引用聖句:コリント人への手紙第I、1章27節
3月は、ほんとうに弱められました。でも、いろいろイエス様の憐れみも覚えて感謝でした。 いつも、私自身が学びたいことをテーマに選ぶのですけど、今日は、「弱さの中に働かれるイエス様」と言うことについて、少しの時間、共に学べ恵みに預かれたら感謝だなあと思います。 前回のテーマとも重なるのですけど、前回は、神様が私たちに休止符をくださる時があると言うことについて学びました。最後に山口博子さんの詩を紹介しましたけど、もう一度、復習してみたいと思います。 前回おられなかった方のために少し説明しますと、ゴスペルシンガーの山口博子さんは潰瘍性大腸炎という難病にかかり、10回以上の入退院を繰り返したそうです。人生に失望した彼女が、ラジオ番組を通して聖書に出会い、教会に行き、神を信じるクリスチャンになりました。 その結果、ご自分の病気の中にも最善にはたらいて下さる神のご計画を信じ、次のような歌を作りました。 『「時を忘れて」 目を閉じなければ見えない世界がある 口を閉じなければ言えない言葉がある 耳を塞がなければ聞こえない声がある 歩み止めなければ会えない人がいる 少しぐらい遅れたとしても 大切なものを見つけたいから 道であり真理であり命である主に 尋ね求める時を忘れて』 本当に私たちは愚かな者で、元気に歩んでる時、順風満帆の時って、逆にたくさんのものが見えなくて、たくさんのものが聞こえなくて過ごしているんだなあと思います。 それが、神様が、失敗であったり、病気であったり、意に沿わないことかもしれないけど、強制的に休まされる時に、見えることがあるのかなあということも前回学びました。 大好きな方が多いと思います有名な聖書の箇所で、「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」の箇所を見てみたいと思います。 列王記第I、17:9-16
ずっと今まで、私はこの御言葉を信頼してて、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならいと告白できていると思ってたのですけど、今回、いろいろ弱められて、「ああ、本当に自分の中に、イエス様に信頼しきれていないことがたくさんたくさんあったなぁ。」ということを示されました。 きっと私は、かめの粉は尽きずと告白しながら、まだ自分のお肉の力が残っていて、自分で粉と油を捜して、継ぎ足していたように思います。神様がだいじょうぶと言ってるのに、自分で肉の力で、かめに足してるんですよね。 粉と油を調達して、自分に粉を集めて、油をしぼってくる力が残っていたら、かめに粉と油を自分で足してしまうから、「かめの粉は尽きず」って本当の恵みは体験できていなかったと思います。 このやもめさんも、本当に弱められた人だったと思います。ぎりぎりの絶望まで追いやれていたんですね。 列王記第I、17:12
自分の力での希望をなくした時に、神様の希望に出会いました。自分の力で希望をなくす。弱められるって言う、痛い、ベック兄の表現だと面白くない体験が、ですから必要なんだろうなあと思います。 よく水難救助で、溺れてまだ力があってもがいている人を、素人さんが助けようと安易に近づいていったら危険だと言われますよね。しがみつかれて、助けにいったこちらも一緒に溺れてしまう。元気にもがいている間は、助けられない。 私たちが、イエス様の恵みを本当に体験できないのは、まだまだ自分の肉の力で自己解決しようと、もがいているからかなぁと思いました。 こんな話しをしていると思い出すのが、出エジプトの荒野で、天から降ってきたマナの話しです。 出エジプト記16:17-20
これ読んでいつも思うのですけど、私だったら、絶対、明日の分も集めてしまうだろうなあと思います。神様は、その日に必要なものが毎日マナとして、不思議な食べ物が降ってくるとおっしゃいました。 でも、いま目の前にマナがいっぱい降ってきてて、明日もマナが降るって保証はどこにもない。 でも、すごく不思議なことに、朝まで残しておいたマナには、虫がわいて悪臭が湧いて食べれなくなった。 脱線しますけど、マナについて、もっと不思議なのは、週末には、違う種類のマナが降ったと書いてあります。それは、「週末スペシャルマナ」 マナには、一日しかもたない「平日スタンダード・マナ」と安息日の前に降る二日保存できる「週末スペシャル・マナ」スタンダードとスペシャルの2種類があったと聖書に書いてあります。 そしてスペシャル・マナは、一日おいても虫がわかない、一日保存できるマナだった。それは、安息日にマナを集めなくて良いように降った。 列王記第I、16:22-24
