引用聖句:創世記22章1節-5節
今、兄弟にみことばを読んでいただきましたけれども、今日は、「礼拝は祝福の源である。」ということについてごいっしょに考えてみたいと思います。 主イエス様は、主を受け入れた、そして従いたいと思う人を大いに祝福したいと思っておられます。私たちも本当に主イエス様からの祝福を本当にいっぱいいただきたいと願っております。 祝福の秘訣はやはり聖日の礼拝にあるのではないでしょうか。この礼拝についていっしょに考える前に、祈りと賛美と礼拝についての区別をしてみたいと思います。 一般的な考えによれば、礼拝の中に祈りも賛美も含まれていると思われます。しかし、よりひとりひとりが主の祝福を受けたいと思うならば、区別したほうが良いのではないでしょうか。 ことばに出してみますと、「主よ。わがたましいを救いたまえ。」というのは祈りです。 そして「主よ。わがたましいをお救いになられたことを感謝する。」というのが賛美。 そして「主よ。あなたが主であられることを感謝する。」というのは礼拝です。 礼拝は、神および神のなされた全てのことがらに対するわれわれの深い尊敬の印として私たちから神にささげれるものであります。 礼拝とまことの礼拝者についてはベック兄が書かれた「絶えず祈れ」の「上」の218ページに詳しく書かれておりますので、また後ほど読んでいただければと思いますけれども。 礼拝とは内容の無い儀式でも形式的なものでもありません。先ほど申し上げたとおり、礼拝とは生きておられるまことの主を体験し、イエス様のすばらしさを味わい知った人々のみが感謝とともにささげることができる大きな特権であります。 そしてまことの礼拝者とは、一番目、自分が罪の泥沼から引き上げられた者であり、自分の恥ずべき過去の罪がイエス様の血潮によってすっかり洗い聖められているという確信を持っている人々のことを言います。 また二番目として、主はもはや自分を責めたり、敵対するお方ではなく、自分の父であり、自分を愛しておられるということを知っている方であります。 まことの礼拝者とは、三番目、イエス様に栄光を帰することのみ願っている方々であります。 またまことの礼拝者とはイエス様を喜ばせようという願いに満ちており、イエス様を本当に心から愛している人々のことを言います。 今の四つのことを心に刻みつつ、引用聖句の中から礼拝についていっしょに考えてみたいと思います。 創世記4章の2節から4節の中に、ささげ物を持って礼拝するアベルとカインの記事を見ることができます。単純に読んでしまえば二人のささげ物に差があるとは思えませんが、しかしお読みになってわかると思いますけれども、主ははっきりと異なった態度を取っております。 主はささげ物をする者とささげ物に目を留めたとあります。それは何を意味するのでしょうか。ささげ物をする者、人間です。それは礼拝に対するその人の心の動機であります。そしてささげ物とは目に見える物でありますから、目に見える外側の態度を言うのではないでしょうか。 つまりカインは、地の作物から産物を持って来たとだけ書かれております。初物とは書かれていません。その地から出来た物をただ持って来るだけの心の状態。ただ何も考えず、形式的に礼拝に来た心の状態をご覧になり、主は受け入れなかったのではないでしょうか。 一方アベルは、羊の初子の中から、最良のものを、自分で、持って来たとあります。初子というのは本当に、イエス様も初子でありますけれども、私たち子どもを持つ者にとって、最初の子どもというのは非常に印象深いものであります。 そしておそらくご夫婦二人で本当に愛情を注ぎ込んで、長男、長女を成長させたのではないかと思うのです。二番目、三番目になると、段々手がもう掛からなくなったと言うのか、あまり気にしなくなってしまう。 私も最初の男の子が産まれたときは、当時はその日本にベビーフードというのがあまり無かったので、フライトの度にサムソナイトにアメリカからベビーフードをいっぱい買って来たことがあります。瓶詰めの重いものです。 でも一年八ヵ月後に二番目の子が産まれたときは、もうそれを全然やらなくて、家内は何かご飯に味噌汁をかけたような、何かもうそれほどまでに。イエス様をその時まだ知りませんでしたから。もう本当に最初は気を遣ったものであります。 初子についてレビ記の27章の26節に次のように書かれています。 レビ記27:26
と書かれてあるのです。つまり初子というものは初めから主のものであって、ですからアベルは羊の初子を持って来た。それも最良のものを持って来た。つまり主のものを主に返した。 そして、自分で持って来たということは、その人が主の前に感謝の気持ちとそしてへりくだりと謙遜の態度を表わしているのではないでしょうか。 詩篇51篇の16節から17節。主が喜ばれる態度がここに書かれております。 詩篇51:16-17
