あなたの寂しさとイエス様(応用編)


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2013/11/10)

引用聖句:ルカの福音書13章10節-13節
10イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
11すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
12イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、
13手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

昨日は、橋本家庭集会で、「寂しさとイエス様(基本篇)」についてともに学びました。今日は、「寂しさとイエス様(応用篇)」で学びたいと思います。
さて、最初に昨日の復習ですが、スウェーデンのおばあさんの日記のお話しをしました。スウエーデンは消費税を25%もとって、それを福祉に回して、たいへん福祉の充実した国ですが、あるおばあさんの書いた日記には、「お茶の用意をしたけど、今日も誰も訪問者がなかった。」と訪問者なしの記録が続いていました。
それは、とても寂しい記録でした。

それから大草原の小さな家のエピソードも紹介しました。
ウォルナットグローブで、ローラ達が友達になった病気のおばあさん。子供や孫が、それぞれ独立して遠くへ行って、もう帰って来てくれるのは、自分の葬儀くらいだろうと。それで生きているのに自分の葬儀をしてしまうと言う話しでした。
そのウソの葬儀に、ローラのお母さんのキャロラインや、チャールズ父さんや牧師さんやお医者さんのベーカーさんまで、村人総出演で、うその葬儀を助ける。この顛末は、おばあさんが生きてるのがばれて、「こうでも、しないと会いに来てくれなかったでしょう。」とおばあさんが叫びます。老いても寂しい、若者も、孤立しやすく寂しくなるのを恐れている。

昨日は、その人の心の寂しさやむなしさは、私たちが迷子になった姿で、そんな私たちを癒やし、を本当に満たしてくれるのは、イエス様しかいないと言うお話しをしました。
3つの単語を昨日覚えてくださいと言いました。ギリシャ語で、「ハマルティア」と「メタノイア」そしてイエス様に出会った人のヨハネの福音書5章の「ベテスダの池」の3つでした。
ハマルティアは、ギリシャ語で的外れのことで、聖書では「罪」と訳されています。

ベック兄が、「光よあれ」の巻頭メッセージの一つで書いてられましたが、この世全体が、病院のように多くの人が、心身ともに病んでいます。その寂しさやむなしさは、私たちが本来あるべき所から的外れに、方向違いで道に迷い迷子になってしまった。この的外れのことを「ハマルティア」と言い、罪の本質です。
みなさんは、迷子になったことがあるでしょうか。神様から離れ迷子になった私たちの様子を、聖書ではハマルティアと言うギリシャ語で表されていて、パウロがよく使う単語で、多くは「罪」と訳されています。
そして、「メタノイア」は、日本語では「悔い改め」と訳されます。メタがアフター。ノイアがマインドで、もう一度考える、考え直すって言う意味で、神様から離れた私たちが、神様へ立ち返ると言う意味で用いられています。

そして、ベテスダの池で38年間、寂しさの中にいた病人は、イエス様に出会い救われたように、聖書の中にも、わたしたちの周りにも、イエス様に出会って寂しさやむなしさから解放され、救われた証し人がたくさんいます。
どんなふうに、私たちは迷子からイエス様の小道へ帰ることができるでしょうか。
今日は、3つのステップに分けて応用編で、昨日の続きで学びたいと思います。

3つのステップとは、
1:ホップ、自分のありのままの姿を見つめましょう。
2:ステップ、悔い改めイエス様に帰りましょう。
3:ジャンプ、イエス様に信頼して日々歩みましょう。

の、ホップ、ステップ、ジャンプです。

1は、自分の姿をありのままに認めることです。孤独で満たされない心。神様から離れて、自分勝手な生活をしていること。
みなさんこの間、阪神系列のレストランのメニュー偽装の会見を見られましたでしょうか。芝えびと安いえびを使ったり、九条ネギを普通のヘネギ使ったり、霧島豚がそうじゃなかったり、どこから見ても偽装なんですけど、最初の会見で、偽装じゃない、偽装じゃないと社長さんが記者の質問に答えて、すっかり評判を悪くしたと思います。
あれも自分たちの置かれている状況が見えないのかなあと思いました。なんか中華料理のコックさんが出て来て、中国ではどんなえびも「芝エビ」と言うのよって、言うのもかえって印象を悪くしたと思います。

