前々回は、もう去年の秋になってしまいますが、マタイの福音書20章から、5時から労働者の1デナリについて学びました。神様の恵みと、人が考える恵み、その違いを学びましたね。マタイの福音書20章12節で、 マタイの福音書20:12
朝から労働者は、これだけ働いたから、これだけ働いたからこれだけ尽くしたから自分の労働の対価として、給与を与えられると思って1デナリを不足として労使紛争にいどみましたあ。 そして、イエス様のたとえ話しの中で、朝から働いたこの「朝から労働者」の言葉は、そのまま放蕩息子のお兄さんの主張でした。 ルカの福音書15:29-30
放蕩息子さんのお兄さんと、朝から労働者でがんばるまじめな人サークルを作れそうですね。 そして、サークル活動「がんばるまじめな人サークル」を作ったらリーダにぜひ、迎えたいのは、きっとルカの福音書18章11節のパリサイ人になりますよね。 ルカの福音書18:11
うちたちは、こんなだらしない弱い人たちと違うわよ。それが、このサークルの人たちの主張でしたね。 彼らは、恵みとは何か、全く理解していませんでした。恵みとは、受けるに価しないものが、受けるものである。自分の貧しさを彼らは、ちーとも理解していませんでした。ここまでが、前々回の秋の学びでした。 さてお正月のメッセージにあたって、長居パークホテルの時には続きのピレモンの手紙から学びました。 テーマは、「わたしたちは、みな主の主イエス様のオネシモです。」ってテーマでした。オネシモは、雇い主のピレモンに損害を与え逃亡した逃亡奴隷でした。 ピレモンの手紙は、私もまた、主イエス様をまた周りの親しい人達であるかわかりませんが、裏切り、傷つけ逃亡したものである。しかも、わたしたちには、それを償うことができない状況の中にあることを教えてくれます。 その視点に立ったときにはじめてピレモンの手紙にどれだけ大きな神様の愛が秘められているか迫ります。 オネシモをパウロはどうしてピレモンのもとに返したのかな。ひとつの意味は、オネシモはピレモンに祈りを持って受け入れられることを通して、イエス様の愛を体で体験する必要があったのをパウロは知っていたんじゃないかな。 そこからオネシモのリハビリがはじまるんじゃないかな。 ピレモンの手紙は、自筆でサインされた「第三者による債務の請負の申し立ての申込」書でした。 この他者の債務を背負うサークルのほうの仲間は、ルカの福音書10章35節の良きサマリヤ人でした。良きサマリヤ人もまた、宿屋の主人に必要な費用が生じたら私が払いますと、債務の支払いの予約をしました。 ルカの福音書10:35
そして、この債務請負サークルが活動をはじめたら、リーダーに迎えたいのは、放蕩息子のパパです。 ルカの福音書15:20
このサークルの姿勢は、これらの態度は、放蕩息子のお父さんの中に集約されています。 遠くから見つけた。=待ち続けていた。 かわいそうに思った=放蕩の中での痛みや苦しみを理解されていました。人間なら、おまえが言うこと聞かないで出ていったからだろうと言います。 走り寄った=心から受け入れた抱いて口づけした。 この人たちの姿は、どうしようもない私たちに走りよってくださる「走り寄る神」さまの姿でした。 そして、その神様を見いだすことができるのは、とても不思議なんですけど、ルカの福音書10章30節のように、自分が道ばたに倒れて助けを必要としている、着物をはぎとられて瀕死のぼろぼろであることに気がついたときであるのが不思議です。。 ルカの福音書10:30
いつも証しすることですけど、、がんばりやさんの自分の壊れていったのが、想定の範囲外の出来事で、ショックでしたけど、やっぱり本当にイエス様に出会ったのは、あの壊れた日だったと想います。 前に、人が壊れるときって音がするって、わたしの持論をご披露しましたけど。みなさんは、どんな音がしたでしょうか。 わたしは、ずっと鬱状態で眠れない日が続いて、秋の午前中でしたけど、立ち上がれないで、じーとしてるときに「ぽきっ」って壊れた音が聞こえたように記憶になっています。 でも、あの日がなかったら、自分のうちに自分を支えるものがあると傲慢に思い続けていたかなと想います。 自分の貧しさを知る体験は、本当に痛いですけど、同時にそれはなんて大きな恵みでしょうと想います。 さて、今日のザアカイは、この走り寄った放蕩息子のお父さんの延長線上にあって、しかも歴史の中で実際にそれが起こった出来事でしたあ。 ザアカイさんのお仕事について詳しくは書いていないですけど、当時の歴史を調べると現代に共通するところがたくさんある。 