大胆に罪人でありなさい


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2012/11/10)

引用聖句:エペソ人への手紙3章12節-13節
12私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
13ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。

うちの一族に流れる血は、とっても恐がりの血です。恐がりは祈れるので恵みではありますが、もっと大胆に自由に出て行けたら楽しみも大きいです。
USJにあんなに楽しい乗り物があるのに、見てるだけみたいに、人生にも信仰生活にも恵みがいっぱいあるのに、恵みを取り損ねていることがあるように思います。
それは、信仰の面でも、人生の面でも、わが家は、ダイナミックスさに欠如する部分があると思います。

ときどき、天国にたどりついて、地上の生活をふりかえった時、私は、どんな思いでふりかえるだろうなあと想像するのですけど、私の場合はきっと、「失敗した。」と思うのではないかと思います。
天国に行ったら、どんなに赦しが大きくて、恵みが大きくてイエス様に保護されていたかとわかると思うのですけど、地上にいる間、なんとおっかなびっくりの信仰生活を送ったことだろうと、くやしくなるような気がします。
今、もっとイエス様に信頼して歩めたら、もっと平安に堂々と歩めたら、いつもそんなふうに反省します。もっと大胆な信仰生活ができたらといつも祈らされます。

「大胆」って単語は、聖書に21回も出てきます。心配についてメッセージした時にもひょっとしたら紹介したかもしれないんですけど、復習してみたいと思います。
使徒の働きに8回も出てきます。あと、13回新約聖書の書簡に出てきます。4つ開いてみましょう。

エペソ人への手紙3:12
12私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

へブル人への手紙4:16
16ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

へブル人への手紙10:19
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

ヨハネの手紙第I、4:17
17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

敬愛する兄弟姉妹の中にも本当に大きな試練の中でも大胆に歩んでられる方々も多くて、そのような方々を見、また証しを聞くたびにあこがれを覚えます。わたしもどうしたらあんな風に大胆な歩めるのだろう。そう思い願わされます。
でもきっと、本当にわたしたちも、もっともっとイエス様のみそばに立つとき、もっと大胆に、生き生きとした信仰生活が送れるのではないでしょうか。
同時に聖書が何度も何度も「大胆に」とこだわって私たちに語りかけるのは、わたしたちが、どれだけ大胆になれない弱い者、小心者であるかを、イエス様がよくご存知でいてくださると思います。

ここで、少し視点を変えて、私たちが大胆に生き生きとした信仰生活が送れなくなっている障害、大胆になれない理由を、自分自身の悔い改めを含めて考えてみたいと思います。そして、私たちの中のゆがみを考えてみたいと思います。
ひとつは、福音の中心を、わたしたちがまだまだ理解できていない。そしてもうひとつは、イエス様の救いの完全さを理解できていない。
私たちは、福音がなんであるかをまだよくわかっていません。

エペソ人への手紙2:8
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

このみことばの意味を本当に知ることができたら、もっと自由に生き生きと歩めるように思います。
私たちは、イエス様に出会って救われます。その時、値なしに恵みによって救われたことを多少なりとも知っていたはずでした。私たちの払いきれない、追い切れない罪の負債をイエス様が十字架で払ってくださった。恵みによって救われたことを承知して、この道に入ったはずでした。
でも、信仰生活が進むうちに、私たちのうちにはすぐ歪みが生じてしまいます。それは端的に言うと、やっぱり良い子のクリスチャンでないと、立派なクリスチャンでないと救われないのではないかと思ってしまいます。

家庭集会を開いていて、敬愛する兄弟姉妹がお家に泊まって、みなさんが帰ってから、メッセンジャーをひとりじめしてお交わりさせて頂いたのもたくさんの恵みです。
酒井千尋兄がお当番で泊まってくださったとき、お話ししたのですけど、集会の冊子の「主は生きておられる」創刊号が出た頃で、創刊号で「レフト・ビハインド」って、映画を紹介されていました。
それは、空中再臨が来て、イエス様を信じる者が天国に引き上げられるって映画なんですけど、「私も引き上げられる恵みに感謝します。そして、この地上に居る間にもっと伝えよう。」って反応があるだろうと思ってたそうなんです。

