イエス様は良い羊飼い


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2008/08/24)

引用聖句:ヨハネの福音書10章1節-15節
1「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
2しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。
3門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
4彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
5しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
6イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。
7そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
8わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。
9わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
10盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

ヨハネの福音書10章は、前回学んだ9章から続いています。
はじめに私の好きなエピソードで、だいぶ昔にあるメッセージで聞いて、ラジオか何かじゃなかったかなと思うのですけど、励まされたお話しを紹介します。
タイトルは「教会を追い出されたジョージさん。」です。私の大好きなお話しです。

アメリカで旅をしいてる黒人のジョージさん。南部のほうを出稼ぎの旅だったのでしょうか。貧しい身なりで旅の途中でした。ジョージさんはイエス様が大好きでした。仕事が苦しい時、悲しい時、イエス様にジョージさんは心から祈ります。
さてある日曜日。イエス様を礼拝したい、賛美したいって、ジョージさんは、南部のある地方で教会を探したんですね。なにぶん初めての土地で、たくさん歩いてやっと教会を見つけました。

おりしも、鐘が鳴り礼拝が始まります。「ああ、良かった。」、そしてジョージさんは、その教会堂の玄関へ入りました。
「よくいらっしゃいまひた。一緒にイエス様を礼拝しましょう。」、ジョージさんはそんな言葉を期待したでしょう。
で、「おはようございます。」と挨拶しました。

タイトルから話しの先を想像されると思いますが、ジョージさんは、たたき出されるようにその教会を追い出されました。
「ここは、おまえのような薄汚いやつの来る所じゃない...」、荷物も掘り出されました。たぶんお金持ちの裕福な白人の人達が正装して集う教会だったのでしょう。
ちょっと場違いな教会に入っちゃったのでしょうか。

ジョージさんはとっても悲しくなりました。もうここから次の教会を歩いて探す元気もないな。仕方ないから、どこかで静かな木陰でイエス様をひとりで礼拝しようかなと、ある木陰をやっと見つけて聖書を開こうとしました。
そしたら、ジョージさんの肩を叩く人がいたんですね。「お前も、あの教会に入れてもらえなかったのかい。」
その人を見上げると、その人が言うんです。「ジョージ、わたしもあの教会には入れてもらえなかったんだ。」

話しの流れでおわかりになった方もいると思うんですけど、ジョージさんと同じようにその教会から追い出されて、その教会を悲しそうに見つめていた。ジョージさんの肩を叩いたお方は、イエス様だったんですね。
立派な鐘の鳴る礼拝堂。お金持ちがたくさん集まる教会。ネクタイを締めて立派な服装の人達が集まる教会。そこは、イエス様を礼拝する場所だったはずなのに...
でも、その教会が追い出していたのはイエス様だった。イエス様は教会の中にではなく、教会の外におられた。その教会は、イエス様を追い出して、礼拝してたんですね。

取りようによってはただの笑い話しなんですけど、私はとても印象深く心に深く残ったお話しでした。。
現実に教会の中にイエス様がいらっしゃらなくて、教会の外にイエス様がいらっしゃるということが起こりえる。信仰者の群れの中に起こっている、起こってきた現実があるのだと思います。
そこに命があり、喜びがあり、羊飼いなる主がいらっしゃるはずの群れにイエス様がいない。命がない。イエス様が追い出されている。

聖書を開きながら、今年のシリーズでいつも学ばせて頂いたテーマのひとつは、この地上で、この世の中で、あるいは信徒の群れの中でさえ、中心にあるものと周辺にあるべきものが逆転しているということでした。
イエス様の眼差しの中心にいつもあるのは、一番痛んでいる部分、一番苦しんでいるひと。一番弱い部分。
それこそ福音書の中のイエス様の眼差しの中心に、いつもあったものであることを、福音書を開けばわかります。

