引用聖句:ヘブル人への手紙3章13節-15節
今司会の兄弟にみことばを読んでいただきましたけれども、「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさいと最初に書かれております。 今の世は、私たち主を信じる者を惑わそうとする環境で満ち満ちているのではないでしょうか。 インターネット然り、書物然り、テレビ然りすべてのことを通して私たちの心の内に小さな惑わしの種を知らないうちに蒔かれ、それが私たちの惑わしの原因となって、色んな疑問が起こってくる時代であります。 そのようなときにやはりいつも頼りになるのは聖書のみことばであります。 聖書に「惑わし」ということばが出てくる個所はみなさんご存知ですけれども、最初の人間が創造されたときにすぐにそこに出てまいります。創世記3章13節に、 創世記3:13
と書かれております。英語で「惑わす」を見ると、「fascinate」と言いますけれども、意味は美しい物、麗しい物を見て、その人の心の判断を狂わせるというふうに使われております。 物だけではなく、人が語る言葉もやはり惑わしの道具の一つではないでしょうか。 あのローマ帝国の最初の皇帝であるジュリアス・シーザーは次のように言っております。「人は明確且つ、論理的な話し方をする人に魅力を感ずる。」 確かに彼も弁舌に長けた人でしょう。ですから彼の軍事的才能もさることながら、その弁舌を通して異なる民族を束ね、歴史的に残る帝国が形成されたのではないでしょうか。しかしその形成されたローマ帝国は今はもう存在しません。 また人間の語る言葉はむなしく、永遠には残るものではありません。しかし今神のみことばである聖書は2,000年経った今も私たちの心の礎として、また永遠のベストセラーとして残されております。 惑わしを受けるのは現代の私たちだけではなく、聖書の中にもたくさんそういう方が出てまいります。 聖書の中から惑わしに会った人々、そしてその結末についてしばらくの間、聖書の中からちょっと見てみたいと思いますけれども、最初の人、アダムの妻であったエバ。 先ほどお話しましたけれども、彼女が惑わされた時の状況を見てみたいと思います。 彼女は決して嫌なもの、汚いもの、汚らわしいものによって惑わされたのではありません。つまり、主なる神が「食べてはいけない。」と言われたエデンの園の中央にある木はどのような状態であったかというと、 創世記3:6
とあります。現代にもそういうものは多々あるのではないでしょうか。 また二番目として、イエス様と3年半生活を共にし、多くのみわざと祝福を経験した弟子のひとりであるユダも、金のために惑わされたとあります。 ユダという名前は、裏切り者の代表として2,000年経った今も、その事実は人々に覚えられています。イエス様を知らない方でもユダという名前を知っている人は多いのではないでしょうか。 三番目としては、祭司エリ。自分の子どもの可愛さに惑わされて、彼らの行ないに対してはっきりとした態度を取らなかったとサムエル記第Iの中に書かれております。 四番目としては、サムソンという人。彼はイスラエルの民を異邦人、ペリシテ人の支配から救う者として神に定められ、この世に生を受けたと聖書の中に書かれております。 しかし彼はデリラという遊女の巧みな惑わしにより自分の力の秘密を打ち明けてしまい、そしてそれを悔い改めず、自分の力で主の使命を成そうとしましたけれども、むなしく敗北しペリシテ人に捕らえられてしまったとあります。 またダビデという王さまは大いに神に祝福され、世界の大部分を支配する人でありましたけれども、主なる神に対して本当にいつも恐れをもって従う者でした。 しかしあるとき自分の部下の妻であるバテ・シェバの美しさに惑わされて姦淫の罪を犯し、そして彼女を手に入れるために彼女の夫を戦場で死ぬように計画し、殺人の罪を犯してしまったと聖書に書かれてあります。 これらの人々の結末からどのようなことが言えるでしょうか。それは、悔い改めれば主の祝福とあわれみが与えられて、悔い改めがなければ祝福のない悲劇的な結果を結ぶということであります。 箴言という個所があるのですけれども、そこに次のように書かれています。 箴言28:13
今挙げた人々の結末がどうなったか。続いて聖書から見てみたいと思いますけれども、アダムとエバの結末は、エデンの園からの追放であり、その意味は、永遠のしあわせを約束してくださっている主なる神との断絶であり、祝福のない状態です。 その罪の性質は現代の私たちまで、自分自身が意識してもしなくても、引き継いでいるものであります。 私たちは、「いや、私は、自分はそんな罪を犯していない。」というふうに思われるかもしれませんけれども、聖書はこのように言っております。 ローマ人への手紙5:12