そしたら、救われた兄弟姉妹の中で意外に多かった反応が、「わたしは大丈夫かしら。ある日、空中再臨でみんないなくちゃって、私だけ、残されるんじゃないかしら。」って反応が多かったそうなんですね。それは、意外な反応だったって、お話しをしたのを思い出します。
冷静に考えれば、そんな反応はおかしいとわかると思います。よい子にもなれない、立派にもなれない、どうしようもない。愛もなく人を傷つけ救われよう者だったから。ただ、主イエス様の十字架のもとに来たから、十字架の血潮で救われた。わたしたちはそのことがわかって、イエス様のみもとに来て救われたのではないでしょうか。
でも、キリスト者の交わりの中でさえ、その中心がずれてきてしまいます。もっと祈るクリスチャンでなければ、もっと頑張るクリスチャンでなければ。もっと、周りや家族が救われるクリスチャンでなければ、だめじゃないでしょうか。本当に私は、救われてるのかしら。そんな不安な歩みをしてしまいます。

わたしは、集会広場ってメーリングリストの雑用係をして、病気で集会にあまり集えないとか、周りに集会がないとか、あるいは人間関係のつまづきがあって、集会に来れなくなったとか、言う方々とメールのやりとりもあります。
集会に行きづらいと言う方から、よく聞く言葉に、「みなさんは、あんなにしっかりと立派に信じてらっしゃるのに、私は、自分を見るととてもついていけないし、入っていけない。」っておっしゃるんです。
集会に集っている人も、一皮むくと、なかには、一皮むかんでも、みなさん例外なくぼろぼろのみじめな者なんですよって、お返事します。

富山の喜びの集いにだいぶ昔に参加した時に、芸術家系の兄弟姉妹がなんとくたくさん集まって、前で演奏したりしてくださって。その時のメッセージでベック兄が、「イエス様は、変わった人大好きだからね。だめな者が、大好きだからね。」と言われて、会場がみんな笑ったのを思い出します。
福音の本質がわかったら、イエス様がお迎えに来たときに、「わたしはひとり、お前はちょっとだめだね。」って置いて行かれるのではなくて、「だめな者が大好きなイエス様は、わたしを一番に迎えに来てくださる。なぜなら、お前は、自分がだめで、十字架の血潮以外に救いがないと、知っているから。」っておっしゃってくださるって、確信が持てたらとても平安で素晴らしいですよね。

このことがわかってないと、わたしたちは立派にならなければ、立派なクリスチャンにならなければと、お肉で頑張るクリスチャンになってしまうと思います。
私も失敗の歩みをしました。お肉の熱心に陥ると、次第に人はその中で何かをしていないと、何かを達成していっていないとちゃんと救われていないように思ってしまいます。また、熱心が純粋な信仰に基づいていたら良いのですけど、肉的な宗教的熱狂と呼べる熱心になるとき、人を傷つけるものになると思います。
ほんとうのイエス様への熱心は、御霊の実を結んで、周りをほっとさせて、幸せにするものと思いますが、宗教的熱狂は、かえって周りの心を閉ざして、福音に対して開かれそうな心も傷つけます。

一方、本当に敬愛する、主の恵みの中に立っている兄弟姉妹のそばには、共にいてこちらも安らぎがあると思います。いま話したように人はすぐ歪んだ熱心の中に立たされ、歪んだ熱心の中で頑張っている兄弟姉妹のそばには、平安がありません。
私も他者に平安を与える事より不安を与える者でした。わたしたちは、ついつい自分たちが何をしたかを考えてしまいます。でも福音は、イエス様が私たちに何をしてくださったかをまず語ります。
そう言ったことを悔い改めつつ考えつつエペソ人への手紙1章7節を開くとなんと大きな恵みでしょう。

エペソ人への手紙1:7
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

イエス様がお迎えに来たら、わたしは残されるのじゃないかしら、レフトビハインドで残されてしまうのじゃないかしらって、あまりにも初歩的なところを抜け出して、わたしたちはこんな私が救われましたって、大胆に証しする者になれたらと思います。
わたしたちは、どうしようもない者であったこと。そしてイエス様の十字架によって救われたこと。歪んでしまったら、その十字架の御許に帰るとき、わたしたちは不安や、歪んだお肉の熱心や、疲れや、偽善や、パリサイ人化から解放されるのではないでしょうか。
どうしようもない者であるからイエス様に救って頂いたのに、よく私たちは、何かにつけ、いえいえ私はどうしようもないキリスト者の落ちこぼれですと間違ったへりくだりに立ってしまいます。私たちはどうしようもない者ですと言うとき、イエス様は、吉本新喜劇風に言えば、「そんなん、イエス様、100万年前からご存知ですよー。」てことになると思います。

