引用聖句:ルカの福音書16章19節-31節
おはようございます。今日の聖書の箇所を通して、はっきり私たちに語られていることは、いわゆる人間は死では終わらないということであります。 名前は記されていませんけれども、金持ち、ハデス、死者の国に落とされたのは、彼が金持ちだったからではありません。救いの土台は、主イエス様を信じる信仰であり、主を信じなければ、罪に定められるのであります。 主イエス様を信じるか、信じないかは人生そのものを左右する重大な事柄であります。その結果は、生か死であり決して中途半端なことではありません。つまり、死後に天国に行くか、地獄に行くかのどちらかであります。 ヨハネの福音書3章18節に「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」と書かれています。 この金持ちが救いに至る真の信仰を持っていなかったことは、自分の家の門前に寝ていた貧乏人に、全く関心を持っていなかったことから解かります。彼は、毎日その光景を見たことが想像されます。もし、彼の内に神の愛が宿っていたなら、自分の家の表で同胞がパンくずを請い求めているのに、贅沢かつ安楽な暮らしをすることなどできなかったはずであります。 ヨハネの手紙第I、3章17節に、そのことが書かれています。 ヨハネの手紙第I、3:17
また同様に、ラザロが救われたのは貧しかったからではありません。彼は、心の内で主が救い主であることを信じていたことが、主イエス様の山上の垂訓のみことばによって知ることができます。 イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」と言われました。この意味は、生まれつきの貧乏という目に見える生活の状態のことを言っているのではありません。 自分自身が、将来に関して全く希望のない者であり、すべてにおいて無力な者であることを認め、心に本当の安らぎがないことを感じ、それが唯一の全能の神に帰ることによって、満たされることを見いだした人々のことであります。 引用聖句の22節に二人はともに死んだとあります。しかし、死んだ後の結果が、全く異なっていることを聖書は述べています。 貧乏人は、御使いたちによってアブラハムのふところへ連れて行かれたとあります。アブラハムのふところとは、ユダヤ人にとっては言葉に尽くすことのできない、幸せな場所であり、天国を意味していることがイエス様のおことばで解かります。 マタイの福音書8:11
この東には、当然日本も含まれています。 ところで、金持ちは死んで、その体は葬られました。彼は、生きている間、自分のしたい事柄で満足していました。そのために、主から管理を任された多くの富と時間を、自分のことだけに費やしました。 人は、死んだらお終いだよとよく聞きますけれども、確かにこの話がこれで終わりであるならば、そのとおりであります。しかし、人生は死で終わらないことが、次の箇所がはっきりと語っています。 23節、24節を読むと、この金持ちが死んだ後も、はっきりとした意識を持っており、決して楽しい幸せでない場所に、彼が置かれていることがよく解かります。 なぜなら、アブラハムがはるかかなたに見えた、しかもそのふところにラザロが見えた。そしてアブラハムと言葉をかわすことができました。そしてその苦しみを、「父アブラハムさま」と叫び、あわれみを請い求めています。 彼が意識があり、味わった苦しみは、現実のものでした。なぜなら、次のみことばがそのことを表現しているからです。彼は見えた。言葉をかわした。あわれみを請い求めたとあります。 そして25節で、アブラハムは彼を「子よ。」と呼ばれたのが聞こえました。彼の心は、どうだったでしょうか。おそらく彼は、生きている間に宮に何度も行って、神のみことばを聞いたことが思い出されたのではないでしょうか。 現代で言えば、イエス様の福音ではないでしょうか。しかし、心はそれに向けられてはいませんでした。おそらく彼は、私は選ばれた民、アブラハムの子孫だから、何も心配しなくても天国に行けると自負していたのではないでしょうか。 このことについて、ヨハネの福音書でイエス様は言われました。 ヨハネの福音書8:37
確かにイスラエルの民は、神によって選ばれた祝福された民であります。しかし、主なる神のご目的は、彼らだけではなく、彼らを通して他の民族に、主の救いの祝福という財産が伝わるようにと彼らを選ばれましたけれども、彼らは従わず、その祝福をここに登場した金持ちのように、自分だけのものとしてしまいました。 けれども、この金持ちはイスラエルの民ですから、先ほども申し上げたとおり、生きている間、何度も次のような主のことばを聞いたはずであります。 申命記6:4-7
もし生きている間に彼が、みことばを真剣に聞き、主なる神に対して心を開き、真心から悔い改めたならば、救われたはずです。しかし彼は、アブラハムの子孫だから、それで充分だなどとおごり高ぶった態度で、生活をしていたのではないでしょうか。 現代風に言えば、「私は教会に行っているから」とか「洗礼を受けているから安心」また「敬虔な人々と親戚関係があるから」といってその人が自然に救われるわけではありません。同じように、親が救われているからといって、子供が自然に救われるわけでもありません。 この族長アブラハムは、金持ちの子孫に生きている間、どのような生活をしていたのかを、ハデスにおいて思い出させました。そして、同様に同胞であるラザロの貧しさと苦しみにも触れられました。 そして、二人が死んだ後、彼らの立場が全く逆になってしまった。地上での不平等が取り除かれたことが25節の最後に書かれています。 「しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」、そして、26節で教えられることは、この世で選択したことが、私たちの永遠の定めを決めるということ、一度死んだらその決定が変えられないということであります。 救われた者の所から地獄に落とされた者の所へ行く道はなく、その逆もまた同様であります。 27節から31節において、この死んだ金持ちは突然、伝道熱心になりました。なぜなら、死後の現実を実際に体験しているからなんですね。まさに死は終わりではないということであります。 ですから、アブラハムに対して、まだ地上で生きている自分の5人の兄弟たちの所へ誰かが行って、この苦しみの場所に来ることがないように警告してほしいと嘆願しました。 しかしアブラハムは、聖書を知っているはずだから、つまり当時は旧約聖書しかありませんでしたが、その中に書かれている警告に耳を傾けるだけで充分であると答えました。この警告とは、 申命記30:19
