赦しの大きさ


高橋義夫兄

(大阪福音集会、2009/08/23)

引用聖句:ローマ人への手紙8章32節
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

8月6日の最初の民間裁判員、6名参加の判決が出ました。裁判結果は、事前の論評を裏切っての懲役15年の厳しいよりの判決でした。
裁判は、すでに有罪を認めている72歳の加害者男性と、66歳の被害者の殺人罪に対してでした。
私は、法律の詳しいことは知らないのですが、参加した裁判員に相当のプレッシャーがかかっていたようで、女性はひとり体調不良で、補欠と交代したほどだったそうです。

傍聴席の感想は、「裁判員は思っていたより荷が重そう。被告と被害者双方にいろんな事情があったようで、裁判員に選ばれていたら判断に迷ったかもしれない。」とかでした。
被告は、罪を認めていたので、有罪、無罪を争うのではなくて、懲役何年にするかって、量刑判断がこの裁判の中心問題だったそうです。
それでご存知のように、被告にあまり反省がみられないと、通常の裁判より厳し目の15年の判決が出た。それは、意外であったと新聞に書いてありました。

素人がこのような裁判に参加した場合、他者に重い刑罰を課するのに躊躇して、軽いよりの判決がでてしまうのではと言う論評が多かったのですが、弁護士の策が逆目に出て、反省が薄いと裁判官は感じたようです。
そして、さらにその傍聴者の感想で、「あれはたいへんだ。一人の人が裁かれる。それにかかわるって、たいへんだ。」って感想が印象に残りました。

人が人を裁く現場は、何か厳粛ですね。それで、裁判啓蒙ドラマも、ここ数年ありましたが、一昨年に島の裁判官って、ドラマをNHKでやっていました。
ドラマの設定は、大阪で知的財産権を扱うエリート裁判官の三沢恭介が田舎の島に飛ばされる。奄美大島がモデルの大美島って島で、民事、刑事、少年犯罪まで、ひとりで裁判する。
つまり、知的財産のエキスパートの出世街道まっしぐらの主人公の三沢恭介が、ある日ど田舎に飛ばされる。知的財産ではなくて、こそ泥とか離婚の裁判にあたるんです。

それで、ドラマのテーマは、そこでその裁判官が人間として成長して、壊れた家族も修復されていくと言うなかなか面白いものでした。
ドラマの中で、おもわず次回も見たくなるようなドラマチックな裁判がいくつか出てきたのですが、介護の疲れ殺人事件とか、過失の交通事故。私が見たときは、過失の交通事故。
過失の交通事故で、母親重症で、保育園児をひいてします。それで、事故を起こした女性に、執行猶予つき判決か、実刑判決で刑務所に行ってもらうかで裁判所はゆれる。そして、その裁判官がたった一人で判決をくださいないといけない。

その女性は主人がいなくて、必死でふたりの幼い子を育てて、お母さんが刑務所に入ると、今度は幼い子がどうにもならない。預ける親戚もなくて施設に行く。
一方、被害者の遺族の心情は、悲しみの中で犯人の厳罰を望む。島全体も、執行猶予温情派と、遺族の悲しみを見て実刑厳罰派にまっ二つに割れる。
人が人を裁くって、むつかしい。たしか、ドラマは、最終的に実刑判決が出たのではないかと思うのですが...

今日のテーマ1は、わたしたちが生きている世界で、罪は罰せられなければならない。罪がなーなーにされたらその社会で正義が成り立たない。
罪を犯した者は、代償を払わなければならない。過失であっても、保育園児をひいてしまったお母さんは、交通刑務所で実刑を受けて償わなければ、みんなが納得しない。
けれども、とてもいいお母さんで、なんとか幼子ふたりを育てていかなければの過労の中での事故で、そのお母さんを幼子を放って刑務所に入れてしまうのは、あまりにむごい。そのドラマは、そのハザマでみんなが苦悶する。