2,000年の雪印の低脂肪牛乳の中毒事件の雪印の会見を、みなさん覚えているでしょうか。会見の時間を打ち切ろうとして、記者に文句言われて「そんなこと言ったってねぇ、わたしは寝ていないんだよ。」と石川哲郎社長さんですけど、雪印にさらに批判が集中する。
自分の置かれてる立場って、見えないのんだなあって、わかりますよね。
危機管理の責任者。自分たちを客観的に評価できる人間が必要なのでしょうね。

自分たちの表現がどう受け取られるかもわからないし、自分たちの姿そのものがなかなか私たちはわからない。自分たちが、迷子になっていることが、わたしたちにはわからない。、
体の病気なら、健康診断でレントゲンや血液検査に、CTにMRIとどんどん診断技術が進みます。PETって、がん細胞が光って映るのもありますよね。赤ちゃんの超音波も、どんどん鮮明になっていきますよね。
でも、心が病んでいても、心が罪に沈んでいても、なかなか診断できません。まして自分ではわかりらずに、私たちは歩んでしまいます。

今、ちょうどサムエル記でダビデの生涯を読んでるのですけど、ダビデも自分が見えていないことが多かったのを覚えました。
ダビデは前半、サウル王に追われる大きな試練の中で神様に従い通しました。けれども、その試練も過ぎて、ほっとした時にとてつもない大きな罪を犯してしまいます。
部下のウリヤを無理に死に追いやり、その妻、バテシェバを奪い取ってしまいます。殺人、姦淫、うそつき・・・。最悪の罪を犯して、罪人になってしまいます。

それほどの罪人になりながら、平然とダビデは普通の生活を装っていて、預言者ナタンが登場します。
預言者ナタンは、貧しい人から羊を奪った男の話しをします。

サムエル記第II、12:3-7
3貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。
4あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」
5すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
6その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
7ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。

私たちは、なかなか自分がみじめで、愛が少なく、人を傷つけ、たくさんの罪を犯した者であることが見えないですね。自分自身が迷子になった的外れの道を歩む罪人であるっていうことを認めなければ、福音の扉は、開かれないと思います。
わたしたちは迷子の罪人になってしまうとき、イエス様はいろんな方法で私たちに語りかけてくださっていると思います。
その語りかけは、「あなたが、その男です。」「あなたが、そのどうしようもないみじめな罪人です。」って語りかけに思います。

わたしたちは、かたくなな、うなじのこわい者で、なかなか自分が迷子であること、道迷った罪人であることを認めようとはしません。あの食品偽装にしても、みんなはじめは誤表示です、ミスですと弁明しようとしましました。
ただ、私たちにとって幸いなのは、神様は、私たちを罪人にして罰したいと思っておられるお方ではなくて、ベック兄がいつも教えてくださるように、イエス様は赦したくて、赦したくて仕方がないお方。
そのために十字架にかかってくださったお方であると言うことに思います。

わたしたちは、とても恵まれた罪人で、情状酌量でもなくて、完全な身代わりが用意されていて、罪の清算がすでに完了していて、わたしは罪人ですと認めるだけで、そこに完全な赦しが用意されています。

2番目。ヨハネの黙示録の3章19節でイエス様は次のように語られました。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」、悔い改めは、心の方向転換です。日本語でも、悔いて、改めることです。ギリシャ語の原典では、メタノイアって、言葉が使われています。
メタノイアと言うのは、神様を信じないで、背を向けていた生活をお詫びして、神様を信頼する人生に方向転換をすることです。

秋の西宮家庭集会で、ある姉妹が証しされたのを、先週CDから落としてUPしてチェックするのに何回も何回も聞いたのですけど、ルカの福音書13章を引用されて語ったのが印象的でした。
これは、兄弟姉妹、みなに共通する証しではないかと思いました。

ルカの福音書13:10-13
10イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
11すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
12イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、
13手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