しかし、この金持ちはアブラハムの言葉に逆らい、もし誰かが死んだ者の中から、彼らの所へ行けば、悔い改めるに違いないと言いました。この熱心さが生きている間に実行されていたならば、本当に主に喜ばれたのではないでしょうか。 彼の言ったことに対して、アブラハムは最後に、神のことば、すなわち聖書のみことばに耳を開こうとしなければ、たとえ誰かが死人の中から生き返っても、信じようとしないだろうと言われました。 このことは、主イエス様が十字架につけられ、3日目によみがえった後、証明されました。なぜなら、よみがえられたイエス様に遭遇した人が、すべて主を信じたわけではなかったのですね。ですからイエス様がよみがえって、弟子たちの前に姿を現した時、次のように言われました。 ルカの福音書24:44-48
この事実は、イエス様が復活され、40日後に昇天された後、聖霊によって満たされた弟子たちによって、その宣教の使命が開始され、約2,000年後の現代の私たちにまで、主イエス様の福音が伝えられています。まさに主イエス様が言われた「あなたがたは、これらのことの証人です。」というみことばの成就ではないでしょうか。 聖書によれば、主イエス様を信じ救われた者が死ぬと、その体は墓に収められますが、先ほどの貧乏人ラザロのように、霊と魂はただちに天国に行き、イエス様と一緒になります。また、イエス様を信じていない人が死ぬと、その体は同様に墓に収められますが、先ほどの金持ちのように魂はハデスに行きます。その人にとってハデスは、苦しみと後悔の場所ですがもう遅すぎます。 空中再臨の時、つまりイエス様が空中まで、私たちを信じる者を迎えに来られる時、信じる者の体は墓から、そして御代田の納骨堂から一瞬にして引き上げられ、再び霊と魂は一つになります。そして永遠にイエス様と一緒に天国において住むことが許されます。 コリント人への手紙第I、15:51-52
一方、イエス様を知らないで亡くなった人も、主が見える形をとってこの地上に来られる時は、もはや救い主ではなく、裁き主として来られます。その時、霊と魂と体は一つにされ、白い裁きの座の前に立たされ、彼らは火の池という永遠の刑罰の場、つまり地獄に投げ込まれることであります。 火や地獄、永遠の滅びは否定できない聖書の真理であります。決して人間が考えた空想話ではありません。イエス様はいつも、その事実について語っておられます。 マタイの福音書25:41
またイエス様は、天に引き上げられた後も、このことを語っておられます。 ヨハネの黙示録21:8
パウロもまたそれについて語っています。 テサロニケ人への手紙第II、1:7-9
ペテロもまたこのことについて語っています。 ペテロの手紙第II、2:4-9
そしてもっと具体的に、どのように裁かれるかというと、次のように書かれています。 ヨハネの黙示録20:12-15
死後に定められているこの事実に対して、私たちは、どのような態度を取ればよいのでしょうか。自分の死はまだ先のことだから、今イエス様を信じる決心をしなくても、その時になって決めればよいと考える人もいるかもしれません。 しかし、これこそ最悪の決断と言わなければなりません。その時とはいつでしょうか。明日いのちがあると誰が解かるでしょうか。人は次の瞬間、息があるかどうかさえ何ら確証はありません。 よく山の中の一本道を運転している場合、片方が山、片方が崖の所で落石注意とありますが、右にも左にも行けない場合、実際に大きな石が落ちてきたら、どのように注意するでしょうか。落ちてくる石に注意を向けていても、どうすることもできません。それよりも前もって、落石を避ける方法を考えながら運転することが大切であります。 それと同じように、聖書には「明日のことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」と言っています。だから自分の死に対する心の備えをすることは大切であります。 それは目に見える葬儀の準備ではなく、「死は終わりではない、行き先は天国だ。」とはっきり行き先を知ることは重要であります。 人間は、自分の将来の運命を決める権利を持っています。この金持ちのように、主に頼らないで自分の望むままに生きる方を選ぶか、それとも乞食の男に示してくださった、主の愛にすがるか、それはあなたの決断であります。 「今は恵みの時、今は救いの日です。」私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかり、血を流し、肉を裂いて、すべてのわがままを罪を赦してくださり、3日目によみがえって永遠のいのちをくださったイエス様だけが、私たちを救うことのできる唯一のまことの神であります。 私たちが必要としているのは、主なる神のあわれみと愛と恵みであります。 主は、ご自身のあわれみによって、私たちを人生の荒野を通して、導いてくださり、主イエス様の愛の証しである十字架の血潮を通して、罪の重荷から解放してくださり、恵みによって新しくされた私たちを、栄光まで導いてくださいます。 今日私たちは、主のあわれみの中で、主イエス様の愛と恵みを経験することが許されており、まもなく天の御国において、主の栄光にあずかることも許されています。 私たちは、主だけを見ながら、主のみことばだけにより頼み、主がなされることを期待して、毎日主が来られることを喜びをもって待ち望むことができれば、本当に幸いではないかと思います。 では最後にみことばを読んで、終わります。 エレミヤ書29:11-14
|