あなたの寂しさとイエス様(基本編)


高橋義夫兄

(橋本家庭集会、2013/11/09)

引用聖句:詩篇68篇6節
6神は孤独な者を家に住まわせ、捕われ人を導き出して栄えさせられる。しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。

今日は、「人間の寂しさとイエス様(基本編)」、明日は、「人間の寂しさとイエス様(応用篇)」をお話ししたいと思います。
今デイサービスとか介護センターがどんどんできていますけど、大きめの施設に介護の研修に行かれた方から聞いたのですけど、デイサービスって、楽しめる人も居るけど、やっぱり夕方になると、家族を求めて寂しいそうで、エレベーターホールにお迎えを待つ、さびしそうなご老人の姿が印象的だったって教えてくれました。
本当は、一日お家で見てあげれたら良いけど、それもままならない。それに最近は、子供の教育にお金がかかって、働きに出られるお母さんも多いですよね。

昔のように、おじいちゃんがいて、子供夫婦がいて、その孫がいての三世代家族なんて減ってしまって、介護がビジネスになって、デイケアーや、いろんなケアーが充実していくのは良いのですけど、寂しさと言う心の問題が置いていかれている。
聖書の中に、こんな一節があります。

詩篇102:7
7私は...、屋根の上のひとりぼっちの鳥のようになりました。

これは、屋根の下と上で対比されているように思います。
屋根の下、家の中には、楽しい交わりがあるのに、そこから疎外されて、ひとりぼっちで屋根の上に居る。6節は、

詩篇102:6
6私は荒野のペリカンのようになり、廃墟のふくろうのようになっています。

どうも、ペリカンもふくろうも、忌み嫌われる鳥だったようなのですね。ひとりぼっちで、孤独で、嫌われる存在としてあるって、ちょっと悲しい現実を語っています。

伝道者の書4:8
8ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。

伝道者の書4:10
10どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。

昔、「大草原の小さな家」ってNHKでドラマを長いことしていました。その中の第1シーズンの第6話にこんな話しがあります。
ひとりウォルナット・グローブって、田舎に住んでいるおばあさん。主人公のローラのお家とお友達になります。で、このおばあさんの子供達、みんな自分の生活に忙しくて、おばあさんを田舎に一人置いたきり誰もなかなか帰って来ません。おりしもベイカーってお医者さんが診察したら、病いを患って体も疲れてきている。
おばあさんは思うのです、きっとみんなが田舎に帰ってくれて集まるのは、自分が死んでお葬式くらいだろうと。それで、そのおばあさん、自分が死んだ、葬式があると、一世一代のウソをつきたいとローラのお母さんのキャロラインに相談します。

そして村をあげて、このおばあちゃんの望みをかなえることになります。お医者さんのベーカー先生。村の牧師先生。チャールズお父さんにキャロラインお母さん。
「おばあちゃんが死にました。」って、うその電報を出して、おばあちゃんの葬式ですと、子供達や孫に案内を出す。で、あわてて、子供達は帰ってくるのです。牧師さんも出て来て棺桶も置いて、お葬式で、おばあさんは黒い分厚めのヴェールをかぶって、子供達の様子を影から見てるのですね。
で、おばあさんは、そっと子供達を見て終わる手はずだったのが、音信不通の放蕩息子が突然帰って来る。それを見て、驚いたおばあさんが、「どんなにあんたのことを心配したことか!」って飛び出してしまう。

それで、死んだはずのおばあさんが生きてるので大騒ぎになるって、ストーリーなんです。
でも、どこかのシーンでそのおばあちゃんが、「こうでもしないとあんた達は来てくれなかったでしょう?」って、シーンがとても印象的でした。
子育って親の時間を奪いますが、子供が成長すると親を置いていって、そこに寂しい時間が残る。

社会福祉の先進国と言えば、スウェーデンが有名です。スェーデンって、食品の消費税は12%ですけど、一般消費税は25%なんですって。福祉がその分充実した幸せな国のはずなんですけど、あるスウェーデンの高齢のご婦人の日記が公開されました。
その日記は、なんと「今日も誰も来てくれなかった。」って毎日綴ってあったそうなんです。そのご婦人は、誰かが来てくれてお茶したくて、毎日用意して待ってたのですけど、待ち人誰も現れずで。社会福祉がすすんでも、人の心の奥底は満たせない。
これらは老年期における寂しさですが、さびしさは、老齢期だけではなくて、若い人達は、若いなりの寂しさにさらされているように思います。。