けれども、律法学者やパリサイ人や当時の既成宗教家とイエス様が対立されたように、イエス様の目の前で当時も、そして現代も起ころうとしていることは、この世的に強い偽物の羊飼いが中心にすわって、助けを必要とする羊がとまどい苦しんでいる。
ヨハネの福音書9章で、イエス様が生まれつきの病人を癒された時も、出てきたのはパリサイ人でした。

ヨハネの福音書9:16
16すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。

彼らにとって何が大切だったのでしょうか。パリサイ人の宗教が大事だったように思います。
癒された盲人を引っ張り回し、両親を呼び出し、会堂から癒された青年を追放してしまうパリサイ人に、なんの愛があるのでしょうか。

ヨハネの福音書10:1
1「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

イエス様は、パリサイ人のことを偽の羊飼いだ。彼らは羊飼いどころか、盗人で強盗だと激しく非難されました。
イエス様の足元に小さくなって憐れみを請う者に、イエス様が憐れみと恵みに豊かに富んで望まれるのに、自分を自分で義として先生になって人を裁こうとする者に、偽の羊飼いに対して、イエス様が本当に厳しい、容赦ない表現をされ、糾弾されるのを覚えます。

ヨハネの福音書10:10
10盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。

彼らは頭の良い人達で、この世的にも地位も身分もあり、尊敬も受けています。時には彼らについていくことが、幸せに見えることがあるかもしれません。
でもイエス様は、彼らにせ羊飼いの態度をつぎのように描かれました。盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためです。
とても厳しい表現が、にせの羊飼いに使われています。

ヨハネの福音書10:12-13
12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

パリサイ人に聞こえるように、イエス様は偽羊飼いの実体を描いて語られました。
この立派な羊飼いについていったら大丈夫と思っていると、その羊飼いは本当に危険が迫り、危なくなくなると自分は逃げて行ってします。
いつのまにか信仰から命がなくなってユダヤ教という既成宗教になって、信仰者であるより宗教家となった者に、イエス様は容赦なく語られました。あまりの厳しさに、20節をみると

ヨハネの福音書10:20
20彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」

ヨハネの福音書は11章で、ラザロの復活という一番大きな奇蹟が起こります。その事件の前に、もうイエス様と当時のユダヤ教指導者や、自分を義とする会堂の人々との間の対立が、ここまで激しくなっているのを覚えます。
パリサイ人、律法学者、祭司たち。イエス様は、時の宗教家たちにここまで厳しく非難の言葉を向けました。
彼らは信仰とは反対で、結局人々を律法で縛り付けました。

ヨハネの福音書9章で起こったように、病気や障害や生い立ちから人々に罪人の烙印を押し、切り捨てていました。
神様から与えられた命を傷つけ、魂を縛り付け自由を奪いました。そんな宗教者はまさに、盗人、強盗だ。
マタイの福音書23章では、イエス様は、「忌まわしいものだ偽善のパリサイ人、律法学者よ。」と叫ばれます。

さて、今まで偽羊飼いについてイエス様が語られたことをみました。13節で、「本当に羊のことを心にかけていない。」、と彼らの特徴をイエス様は言い切られました。
そして後半、良い羊飼いについても語られました。そのところを少し見てみたいと思います。
「命を与える良い牧者」として、とても大事なところです。

パレスチナの羊飼いは完全な放牧でもなく、また囲いのある牧場にいつも羊を囲っていたわけでもない、半遊牧生活だったそうです。
羊飼いは50〜100頭の単位の羊の群れを追って、おいしい草のあるところを旅していきます。
羊は弱い動物なので、一頭だけでいたらすぐに狼や野獣に襲われて滅んでしまいます。羊飼いの役割は、羊を一つの群れに集め、狼や盗人から羊を守り、おいしい草のあるところに羊を導くことでした。

緑の芝生に牧場に柵があり、門があって羊はずっとその中にいるというのではないのです。
ただ、夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごしたとも言われているそうです。
朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたといわれます。

