引用聖句:ルカの福音書7章36節-50節
今、集会のメッセージをファイルにしてサーバーにUPする奉仕をさせて頂いていますが、たくさんのファイルが送られてきます。 昨日証しをずっと聞き直していました。その中でいくつか心に残ったことがありましたが、ベック兄が、一緒にいて一番辛いひとと言うか、嫌な人はどんな人かについて話された。 みなさん、一緒にいて一番辛い人ってどんな人と表現されるでしょうか。怒りっぽい人でしょうか。自分勝手な人でしょうか。人をコントロールしようとする人でしょうか。 ベック兄がおっしゃったのは、一緒にいて、一番、辛い。周りを傷つけるのは、「自分を正しいとする人」だとおっしゃいました。わたしはそれを聞いててドキッっとしました。キリスト者にとって、そこに陥りやすいなあとも思いました。 十字架の前に罪赦された者として、悔い改めたはずが、どこかで道を間違えて、自分を正しいとする者になってる。 見た目は立派で、それが一番人を傷つけて、イエス様を悲しませている。今日の、聖書の箇所に登場するパリサイ人もそんな人ではなかったかと思います。 わたしたちは、香油というとベタニヤのナルドの香油のシーンを思い浮かべてしまいます。でも今日の箇所は、イエス様の3年半の活動の比較的前半の出来事で、場所もガリラヤ湖に近い、北部の出来事と思われるので、ナルドの香油とは別の物語のようです。 「罪深い女」というレッテルを貼られた女性が登場します。遊女のような仕事をしていたためにそう呼ばれたのでしょうか。さげすまれていた女性だったようです。 そして、このパーティーを主催したこの世的にはきっと立派だったパリサイ人。そして、イエス様。この罪深い女、パリサイ人、イエス様の3つを軸にストーリーが展開します。 まず今日、登場するパリサイ人について見てみたいと思います。パリサイ人のパリサイは、もともとは分離するという意味だそうです。 汚れていくこの世の中で自分たちは、汚れることなく分離して純粋に歩もうというのがスタートですから、もともとは、まじめで神様に真剣だった人のはずでした。 でもイエス様の時代には、形骸化して、律法的になってかえってイエス様のお叱りを受ける場面が多いように思います。ルカの福音書も読み進むうちに、パリサイ人に対してイエス様の言葉は辛辣になっていきます。 パリサイ人や律法学者たち宗教家と、イエス様はどんどん対立が激しくなっていきますが、この時、このシモンと言うパリサイ人さんは、イエス様を招こうとしたのですから、かなりの思いと、かなりの決心があって自宅で開いた集会ではないかと思います。 パリサイ人がイエス様を招いて開催した家庭集会として想像してみると、パリサイ人は自分たちの仲間に、イエス様を紹介して、義について、大切な律法について、世相について、義について、イエス様からいろいろ聞いてみようと思っていたのかもしれません。 そこへ、とんでもない「罪深い女」というお客さんが乱入したわけです。 罪深いと言われるような娼婦のような仕事をしていたらしいと想像できる他にも、この記事を読んでいくと、この女性にはいくつか問題があるように思います。 まず、その場の空気が全然読めていなくて、とても場違いな人になっている。それから、どうも情緒不安的に思えます。きっとお手伝いの女性とかが出入りしてたと思いますが、それに紛れて入っちゃったのでしょうか。38節をみると、はじめから泣いているんです。 さらに香油でイエス様の足を洗って、髪の毛でぶぐったり、口づけしたり、なかなか激しいところがあります。 パリサイ人のシモンさんは、家庭集会を開いて、高尚な神学論のようなものがイエス様とやりとりされるのを期待していたかわからないのですが、いかがわしい女性が乱入して、イエス様にべたべたしている。しかも、それをイエス様が平気で受け入れているのです。 わたしたちは最後まで読んで、罪深い女に好意的な印象を持ちますが、もしその場にいたら、パリサイ人シモンさんの怒りがなんとなく想像できると思います。 ひょっとしたら、わたしたちも同じように思うのではないでしょうか。 私たちも家庭集会を開くとき、だいたいいつも、人の思いと違うイエス様の結果になることが多いように思います。 前々から、あの人に来てもらって、このメッセンジャーの兄にこの機会に交わってもらってとか、人の計画、肉の思いで動くのですけど、案外、わたしたちの計画とイエス様の計画は違っていることが多いのに気がつかされます。 予期しない人が来られて、予期しない交わりがそこにある。