、私も最近宇宙について考えることがありました。

ホーキングという物理学者については、皆さんも聞かれたことがあると思います。体が不自由な方ですが、不思議な装置で会話されます。9月初旬に、共著で、「グランド・デザイン」と言う新しい本が出ました。
その中で、「無、すなわち物理学的な無から有ができるのを、物理学的に説明可能になるだろう。そして現代物理学は、宇宙の創造についての説明で、神様は必要なくなるだろう。」と言うようなことを申されました。
言わしておいてあげたらいいのに、米国のファンダメンダルな教会の牧師先生たちが、ちょっと騒いだそうで、「ホーキングが、また、とんでもないことを言うとおる。」ってことでしょうか。余計に、話題になったそうです。

先日、9月10日のCNNラリーキングアワーに、ホーキングが登場しました。
ラリーキングさんが、ずばり、「それでは、あなたは、神様を信じるのか?」とインタビューで聴くのでしょうけど、さすが、頭の賢い人で、上手にかわして、ホーキングさんは答えます。
「神様は、いるかもしれないよ。でも科学は、宇宙創造の説明に神様を必要としない。」と言うような意味を答えます。

何年か前に「ホーキング宇宙を語る」って本が話題になった頃、彼についていろいろ読んだことがあります。その時、彼の本から私の感じたのは、とても深い寂しい絶望感でした。
こんな広い宇宙の中の、銀河でさえが小さく見える所。その銀河の中の小さな太陽系。その中に小さな地球。その中の、ちっぽけな私。そんなちっぽけな私に、神様が目を留められるはずがない。
そんなふうな深い寂しい絶望感を感じ取りました。

映画版の「ホーキング宇宙を語る」と言うのも見たのですけど、その中で一番印象に残ったのは、ホーキング・父さんをお世話している、娘さんが出てくる場面でした。
筋ジストロフィーではと言われていますが、たいへんな病気を持ちながら学究する父さんを見て、娘さんが、こんなふうに語っていました。
「お父さんのことが心配なの。考えすぎじゃないかしら。ひもだの、ホールだの考え詰めて、体に悪いんじゃないかしら。」って。

わたしたちは、宇宙とか、ひもとか、あんまり考える知能がないから幸いです。
今日のテーマは、そんなホーキングさんにも教えてあげたいテーマです。こんなに広く、広大な宇宙。迷子になってしまう私たち。
あるいは、意図的に自分自身が神様を悲しませるようなことをして、迷子になったとしても、必ず神様は、わたしたちを見つけて買い戻される。

いろんな出来事の中で、神様が、私たちを迷子として、この世に失われた者として歩むことを許されることがあります。
でも、私たちから「買い戻される」半券みたいなのがくっついてて、それが解除されることはない。このことは、私たち一人一人に、大きな大きな励ましとなります。
さて、「買い戻し」について考えるとき、買戻しと切っても切れないキーワードが「靴」です。

ルツ記4:7-8
7昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。
8それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分のはきものを脱いだ。

ここにも書かれていますように、買い戻すひとは、「私こそがあなたを買い戻す者になります。」と言う表明に、上位の買い戻し権を持つ親戚から、くつを受け取りました。
また逆に、買戻しの責任を果たさない者は、「くつを脱がされた者の家」と呼ばれると申命記にあります。

申命記25:7-9
7しかし、もしその人が兄弟の、やもめになった妻をめとりたくない場合は、その兄弟のやもめになった妻は、町の門の長老たちのところに行って言わなければならない。「私の夫の兄弟は、自分の兄弟のためにその名をイスラエルのうちに残そうとはせず、夫の兄弟としての義務を私に果たそうとしません。」
8町の長老たちは彼を呼び寄せ、彼に告げなさい。もし、彼が、「私は彼女をめとりたくない。」と言い張るなら、
9その兄弟のやもめになった妻は、長老たちの目の前で、彼に近寄り、彼の足からくつを脱がせ、彼の顔につばきして、彼に答えて言わなければならない。「兄弟の家を立てない男は、このようにされる。」

顔につばしてとか、なかなか厳しい表現ですね。

先月は、ルツ記の前半を学びました。ナオミさんは、飢饉から逃れて夫のエリメレクと歩いて100kmヨルダン川の東、モアブの地まで幸せ求め旅に出ました。
そこであったことは、先月学びましたように夫のエリメレクの死。それから、息子のマフロンとキルヨンの死。これも、先月の復習ですが、名前の意味が、虚弱体質とか、発達不全とか、ちょっとでしたよね。
そんなこんなでナオミの告白は、ルツ記1章20節21節でした。

ルツ記1:20
20ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ

=快い、

ルツ記1:20
20と呼ばないで、マラ

=苦しみ、

ルツ記1:20-21
20と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。
21私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミ

=快い、

ルツ記1:21
21と呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」

ナオミは、私を「ナオミ=快い」と呼ぶのは嫌よ。マラ、つまり「苦しみ」と呼んでよと言いました。
けれども2章で、買い戻す者として、ボアズが登場すると、ナオミはころっと変わります。