ただ、私達が身にしみて知っているのは、代償を払わずに赦されてはならないということに思います。
それは、理屈ぬきで、小さい子供でさえ知ってることのように思います。罪は裁かれなければならない。

次の問題は、今日テーマ2には、その罪を正直に歩めば私達は私達の中に見い出してしまう。皆さんは、自分の一番大きな罪は、なんだと思われるでしょうか。
わたしは、自分の罪は、自己中心で愛がないと言うことだなーとひしひし感じたことがあります。家の中が、いろいろゆずぶられたとき、ほんとうに、自分の中になにもそれを修復する力がない。
自分が倒れたらおしまいだーと、必死でがんばり屋さんをしてたんですけど、なんにもならない。そのとき、自分のうちに慰めの言葉も、励ましの言葉もない。自分もすごく疲れている。
そのとき、どんどんそんな出来事が過ぎていく中で、自己中心で愛がないと言う自分の惨めな罪の姿を見せていただいたように思います。

罪は、うやむやにされてはならない。なーなーにもされてもならない。罪は裁かれなければならないということは、わたしたちは体が知っているように思います。
そして、自分自身をその愛のない自己中心の罪人として私達は見出します。
そして、よくベック兄がおっしゃるように、私達は、罪を犯したから罪人になったのではなくて、心の魂の根っこから罪人で、どうしようもない罪人だから罪を犯していると聖書は語ります。

ローマ人への手紙3:23-26
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

テーマ1、罪は罰せられなければならない。
テーマ2、私達は罪びとの私に出会う
テーマ3は、罪の身代わりと言う福音に出会う。

新約聖書にこんな分厚い旧約聖書がくっついてることの一つの意味は、「罪の身代わり」。代わりに血を流すって言うことの紹介にも、ひとつの大きな意味があるように思います。
罪は裁かれなければなりません。私達は、裁かれるべき罪人です。そしてわたしたちの罪が身代わりによって精算される。

ヘブル人への手紙10:11-13
11また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
12しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
13それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

ローマ人への手紙8:1
1こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

ベック兄が8月9日の御代田のテーマがここにありました。
ベック兄は次のようにおっしゃいました。

ローマ人への手紙8:32
32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

罪のないイエス様は、人類のための代表者です。父は、イエス様の上にこの世の罪を置きました。どんな重荷だったでしょう。ひとりの人間の債務はいかにその者を押さえつけることでしょう。
ひとつの町、たとえば東京の人間の罪の債務は、なんと恐ろしく重いことでしょう。ひとつの民族、全人類の罪の債務も同様です。世界のこの債務の中には、強盗の罪、神を見失っている人々の脅迫、落ちぶれてしまった人間の不純・・・などあります。
聖なる御子は、すべてをご自身の上に背負われました。生まれたすべての人間は、イエス様の死の原因です。我々のせいです。

イエス様は、すべての人のために死を背負われました。イエス様は、すべての人のためにお亡くなりになったのです。イエス様の上にはあなたの罪も置かれました。イエス様は、おそらく人間が知らないで過ごす罪も自分の重荷として、担ってくださったのです。
私達は、私達の罪がなーなーにされたり不起訴にされたりしたのでないことをはっきり知る必要があります。
わたしたちは、まぎれもない愛の少ない罪人です。その罪は、罰せられ償われなければなりません。そしてその償いが、すでに終わったと聖書は語ります。

人間の浅はかの知恵で考えたら、時空間がめちゃくちゃです。普通、罪があって、裁きがあって、償いがあって、赦しがあるという順番です。でも、聖書の世界は人間の浅はかな時空の概念を超えています。
初代教会のお話しで、コンスタンチニヌスの時代。コンスタンチヌス1世が311年にキリスト教寛容令を、続いて313年に信仰公認令(ミラノの勅令)を出しました。
迫害されたキリスト教が、堂々と礼拝できるキリスト教になったのですが、ずいぶん、もう聖書からずれはじめています。

