あなたと寂しさとイエス様(発展篇)


高橋義夫兄

(大阪集会、2014/01/19)

11月の9日と10日と去年は、橋本家庭集会と礼拝と二回にわたって、「あなたの寂しさとイエス様」の「基本篇」「応用篇」を学びました。
3つのキーワードを覚えて頂いていますでしょうか。

ハマルティアは的外れで、本来あるところからはずれてしまった私たちの罪の状態でした。
メタノイアは、方向転換、悔い改めでした。メタ=after、ノイア=mindもう一度やりなおすってことでしょうか。それから、
ベテスダ。イエス様との出会いの経験でした。

わたしたちがこの地上で本当の平安がなくて満たされなくて寂しいのは、ハマルティアの罪の状態になるからでした。
そしてわたしたちは、メタノイア、悔い改めて信じて救われてクリスチャンになって、寂しさから解放されると思いました。
今日の問題は、・・・でも、時には、クリスチャンなったら、もっと寂しくなっちゃったって体験もすることがあると思います。

ひとつはこの世から分離される寂しさであり、またひとつは、クリスチャンの交わりの中でつまづく寂しさであり、イエス様を知った救われたと言って、そこに暖かいだけの散歩道が私たちを待っているわけではないことは、みなさん体験的にすでにご存知の方も多いと思います。
この世から分離されていく寂しさは、信仰生活の喜びが薄くなる時には、特に迫ってくると思います。ノン・クリスチャン、未信者の人達と同じように歩めないところに、むなしさや寂しさを覚えてしまいます。
そして、最大の問題の、クリスチャンの交わりの中で体験する寂しさは、深い大きな問題があると思います。

イエス様に従おうとして未信者の中で孤立してしまう寂しさと、信者の中で傷つく寂しさというふたつの問題があるんですけど、どちらも大きなテーマです。
前者の方は、またいつか「あなたの寂しさとイエス様発展演習篇」で考えたいと思います。
今日の発展篇では、信者の中で傷ついて、なおも寂しさの中に居るという問題について考えてみたいと思います。

(1)救われる人々の仲間

使徒の働き2:46-47
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

私達はイエス様に出会ったときに、目に見えないイエス様に赦され、愛されている恵みの他に、この地上でも、兄弟姉妹を愛し愛されるという御国を予兆する恵みにも預かれることは大きな恵みに思います。
けれども、この地上の恵みは、時として失敗して、兄弟姉妹の間で、そこに平安な交わりがなかったり、時には傷ついたりすることも多いように思います。
集会にたどりつかせて頂いてからも、集会の交わりで傷ついた方や、集会に来れなくなった方達が意外にたくさんいて悩んでらっしゃるのに接しました。

大阪集会はある程度人数が居るので、兄弟姉妹の交わりが傷ついても、ちょっと避けたりまだ逃げ場があるように思いますが、もっと少人数の集会は、そこで交わりが傷つく時、本当に逃げ場がなくてたいへんだなあと感じました。
その中で、もちろん多くの部分が、自分の内にある罪の心によるのでしょうけど、自分を責めるだけではなくて、前もって、地上の教会そのものが不完全であり、不完全でありながらも、そこに立てられていることを知っていることは、苦しむ時に、随分助けになると思いました。
また、この地上の交わりも、御国へ到るための学びの学校であり、その中で、祈り破れを繕う者として、私達が置かれていることを知っていることも大切に思いました。

ちょうど、1月12日の日曜日の朝の吉祥寺で、ベック兄が、集会に集う心構えについてメッセージしていてくださって、そのCDを聞いた方が、ずっと有益に思うのですけど、当番なので、共に学べたらと思います。
ベック兄は、わたしたちの見えない所で、悪魔が絶えず、救われた私達の喜びを奪おうとしてくる。わたしたちを巡って、イエス様と悪魔の霊的な戦いがあることを教えてくださっていましたが、私にはまだまだそのことはわかりませんので、地上での日々の交わりの生活について、学んでみたいなと思いました。
長く集う兄弟姉妹には、いま一度、恵みの交わりについて、新しい兄弟姉妹には、交わりの本当の恵みについて、考えるきっかけになったら幸いです。

(2)地上の教会は例外なしに、不完全

ヨハネの手紙第I、4:20-21
20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
21神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

教会には、愛の交わりがある。私たちがそう思いますが、私はその交わりが崩壊するのを二度ほど体験しました。
一度は、18歳の頃から、大好きで通っていた教会が、人数も増えていった時に、兄弟姉妹の間に争いがあるのを体験しました。役員会が教団審議委員会に牧師を訴えるような形になって、さらに牧師が、その訴えた役員を糾弾するような形になりました。教会の中で、謝罪とか、誹謗中傷とか言う言葉飛び交いました。
毎週、家庭集会みたいな感じの教会で、みんなで伝道したり楽しい教会でした。でも、その交わりが、壊れて、互いに裁き合ったりになったのはとても悲しい体験でした。