こういう当時の実際の羊飼いの生活を思い浮かべながら、イエス様は良い羊飼いについて語られています。
2節で、良い羊飼いは、自分の羊をその名で呼んで連れ出します。ムチでもってマークつけた羊を、こっちこっちって連れ出すのじゃない。
メリーちゃん、キャロルちゃん、ミッキーちゃん、ジミーちゃん・・てちゃんと羊に名前をつけていた。名前で呼ぶって言うのは、とても愛されている証拠です。

イザヤ書45:3
3わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

「あなたの名を呼ぶ方」とされている。
ベック兄はよく、神様にはいっぱい名前があるから、聖書から神様の名前を探してご覧なさいとおっしゃいます。今日、覚えて帰りたい神様の名前は、「私の名前を呼んでくださる方」です。
ヨハネの黙示録にも、その名前が決して忘れられないといううれしい約束があります。

ヨハネの黙示録3:5
5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

私は英語はわかりませんが、最近はPC翻訳してくれるので、英語の聖書サイトとかよく見ています。
それで、よくイエス様は個人的に私たちを知ってくださいます。individualって単語がよく出てくるのに気がつきました。よく出てくる単語なので、興味を持って調べてみました。
この単語の語源は、つぎのようになっていました。

divide:分ける。割る。

individual個々の。個人の。

in(否定の接頭語)+dividu(分ける)+al(形容詞の語尾)=分けることのできない。

10人の人間は分けることができるが、一人の人間は分けることができない。もうそれ以上わけられない。
たった一人のあなた。たった一人の私。個人的に、個人的に、私の名を呼んでくださる。
良い羊飼いは、名前で呼びかけ個人的に私を知っていてくださる。

高校生のHiBAのQ&Aとかで、高校生のよくする質問で、何十億って人がいて、どうして神様がこのたった一人の私を顧みられるのですか?って、ありました。
本当に、ただただ不思議で、人間の知恵では理解できたり説明できたりできませんが、みことばは、わたしたち一人一人の名を呼んでくださる羊飼いがイエス様であると語ります。
14節では、「わたしは、わたしのものを知っています。」と表現されています。それから、良い羊飼いの一番、大事な一番大きな特徴は、11節に書かれています。

ヨハネの福音書10:11
11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

偽羊飼いは、羊に危険が迫ったとき一番に逃げていく羊飼いでした。でも、本当の羊飼いであるイエス様は、私たちのために命を捨てて下さる羊飼いであると語られます。
命を捨てるほど、私たちを個人的に顧み愛してくださる羊飼いが共に歩んでくださる。

この夏の御代田で、ベック兄は一番はじめに、嵐の湖でイエス様が一緒に乗っておられる船でおじまどう弟子達の姿について語ってくださいました。
私を個人的に知り、私のために命を捨ててくださるイエス様が共に歩んでいてくださる。そのことを信頼したら、なんと大きな恵みでしょうか。
そのことを心から信頼できたら、どんな出来事か来ても平安があるに違いありません。

ヨハネの福音書10:10
10わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

本当の羊飼いに出会うことの恵みをイエス様は語られました。でも、私たちもそうでしたけれども、集会でイエス様に出会われた多くの方々のお証しを聞いても、本当の羊飼いに出会うまでに、私たちの心が準備されるために、偽の羊飼いに絶望して傷ついたり失望したり、また傲慢な自分が砕かれる時を、イエス様は用意してくださるかもしれません。
その中で私たちに良い羊飼いに出会う用意が調えられ、良い羊飼いがいなければ一歩も歩けないことを知っていくのではないでしょうか。
私の名を呼んでくださる羊飼い。私のために命をも捨てる覚悟で守ってくださる羊飼い。私に命を与え、その命を豊かに保つように導いてくださる羊飼い。

その羊飼いに、頼り切って、歩ませて頂きましょう。




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