その姉妹は、次のように話されました。
「自己中心、傲慢、自己憐憫などなど、強い自我で腰の曲がった女は、私そのものです。そのような者でも、イエス様に呼び寄せられるとは、何よりも、うれしいことです。そして、呼ばれたときに、素直に自分を捨て、イエス様の御前に進み出て、主を体験し、主をあがめる女であることがきでるように祈り続けていきたいです。」
18年腰が曲がった女の姿が、私たちの姿であると聖書は語ります。自己中心と、傲慢と、自己憐憫、強い自我のわがままで腰が曲がっているのに、なかなか、その姿に私たちは気がつきません。

どんなに議論しても、お勉強しても、神学を極めても、その自分の罪に気がつくことはできません。
ベック兄が「上からの啓示」といつもおっしゃるように、イエス様が働いて示してくださる時、様々な不思議な方法を通して、私たちは自分の姿に気がつきます。
私は、自分のうちに自分を支えるものが何もないと知った瞬間を、今もはっきり覚えています。両親の闘病と昇天、家族の病気。私だけは倒れませんからと思っていましたが、睡眠障害になって壊れていきました。

自分で作った会社もいろいろたいへんな時期でした。秋だったと思うのですけど、発送して荷物を作らないといけないのに体が動かなくて、ぼうと玄関に座っていたら、運送屋さんが来て新年度用の見本を20箱くらい積み上げて行ったんですね。
その箱を前にして、動けない自分がいる時に、「ぽきっ」と音がして、私が壊れたのがわかりました。自分が壊れる時って音がするんですね。その日から今日までずっと、壊れたままに歩んでいます。
壊れた時に「ぽきっ」って音がするのを聞いて、その時に、自分自身のうちに自分を支えるものが何もないって、わかりました。あれが、上からの啓示ってことかなあと思います。

詩篇の61篇は、わたしの大好きな詩篇です。

詩篇61:1-4
1神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。
2私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。
3まことに、あなたは私の避け所、敵に対して強いやぐらです。
4私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。セラ

自分自身のうちに自分を支えるものが何もないって所に立った時に、はじめて本当に、「イエス様助けてください。」って、祈ることができたように思います。
私は、迷子の罪人ですって認めるところから、いろんな解放が始まると思います。
寂しさや、あせりや、孤独や、悩みや、いろんなことからの解放をイエス様は、私たちに体験させてくださると思います。

目の前の問題がなくなるわけではないけれども、そこに平安があると言うのは、「イエス様の幕屋」であり「イエス様の御翼の陰」ではないかなと思います。
腰が曲がっている自分に気がつかないで自分の力で歩むことは、とても苦しいことです。口先ではイエス様に頼ると言っていながら、自分の力でもがくことは、とても辛く、寂しく、しんどい事に思います。
イエス様はいつも、いろんなことを通して私たちに語りかけてくださっていると思います。その声を聴くことができるのは、やっぱりイエス様の上からの啓示が働いた時で、そのために、私たち自身のために他者により、多くのとりなしの祈りが捧げられるのではないかなと思います。

イエス様が働かない限り、啓示によらなければ、誰も自分が迷子の寂しい罪人であることを認められない。そのことをしっかりと知っていたなら、とりなしの祈りが生まれると思います。
親は子に対して、あるいはパートナーに対して、私たちは、とりなしの祈りをさておいて、教えようとしたり、しつけようとしたり無理をしてつまづきを与えてしまいます。
「神様は、見ておられるわよ!」って、小さい子を叱って、私たちは、愛の神様ではなくて、告発する神様の恐い歪んだイメージを与えてつまづかせてしまいます。

誰も、イエス様に示され啓示によらなければ、自分が迷子の罪人であることがわからない。ここに、とりなしの祈りの意味の大きさがあると思います。
ホップは、「自分のありのままの姿を見つめること。」ステップは、「悔い改めイエス様に帰りましょう。」そして、ジャンプは、「イエス様に信頼して日々歩みましょう。」です。
イエス様と共に歩む歩みは、本当に恵みに満ちた歩むです。

ヨハネの福音書14:6
6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

Jesus is the answerって、大好きな歌があります。こんな歌です。

Jesus is the answer, for the world today,
イエス様が、答えだよ、今日。

Above Him there's no other,
イエス様よりすごいものなんてないよ。

Jesus is the way.
イエス様が道なんだよ。

If you have some questions in the corners of your mind
and traces of discouragement and peace you cannot find,
心の隅がうずいて気分が沈んで落ち込んじゃって、
もう平安なんてどこにあるのって思うのかい。