と書いております。カインとアベルの態度はその書いてある内容から見て一目瞭然、主が異なった態度を取ったことを私たちも知ることができます。 カインはただ、地の作物から産物を持って来ただけ。でもアベルは本当に、羊の初子の中から、しかも最良のものを、自分で、持って来たとあります。 この中に、本当に最善のものを主の前にささげた、そのへりくだりの態度、謙遜、感謝の気持ちをその中に表わしているので主がよしと認められたのではないでしょうか。このことは聖書の次の場面を思い起こさせます。 マルコの福音書12:41-44
と書かれております。しかしここで誤解をしないでください。私たちもこのようにしなければダメではなく、このことはやもめ女が全ての心を主にささげたことを意味しております。 そしてその心の底にある原動力は、その人の態度や行ないではなく、やっぱりみことばではないでしょうか。 詩篇の146篇。本当に主が成してくださった十字架のみわざと三日目のよみがえりに対して、私たちはことばを尽くし、また霊を尽くして本当に日曜日に礼拝をささげますけれども、長く集っていると段々それがことばだけのものになってしまいます。果たして心をささげているかどうか、自分自身もそのことを学ぶときに思わされました。 詩篇146:1-2
そして、 詩篇146:9
みなしご、やもめ、やもめはたくさん確かに献金しようと思っても、おそらくその日その日が大変であり、出来ないと思うのです。ですからレプタ銅貨を二つ投げ入れました。 金持ちたちはたくさんの金の中からそのうちのどのくらい入れたかわかりませんけれども、こういう人たちから見ればものすごく大金に見えると思うのです。 でもあり余る中から入れたわけでありますから、その心はそこに無い。でも、この貧しいやもめたちはそのレプタ銅貨に自分の心を託して献金したとあります。 私たちも確かにその日、財布を見たら500円しかなかった。でも主に、イエス様、本当に少ないですけれども、このことを全部受け取ってくだされば幸いに思いますという思いをすれば、本当に額ではなく、主はその心を喜んでくださいます。 イエス様はこの貧しいやもめを例に出して、本当にその目に見えるお金の多い、少ないではなく、その心が礼拝においてささげられているかどうかをいつも主はご覧になっておられます。 私たちも毎日曜日、主へ礼拝をささげますけれども、本当に自分自身、主に対する礼拝の態度はどうなのか。見てみたいと思います。 六つに分けて考えてみたいと思いますけれども、一番目、礼拝は何に基づいてなされるのか。 引用聖句、創世記22章の2節に、「神が仰せられた、」という個所を先読んでいただきましたけれども、アブラハムの行動は自分から考えたことではなく、神の啓示に対する彼の行動ではないでしょうか。 聖書に、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストのことばから来るのである。」とあります。どんな人にとっても神の権威によらないで行動することは、主の忌み嫌われることであります。 ですから、このアブラハムの行動から信仰を取り去れば、ただの殺人未遂の行為としか見ることができないのではないでしょうか。 「子どもをたきぎの上に乗せてささげなさい。」と言った。そこに主のことばが無ければ、本当にこの世の中で起こっている子どもを殺す親の態度としか見ることができません。 主に対する礼拝は主のわざと同じく、主のみことばによって導かれなければなりません。ですから聖日礼拝にあたっては、みことばを拝読し、それに基づいて主に栄光を帰す感謝のいけにえを、おひとり、おひとりがささげていらっしゃるのを私たちは見ることができますし、聞くことができます。 人間の思いがどんなに崇高であっても、真実らしくあったとしても、そうした人間自身の中から出る事がらは礼拝の拠りどころではありません。 コロサイ人への手紙の2章の23節に次のように書かれております。信心深い顔をして、人間の思いですることがらは次のようなものであるとあります。 コロサイ人への手紙2:23
先ほどのカインのように、ここから何か作物を持って行けばいいだろうというような態度としか主は見てくださいません。 神のみことばによって導かれること、これが礼拝の本質であります。 二番目として、礼拝は神の啓示を信じて、それに服従することを条件としています。 先ほどの創世記22章の3節で、アブラハムは何も疑わず、聞かず、尋ねず、少しのためらいもなしに彼は神の命令に服従したことを見ることができます。 このように、神の言われた、または啓示されたことに対して何も疑わず、即座に服従するのが本当の礼拝であります。 礼拝に関して神が何を啓示しておられるかを知ることは大切です。何も啓示が与えられなければ、賛美のリクエストでも良いのではないでしょうか。 なぜなら賛美は「主よ。わがたましいをお救いになられたことを感謝します。」という意味があります。 罪のない、汚れのない、聖いイエス様でさえ、自分の思いでは何事も行なわれなかったと聖書に書かれております。 ヨハネの福音書6:38