アダムとエバたちです。 ローマ人への手紙5:12
そして14節。 ローマ人への手紙5:14
と書かれてあります。今日初めて聖書のことを聞かれる方もいらっしゃると思いますけれども、罪と聞いたり、罪人と言うと、ぼくには関係ないというふうに思われるかもしれませんけれども、関係あるかないかではなく、主は、「私たちひとりひとりは全て罪人である。」と判断されております。 アダムとエバの結果はそのようなものであります。 次にユダは反省しただけで悔い改めず、自殺したと聖書は記録しております。 次に祭司エリという人はどうだったでしょうか。彼は祭司と言われているわけですから、主を紹介し、良き知らせを人々に伝える立場の者でありました。 ゆえに色んなことを知っていたと思いますけれども、自分たちの子ども、人の子どもでもいいですけれども、次のことがらは十分に知っていたはずであります。 申命記21章。これらの聖書のことを自分自身がイスラエルの人々に色んな問題が来たときに、おそらく彼は伝えていたのではないでしょうか。 申命記21:18-21
と、当時はこのようにされたわけです。 しかしエリは自分たちの息子たちにどのようにしたでしょうか。エリは自分の息子たちの罪に対して曖昧であったため、結局自分自身も二人の息子たちも死ぬことになってしまった。これは何という悲劇ではないでしょうか。 サムエル記第I、3:13
主の告げたことばです。 サムエル記第I、3:13
と書かれております。 有名なフランスの啓蒙思想家ルソーは、彼の著書「エミール」の中で次のように言っています。 「子どもを不幸にする一番確実な方法は何か。それをあなたがたは知っているだろうか。それは、いつでも何でも手に入れるようにしてやることだ。」 しかし聖書は子どものしあわせについて次のように言っております。 箴言23:13-14
聖書は肉のいのちよりも、霊のいのちの大切さを子どもの親に伝えています。そして若い人たちに、 エペソ人への手紙6:1-3
と書かれております。これは両親が正しいから従うということではありませんし、主が定められた秩序、親であるから子どもは従いなさいというふうに主は定められております。 次に、惑わされたけれども、悔い改めた人々の結末について見てみたいと思います。 先ほど挙げたサムソン。彼はペリシテ人に捕われている間に自分の愚かさ、傲慢さ、思慮のなさにより遊女に惑わされて捕えられてしまった。しかし主はあわれみの方であり、悔い改めの時間を与えてくださった。 サムソンはペリシテ人に捕えられて、牢獄につながれました。そして力が強いためにいつも余興に借出されて、その力の強さを見せられたそうです。もちろん目がつぶされていましたから、小さい子どもたちが周りを回って突いたり、何かいたずらをしたりして彼を本当に見世物にしていたわけです。 その中でサムソンは本当に自分自身の愚かさを悟ったのではないでしょうか。その悔い改めの結果、主からの本来の使命に目が開かれて、自分の身を犠牲にしてイスラエル人をペリシテ人の支配から解放したとあります。 その大ぜいのペリシテ人の領主や王様や人民の中でからかわれている間に、サムソンは次のように主に呼びかけました。 士師記16:28
と彼は祈りました。「神よ、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。」というサムソンの叫びというよりも祈りは、主のもとに届きました。 まさにイエス様とともに十字架につけられた強盗の一人の悔い改めを思い起こさせるのではないでしょうか。 ルカの福音書23:42
と強盗のうちの一人はい言いました。 このように、心からの悔い改めの叫びに対して主は応えてくださり、次のように言ってくださいました。有名な個所ですけれども、 ルカの福音書23:43
ダビデもその罪を預言者ナタンに告げられたときに、弁解せず、逆らわず、素直に心から主の前に悔い改めたと書かれております。 その悔い改める心の経過について詩篇の32篇が物語っております。ここの心の動きというものは、ダビデだけではなくて私たち人間ひとりひとり、本当に何か物事を隠しているときに私たちの心に襲ってくる状態ではないでしょうか。 詩篇32:3-4
本当に主の前に何か隠しているときに、何か知れないけれども見えない手が自分の心の内をグイグイ押してくるということを体験されたと思います。 それを思うと本当に主によって救われている証拠であり、本当に早くその罪を捨てなさいと主は仰っておられます。 詩篇32:5