思春期には、思春期の孤独、さびしさがあると思います。今、LINEってアプリが青少年の間で問題になっていますが、うちの子供も夜、家で勉強しててもしょっちゅうお友達からLINEがはいってきます。
テレビで、若者の8%がネット中毒とか報道していました。あれも、さびしさの裏返しではないかなあと思うのですが、返事しないでいたら、しかとしたと思えるから、携帯電話が離せない。
高校生にとって、何が恐いって思いますか?携帯や、スマホの充電切れが恐い。いま、予備のバッテリ-がよく売れてる。私は、仕事でデーター通信使うので、持ってますけど。

今SNSって、ネットでの人間の対話や交わりが、たいへん盛んです。それも、リアルな現実のさびしさの裏返しではないかなと思います。
私は、インターネットの時代の前の、パソコン通信の時代からずっとネットでいろんなことをしているのですけど、夜の密室でパソコンに向かってると、その人の人格のディープな部分が出てくる。
ネットでは、すごい議論にハードに突っ込ん来る人で、どんなすごい人なんだろうと、会ってみたら、めっちゃ大人しい人だったり。

若者も、老人も、寂しさにさらされていますが、ばりばり働いている壮年期の人も、会社から離れたらまた孤独ではないかと思います。それからお母さんも孤独です。
若いお母さんたちって、子育てで、それまでの人間関係から切り離されて、自分の時間がない。上手に公園やらでママ友作れない人は、大きな孤独の中に落とされる。
E・アランという人は、「生き物は全て孤独である。そして人間は自らが孤独であることを最も良く知る者である」と記しています。

聖書をひく前に、一般的な寂しさの意味ですが、辞書では「本来あるものが失われ満たされない思い」。心が荒れすさぶ「さぶし」が「さみし」になったそうです。
漢字の寂しいの中の叔は、細く小さいと言う意味で、ウ冠が家を表し、「寂」しいって、漢字は、家の中の声が小さくなるって意味なんだそうです。
ひとりぼっちって言う、本当の人間関係を築きにくい世界に私たちは生かされていると思います...

哲学者の三木清という人が、「孤独は、山の中にあるのではなく、町の中にある」と書いています。山にはあまり人がいませんので、寂しいように感じるかもしれません。でも、本当の寂しさは、周りにたくさんいるのに、誰も自分のことを知らないし、誰も自分に関心がないしかまおうとしないと感じる時に、人は孤独、寂しさを感じるのではないでしょうか。
私は、昔は、信州の方とか山登りによく行ったのですけど、山登りで楽しいのは、みんな挨拶します。狭い道を譲り合ったり。それが当たり前。でも、都会では、こんなにたくさんの人が居て、知らない人に挨拶したら、変な人と逆に思われます。

本来、きっと人は、互いに楽しく暮らすように作られたはずなのに、こんなふうな寂しい世界になった原因はなんなのでしょう。
聖書は、人間が本来ある姿から、離れてしまっていると語ります。
今日覚えて帰って欲しい単語が一つあって、「ハマルティア」って単語です。これは、新約聖書が書かれたギリシャ語の単語で、日本語の聖書では「罪」と訳されています。パウロの手紙によく使われています。このハマルティアの本来の意味は、「的外れ」だそうです。

旧約聖書ではヘブル語で「ハッター」が的外れ、罪「アーウォン」がよこしま悪、「ペシャー」が反逆そむきみたいにいくつかの言葉があります、
新約聖書にも、「ハマルティア」が罪、そのほかにも「パラトーマ」が罪過、「アディキア」が不義で、必ずしも罪と訳されるところが、全部ハマルティアではありませんが、たいへん意味のある覚えておいて損がない単語です。
覚え方は、「罪にはまって、ハマルティア」と覚えます。

聖書は、わたしたちが、本来ある所から迷子になって道に迷った人として語ります。わたしたちは、迷子になって、道に迷ってしまって本来ある所から的外れになってしまった。寂しさの本当の原因は、そこにあると聖書は語ります。
本当に、私たちが生き生きと生きることができないのも、本当の豊かな愛の関係が築けないのも、このハマルティアの的外れの状態に私たちがあるからだと、聖書は語ります。
乗る電車を私たちは間違えてしまった。
ほんとうに暖かい世界に暮らしたいのに、寂しさの中に置かれている。それは、わたしたちが、神様を忘れて、自分勝手な道に歩もうとしたからだと聖書は語ります。

神様から離れてしまった悲惨な状況を、聖書は「ハマルティア」、「罪」と言う「的外れ」と言う単語で示します。

ローマ人への手紙3:10-12
10それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

さらにエペソ人への手紙には

エペソ人への手紙2:1-3
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

今日は開きませんけど、みなさん「エデンの園」って聞かれたことがあると思いますが、聖書の一番はじめの方に出て来て、人間が神様と共に歩む幸せな世界が描かれています。
わたしたちは、自分で傲慢になってわがままになって、神様を無視してそこから飛び出して、迷子になってしまったと聖書は語ります。

