引用聖句:詩篇103篇3節-5節
今、兄弟にみことばを読んでいただきましたけれども、この詩篇の103篇というのは、「あわれみの詩篇」と言われております。 そしてダビデを通して主を本当に体験した、ダビデが体験したよきこと、すべてをこの時間で語ることはできませんので、主のよくしてくださったこと、「主は、あなたのすべての咎を赦し、そしてあなたのすべての病をいやしてくださった。そしてあなたのいのちを穴から贖ってくださった」という三つのことについてしばらくの間、ごいっしょに考えてみたいと思います。 第一の、すべての咎を赦してくださったということにおいてですけれども、主はすべての咎、罪、わがままを赦してくださったということは、逆に考えればそれ以前は罪、咎、わがままのかたまりそのものであったということになるのではないでしょうか。 いや、私は何も人に迷惑をかけていないし、自分なりにまあまあの生活をしてきたと言われる方もいらっしゃると思います。 しかし、少しでも自分のことを正直に、率直に認めようとする人は、自分がみじめで、過ちを犯した者であることを認めざるを得ないのではないでしょうか。だれひとりとして他人に、または隣の人に不正を犯さなかった人はいないと思います。 それと言うのも、私たちの生活は自分中心と支配欲によって動かされているのではないでしょうか。 昨今の色んなニュースを見たときに、それを認めざるを得ないと思うんですね。もう考えられない事件が起きております。 自分の意思で人を殺そうとするという、本当に人間に有るまじき事がらがありますけれども、それが行なわれる時代になったということは恐るべき時代ではないかと思います。 しかしそういう罪もたくさんありますけれども、聖書で言うのは、この天地万物を造りになられた方に対する負い目はもっと大きなものであると言っています。 主なる神がご自身の被造物である私たち人間に望んでおられることは、私たちが主なる神を拝し、感謝と喜びと恐れをもって神を仰ぎ見るように主は最初に造られました。 しかし、サタンに騙されたということもありますけれども、すべての人間はそのことから遠く離れてしまっています。 ほとんどの人が、自分自身もそうでしたけれども、努力してることは自己実現、すなわち神なしに生きることであります。 その人たちは神の戒めを当然知りませんから、知らないでやっています。そして自分勝手に生活することこそ、自由であると思われていますけれども、実はこれこそ私たちを救ってくださった救い主に、また守り主である神に対する反抗であります。 この宇宙と言っても広いですから、私たちが目に見えるこの月、星そしてまた海、植物、また、春になれば桜が咲きますけれども、決して人間のわざによって花が咲くわけじゃありません。 私も飛行機に乗っておりますから、特に夜間飛行の場合は、ここの地上よりもコックピットから見れば非常に綺麗な星の流れ、そしてまたオーロラなどが見えます。 それを見たときに、これは本当に人間のわざではないと、本当に大きな力があるものだと、イエス様を知る前はそう思っておりました。しかし主を知る前のことでありましたから、それが神のわざであるということはなかなか悟ることはできませんでした。 今から20年前の日航機事故を通して、自分自身がイエス様のもとに導かれた。それは、かつて日本国にはたくさんの事故がありました。しかしそれは他人事にしかあまり思えなかったんですね。 でも20年前に起きた事故は、あの飛行機は自分自身が二日前に乗った飛行機であり、そしてその飛行機の事故の原因はパイロットミスではなくて、飛行機の修理ミスであったということを考えたときに、普通のお宅でも、その今朝、ガラスが割れていなかったのに、夕方になったら割れたというような感じで、二日前に乗った飛行機だった。 でもひょっとして自分だったかもしれないという、その恐怖感と言うんですかね、死に対する恐れ、そしたらそれらのものの前には今まで自分が培ってきた経験とか、知力とか、または色んな勉強してきたことは何の役にも立たないということを知らされて、本当にこれからどうしていいんだろうというペチャンコの状態でした。 そんな時に主イエス様にお会いすることができました。それが罪であるということを知らされたのは、イエス様を知らない、主なる神を知らないということが罪であるということを知らされたのは、もう少し、あの事故があったのは8月ですから、9月くらいでした。 そしてベック兄が学ばれたローマ人への手紙のテープがあったもんですから、それをとにかく求めるように聞きました。 そして、ローマ人への手紙の次のみことばで、「本当に私たちが罪人であるのに、イエス様が私自身の代わりに死んでくださった。」という、その深い愛に心が開かれて、そのみことばの前に泣いたことを覚えています。 ローマ人への手紙5章の6節から10節。特に難しく、聖書を知らない方でもそのまま読んでいただければ、非常に素直な文章ではないかと思います。 ローマ人への手紙5:6