おまけに、私たちの肉が活躍できないように子供が病気したり、ハプニングがなぜか家庭集会を開こうとしたら起ります。 私たちも一生懸命準備して家庭集会を楽しみに開催したら、ちょっとあぶない系のお姉さんが呼んでもないのに乱入してきて、メッセンジャーの足下に香油を注いだり、足にチューしたり、髪の毛で足をふいたりしたら、「なんや、このひと。」と思って、追い出しにかかると思います。 この女性はすごいなあと思います。この機会を逃したら、もうないと、ずんずん入り込んで涙に香油に、足に接吻。 ユダヤ人は食事のとき、長いすに横になって食事するような感じだったので、足をぬぐったりできたみたいで、詳訳聖書には、こんなふうに訳してありました。 詳訳聖書、ルカの福音書7:37-38節 すると見よ。この町の女で、格別に悪い罪人が、イエスがパリサイ人の家で(からだを横にして)食卓についておられることを知って、香油の入った石膏の壺を持って来て、 泣きながらイエスの後ろからその足下に進み寄り、自分の涙でイエスのみ足をぬらしはじめた。それから自分の髪の毛でそれをぬぐい、心をこめてみ足に接吻し、その香油を注いだ。 英語の聖書、NIVでは、イエス様が食卓についたことを、リクラインド(横になった)って動詞が使われいました。 パリサイ人のシモンさんがえらかったのは、いらいらしながらも、イエス様の手前だからでしょうか、心の広いところを見せようとしたのでしょうか、じっと我慢しながら心の中でつぶやいていたんですね。 ルカの福音書7:39
ところが、この心の中のつぶやきがイエス様に聞き取られしまう。わたしたちの心のつぶやきも、イエス様は全部お見通しということに思います。 けれども、このパリサイ人シモンの心の叫びは、この世的にはたいへん常識的なつぶやきであったようにも思います。 あるいはわたしたちも、現在の集会の中にいても、ひょっとして同じようなつぶやきをしているかもしれません。 もし、神様の言葉を宣べ伝え、民を導く者であるならば清くあるべきではないか。 この罪ある女の正体が想像できるなら、このような女のこのような態度を受け入れるべきではないのではないか。主の集会にこのような汚れた女が受け入れられてはならない。 シモンの心の叫びは、どこかで私たちも納得してしまいます。 父が高等学校で宗教を教えていた関係で、うちには古い聖書解説書のたぐいがたくさんあるんですけど、矢内原忠雄全集のルカ傳講義に、「このぱんぱんの女」って出てくるんですね。 ぱんぱんって何かなって辞書でひいたらアメリカの進駐軍の兵隊さん相手に売春していたひとたちを戦後「ぱんぱん」って呼んだそうです。 ちゃんと悔い改めて更正して、まっとうな人になってから私たちに集会に参加してくださいなっていうのが私たちの人の意見で、パリサイ人シモンのつぶやきの思いも理解できるような気がしないでもありません。 それに対して、41節からのイエス様の、多く赦された者は多く赦しますのたとえが登場します。 ルカの福音書7:41-43
イエス様のこのお話しは、まるで、トリックがどこかにあるように変に納得させられてしまいます。ほんとうは、数値化、計量化できない罪が赦されるという問題が、簡単に借金の額に例えられています。 反論できなくて、シモンも「よけいに赦してもらった方がよけいに愛します。」と思わず答えてしまいます。 そして驚くことに、突然イエス様の糾弾の矛先が、パリサイ人シモンに向かいます。 ルカの福音書7:44-46
イエス様がシモンを叱責しているのは、 <1>あなたは、足を洗う水もくれなかった。 <2>あなたは、チューしてくれなかった。 <3>あなたは、私の頭に油を塗ってくれなかった。 なんか、あなたは私をちっとも愛してないわみたいな感じで、シモンの方が責められます。 そして、イエス様の罪ある女に対する評価は、この世の評価と全く逆で高得点なんです。 <1b>この女は、涙で私の足を洗い、髪の毛でぬぐってくれた。 <2b>足に口づけをしてくれた。 <3b>香油を注いでくれた。 大逆転が起ってしまいます。この世的には立派なはずのパリサイ人シモンさんが責められ、この世的には「ぱんぱん」と排除される汚れた軽蔑されてきた女が最高得点をイエス様に頂いています。 パリサイ人シモンにとっては、目を白黒の大逆転と思います。 心の中で「汚らわしい女を、なぜイエスは受け入れるのだ。」とつぶやいていたら、今や、その汚らわしい女がイエス様を愛する者として、高いポイントを得て、逆にあなたは私に何もしてくれなかったと責められている。 聖書全体を読むと、イエス様の挿入された借金の例え話には、大きなトリックというか皮肉というか、奥深い裏があるような気がしまう。 このパリサイ人の集会に参加していた人達は、そこまでしか理解できなかったけど、イエス様が本当に言いたかったのは、ローマ人への手紙3章10節の義人はいない、ということに思います。 ローマ人への手紙3:10-12