もう一つは、未信者の会社の中で悩んで、クリスチャンの会社に転職して体験しました。15人ほどでしたけど全社員クリスチャンがうたい文句の英語学校に就職しました。
最初は、社員研修がバイブルキャンプで、社内に社内牧師=チャプレンがいて、祈り会もあって、夢のようでした。でも、会社の業績が悪化する中で、互いに裁きあいが起こりました。
その会社は、チャプレンが退職するどころか、信仰を捨ててしまうということになって、リーダーだった社長夫婦も離婚に到るというたいへんなことになりました。

長く集ってられたら多かれ少なかれ、このような体験はされてると思います。これらの中で、学んだことは、そして助けになったことは、「地上の教会、集会、キリスト者の交わりは、例外無しに不完全で傷ついていて、傷つきつつ天のエルサレムを待ち望んで歩んでいる。」て、ことを知ることでした。
地上の教会、集会は、すべて不完全で傷ついているという理解は、大きな助けになりました。
すばらしい教会とか、すばらしい集会は、外面的に一時存在するかもしれませんが、イエス様は、わたしたちを、その中にずっと置かれることは少ないように思います。

イエス様は、地上のものに絶望する体験を通らされるように思いました。
地上のものに絶望することを通して私達は、イエス様だけに真実の愛があり、イエス様だけを求めるようにされるように思いました。
また、地上のものの混乱の中に置かれる時に、自分が、破れ口を繕う者として、立たされる訓練をも受けるように思いました。

エゼキエル書22:30
30わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。

私は、会社がそうなった時も、教会がそうなった時も、破れ口に立って祈る者ではなくて、当事者を批判して、破れ口を広げる者であったなあと思います。
教会や集会や大きな交わりであれ、家族や夫婦やもっと小さな交わりであれ、キリスト者の交わりがうまくいかない所に私達が立たされるときは、イエス様がきっと、わたしたちが、破れ口を繕う者として成長されることを望んでおられるように思います。
前にお証しした時にもお話ししたのですが、わたしは、他者を批判するのがとても上手な情けない人間に思います。牧師先生とよく喧嘩をしました。

その時の私の教会批判は、読んだ本の受け売りでしかないのですが、うちの教会では、中心と周辺が逆転している。イエス様の眼差しの中心にあるのは、いつも一番弱く、助けを必要としている者である。
この教会の中では、元気な人が、教会の中心に居座って頑張って、弱った人の居場所がない。要するに愛のない教会なんだって言うのが、私の批判でした。
この議論には、大きく欠落している部分があります。「教会の中心と周辺が逆転している。」という言い方もたいへん知的でちょっと本を読まないと言えませんし、「弱った人の居場所がない。」と言うのも、たいへん愛に溢れた議論のようです。

ちょっとメモして使ってみたいようなフレーズですが、この議論で欠落しているのは、その一番弱い、みじめな人って誰でしょうか?ってことに思います。
その時は、全然わからずに傲慢になって、群れを批判していたんですけど、一番弱くてみじめで誰かの励ましがなければ集会にたどりつけない一番弱い人は、あなた自身ではないかという語りかけを聞くことができました。

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ローマ人への手紙は、このみじめな7章24節を通らないと、25節の感謝に至らないように思います。

ローマ人への手紙7:25
25私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

(3)ディートリッヒ・ボンヘッファー

ちょうど教会でつまづいて集会にたどりつく頃に読んだ本で、ディートリッヒ・ボンヘッファーの「共に生きる生活」って本があります。
ヒットラーの時代のドイツの教会もひどいもので、ドイツ的キリスト者とか言って、優秀なゲルマン民族の教会とか言いつつ、隣人のユダヤ人が虐殺され収容所に送られるのを見過ごした。
そんな中で、ボンヘッファーは一旦アメリカに亡命するのですが、同胞と共に悩むべきだとドイツに帰って来る。そして、ただ無抵抗でいいのだろうか。他者を救うために暴走する車輪を留めるべきだと、ヒットラー暗殺計画の人達を援助しました。そのため捕らえられ、戦争が終わる1ヶ月前に絞首刑にされた方なんです。

「他者のための教会」というのと、「恵みとしての交わり」っていうのが心に残る言葉でした。その本で、「クリスチャンの交わりは、いつも危機に瀕している。」て言葉が大好きです。
私がこの世の会社をやめて、クリスチャンばっかりの会社に行くときに、兄弟姉妹はだいたい喜んでくれたのですけど、そのころ同学年の人が、「キリスト者の中で苦しむことは、時には、未信者の中で苦しむよりずっと厳しいことがあるんじゃないかしら。」ってアドバイスをくれました。
その時は、そのアドバイスの意味がよくわからなかったのですが、今はわかるような気がします。キリスト者から愛が落ちたら、何が残るでしょうか。それは、恐いですよね。この世の人は、「罪人」ですが、たぶん、愛が落ちたキリスト者って、「自分が正しいと思っている罪人」だと思います。

ボンヘッファーがこんなふうに言っています。
「キリスト者にとって、彼がほかのキリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは決して自明的なことではない。…教会が、この世において神のみ言葉と聖礼典のために、目に見える形で集ることを許されていることは、神の恵みである。」
キリスト者が集まったら、そこに自然に、自明的に愛の交わりがあるのではなくて、それは神様が働かれる恵みです。それはもっと言うと、そのために祈りを必要として、祈りの結果として与えられる。