とイエス様は仰っておられます。だから日曜日の礼拝に何も考えないで来て良いということではありません。 やはり家を出る前に、礼拝の拠りどころとなるみことばを与えてくださいと祈りつつ来ることは大きな祝福に満たされるのではないでしょうか。 主に聞いて従うこと。それが祝福の原則であります。 イエス様は天の父なる方のみこころである十字架の刑にまで従ったゆえに、主なる神は満足され、その結果として私たち人類の罪の赦しが完了し、三日目のよみがえりを通して永遠のいのちが約束されました。 人間はこの主のなされたみわざに何一つ関係はありません。 この事実を覚えると、ただ本当に主へだけ心からの礼拝をささげざるを得ないのではないでしょうか。 第三番目に、礼拝には犠牲が伴います。そして最も良いもの、価値あるものをささげることを意味します。 2節にあるとおり、アブラハムに対して、主はその最愛のひとり息子を犠牲にささげることを要求しました。それはアブラハムにとっては最も重要な、しかも大切で貴重であり、その中に彼の将来の全希望が含まれていました。 アベルも彼の羊の初子、それも最良のものを、自分で持って来たとあります。そしてまたダビデも次のように言っております。「私は費用をかけずにハンサイを私の神、主にささげることはしません。」とはっきり言っております。 「まことの礼拝は霊とまことを持って礼拝しなければなりません。」と聖書の中にありますけれども、主ご自身の犠牲をもって買い取ってくださったその霊を主にささげることが大切であります。 日曜礼拝において、ただの人々に自分の代わりに礼拝させることは自分で礼拝するよりもはるかに安易であります。しかしこのような人々は、その行為によって礼拝の喜びも能力も失ってしまいます。 神に礼拝をささげるために費やされる行為は、神を喜ばせるものであり、のちに神は余りある祝福を用意してくださっていることは明白な事実であります。 また礼拝は神に何かを求めるということも意味しません。口に嘆願を持って来ることも礼拝ではありません。手にささげ物を持って、主に来ることを意味します。 ダビデは次のように主の前に告白しております。 歴代誌第I、29:14
とあります。私たちがいただいた主なる神からの永遠のいのち、まことの希望、喜び、平安は自分たちが作り出したものではなく、尊い主イエス様の十字架の犠牲を通してのみ、与えられたものであり、ただそれを本当に感謝をもって礼拝のときに私たちの口からそのことをはっきりと告白するときに、主はまた新たにその倍をもって主は祝福してくださいます。 イエス様の成された十字架のみわざ、それに対して私たちはどのような感謝の気持ちをもって礼拝するか、主は期待しておられます。 ですから、礼拝が単なる祈り会になってしまうことが、いかに主を悲しませることになっているか、私たちひとりひとりもう一度自分自身も主に吟味していただくことが大切ではないでしょうか。それは私たちが祝福を受けるためであります。 申命記の中でダビデは次のように言っております。 申命記26:10
もしダビデが「主よ。初物を持ってまいりましたので、私がそれを携えて行くのを手伝ってください。」と言ったならば、まるで、礼拝を手伝ってください、と主に命令しているようなものであります。 また礼拝の場所に来てから、「ああ、主よ。本当にどうかわれわれに礼拝できるようにしてください。」と言って嘆願することも、また、まことの礼拝ではありません。 礼拝は私たちが、神を礼拝できるようにと祈ったり、とりなしの祈りをしたり、また何かを嘆願するのではなく、われわれの心からの感謝のいけにえを主にささげるためであります。それは別に長くなる必要もありませんし、その心を主にささげ出せば主は喜んでくださいます。礼拝は神の啓示を信じて、それに服従することを条件としておりますし、礼拝はみことばが礎となっております。 四番目として、礼拝するために自分自身を神のささげ物として、慎重に聖別することが大切であります。 先ほど引用していただいた聖句の中の5節に、 創世記22:5
と言いました。ここに出て来るふたりの若者とは、この世において礼拝から心を妨げるものであり、ふたりとあるのは、複数のことがらを意味します。 ヨハネの福音書21章の18節に次のように書かれております。ここに、若い時とかいうことばが出てまいります。 ヨハネの福音書21:18