このマナの箇所には、おちがあって、7日目にはマナは降らないと神様はおっしゃってるのに、ちゃんと集めに行ってるあほな人がいるのですね。 これが、わたしたちの姿かもしれないんですけど。 列王記第I、16:27
ほんとうに、この必要以上に保存したり、七日目にも集めに行ったりした「民の中のある者」って、愚かな私たちの姿を示されているように思います。 私たちって、必要以上に肉がまだまだ元気で、かめの粉や油を自分で捜してきて足してしまう。マナが降ったら、必要以上に明日の分まで集めてしまう。 口先で神様を信頼していますと言っても、本当には信頼できていない。 ルカの福音書18:35-39
エリコの盲人が、イエス様に叫ぶことができたのは、叫ぶ意外に方法がないと言う所に立たされたからに思います。この盲人も、叫ぶために弱められた人に思います。 わたしたちは、口癖のように「弱い者です。」「小さい者です。」と語りますが、弱いと自分では思ってるうちの自分の肉の強さに全く気がついていない。 小さいと自分では思ってるうちの自我の大きさに気がついていない者に思います。 他人の肉の強さや、他人の自我の大きさは、わたしたちはとてもよく気がついて見えるのではないかと思います。でも、自分の肉の強さや、自我の大きさは、本当に気がつかないように思います。そこから学ぶことも大切かと思います。 集会にとどまるにも、この交わりの中に安息するにも、弱められる必要があると思いました。この集会もイエス様も、わたしたちの祈りと、へりくだりと明け渡しだけを必要として、私たちの肉の能力や、肉の知恵による意見もアドバイスも必要としていない。 私たちは、弱められて、小さくなって、へりくだって祈る者になる時に、本当に、この集会の中に安息できるのかなあと思いました。 TVの時代劇で、よくお茶室が出て来て、小さな入り口から出入りしているのがありますよね。イエス様の集会の目に見えない入り口もきっと小さくて、傲慢で強くて大きいときは、頭がつかえて入れないと思います。わたしたちは、弱められて小さくされて集会に馴染めるのかなと思いました。 そんなふうに他人の強さはすぐわかるのですが、自分の中にある肉の強さは、なかなか自分には見えないなあと思います。 私の中の肉的な強さって、ほんとうにたくさんあるなあと日々思わされるのですけど、きっと、わたしたちが気がついている以上に、私たちの中に、こわばった強さがあって、それがイエス様が働くのを邪魔しているんだなあと思います。 自分とイエス様の関係が傷つくだけではなくて、私たちの中の弱められていない強さが周りの他者をも傷つけていると思います。 私は、気分が沈んで睡眠障害になってへろへろになるのを体験する前は、自分だけはくずれないと思っていました。その頃は、ほんとうに周りを裁く愛のない者だったなあと思います。 自分自身が弱められることは、また他者の弱さへの配慮をも学ぶことと思います。 自分自身が病気をしたり、失敗したり、弱められる体験をしないと、「弱い者」の痛みも苦しみもわからなくて、助けになることができないんだと思います。 イエス様は、私たちを用いようとする時に、わたしたちを、まず弱められるのかなぁと思います。 コリント人への手紙第I、1:27
イエス様は弱い者を選ばれるとあります。自分の力でこの世を歩もうとする者は選ばれない。 コリント人への手紙第II、12:9
最後に、これも復習になりますけど、弱められた人の代表で、ヨナさんの祈りをもう一度ふりかえって終わりたいと思います。 ヨナ書2:2-7
わたしたちは、みな衰え果てる体験が必要なんだなあと思います。 みなさんJBTとJMCって略語ご存知でしょうか。 知らない人が多いと思います。昨夜、私が作って、きょうはじめて発表します。 JはJesus JBTは、イエス様からばり遠い。 JMCは、イエス様にめちゃ近い。 わたしたちは、案外イエス様に近いよと思ってる時は、本当はJBTでイエス様からばり遠い所にいる。 わたしたちは、もうダメだもうおしまいだと思ってる時に、JMCでイエス様にめちゃ近いところにいるのではないかと思います。 ありがとうございます。 |