もうひとつ単語を紹介します。
メタノイアって、単語を覚えて帰って欲しいと思います。メタ=after後で、ノイア=mind考える。もう一度考え直すって単語で、「悔い改め」って、日本語では訳されています。
ハマルティアが的外れなら、メタノイアには「方向転換」って意味もあるそうです。

私は、早い方になるのでしょうか。18歳の時にイエス様に出会いました。人より早く人生に悩むようになったのは病気のせいで、肋膜炎の再発を繰り返したり喘息でアレルギーになったりするうちに、自分はどうやって生きて行ったら良いのだろうと思うとき、自分が、迷子になっているのに気がつきました。
その時の私のテーマは、病弱な私がどんなふうに大事に扱われるかということで、とても自己中心な愛のない者でした。そんな私のために、イエス様が十字架にかかって救ってくださり、もとの迷子でない道に、さびしくない道に戻してくださることを知って、イエス様に「救い主になってください。」と祈りました。
それが、私のメタノイアでした。

「主イエス様、私はあなたを必要としています。私の罪のために十字架で死んでくださったことを感謝します。今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の心の王座で、私の人生を導いてください。あなたが望んでおられるような者に変えてください。アーメン。」
と言うお祈りをしました。
最後に、聖書から、イエス様に出会って寂しさから解放された一人の人を紹介したいと思います。

ヨハネの福音書5:1-9
1その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
2さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
3その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。〔異本に三節後半、四節として、次の一部または全部を含むものがある。「彼らは水の動くのを待っていた。
4主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」〕
5そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

今日は、ハマルティアと、メタノイアを覚えてもらったと思うのですけどあと、もう一つ、「ベテスダの池」を覚えてくださったら、もう100点満点と思います。
聖書の中でも、とっても有名なところで、これから集会にもし続けてくださったら、何度も耳にされると思います。38年もの間、病気にかかってどんなに寂しかったことでしょう。
このヨハネの福音書5章には、4節がありません。写本が抜け落ちたのか、神様がそんなふうにされたのですが、一部の写本には、欄外に注があって、「最初にはいったものは、どのような病気でも癒やされる。」とあります。

自分で池にはいれないこの男は、今度は誰かが助けて池につけてくれるかもと思っても、誰も彼のことをかまってくれませんでした。
イエス様の方から彼に声をかけて、彼を押し出され癒やされました。
わたしたちも、自己中心とわがままと迷子の中で寂しさの中に置かれています。そんな私たちを、イエス様が見つけ、助け出してくださいます。

ああ、わたしも迷子だなあと思ったら、ぜひ、先ほど紹介したような祈りを祈り、イエス様のもとにメタノイアして欲しいと思います。
40年前に私が祈った祈りをもう一度紹介したいと思います。
「主イエス様、私はあなたを必要としています。私の罪のために十字架で死んでくださったことを感謝します。今、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えいたします。私のすべての罪を赦し、永遠のいのちを与えてくださり感謝します。私の心の王座で、私の人生を導いてください。あなたが望んでおられるような者に変えてください。アーメン。」

最後にウォッチマン・ニーって人の短いメッセージを紹介して終わりたいと思います。ある兄弟が英語から訳してくださいました。

ヨハネの福音書4:14
14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

外から入ってくるものは何であれ、人を真に満足させる役には立ちません。
しかし、もし誰かがキリストを受ければ、それは、その人の内で泉となり、その人は日々、満足を得ることができます。
人間に欠けているものは内なる満足です。

ある時、ある人が医師の元を訪れました。その人は医師に、なぜ人生は無味乾燥で、希望がないのかと尋ねました。
診察の後でその人は、医学的にはどこも悪いところがないと知らされました。そこで、その男はこれほどひどく落ち込んだ気分を癒してくれるものは何かないかと尋ねました。
医師の答えは、『人生を楽しみなさい。あのおもしろい道化芝居でも見に行ったらどうです?人を大笑いさせて、すごく明るくしてくれますよ』。すると、その男が言うには、『実は私がその道化師なんです』。

そして彼は続けて、『他の人を笑わせることはできても、自分は笑えません』。なんと悲しいことでしょう。
しかし、この世が与えてくれるのはこの程度のものです。
ほんのちょっと笑わせて、その時だけ喜ばせてくれますが、それで終わりなのです。

ほんとうに、わたしたちを寂しさから解放して満たしてくださるのはわたしたちの内にあるものではなく、救いは外からくる。
それがイエス様の十字架であると言うのが聖書の言っていることです。




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