これは健康的に強い、弱いではなくて、本当にその主を知らなかったとき、 ローマ人への手紙5:6
主を知らない者 ローマ人への手紙5:6
次なんかは、本当にこの現実の世界に当てはまることではないかと思うんですね。 ローマ人への手紙5:7
確かにそうだと思います。 ローマ人への手紙5:7
あるいは、というのは本当にゼロ、コンマゼロゼロの分ではないかと思うんですね。 ローマ人への手紙5:8
イエス様を知らなかったとき。本当の救い主を知らなかったとき。 ローマ人への手紙5:8-9
イエス様が十字架の上で流された血によって ローマ人への手紙5:9-10
イエス様の十字架の死によって ローマ人への手紙5:10
この文章を読んだときに、何ていうことばを使ってよいかわかりませんけれども、「わかった」ということばでもないですし、「悟った」ということばでもないし、ただこのみことばが心の中にはいった。 そしてその心の中にあったわだかまりが溶けて、本当にその主の前にこみ上げるような、本当にこう、ごめんなさいという気持ちが出てきました。 そして、それは朝五時頃だったんですけれども、そのみことばを聞いて、本当に泣きました。自分のような者のために、この本当に天地万物を造られた方のひとり子が死んでくださった。 言葉で表わせばそれだけなんですけれども、その大変な事がらについて、「こんな者のために・・・」っていうふうに思わされて、ただ本当に泣きました。 それは本当に私たちひとりひとり、それぞれが色んなところから導き出されて、その救いの体験をされたと思いますけれども。本当にこのような者のために死んでくださった。 主なる神の人間に対する判断は本当にどんな立派な人でも「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」というのが、主なる神の人間に対する判断であります。 それぞれ人、みなさん心の中で、「いや、私はまあまあの人だ。」というふうに思っているかもしれませんけれども、この天地万物を造られた偉大なる方の私たちひとりひとりに対する判断はこのとおりであります。 しかし、そのような人間に対して、神に敵対する人間を主はお見捨てにならず、人間のすべての罪、過ちを贖うために責任を取ってくださいました。 すなわち主なる神は世の罪を取り除くために、罪のない聖いイエス様を十字架にお架けになりました。 そのなしてくださった十字架のみわざに対して、私たちは何をしたらよいでしょうか。なんにもできません。ただ主の前に素直に感謝することしかないのではないでしょうか。 本当に今日来られた方で救われたいと思う人は、あるがままの状態で「神さま。こんな自分をどうか救ってください。あわれんでください。」と今すぐに主なる神に頼むことができますし、祈ることができます。 私たちがすべての重荷から解放されて罪、わがままから自由になるには、そのままの状態でイエス様の前へ悔い改めて、主のなしてくださった十字架のみわざに感謝して、自分の人生をイエス様におゆだねすることであります。 人間は罪人であるから、罪を犯したから滅びるのではなく、主なる神のあわれみを求めないから滅びるのであります。 ですからこの詩篇の103篇は、神のあわれみの詩篇と言われています。 素直に自分の心をイエス様の前に注ぎ出し、主のあわれみにすがるなら、主はすべての咎を赦し、祝福してくださいます。ルカの福音書の中に、 ルカの福音書15:10
ひとりのわがままな人 ルカの福音書15:10
私たちも嬉しいですけれども、 ルカの福音書15:10
と。天においてはもっと大きな喜びがわき起こると聖書にあります。 この主の救いにあずかるには、聖書の知識も、別に立派になることも、教会になることも、洗礼を受けることも必要ありません。ただ主の前にあわれみを乞うだけであります。 次の聖書の個所は、その例として適切だと思います。なぜならば、彼は集会に行く時間もなかったし、聖書を読む時間もなかったと思います。 もちろんその十字架に架けられる前に、どこかでイエス様の福音を聞いたかもしれません。しかし彼はギリギリのところで主の御名を呼び求めました。 有名な個所ですけれども、ルカの福音書の23章。これはイエス様と二人の強盗が十字架につけられた記事であります。 ルカの福音書23:39-41
ここで自分自身の罪を自覚し、悔い改めるわけですね。 自分のしたことの報いを受けているから、自分たちが十字架につけられるのはあたりまえだ。 ルカの福音書23:41