当時の税金の回収の請負は、入札制度があったようだといわれていますが、エリコの町でなつめやしとかバルサム油とか、商品が動くのに、商売するひとたちは、ザアカイさんたちに関税を払わないといけない。 で、ザアカイさんたち取税人のもとじめは、「わたしなら、1000万円集めます。」、「いや私なら1200万円集めます。」とか入札して、一番たくさん集められる人が徴税権を獲得する競争社会に、ザアカイさんがいました。 さらに利益をあげるには、あくどいこともする。ザアカイさんに人が会いに行くのは税金を払いに行くか、お金を借りるときか、返すときか、その3つだけ。 ザアカイさんを好きな人は誰もいない。みんな嫌い。 ザアカイ・ストーリーに、ふたつの不思議があります。 ザアカイさんはどうして、なりふりかまわず木に登るまでイエス様を見ようとしたのか? そしてイエス様はどうして、ザアカイがザアカイであることを確認できたのか? このふたつの質問がキーポイントですよね。 イエス様のザアカイへの働きかけは、先に走り寄った放蕩息子のお兄さんの延長線上。イエス様の働きかけが、驚くほど個人的にでした。 イエス様がどうして、ザアカイさんの名前を知っていたのでしょう。ザアカイさんには、少なくとも歩み出るまでの勇気はなかった。そのザアカイさんに向かって、イエス様が歩み寄って、「今日、泊まることにしてあるから。」 ちゃんとスケジュールがもう立てられていたあ。 ザアカイさんは、なりふりかまわずイエス様に会おうとした。そのことをイエス様は決して見逃されなかった。 ザアカイが心の中で叫んでいた叫びを、イエス様は本当に大切に扱ってくださいました。 福音書の中で、イエス様が憤る、「エンブリマオオマイ」って動詞が、「憤る」という意味で、ヨハネの福音書11章33節と38節だけに使われています。 ヨハネの福音書11:33
ヨハネの福音書11:38
これは、心の震えるほどの憤り。イエス様の憤りは、ラザロの死に対する憤りだったんですけど、別の面からいうと人間の絶望に対する憤りかなとも想います。 ザアカイにも絶望しかなかった。それが、このイエス様との出会いで、180度回転しました。 ヨハネの福音書11:40
イエス様は、何もかも用意してくださっていました。ただ、ひとつのことだけ要求されました。それは、「信じますか?」 「絶望を光りに変えて、希望のない歩みを希望に変えて、疲れをいやし、不自由から自由へと私が案内できることを信じますか?」と問われます。 そして、そのために、あなたはあなたの貧しさを知っていますかと問われます。 そして、ザアカイストーリーの最後のポイントは、ルカの福音書19章の10節で、この1節が、福音のすべてである。 ルカの福音書19:10
これが福音の宣言で、なんとここから私たちは離れやすいことでしょうか。 10年以上前、ある精神科の有名なドクターが、クリスチャン新聞に「心の病と教会」って題でシリーズのコーナーがあって、その中で、忘れられない記事がありました。 教会(教会、集会かかわらずクリスチャンの群れの中でって意味で)その教会の中で、中心にあるべきものと、周辺にあるべきものが逆転してきていますって趣旨の論説でした。 イエス様のまなざしの中心にあるのは、いつも失われた人。迷子の一匹の羊。 でも、いま教会の中心に位置しているのは、99匹の中のリーダーの良い子の羊。それはこの世でも優秀な人達で、がんばれる人で、強い人達で。それらの人達が教会の中心に位置して、イエス様のまなざしのまん中にあるべき迷う羊が周辺に追いやられている。 弱ってる人が周辺に追いやられ、なんのいたわりもないじゃないか。がんばれる人だけがそれらの人を落ちこぼれさしてがんばって、その教会のどこに愛があるんだって、言うのがその論説の趣旨でした。 とても良い記事だなと思ったのですが、そのとき一番自分が見失っていたのは、その迷ってる一番、誰かの励ましがなければ、弱い人って、誰かということに気がついていなかったと思います。 その記事を書いたドクターもまたひょっとすると同じだったかもしれません。 大きな声で賛美もできない。自分の力で礼拝にもたどりつけない、失われた、イエス様に探して支えてもらわないといけない、一番弱く愚かで痛んでいるのが自分自身であるということでした。 でも今、自分のうちに自分を支えるものがない。イエス様のところに行きたいのにどうやっていいかわからない。 大きな声で賛美する歩みをしたいのにわたしにできない。わたしは貧しいみじめな者です。 そう認めるなら、イエス様は、「助けてあげよう。あなたはわたしの羊だよ。」とおっしゃってくださっています。 |