そして1節に、 詩篇32:1-2
しあわせな人というのは、こういう人ではないでしょうか。 いつも光の中を本当にイエス様の前に正直に出ることができる。これこそ主からいただく最大の恵みであり、その基はイエス様が十字架の上で私たちのすべての罪を贖ってくださり、「完了した。」と仰ってくださった、そして三日目によみがえって、新しいいのちをいただいたものの結果ではないでしょうか。 悔い改めとは、心が全く新しくされることであります。口先だけではなく、本当に神に対しても、罪に対しても、自分自身に対しても、全く新しい思いをもつようになることです。 そしてその結果は、別にその人が何も言わなくても周りの人は本当にすぐわかります。そして本当にともにまた喜ぶことができます。 ひとつひとつ、本当に主が明るみに出してくださったときに、確かにそのときはつらいかもしれませんけれども、それを責める人はだれもいません。主だけが責めることができる方であり、そして主だけが赦すことができる方であります。 そのように私たちはこの地上においてイエス様を知ってから、すべての罪を犯さなくなるわけではなく、相変わらずダメな肉体をもっているわけですけれども、でも主はその私たちの心に先ほどのように本当に、黙っていたときには、一日中うめいて私の骨々は疲れ果てましたという私たちの心の扉を、主は叩いてくださいます。 本当そのときに、「主よ。どうでしょうか。今日、私は・・・。」というふうに主に聞くならば、主は教えてくださり、それを捨て去ることができる。そのあとの解放感というのは本当にそれを体験した方々はみなご存知であり、それは本当に考えられない喜びではないでしょうか。 これらの事実を通して言えることは先ほど言いましたとおり、主イエス様を受け入れ、信じた私たちも惑わされ、罪を犯し、神から離れる可能性があるということであります。 しかしその惑わしは決して神からのものではないとあります。よく悪いことをしていても、「すぐに絶対に神さまがとめてくれるよ。」というふうに言う人がいますけれども、それはありえません。主はそのままにされます。 なぜならば、惑わしは決して神からのものではないとあります。 ヤコブの手紙1:13-15
主なる神は決して私たちを誘惑する方ではありません。その人の行き着くところまで主は待っておられます。 私たち自身が救われた経過を見るときに、本当に主は待ってくださったということを思わされます。確かに途中で色んなこと・・集会の兄弟姉妹に本を戴いたりして見たことはあるかもしれませんけれども、それは時ではなくて最善の時に主はその人々ひとりひとりをご自分のもとに引き寄せてくださる機会を与えてくださいました。 こんな人間のわがままゆえに、罪を知らない、聖い主イエス様は十字架に架かられて、私たちの罪の解決をしてくださいました。それはなぜでしょうか。 それは本当に取るに足りない、こんなちっぽけな人間ひとりひとりを愛してくださり、永遠のしあわせを願っておられるからです。 その永遠のしあわせのご計画についてエペソ人への手紙1章に次のように書かれております。 エペソ人への手紙1:3-7
決して人間が頑張ったわけでもなく、何かしたからではなく、ただ主の一方的なあわれみですと書かれています。 ダビデの付き人であるアサフという人は詩篇の中で、 詩篇73:28
と告白しております。神の御側近くにいること、それが人間にとって一番、この混沌とした世の中においても完全であり、しあわせであり、大切なことです。 しかし惑わす者であるサタンは、主に従って生きたいキリスト者をイエス様から絶えず離そうと試みています。 最初の人アダムとエバも誘惑され、そのしあわせの象徴であるエデンの園から追放されました。神とともに生きる交わりが断たれたとあります。 人は主イエス様に従って生きようと思えば思うほど、さまざまな攻撃を受け、且つ、誘惑を経験します。 例えばサタンはあなたの耳元で次のようにささやくでしょう。「さあ、あなたはイエス様を受け入れ、洗礼を受けたのだから、イエス様に従って、もっともっとクリスチャンらしい生活をしなければダメだよ。」と。 言っていること、聞こえてくることは正しく思え、そしてそれを聞いた人間は、そうならなければいけないのではないかと思い込まされます。 そして一生懸命頑張って、主のため、主のためと仕向けられます。 しかし蛇がエバにささやいたように、「あなたは神のようになる。」、何と魅力的なことばの惑わしでしょうか。しかし冷静に静まって考えてみれば、それは嘘であることがすぐにわかります。人間がいくら頑張っても人間は人間であります。神に絶対になれません。 それと同様に、立派なクリスチャンになろうと思っても無理です。なれるものではありません。本当のクリスチャンは、このことばのとおり、イエス様ただおひとりだけであります。 私たちはサタンの甘い、魅力的なことばの裏に隠されている惑わしに気が付くことが大切です。 聖書は本物と惑わしの区別についてでもはっきりと私たちに語ってくださっております。 ヨハネの手紙第I、4:1-6