このイエス様 ルカの福音書23:41
もう心のその中にその悔い改めの状態が出ております。そしてイエス様に次のように言いました。 ルカの福音書23:42
決して聖書的なことばは何も言っておりません。ただ自分自身のことをあわれんでくださいと言いました。イエス様は何と仰ったでしょう。 ルカの福音書23:43
イエス様は彼のその心の内を見てくださいました。 私たちも主の前に決して格好をつける必要はありません。いつも日々、日常生活において色んな悩み、問題があります。でもそのまま主の前に注ぎ出すときに、主は最善に導いてくださいます。 私も飛行機の中に乗っておりますと、飛行機というのは本当にこう、人間社会の縮図なんですね。 以前はあまり起こらなかったんですけれども、例えば座席をリクライニングする。そうすると後ろに座っている人が押す。 「なんでリクライニングにするんだ。」って。「いや。ゆっくり寝たいから。」「俺は狭いからリクライニングにするな。」それで喧嘩になるんですよね。 確かにお客さん同士だから、喧嘩を私たちが仲裁する立場にはいないんですけれども、いわゆる機内の保安のためには、乗務員がそこにはいって、両方の言い分を聞いて、正しくさばくと言えばおかしいんですけれども、なだめなきゃならない。 警官だったら自分自身のその与えられた権力でもって支配することはできるんですけれども、私たちはどちらかと言うとサービスするほうですから、どちらのお客さんにも良いように、良いようにというのは、満足いくようにしなきゃいけない。 でもできないんです。そんなことは。百人いれば百人とも色んなわがままをもってますし。 こういうふうに座席が並んでると、当然前から食事が出ますよね。前の人は早く食べますよね。後ろの人は、「おい。食事が出ないぞ。」って。見えるわけですよね。 順番に配ってるから、時間が経てば自分のところに来るのはわかるんですね。でも待てない。「なんで来ないか。どうして遅いんだ。」 飛行機の中だけじゃなくて、世の中というのは今そういうような状態。自分自身の思いを遂げようとする、貫こうとする。その中において私たちはすべての人に満足するようなことはできないんですね。 ただそのようなトラブルが起こったときに、私はまず祈ります。「本当に、あなたは、彼らはイエス様を知ってるかどうかわかりませんけれども、彼の心も支配してください。で、私自身も怒らないように支配してください。」って祈りながら、話を聞きに行くわけなんですね。 それは本当に不思議に、体験してみなきゃわからないんですけれども、主は整えてくださいます。 どこかで話したことがあると思うんですけれども、東京からアムステルダムに行ったフライトで、あるお客さんが二時間の内にウイスキーを二本飲んじゃったんですね。で、ベロベロになっちゃったんです。 隣の人に迷惑かけるし、そのうちにシャツを脱いで、靴下を脱いで、いわゆるこういう客室の中を歩き回って、もう禁煙の規則が出来て始まったばっかりだったんですね。 その人は、「みなさん!タバコを吸いましょう!」とかね。「ここでみんなで歌いましょう!」とか・・・もう騒ぎ出すわけですよね。 せっかく旅行を楽しんでいるお客さんはもう嫌なんですよね。それを何とかしなきゃいけないのは私たちなんですよ。 でも何とかすることはできないわけです。でも今本当に男性の客室乗務員が少なくなって、女性ばっかりですから、特にそういうことが起こってきてるのかわかりませんけれども、私自身もそこに行って、ベロベロに酔っ払っている人を、いわゆる乗務員が座る所に連れて来まして、それで話をさせるんですね。 彼はなんか色んなこと喋るんですね。自分の趣味だとか、それからスポーツのことだとか、とにかく喋って、機内は湿度がゼロですから喉が渇きますよね。 それから水を飲ませて。どんどんどんどん水を飲ませて。それで五時間くらい経って正気になったんです。それでその時に「私はどうしてここに座ってるんですか?」って言われたので、「あなたは、シャツを脱ぎ、靴下を脱いで騒いだんです。」 「えっ?!私はそんなことをして・・覚えがない。」ということ言うわけですね。初めから聞いたら、「いや、実は旅行に出る前に家内に言われた。『あなたは酒を飲むと人が変わるから飲まないように。』と。」でも免税品で買ったらしいんですよね。で、自分でガッと飲んでしまった。 「やっぱり家内の言ったことは本当だ。」っていうところから、どうして私とこうして話してるか。という話になって、どうしてそんなに忍耐をもって話してくれるか。っていう話をしたので、結局イエス様の話をしたんですね。 で、「飛行機はこう飛んでます。でも飛行機が落ちたらどうなると思いますか?」っていう話をして、彼に最終的には福音を伝えることになってしまったんですけれども。