昔、ある宣教師の先生は、婦人集会でメッセージする時は、わざとこのローマ人への手紙3章10節を読み間違えたそうです。 「美人はいない、ひとりもいない。」すると婦人の皆様がびっくりしてしまう。あら、なんて失礼な先生でしょう。そう出席者は思ったと思います。 みんなTVの女優さんほどでなくても、そんなにひどくない。隣のあの人よりいけるんじゃないかしら。それが、美人はいないひとりもいないと言われるとびっくりしてしまう。 同じように私たちも自分の正しさについて、どこかで完全とは言いませんが、あの人ほどではない。人を憎みはしますが、手を出したことはない。 それに、あの人の面倒をみたりこの人をお世話したり、ちょっとなかなかの信者さんではないでしょうかとか。自分を、まあまあの人にしてしまっています。 イエス様のトリックというか、50デナリと500デナリの借金に例えられますが、私たちは、もれなく全員、500デナリどころか、自分でどうしようもない途方もない罪の債務を背負って破綻している者であると言うのが真理に思います。 50デナリさんと500デナリさんがいるのではなくて、ほんとうは、私たちはみな厖大な背負いきれない負債を追って、その負債を払いようもない所に立っている。 その自分の負債の大きさがわかるほどに、赦しの大きさがわかるということではないかと思います。 罪というのはある一面で言えば、神様との関係においても、他者との関係においても愛に欠けることとも言えると思います。 私も18歳の時にイエス様に出会って、信仰生活が長いほうで自分でわかるんですけど、信仰生活が長いって、成長より高ぶりの方が多いと思うんですね。 「イエス様に出会って何年です。」とか言うときに、どこかに高ぶりが入ってしまっている気がします。 いつしか、パリサイ人のシモンさんになっている。 また、クリスチャンの交わりの中だけではなくて、今年は町内会の副会長もやってこの世の人達との交わりも多かったんですけど、この世の人の間でも、みんな神様を知らないけど、私は神様を知ってるわって、高ぶりが出てしまうのを覚えました。 へりくだって、わたしたちは十字架の御前に立って、自分が背負いきれない負債を全部イエス様に払って贖って、買い戻してもらった者であることを忘れてしまいます。 そんな私たちに、イエス様は日常生活の日々の試練を通して、イエス様は私たちに示されます。 介護やいろいろな中でも、わたしたちは、結局自分を大事にする周りに冷たい人だなあと示されることが多いと思うのですけど、私も、自分が愛の少ない人間であることを示されました。 それから、今だったら、「イエス様の所に行けていいね。」って、もっと平安に天国に送ってあげられて、楽しい病室だったと思うのですけど、召されそうになったら、葬儀はどんな形でしてもらうとか、いろんなことを心配して、損したなあと思います。 私は、小さい時から病気やいろんなことを乗り越えてきて、私はくずれないと思っていました。そんな自分が崩れたのが、とても新鮮でした。そして、崩れまいと頑張っている自分がとても自己中心で、愛のない罪のかたまりであったことも示されました。 お正月の御代田の姉妹の証しの中で使われたフレーズが印象に残りました。 兄弟姉妹との関係で、ある姉妹から「あなたに傷つけられた。」と直接訴えられたそうなんですね。で、姉妹が、教えてくださいと言っても、教えてくださらない。一生懸命考えても、思い当たらない。 それでイエス様に、「どうか、私が彼女に何をしてしまったのか教えてください。」って祈ったそうなんですね。その答えは、「あなたが何かをしたかではなくて、あなたの存在そのものが罪じゃないですか。」って、イエス様が語られた。その証しのフレーズが心に残りました。 イエス様の50デナリと500デナリの話しを通して、あなたはどれだけ赦してもらったかわかっていますかと、問いかけられているように思います。 ある姉妹は夫婦でもめて、ベック兄のところに、「あんなは夫は許せないでしょう。」と訴えに行ったそうなんです。