これは信仰の歩みを表わしていることばであります。この、若かった時とは、この世で自分を中心とした生き方を表わしています。信ずる者が新しい行き道に歩み、礼拝するために自分の心を妨げるものから離れることが必要です。 アブラハムがしたように、私たちもこの世の複数のことがら、仕事、趣味、その他、私たちの心を礼拝から遠ざけるものに対して私が向こうへ行って礼拝する間、「あなたがたはそこにいなさい。」という態度が大切ではないでしょうか。 アブラハムは若者から別れてのち、山に登り、頂に達し、そこで礼拝行為が完了したというように、私たちも地上のことがらをあとにし、神に感謝をささげたときに、余りある主の祝福を体験することができるのではないでしょうか。 第五番目に、礼拝は主なる神に栄光を帰するとあります。 アブラハムのこの礼拝行為は、主なる神の心を喜ばせました。なぜかと言いますと、最も愛する者をささげること。アブラハムにとってイサクをささげることは、まことの礼拝を意味しているからであります。 犠牲のあるところには必ず祭壇が築かれます。祭壇の築かれるところには必ず礼拝があります。このことを深く静かに思い巡らすなら、私たちにとって主イエス様の十字架の犠牲がどれだけ価値があり、大切なものであるか、深く知らされるのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録5:9
大切なところは次なのです。 ヨハネの黙示録5:9
と書いてあります。主イエス様が成された十字架の贖いは私たちのためではなく、神のために、最初ささげられた。そして、そのことを通して人々を贖い、そして、 ヨハネの黙示録5:10
とあります。 ここはメサイアでよく歌われるところでありますけれども、つまりイエス様が流された血潮は主のためであり、主はその血潮を見て満足した。それゆえ十字架の犠牲を自分のものとし、受け入れる者も神によって赦されるということであります。 主なる神が満足されなければ、全く意味の無いことであります。主なる神が満足したゆえに、本当におこぼれのように私たちはそのことを通して受け入れた者は罪の赦しをいただくことができ、永遠のいのちをいただくことができる。 主イエス様の血潮は主なる神を満足させ、そしてあらゆる人々の罪を贖うためにも十分余りある価値であることを知らなければ、大胆に主に近づく・・・ (テープ A面 → B面) ・・・にあみ出されていたのであります。 なぜならアブラハムはイサクのそのよみがえりを信じていたわけであります。なぜならば、あなたの口から出るイサク、およびその子孫は代々に祝福を受けるというみことばを主からアブラハムはいただいていたわけであります。 心から神に従い、神の御名にふさわしい栄光を神に帰する人々の心の中は、神は何倍もの祝福を注いでくださいます。 ヨハネの福音書7:38
とヨハネの福音書7章の38節にあります。 イエス様は信ずる者すべての者にご自身を与え給う霊的生命のことを、生ける水という例えで話されています。 この生ける水は、信者が新しく生まれたときに入ってきます。そしてそれらは礼拝のとき、信者の心の中に湧き出て、主に向かって流れ出ます。このように礼拝は、この生ける水がその源に戻ることを意味します。 ソロモンは、すべての川は海に注ぐが、海はそのために少しも溢れないことを発見したとあります。何とすぐれた方ではないでしょうか。 ひとつの器に物、水を入れれば、それはいっぱいに溢れてしまいますけれども、確かに世界中見て、色んな河川が海に注いでいますけれども、海が溢れることはないという。科学においてもソロモンは非常に秀でた知恵者であります。 伝道者の書1:7
と伝道者の書の1章の7節で彼は言っております。 こうして神からわれわれに注がれる霊的生命は、礼拝においてわれわれから主なる神へ帰って行きます。 礼拝とは英語で「worship」と言いますけれども、この語源は、価値あるものに価値を返すという意味であります。 私たちもこの、アブラハムの主に対する礼拝の態度を通して、主イエス様の十字架の犠牲を通して、すべての罪が赦され、三日目のよみがえりを通して死から解放してくださったイエス様に心から感謝の礼拝をささげるならば、主は大いに祝福してくださるのではないでしょうか。 本当に礼拝ということを通して私たちは主イエス様が本当にひとりひとりを祝福したいと望んでおられますので、本当にその礼拝に出る態度をいつも整えていただければということを願っております。 では最後に一ヶ所読んで終わりたいと思います。 詩篇95:1-3
詩篇95:6-7
以上です。ありがとうございました。 |