見えるところによらず


内田厚純兄

(岡山喜びの集い、2007/07/14)

引用聖句:へブル人への手紙11章3節
3信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

私も、先のメッセージの兄弟と同じで、積極的に物事を考えてみたいと思います。
今日はまさに台風と言う中で、主の囲いの中に一人一人が入れられました。一匹の羊もこの場から逃げ出すことができません。そう思えば、私達ほんとうに豊かな交わりを持てるし、たくさん御言葉を受けることができる。これは、大きな主からの恵みであります。
主はいろんな形で、私達を祝福してくれようとしておられます。今日は少し聖書から信仰のことについて学んでみたいと思います。

先日、集会から少し離れていた兄弟と久しぶりにお交わりの時が与えられました。「ひさしぶりだね!元気だったあ?」
彼の答えは、「いやー実は、神様っておかしな方だと思うようになってきたんです。神様は私たち人間を愛してくださって皆が救われることを望んでおられるのでしょう?おかしいなー?それなのに、なぜ、私たちは、こんなに不幸なんでしょう?」
この彼の言葉に、私も一瞬、ひるんでしまったのです。私の信仰などそのようなものであります。そんな彼の言葉があまりにも気になったものですから、早速、聖書を開いてみました。すると、創世記の1章1節

創世記1:1
1初めに、神が天と地を創造した。

そして31節に

創世記1:31
31そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。

いきなり、その答えが飛び込んできたのであります。「はじめに神が天と地を創造した。」、この言葉を信じますか?神様から私たちへの投げかけであります。この事実を無条件で受け入れることが信仰の第一歩であると、主はされたのであります。
哀れな人間の頭で詮索する余地は全くないのであります。もし、人間によって理解できたとすれば、それはすでに神とは言えないのではないでしょうか。
人間の知性を遙かに超えたもの、神は神であって、人ではない。そのようにいうことができるのであります。見える所ではなく、見えない所を信じて立つ、聖書全体を貫いてる信仰につながるものであります。

実は私も救いを受けて半年後だったでしょうか、イエス様がガリラヤ湖を歩いて渡られると言うくだりでつまづいてしまったのです。
「あれーー、片足が沈む前に、もう一歩足を出す。ちょっと待て。それはできんぞ!」、そう思ったのです。
けれどもある時、「いやー、神様ならできるなー。」、そう思うことができたのです。その時は、ほんとうに子供のように素直な気持ちになったことは今でも覚えています。

詩篇27:4-6
4私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。
5それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。
6今、私のかしらは、私を取り囲む敵の上に高く上げられる。私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

この御言葉は、「まことの礼拝の精神」と言われている箇所であります。またこれに反するみことばは、次のものであります。

エゼキエル書18:29-32
29それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
30それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。――神である主の御告げ。――悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。
31あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
32わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。

自分を神として主から離れ、主にそむくことは死を意味します。
「だいたい、信仰を持つ事がなんだ。そんなものは幻であって、役に立つものではない。」、いわゆる信仰否定の立場であります。
「神を信じるなんて、意味がない。神のなさる事がすべて正しいなんて誰が言えるんだ。現実を見てみろ!」、これが、反信仰であります。

イザヤ書47:7-9
7あなたは『いつまでも、私は女王でいよう。』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。
8だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。
9子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。

伝道者の書7:13-14
13神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。
14順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。

イザヤ書42:23-24
23あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。
24だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。

神様が、そうなさったのです。おまえ達を滅ぼすためではなく、悔い改めさせて神の選びの者として生かすためであると言っています。
本当の信仰のあり方。それは御利益宗教と全く違うものであります。現実に負けて、自分の周辺の事情に負けて、自分の苦痛に負けて、信仰に背を向けるのは、ごく普通のことであります。
けれども、苦痛に耐えられず流した涙の中から、これはイエス様のなさったこと、これこそ私を反省させ、私を救うために与えられたイエス様からの愛のムチであった。そう言う考えに行き着いた時に、はじめて「イエス様、私はあなたを信じます。感謝します。導いてください。」そういうことができるのではないでしょうか。

救われた私たちは、なんという恵みに預かったのでしょうか。
イエス様は私を本当に離さない。そのような深い愛で包まれていることが、私の、今の実生活の中で知ることができます。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

このように私たちは永遠の命に入れられました。この救いの時こそ、人生をもう一度見るために立ち止まって、過去のことを、棚卸しをしてみる必要があるのではないでしょうか。
箴言に有名な箇所があります。

箴言23:29-35
29わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。
30ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。
31ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。
32あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。
33あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、
34海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。
35「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」

アルコール依存症が、また心の病むことが現代病と言われますけど、それはウソであります。何千年も前からあったのです。歴史は繰り返す。人間に進歩がないと、伝道者の書はそのように語っています。何千年も前からアルコール依存症が存在していることがわかります。
地上のむなしさを酒によって解決しようとした孤独な者たちがいかにたくさんいたでしょうか。それを窺い知ることができるのは、この伝道者の書であります。

伝道者の書4:1
1私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。

いかがでしょうか?
この当時は、まだイエス様は来ておられなかった。今、私たちは、いろんな辛いことや悩むことがたくさんある。けれども、私たちには、イエス・キリストが私たちのうちに住んでくださっている。この確信を持つことによって日々慰められます。
このことが実は大きな信仰の基となるのではないでしょうか。

伝道者の書1:3-10
3日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
4一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
5日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。
6風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。
7川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
8すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
9昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
10「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。

書いてあることはみな全くその通りであり、歴史は繰り返しています。

伝道者の書1:12-14、16-18
12伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
13私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。
14私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
16私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
17私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
18実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。