わたしはみじめな者で、立派なクリスチャンの集われる皆さんの集会に行けないって方に、たまに私は言うんです。「だったら、大阪集会に来てみてください。例外なしにみんなぼろぼろですし、みんなの家族もぼろぼろですよ。メンバー一覧を出して、ひとりひとりどんなに一家族一家族、どんなにぼろぼろか、納得できるように私、説明さしてもらいます・・・。」って半分冗談で言うんです。
でも、落ち込んだ時って福音を見失う時って、みんなが立派で、自分だけがぼろぼろでみじめに見えるんだなあって、お話ししていて思います。
わたしたちが、どうしようもない者だから救ってくださった。そこに帰ったら、なんと平安なことでしょうか。

今日は、もうひとつの点も見たいと思います。わたしたちが歪んでしまう理由のその2です。
私たちはイエス様の十字架の救い、十字架の赦しの大きささを理解していません。

コロサイ人への手紙2:14
14いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

学生時代は、聖書研究会やキャンパス・クルセードで全国各地で、たくさんのバイブル・キャンプに行きました。
和歌山の淡輪の教会に昔合宿所があって、そこで合宿したときに、メッセンジャーの方が、誰にも見せなくていいですから、自分の罪の債務証書を作りましょうとおっしゃいました。そして、そのキャンプ場で、みんなで火をつけて、その債務証書を燃やして、コロサイ人への手紙を実体験しましょうと言うのがありました。
イエス様の前に、私は罪人ですと歩みでたら、イエス様はすべてを赦してくださる。わたしたちは、かけがえのない絶対的な赦しを受けることができ、わたしたちの債務証書はみんな無効になって消え去ってしまう。それが事実であるのに、そのことについてわたしたちは、こんな私は赦されないと、ついついまたまた心配してしまいます。

前に一回紹介しましたが、3世紀ころの教会でとても面白い風潮があります。みんな洗礼を死ぬギリギリまで受けないんです。ちょうどコンスタンチヌスの時代と思うのですけど。なんでかと言うと、洗礼まで受けて罪を犯したらたいへん。もう今にも死にかけぎりぎりに洗礼受けたら、もうちょっと御国に行くので洗礼受けてから罪を犯すこともないでしょうって。
いったい誰がこんな阿呆なことを思いついたのでしょうか。でも、ローマカトリック教会の初期にまじめにこんなことが行われていたんですね。
もし、悔い改めてへりくだって、神様に立ち返るなら、何度でも神様は赦してくださるお方であることを、聖書を読めば私たちは頭では理解できます。でも実際の生活の中で、わたしたちは、ついつい神様の大きなご愛を小さく小さくして理解してしまいます。

先ほども言いましたが、信仰生活で一番大切なことは、わたしたちが何をしたかではありません。神様が私たちのために何をしてくださったかです。そしてその答えは、イエス様の十字架です。
イエス様がわたしたちの身代わりに血を流してくださった。そこにすべてがあります。イエス様の血潮によって赦し得ないものはありません。わたしたちは、その十字架を信じる者として立ったはずです。わたしたちの信仰がゆらぐとき、歪むとき。もう一度罪人として立ち、イエス様の十字架の御許に戻ることが必要に思います。
わたしたちは、上手に他人に対して罪人になって見せることができます。

イエス様は、人を憎む心は、殺人と同罪だと言う意味をおっしゃいました。醜い心を持った私たちは、殺人者と同じ大きな罪人だと思います。
もし、たとえばの話しですが、実際に殺人の罪を犯した者がこんな証をしたらどうでしょうか。彼は、殺人の大きな罪をかくして、そのかわりコンビニでお菓子を万引きした罪を告白します。「みなさん、わたしは先日出来心で、シューってシュークリームを万引きしてしまいました。でもその罪を悔いて告白します。イエス様赦してください。」
周りで、聞いている人には隠した罪はわかりませんから、私たちは、「ああ、なんて正直な告白でしょう。」って拍手します。