当時の洗礼について調べるとたいへん面白くて、その頃の流行は、死ぬ間際に、いよいよ臨終に洗礼を受ける。それは、とんでもない誤解に基づいていて、洗礼を受けて悔い改めを公にして、それから罪を犯したらえらいこっちゃと言う変な間違った考えで。
ですから、洗礼を受けてから召されるまでの期間をできるだけ短くしたら、洗礼を受けてから罪を犯す可能性が少ない。だから恐くてなかなか洗礼が受けれない、もう死ぬって間際に洗礼を受けたのです。
どのくらい当時の医療がすすんでいたかは知らないのですけど、いよいよ、もう誰が見ても召されるとわかってから死の間際に洗礼を受けるのがはやったそうです。本当に、おかしいですね。

でも、十字架が立ち、みことばが与えられ、赦しが宣言されているにもかかわらず、赦された確信もなく、ふらふらしている私たちって、これと似たようなレベルの者ではないでしょうか。
確実なことは、召される日まで清められつつも、私達は罪人であり続けます。人を傷つけ、愛も不足して、悔い改めの連続です。
そしてもう一つ確実なことは、これまでの罪も、現在の罪も、これから犯す予定の罪も、すべてが十字架ですでに清算されていると言う人間の理解を超えたことです。

わたしたちの信仰で確かなことは、2,000年前歴史の中にゴルゴダに十字架が立っていること。みことばに、それが私のための身代わりであると書いてあること。それ以外に確実なことは何もありません。
天地が揺らいでも、十字架とみことばは揺らぎません。そこに基礎を置いたら、なんと平安なことでしょう。

最後にテーマ4です。神様の救いは、アフターケアーつき。
わたしは電気屋さんに行くのが大好きです。そして影響されやすい私は、店内で歌が流れてる3年、5年、10年保証・・あの歌、店から出たら店の歌を歌ってしまいます。
みなさんは、その歌を正確に歌えるでしょうか?調べてみたらすごい名曲です。

ゆめゆめハッピーいつでも安い
ゆめゆめハッピーでっかく安い

で4番くらいまであるんですけど、3番が特に名曲なんです。

保証もハッピーいつでも安心
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3年、5年、10年間
XXXは長期無料保証

イエス様の救いは、もっとすごい保証がついてるのをご存知でしょうか。わたしたちは、イエス様を信じて救われてもすぐ壊れてしまいます。壊れっぱなしの兄姉もいます。
でも、イエス様の保証は、永遠の保証がついている。何回壊れても大丈夫です。またすぐリペアーしてくれます。
ルカの福音書10章34節〜35節を開いて終わりたいと思います。

ルカの福音書10:34-35
34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

ここで介抱し、宿屋に私たちを預けてくださるお方はイエス様です。強盗に襲われた惨めなぼろぼろの旅人は、私です。
イエス様は、救いっぱなしではなくて、「もっと費用がかかる」ことも想定して対処済みなのです。なんと言うご配慮でしょう。10年保証なんて、問題外の永久保証です。
ベック兄が最近強くおっしゃるように、私達はイエス様を主として証人としてたたなくてはなりません。でも、ベック兄もおっしゃるようにそれは救われた喜びの結果です。

わたしたちは、イエス様の救いに付け足すものはありません。今、こんなにも大きな優しい赦しの中に包まれていること。
もし、私達の生活に不安があり、混乱があり、平安がないなら、どこかで迷子になってしまったのではないでしょうか。
もう一度、十字架のみもとに帰って静まるところからはじめてみたらいかがでしょうか。

今のままでは、私たちは天国へ行って、「あ、失敗しちゃった。」とまず叫ぶの思うのです。
赦しがこんなにも大きく、こんなにも大きな恵みに包まれながら、心配と不安で、私はいったい地上で何をしていたのでしょう。
そんな叫びを漏らさないためにも、イエス様の赦しの大きさと確かさをしっかりみすえていきたいものです。




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