と書かれております。 サタンは光の御使いの姿をして来るとあります。確かに聖書のことばを語るでしょう。まことしやかにその真理を語るかもしれません。証しをするかもしれません。また悔い改めるかもしれません。 しかしそれが実際のものであるかどうかは私たちはいつも聖書に返り、本当にそれが本当かどうかということを、やはり確かめる必要は大切ではないでしょうか。 人間は救われていても相変わらずみじめな存在であります。サタンは私たちの弱点をよく知っております。そしてその点を徹底的に攻撃して来ます。 孤独であるとき、悩み苦しむとき、痛みにうめくとき、あるいは祝福されて自惚れているとき、あるいは子供の思うがままにされてしまうとき。サタンは巧妙に入る込んで来ます。 しかしパウロはそのことを正直に、 ローマ人への手紙7:24
というふうに叫んでおります。これだけだったら本当に悲劇で、その先は何も無いというふうに思ってしまいますけれども、その後すぐ、 ローマ人への手紙7:25
なぜなら、 ローマ人への手紙8:1
と正直な叫びを、また喜びの叫びをあげています。 私たちも、いつもいかなる状態においても、そのままで主イエス様に助けを求めることができます。 しかし、主がいつ助けてくださるか、その時を決定するのは私たちではありません。ただイエス様のみことばがいつも必要な時に助けてくれると約束してくれています。ヘブル人への手紙の中に、 ヘブル人への手紙2:18
とあります。ダビデもサムソンも、十字架上の犯罪人もパウロもそのままの状態を主イエス様に叫びました。主に叫ぶとは、そのままの心の状態を祈りに変えることです。 私たちは神の敵であるサタンや問題を見る必要はありません。現実に起こる問題に対する態度と決断が大切です。 そしてその決断の根拠は、自分の考えや人の意見を聞くことではなく、みことばであります。 私たち夫婦も20年前にイエス様に導かれ、その後2人の息子、そして母親が導かれました。その成長は別として、その間本当に順調であったかと言うとそうではないのです。 息子の問題や母との確執や色んな訓練がありました。そして家庭のひとつの核である夫婦の間にも、やはり色んな訓練を与えてくださいました。 それはやはり主は自分の前に聖め、一つにしたい。そしてその家族をたくさん増やして、主にある家族を増やしたいという、そのご計画に基づいたものであります。 しかし救われた兄弟姉妹もいらっしゃいますし、救われていないご主人をもった奥様もいらっしゃいますし、その逆もあると思いますけれども、夫婦の関係というのは本当に他人が一緒に生活をするということから、ある種の色んな戦いや軋轢が始まります。 私自身は仕事がら、航空機乗務員というために家を離れることが多々ありました。そして帰国したら家内が家にいて、迎えてくれるというのは当然・・・ (テープ A面 → B面) ・・・でも最初は私は「うん。いいよ。」と。本当はそうではなかったかもしれないのですけれども、言ってたのです。それはもう本当に装っていた。本当に嘘を言っていたという、心に偽っていたということであります。 短い間は別に問題がなかったのですけれども、だんだん長期化して、このセンターの建ち上がる頃、本当に長い間家を離れて出ていたときに、やはり自分の気持ちはそれでは抑えられなくなってきたのです。 どうして私が帰って来たのに家内はいないのだというふうに思うわけなのです。そして、本当に最高潮に達したときに、ベック兄に自分の心の中を話しました。 そのとき、みなさんも体験された方が多いのではないかと思うのですけれども、ひと言、「祈りましょう。」と。 ガクッと来るような、膨らんだ風船がすぼんだような感じですけれども、まさにそれは真実なのです。 そして人でなく、主に自分の心の内をそのまま正直に申し上げようと、それが大切だということはその短い言葉の中でベック兄が語ってくださいました。 そして私はそのままの状態を主に祈りました。そしてそのみことばが与えられました。