ルツ記2:20
20ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」

ルツが落穂拾いをしていた畑の持ち主が、ボアズ。名前の意味は、力があると言う意味だそうです。
ボアズが買戻しの権利を持つ親類であることを知らせられた時に、神様への信頼が回復します。
「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」って、変わっています。

聖書が私たちに語りかけているように思います。
「あなたも、買い戻される必要のある失われた迷子の人でしょう。あるいは、あなたが心配する家族や、祈っている友人、知人が、今、失われて迷子でしょう。けれども、必ず私は買い戻します。私は、あなたを買い戻します。私は、あなたが心配するひとを買い戻します。」
そう言って、私こそが買い戻す者ですと、買戻しの証しのくつを受け取ってくださる。

「買い戻す」って言葉は、「贖い」と言う言葉にも置き換えられます。
旧約聖書の中では、イザヤ書に「贖い」と言う言葉が、たくさん出てきます。

イザヤ書35:10
10主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。

イザヤ書54:4-5
4恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
5あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。

イエス様が、買い戻す者の証しの「靴」を持って、「私があなたを贖いますよ。あなたが心配祈っている人を贖いますよ。」、そう語りかけてくださっているように思います。
それから、ルツ記を通して、ボアズのルツに対するやさしさが表現されています。そのやさしさは、そのまま、イエス様が私たちを取り扱われる優しさに思えます。
まずボアズは、ルツの落穂拾いを邪魔されたり、いじめられたりしないかしらと心配します。そして、ルツが拾う前に、落穂をたくさん落とさせます。ルツ記の2章15節からです。

ルツ記2:15-16
15彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。
16それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」

あとで、ルツ記を何度も味わってくださったらと思うのですが、3章15節では、ナオミが人間的にルツとボアズを結びつけようと、あせった計画を立てるのですが、どの時も、ルツが傷つかないように、ボアズはたいへん優しい思いやりをもって接しています。
そして、そのナオミの所にルツを帰らせる時も、ちゃんと、おみやげを持たせているのですね。

ルツ記3:15
15「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい。」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。

ナオミのところに成果なしに帰ったら、また何か言われるだろう。せめて、おみやげを持って帰りなさいと、ルツを気遣い、おみやげを持たせて帰らせています。
そして4章10節では、いよいよはっきりと、靴を取って、畑とルツを買い戻したのは私だと宣言しています。

ルツ記4:10
10さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」

ボアズの一つ一つのやさしさは、イエス様が、だめなどうしようもない私たちを扱う優しさに思います。
そしてイエス様も、靴を持って、この世の中から私たちひとりひとりを買い戻してくださいました。
私たちも、霊的に、主人を失った迷子のやもめでした。けれども今、イエス様の家族に買い戻されました。

そして今、人間的な目には、失われてしまっているように見える人も、単に失われた人ではなくて、みんな買い戻されますよって、半券がくっついて失われているように思います。
きっと私たちがそうであったように、イエス様は、「イエス様、私は迷子です。私を買い戻してください。」とイエス様に告白するのを、首を長くして待っておられるのでしょうね。

私たちは、自分が迷子だとなかなか認められませんでした。でも、たくさんの体験の中で、自分自身が、本当に人生の迷子で、私のうちに私を支えるものが何もないと言う体験を与えられました。
自分が、今日をどうやって生きたらいいかわからない。そう告白できるまで、随分時間がかかって、イエス様をお待たせしてしまいましたよね。
でも、「私は迷子です、失われた者です。私のうちに私を支えるものはありません。」と知ったときに、イエス様に、「私の救い主になってください。」と心から祈られたように思います。

ルツ記には重要な結末があって、このルツとボアズから、ダビデのおじいさん、オベデが産まれます。

ルツ記4:22
22オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。

ルツは、マタイのイエス様の家系の系図にも名前を連ねます。どうして、モアブの女性が、こんな大事な系図に名前を連ねるのか、おかしいと思ってしまいます。
でも、モアブの女性だったルツが、同時に、「買い戻されたやもめ」であることを思うとき、なんとなくなるほどと思いました。
前に、「ほっとしなければ福音じゃない。」って、話をしました。本当は、私たちが想像したり、信じたりする以上に、ずっとずっと、神様の赦しは大きくて、神様の救いは確かなのではないでしょうか。神様は、わたしたちを、みんな買い戻して、回復したいと願っています。

一番、はじめにお話ししたように、悪魔はいつも囁いてきます。「あんたなんかが、神様に顧みられるはずがないよ。ほかのあの人が買い戻されても、あなたは買い戻されないよ。あんたのやってきたことを見てご覧よ。」
悪魔は、私たちを失望させようとします。でも、神様の取り扱いは、今日のボアズのように、本当に愛に富んだ取り扱いのように思います。
良きサマリヤ人について、学んだときに、キーポイントは、ルカの福音書10章35節の後半だと学びました。

ルカの福音書10:35
35もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

神様はきっと、もっと費用がかかるのをご存知でこう言ってくださったように思います。
救われても、すぐまた迷子になってしまう。せっかくこんなに恵みを下さったのに、もうあっちでこけて失敗している。でも、神様は、「もっと費用がかかっても、払いますよ。」とおっしゃってくださっている。
心配し、おろおろし、つぶやく者ではなくて、神様の大きな愛に信頼する者でありたいと思います。




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