Reflections of the old past,they seem to face you everyday,
すんでしまったことに気を取られて、それに目を向けて過ごしているのかい。

But there's one thing I know for sure that Jesus is the way.
僕が知るたった一つ確かなこと。「イエス様が道なんだ。」ってことだよ。

Jesus is the answer, for the world today,
イエス様が答えだよ。今日。

Above Him there's no other,
イエス様よりすごいものなんてないのさ。

Jesus is the way.
イエス様が道なんだ。

I know you've got mountains that you think you cannot climb,
山の途中で、もう上れないよって時があるよね。

I know your skies have been dark, you think the sun won't shine,
空は暗くて、日が照るなんて考えられないときがあるよね。

In case you don't know I'm here to tell you that the word of God is true,
君のために、みことばが真実だよって君に話すために、ぼくはここにいるよ。

And every thing He promised, I tell you He would do it for you.
君のために、イエス様は約束なさったことをなされるんだよ。

Jesus is the Answer, for the world today,
イエス様が答えだよ。今日。

Above Him there's no other,
イエス様よりすごいものなんてないのさ。

Jesus is the way.
イエス様が道なんだよ。

って、歌です。

イエス様だけに答えがある。そのことを知るために、わたしたちに、イエス様はいろんな試練をくださっている。イエス様の啓示って、いろんな形や体験で私たちに迫っていると思います。
いつも引用するヨナ書の2章で、「私のたましいが衰え果てるとき」で、私たちは、衰え果てる体験を通る事が、痛いけれども必要なんだなあと思います。

ヨナ書2:5-7
5水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
6私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
7私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。

次回、人間の寂しさとイエス様(補習編)の予告編になりますけど、わたしたちは、信じて救われてクリスチャンになって、寂しさから解放されると思います。でも、時には、クリスチャンなったら、もっと寂しくなっちゃったって体験もすることがあると思います。
ひとつはこの世から分離される寂しさであり、またひとつはクリスチャンの交わりの中でつまづく寂しさであり、イエス様を知った救われたと言って、そこに暖かいだけの散歩道が私たちを待っているわけではないことは、みなさん体験的にすでにご存知の方も多いと思います。
この世から分離されていく寂しさは、信仰生活の喜びが薄くなる時には、特に迫ってくると思います。ノン・クリスチャン、未信者の人達と同じように歩めないところに、むなしさや寂しさを覚えてしまいます。

補習篇でまた詳しく学びたいと思いますが、これは、私たちがこの世の中にあって、分離されつつも、とりなす者として立たされることを覚える必要に迫られると思います。
未信者、ひとりひとりのために、とりなしの祈りをする者とされるときに、未信者の中に置かれている寂しさから解放されるのではと思います。
そして最大の問題の、クリスチャンの交わりの中で体験する寂しさは、深い大きな問題があると思います。この問題は、イエス様の御前でへりくだること、同時に兄弟姉妹の前にへりくださることであると言う、交わりの中で小さき者となることによって、つまずきから解放されると思います。

私の集会は、素晴らしいと思っていたら、3時間でつまづくと思うのですけど、「すべての教会が傷ついて不完全で、天のエルサレムを待ち望んで歩んでいる。」、例外無しにすべての教会が不完全であると言う理解は、大きな助けになると思います。
すばらしい教会、集会なんて、はなから存在しない。みんな傷つき不完全です。その不完全さの中に、私たちは喜びを見出していかなければなりません。そのためには、小さくなることが一番の秘訣に思います。
このことは、また次の機会にゆっくり学びたいと思います。みなさん次回までの自由課題で、「主の前に小さくなるって、どう言うこと。兄弟姉妹の中で小さくなるって、どう言うこと。」って、みことばを開いて考えてみてください。

昨日と、今日、今回は二日かけて、あなたの寂しさとイエス様「基本編」「応用編」学びました。次回は、「補習編」を共に学ばせて頂きたいと思います。




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