ベック兄は、「99%あなたが正しくて、99%あなたの夫が悪くても、1%あなたは悪いかもしれないでしょう。」って、おっしゃったそうなんです。 それでその姉妹は、イエス様とご主人にごめんさいができたそうなんです。1%でしょうというベック兄のフレーズにも、トリックと言うか深い意味があって、50デナリ、500デナリのイエス様のお話しと共通するものを感じます。 わたしたちは、他人が、足下から崩壊しているのはよく見えると思います。あの家族は、たいへんよねーとよく見えます。でもほんとうは、自分の家族が足下から揺らいでいるのが、イエス様に揺すられるまで見えない。 前に、良きサマリヤ人で学びましたが、自分が強盗に襲われてぼろぼろの旅人であることに気がついていない。でも、すべてはそこから始まると思います。そして、そこに戻らないといけない。 イザヤ書53章の5節の意味が、なかなか私たちはわかりませんが、出発点はいつもここにあると思います。 イザヤ書53:5
最後のポイントで、イエス様が何回も語られた言葉です。 ルカの福音書7:48-50
あなたの信仰があなたを救ったのです。 長血の女にも、全く同じフレーズを使われています。 ルカの福音書8:48
癒された10人のらい病人の帰ってきたひとりに ルカの福音書17:19
エリコの盲人にも、 ルカの福音書18:42
日本語では、単純に訳されていますが、原語には深い意味でもあるのかしらと、前にも言いましたけど、うちのパソコンのソフトがギリシャ語の原典を出してくれるので見てみました。そしたら本当に、なんの裏もない素直な文章なんです。 へー(冠詞)ピスティス(信仰)スー(あなたの)セソーケン(救う)セー(あなたを) H πιστιζ σου σεσωκεν σε で、とても素直な一文です。裏も表もありません。とても単純な言葉です。 みことばは、ひとりひとりが、そこからイエス様の呼びかけを聞き取るところに意味があると思いますが、私は、メッセージの準備期間に、この言葉からイエス様は、私に何を語っているのかしらと私への語りかけをずっと聞いてみました。 するとこんなふうに、私には響きました。「あなたが私を信頼したから、あなたは救われたんですよ。」と心に響くように思います。 さらにこの言葉の後に、私はずっとあなたが私を信頼して私に助けを求めるのを待っていましたよと言う、イエス様の私への呼びかけが聞こえました。 きっとイエス様はいつも、わたしたちがむなしいこの世や肉の手段を放棄をして、イエス様に頼るのを待っていてくださっているんだなと思いました。 ベック兄がいつもおっしゃるように、イエス様は、私たちを赦したくて赦したくて仕方ないお方、助けたくて助けたくて仕方ないお方。わたしたちが、イエス様の方を向いて、イエス様に助けを求めるのをずっと待っておられるように思います。 それから、「安心して行きなさい。」って、フレーズがついてきます。 らい病人のとこは「立ち上がって行きなさい」になっていますが、イエス様が、信頼することが少なくて心配ばかりしている私たちに、イエス様は、「安心して行きなさい。」、レーヒーシャロームとおっしゃってくださいます。 パリサイ人シモンは、今は、まだ救いから遠いところにありました。自分は、この女のように汚れた者ではないと思っていたからです。 けれども、その汚れた女は、イエス様に罪は赦され救われたのですと、宣言して頂きました。 自分は、どうしようもない罪人で、払いきれない負債を背負っていることを認め、イエス様に助けを求めたからです。 証しを聞いていると、イエス様のところへ私たちを引き寄せるために、わたしたちの周りにたくさんのことが起こされます。 息子がたいへんです。娘がたいへんです。夫がたいへんです。妻がたいへんです。おばあちゃんがたいへんです。 で、ベック兄や兄弟姉妹のところに相談に行くと、答えられる答えの共通部分は、息子よりも、娘よりも、夫よりも、妻よりも、おばあちゃんよりも、あなたが問題です。あなたが、悔い改めて、十字架の御前に行きなさい。 わたしたちも、そのことに気がついたらこんなふうに祈るべきに思います。 「イエス様、わたしは、罪人です。わがままに歩み、多くの人を傷つけ、イエス様をも知らずに悲しませてきました。 背負いきれない罪の負債を背負っています。どうか、今日、わたしを赦し、わたしの救い主になってください。 そう祈ったら、イエス様は、「あなたの罪は赦されたよ。安心して行きなさい。」、と語ってくださるように思います。 |