(4)キリストの体とは

わたしの学生時代の聖書研究会の学友が何人か牧師をしてるんですけど、一番仲良かった友達が神学校へ行って、牧師になった時に、神学校の卒論で、エペソ人への手紙から教会のキリスト者の有機的結合とか言うので、よく自慢されました。
昔の大阪城の石垣は、ほんとうにちがうはぐな石が積み上がっていて、それがどうも、あの石垣が強い原因らしいんですね。
小さな石もあり、大きな石もある。違う石が積み上がっている。

エペソ人への手紙4:5
5主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

エペソ人への手紙4:13
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

エペソ人への手紙4:16
16キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

本当のキリスト者の交わり、教会の素晴らしさがここに表現されているんだなあと思います。
でもそれは、そこに集ったら自明のものとして自動的に与えられるのではなくて、恵みとして、わたしたちが祈り求めて与えられるものに思います。
日々私は、小さなトラブルを体験しますが、それも、そのための祈りの学校と思います。

(5)つまずかせる者

マタイの福音書18:6-7
6しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
7つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです。

わたしたちは、とてもみじめで悲しい者で、破れ口を繕う者になるどころか、ほんとうに、たくさんのつまづきを与え兄弟姉妹を傷つけて歩んでいる者に思います。
わたしたちには、修復する力がない。能力がない。そうしたら希望がないのかと言いますと、そうではなくて、それもまた祈りを学ぶ学校で、そこでイエス様に祈らされていくのだなあと思います。
自分の力で解決しようとすると、傷に塩を塗ることになってますます傷つけますが、イエス様に頼って祈る時に、私達は大きな回復と修復を体験できると思います。

私は、町内会の副会長をしてるんですけど、町内の民生委員さんが引退されて、やる人がいなくて12月から民生委員もしています。この木曜日にもクレオ中央で4時間の研修会がありました。
児童虐待とか孤独死とか、高齢者虐待とか、この世の縮図みたいな話しがたくさん出て来ます。で、研修で面白いなあと思ったのは、決して自分で問題解決しようと思わないで下さいと講師の皆さんがおっしゃる。
あなたに問題解決はできない。必要なのは、できることは、問題を拾い上げて専門機関へ「繋ぐ」ことと、「見守る」ことだけです。それから、決して無理しないように。

話しを聞きながら宣教活動と一緒だなあと思いました。
私たちの役割は悩む方々をイエス様に「繋ぐ」だけで、なんら問題解決にかかわれないし、かかわる能力を持たない。
そして見守ると言うのは、宣教活動では「とりなしの祈り」に通じるのかなあと思いました。

(6)マザーテレサ

マタイの福音書25:40
40すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

マザー・テレサが、天下茶屋に来たことを思い出します。1981年に東京に公演で来た時です。どうしても釜が崎の愛隣地区のホームレスに会いたいとおっしゃって、公演のあと、急遽西成に来られて、簡易宿泊施設に泊まられた後、雨の中、朝早くからホームレス街を歩かれたそうです。
その時、そのホームレスのおひとりおひとりは、私にとってキリストですからとおっしゃいました。
「私は一日に二度、イエス様と出会います。一度はミサの中で、もう一度は街中の貧しい人々の中で。」

この頃番号札で呼ばれるようにシステムが変わりましたが、私は抽選会のとき、よく「はい、次ぎキリストさんお願いします。」って「キリストさん」って呼ばれてたんですけど、兄弟姉妹、ひとりひとりの中に、キリストさんを見ることが必要なのかなあと思います。
前の時に、自由課題で、交わりの中で小さくなるってどういうことか、400字詰め原稿用紙2枚以上考えてみてくださいと言いました。信者の中のトラブルのほとんどが、交わりの中で小さくなることで解決すると思いますが、交わりの中で小さくなるということは、他者の兄弟姉妹の中にキリストを見るということではないかなあと思います。
その人が言いよったと思ったら受け入れられないことも、イエス様が許されて、イエス様がその人を通して語られたのかなあと思ったら素直になれると思いました。

愛の交わりは、祈って求めて与えられる。その前に、自分のみじめさも体験させられます。でも、少しづつその本当の交わりを体験していくことは、この地上でのキリスト者の生活の大きな恵みに思います。
地上の教会は不完全ですから、不完全ですから、その中で愛の交わりを与えられた恵みは、大きいのではないかなと思います。
買ったばかりの新車のエンジンがかかっても、誰も感動しませんけど、なかなかかからないエンジンがかかったら感動します。

元旦の吉祥寺集会で寺田正義兄が、「洗足の木曜日」で短いメッセージをしてくださいました。
お弟子の足を洗われたイエス様の態度が、交わりの中で私たちのあるべき態度かなあと思いました。

ヨハネの福音書13:5
5それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

残った問題、イエス様に従うほど、この世と摩擦ができて、この地上で寂しくなってしまうということについては、「あなたの寂しさとイエス様【発展・演習篇】で、学びたいと思います。




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