このようにあります。あの栄華を極めたソロモンでさえ、心を満たされることはなかったのであります。
その頃、イスラエルにギリシャ哲学のような思想が入ってきたのです。信仰と、哲学の中でソロモンはとても悩むようになります。そして、いくら考え悩んでも人の知恵の行き着くところは、むなしさしかないと知ったのです。
聖書のすばらしい所は、決して良いことだけではなく、すべてのことを書き記したことではないでしょうか。特に、こお伝道者の書は、特筆すべき箇所ではないでしょうか。

私たちは、イエス様を信じるようになっていろいろなことを体験します。そしてその時その時に、御言葉の力が現実のものになってきます。
これは、大いに主の恵みに預かります。そして、また自分自身の自己中心のジレンマから解放されていきます。
先ほど兄弟が言ったように、自己中心のジレンマから解放されると、開き直ると言うか、ケセラセラとおっしゃいましたけど、非常にどっしりとしてきます。
人間的な勝利は実に後味の悪いものがありますけれども、霊的な勝利者の中に入れられた時、言葉で言い表すことのできない、幸せを得ることができるのであります。

このことは、今日集まりの兄弟姉妹のひとりひとりがたくさん経験されたことと思います。それは社会的に大きなことではなく、心のうちのその中であーー良かった。そう言うすがすがしさではないでしょうか。イエス様の清さに預かることではないでしょうか。
小さなことなんですけど、先日大阪にいる長男が帰って来て、久しぶりに家族で団らんの時が与えられました。食事の後、かわいい孫を喜ばせようと、花火をしようということになったのです。
近くの広っぱに、バケツとか箒とか、いろんな物を持って、でかけていきました。夜、8時頃のことであります。

ところが、はじめて10分くらいたった時のことでありましょうか。近所のおじさんが飛んで来て怒鳴り始めたのです。
「そんな所で、花火をすると、うちの犬がびっくりするじゃないかー!!」、私たち家族にとっては、いろいろ選んで、皆様にご迷惑をかけないだろうという場所をやっと選んでやったのです。
青天の霹靂とでもいいましょうか。急いで孫を含めて大きなあれはラプラドールかなー、大きな犬に平身低頭謝ることになりました。

ところがですね。このおじさんは、ごく私たちが身近に住んでいるお家であることがわかったのです。そして、おじさんは地べたに座り込んでしまったのです。
それは、「しまった、怒鳴るんじゃなかった。」と思われたのでしょうね。けれども、私たち家族は、花火遊びを途中にして帰ることになりました。
私も息子も元来も、好戦的な性格を持っています。しかしそれが一言も返すことなく平身低頭。しかも、お犬さまにまで謝ったのです。実に、家族、全員が平安な気持ちになったのです。

そして、かえって近所のおじさんのことをとても気の毒に思いました。聖書、全体の中でどれほど、怒ってはいかんと、たくさん聖書に書いてあるのです。その御言葉を思い出したのです。
私たちの信仰は、私たちの生活の中でどんなに小さいことでも、そのように御言葉によって濾過されている。そのことが平安なんです。今の出来事も、かつての私なら、それはもうひどいことになってましたわな。うーん。それが、本当に、イエス様に救われた者の特権であります。

ピリピ人への手紙3:4-9
4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

このようにあります。知恵も知識も、当代最高のものを持ち合わせていたパウロの告白であります。パウロは人間の知恵と知識は、神と対立するものであることを痛いほど知っていたのであります。
人間に不安を起こさせるもの、それは人間の予備知識ではないでしょうか。こうなれば、こうなるだろうとシュミレーションしてしまうのです。悲しいことです。するなと言ったって、してしまうのです。
また、この世の幸せとイエス様の下さる幸せの大きな違いについても彼は、体験的に知っていたし、この世のものを塵芥と談じたのであります。

私は救われてすぐ、よく高知の兄弟の所へ行きました。本当に信仰の大先輩であります。90歳を過ぎて、彼は天に召されました。
ある時、食事を一緒にしていた時のことです。兄弟はふと台所にある「のれん」を指差したのであります。「ひろずみさんは、あののれんに自身の体をゆだねることができるかね?」、こうおっしゃったのです。
ぱっと、のれんを見ると風が吹くとゆらゆら揺れている。「それは、できるわけありません。」、と答えました。すすと兄弟は、「そうでしょう。あののれんに身をまかせたら、倒れてしまう。そう言う知識は持ってるでしょう?持ってるから、あののれんにもたれたら、倒れてたんこぶができる。」、そういうことを聖書はやっぱりたくさん書いてあります。

人間はそれほど、のれんのように揺らぐ自分の力に頼ってしまう者なのです。とことん、どうしようもなくなって、主に頼ることはあるでしょう。
残念ながら、なかなか主に頼ることができない。けれども、もし、ほんとうに主に頼れたら、どれだけ多くの平安を頂くことができるでしょう。
そのことは、今日来られた兄弟姉妹も何回もご経験されたことがあると思います。それは、主が下さる私たちへの平安であります。

今、生きている人の多くの方々が、もう一度、人生をやり直せたらと思っているでしょう。黒板消しで、過去を消してしまいと思っている人も多いでしょう。
聖書の神様、すなわちイエス・キリストは唯一、それをなすことができるお方であります。ですから、私たちは、大いにイエス様をお伝えするのであります。

はじめに神が天と地を創造した。そのようにしてお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良い。
その御言葉に立って、日々祈ることができれば、信仰者として、これほどの幸せはないのではないでしょうか。
終わります。




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