その六時間というのは本当に疲れました。 でも主がいてくださるがゆえに、私たちひとりひとりは色んな疲れ方があると思いますし、耐えられないこともあると思うんですけれども、主は生きておられて支えてくださるということ、おひとりおひとりがみことばを通して体験されていると思います。 本当に地上の生活は私たちのこの目に見える形の短い部分にすぎません。 人生の大切な目的。それはまず第一に、まことの神を知ることであります。聖書の中に、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」 人間が多くの悩み、苦しみを通してたどり着くべき目標は、やはり新しい生まれ変わりであります。そして新しい世界で主なる神とともに、イエス様を賛美して住むことであります。 そのために大切なことは、自分の罪、わがままが赦されていることを知ることではないでしょうか。 ヘブル人への手紙の4章の1節をちょっと見てください。イエス様はひとりひとり、まだイエス様を知らない方のためにも待っていてくださっております。 ヘブル人への手紙4:1
ヘブル人への手紙4:7
きょう、もしみことばを聞くならば、 ヘブル人への手紙4:7-9
ヘブル人への手紙4:11
ヘブル人への手紙4:13-15
イエス様は決して私たちの弱さを責めません。弱さに同情できない方ではありません。「そのままの状態で主のところに来なさい。」と主は呼んでおられます。 主がよくしてくださったすべての咎、罪、それをイエス様の十字架の贖いによってすべて解決されている。 その前に自分自身がごめんなさいをして、イエス様がなしてくださったことをここに受け入れるならば、主は赦してくださるとあります。 第二番目として、すべての病をいやすとあります。 ダビデはいわゆる肉体的に見える病気にかかっていたのではなく、罪を根源とする恐るべき苦悩、恥辱の中に心が病んでいました。 その中で一番大きいことは、自分の部下の妻であるバテ・シェバとの姦淫の関係でした。このことに関しては今日お読みしませんけれども、旧約聖書のサムエル記第IIという11章から12章の中に詳しく出ております。 その部下の奥さんを取るために、その部下のご主人をも殺すように激戦に出させて殺してしまったと。姦淫と殺人の罪を犯してしまいました。 このことについて預言者ナタンから言われたとき、ダビデは、「俺は王だ。何をしてもいい。」とは言わなかったんですね。 正直に、素直にその罪を告白したと聖書の中に書いております。有名な個所ですけれども、これはダビデだけではなく、私たちにも当てはまる大切なみことばであり、幸いなことよ。と始まっておりますから、幸いなみことばであります。 詩篇32:1-4
嘘をついたり、何か隠していたりするとこの表現はぴったりだと思うんですね、喉は渇きますし、からだも重いし、喜びがない。 本当に冬でも夏の日照りの中におかれているような気がします。そしてダビデは、 詩篇32:5
とあります。 罪、咎を赦してくださる方は主イエス様はだけであり、人は確かに許したと言いますけれども、心の中では消えないんですね。 自分自身の心の中を見てもなかなか消えません。人にされたことは。でも主は忘れてくださいます。 ダビデは自分の引き起こした罪による忌まわしい心の病に苦しんでいました。そのために、もっとも親しい友人や近親者も彼から離れて行きますし、周りも敵だらけになったとあります。 ダビデという人は聖書によれば、神のみこころにかなう人でありました。しかし時には罪のためにいかにひどい状態に落ち込むことがあるということでありますし、私たちもそれらの可能性は十分にあります。そんなときにどうするか。 慌てるのではなく、すぐに主の前に悔い改め、そしてその自分の犯した罪を見ないで、赦してくださるイエス様を見上げることが大切ではないでしょうか。 自分の罪をいくら見ても、ただそれは段々日増しに心のうちにその罪のしたことが大きくなるだけであって、解決の道ではありません。 やっぱり赦してくださる主を見上げるときに私たちは新しい心が主によって与えられるのではないでしょうか。 そのことに関してヘブル人への手紙12章の1節から2節。ここに罪を見ないで打ち伏せてと書いてあります。 ヘブル人への手紙12:1
私たちの罪を見てください。じゃないんですね。罪を捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。 ヘブル人への手紙12:2