そのみことばは、私の心に溜まっていた不満を解消させただけではなく、それ以上にやはり辛く当たった妻に申し訳なく思い、そして全くそのことがらから主は解放してくださいました。 これからも確かに主が来られるまで、私たちが肉のからだをもっている以上、自分の思いがあり、自我があります。それをいかにして捨てていくか。 自分では捨てられません。しかし、その心を貫くみことばが与えられたときに、私たちひとりひとりはそれから解放されるのではないでしょうか。 今でも忘れないのですけれども、そのみことばは民数記の30章。これは夫婦の関係だけのものですけれども、こんなことまで聖書は書いてあるのかということを思わされました。 民数記30:10
妻です。妻が夫の家で誓願をするというのは、主のために色んなことをするというふうに聞いていただければいいと思いますけれども、 民数記30:10-11
私はこれをしていたのです。最初は何も言わない。言えない。なぜならばそれは正しいことだから言えなかったのです。でも自分の心の内は本当に満足していなかった。 民数記30:12
仮に、「集会に行くな。」と私が言ったとしても、彼女はそれを責められない。ああ、そうか・・・。 民数記30:13-14
ということなのです。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。 民数記30:15
「では、行くな。私のために家(うち)にいてくれ。」と言った場合、 民数記30:15
つまり、それを禁じた夫は主に対して責任を取らなければいけない。それほどまでに、確かに妻のかしらは夫であるけれども、夫は主に対して責任をもっているということを思わされたときに、本当に主の前に「ごめんなさい。」でした。 そしてこのことを通して本当にひとりひとり、夫婦であったとしても、それぞれ主のところで働く場所は違ったとしても、主が要りようならば、本当に導いてくださいというふうに、ふたりで祈りながら進めることができました。 本当に今までもっていた自分の不満も色んな思いもこのみことばで解消されました。本当に聖書のみことばはすごいということを思わされました。 信仰生活とは出口のない我慢大会ではありません。 主イエス様のみことばを体験するために、主は私たちに色んな問題を与えられます。そのことを自分で頑張るのではなく、「主よ。こういう状態です。私は嫌です。」とやっぱり正直に言うこと。 そのことを通して主は新しく、自分自身が死ぬということを通して主イエス様にあるよみがえりのいのちを体験することを与えてくださっております。それが本当に、主イエス様のよみがえりを本当に知ることではないでしょうか。 そしてその期間はそんなに長くはないと聖書は言っております。それが何年続くだろうかというふうに考える必要もないと、ヨハネの黙示録2章の10節に、その期間は短いというふうに表現しております。 この地上における色んな問題、悩みは、本当にもう、イエス様が来るまでの間であるとヨハネの黙示録の2章の10節、 ヨハネの黙示録2:10
十日の間というのは決まっている期間なのです。そんなに長くないという意味であります。 ヨハネの黙示録2:10
とあります。問題は確かに色々あるでしょう。しかし私たちはその時に本当に静まって、イエス様の御臨在を深く覚えるまで主の前に静まり、主の御臨在を本当に確信したならば、みことばを開いて、「主よ。お語りください。しもべは聞いております。」という態度を取ると、主は必ず恵んでくださるだけではなく、勝利をお与えになってくださいます。 本当に、親にとって子どもの問題というのは、大人になっても大きな問題であります。ましてや本当に主のほうに向いてくれればいいのですけれども、主の受け入れたあとであったとしても、それがなかなか惑わされて、集会に来れないという状態になったときに、本当に心をえぐられるような思いであり、耳を引っ張って連れて行きたいというふうに思いますけれども、人間のしたことを、例えば表面的にしたとしても、その心を変えることはできません。 心を変えることができる方はイエス様だけでありますから、 そのことを本当に祈っていきたいというふうに私たち自身も今思わされております。 みなさんもそれぞれご家庭に色んな問題があると思いますけれども、人の力は何もそこにはできません。ただ主だけがなさることができますので、主の前に静まって、主の答えを待ちたいと思います。 最後に一ヶ所読んで終わりたいと思います。 ペテロの手紙第I、1:23-25、2:1-2
ありがとうございました。 |