どうして彼は、本当の大きな罪を告白しなくて、小さな誰でも犯してしまうような罪を例に出して、逃げようとするのでしょうか。それは、赦しの大きさを知らずに恐いからかもしれませんし、ひょっとしたら、自分の心の大きな罪を、自分で知らないのかもしれません。
わたしたちは証しの場に立たされるとき、上手に罪人になってしまっていることが多いのかもしれないと思います。そしてイエス様以外、上手な罪人を見破ることはできません。でもイエス様は、私たちのすべてをご存知で、そして、すべてを赦すために2,000年前にすでにゴルゴダの丘で十字架にかかってくださっています。

今ふりかえって、昔の自分って、自分の罪の大きさとか、深さとか、何もわかっていなかったなあと思います。ひとつひとつ試練や訓練を通して、わたしたちはますます自分の罪の大きさを知っていくと思います。また、来年になって、今年の今の自分をふりかえったら、同じように思うかもしれません。
クリスチャンは、召されるその日まで、この地上にいる限り、不完全なものとして罪の性質をひきづっています。わたしたちは生きてる限り、明日は今日よりもっと罪深い者として、私を認識していると思います。でも、自分の罪の深さだけ知っていったらたいへんなことになります。
もしイエス様の十字架が、過去も、現在も、未来もすべての罪を赦しておつりがくるほど恵み大きいものであることを知らなかったら、とても悲惨なことになってしまうと思います。

上手に罪人になってるような、世間受けの良い、にせクリスチャンであることをやめて、わたしたちは大胆に本当の罪人である自分に向き合って、十字架の前に立って、その自分の罪を身代わりに背負って血を流してくださった方のことを考えてみたいと思います。
これも前に一度紹介したと思うのですけど宗教改革の時代の話しです。信仰だけに帰ろうの1517年10月31日にスタートするドイツ宗教改革の嵐も、1525年頃には急進派や異端まがいや、いろいろ出てきてぐちゃぐちゃになります。
ルターは、ワルトブルグにかくまわれてドイツ語聖書の作成に入ったころ、ウィッテンベルグには、メランヒトンが残されます。あせった急進派が、せっかくの改革をぐちゃぐちゃにし、メランヒトンもどうして良いかわからない。そんな時、ワルツブルグからルターがメランヒトンに書いた有名な手紙が残っています。「大胆に罪人でありなさい。」っ手紙です。

「「フィリップ・メランヒトン君へ
あなたが恵みの説教者であれば作り物の恵みでなく、本物の恵みを説教しなさい。もし、それが本物の恵みであれば、作り物のの罪ではなく、本物の罪を追いなさい。
神は作り物の罪人を救いたまいません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、大胆にキリストを信じなさい。マルチン・ルター」

大胆に罪人でありなさいは、誤解を受ける表現ですが、ありのままでイエス様の所に行きなさいということに思います。
罪人でありなさいとは、上手に罪人になって本当に自分の罪、自分の醜さを隠すのではなくて、イエス様の十字架によってしか払いきれない負債を負った者であることを認めなさいということに思います。
とても素敵な手紙です。

最後に今までのことをふりかえりつつルカの福音書15章の有名な放蕩息子のベスト・シーンを読んで終わりたいと思います。
3節だけですのであと少しおつきあいください。

ルカの福音書15:18-20
18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

イエス様のたとえ話の中で、放蕩した息子は、苦難の中で自分のために気がつき悔い改めます。放蕩息子が、まだ家まで遠かったのに、父親、これはわたしたちの神様が父親にたとえられていますが、息子を見つけます。
きっと、いつ帰ってくるかとずっと待っていたと思います。そして走り寄ったのは、放蕩した罪人の息子の方ではなく父親でした。イエス様は、わたしたちが、何もかも裸になって、醜いままになって、十字架のみもとに来るのを待っておられると思います。
ここまで赦してくだる神様であることを知るとき、わたしたちは、大胆に、日々を歩むことができはじめるのではないかと思います。そして、生き生きとした新しい歩みを、歩むことができるように思いました。




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