私たちも確かに罪を犯して恥ずかしいですけれども、そのはずかしめをものともせずに、イエス様の十字架を見上げて走ることが大切ではないでしょうか。 主イエス様の十字架は罪という心の病から解放してくださり、よみがえりのいのちへと導き出してくださいます。 ダビデが体験したすべての罪、咎、罪を赦してくださった。 そして二番目として、すべての病をいやしてくださった。目に見える外側の病もあるかもしれませんけれども、一番大きなのは試みではないかと思います。 そして第三番目に、「あなたのいのちを穴から贖い。」、とあります。 あなたは地面や山の壁に掘られているものであり、何かを捨てたり、隠したり、または人を、あるときは人を落とす目的のものかもしれません。ヨブ記の中に次のようにあります。 ヨブ記33:28-30
イエス様を受け入れても、本当に罪の中に落ちることもあります。 しかし主は、何度も何度も私たちに声をかけてくださり、「わたしのところに帰りなさい。」と。 ですから、「二度も三度も行なわれ、人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。」とあります。 聖書の言っている穴とは、滅びのことを意味します。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と、ルカの福音書の中にあります。 聖書がすべての人間に示している道は二つしかありません。永遠のいのちか永遠の滅びです。 主イエス様の十字架の贖いは、永遠のいのちへの道です。 それでは永遠の滅びとは何でしょうか。それは主イエス様が私たちの身代わりとして、罪の身代わりとして罰せられた、そのことによって全人類の贖いのみわざを成就してくださったという事実を認めようともせず、頑なな態度を取り続け、神が成長して・・・ (テープ A面 → B面) ・・・しません。 主はすべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。 「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。」と書かれております。 主イエス様に救われて信じるということは、宗教とは無関係であります。イエス様はキリスト教の教祖でもありません。 全人類の救い主であり、贖い主であり、王の王、主の主であられます。 主イエス様の約束してくださっている救いという良きものを手に入れるためには、主イエス様のみもとに行き、先ほどもお話しましたとおり、自分の罪を認め、自分のわがままの生活を本当に肉に捨て去る、離れ去ることであります。 このように罪を悔い改めた人には、次のようなことを信ずる特権が与えられます。 「私の罪は赦されました。主イエス様は私のような者を受け入れてくださいました。」というのは、主イエス様は、「わたしのところに来る者は決して捨てない。」と約束しておられるからです。 そして次のように毎日本当に祈ることができれば幸いではないかと思います。 「イエス様は私のすべての債務を赦してくださったことを感謝します。 なぜなら、あなたは偽り者ではないからです。 私たちはたとえそれを正しく理解することができなくても、 あなたのみことばはそう言っています。 あなたのみことばは真ですから、感謝します。 私はあなたのものとされたから、本当に感謝いたします。 どうぞこれから私を導いてください。」 と。 そして主イエス様を受け入れた者は、先ほど兄弟が話されましたけれども、再臨のときに主が迎えに来てくださる。 先ほど読んでくださったヨハネの黙示録の22章のその11節の中に次のように書いてあります。 主イエス様はもうすぐ再臨されますけれども、その中に不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者は汚れを行ないなさいということばが書かれております。 今の世の中を見ると、まさにその通りではないかと思うんですね。この聖書のことばはいったい何を語っているのでしょうか。 今のまま、自分の好きなように生きなさいと言っているのでしょうか。そうではありません。 それは、この聖書を通して与えられる警告を受け入れたくないならば、悔い改めず、不従順な生き方を続けなさいということであります。 その結果、滅びであります。 もちろん、先ほどもお話しましたとおり、主は私たちが滅びることを望んではおられません。 ですから神に立ち返り、勇気を与えるために主は、「わたしはすぐに来る。」と、「少しの時間も無駄にできない。」と叫んでおられます。 この恵みの時、救いの時におひとりでも本当に主イエス様の前に、正直に、素直に来ることができれば幸いではないかと思います。 では最後に一ヶ所読んで終わりたいと思います。 ヨハネの黙示録22:7
みことばのことです。 ヨハネの黙示録22:7
ヨハネの黙示録22:20
ありがとうございます。 |