人生の大切な選択


和田芳明兄

(上新庄家庭集会、2006/05/06)

引用聖句:ルカの福音書23章33節-43節
33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
38「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
40ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

私たち、本当に主にあって一つの家族であるということを、色んな地方の集会に行くと思わされます。
今日のタイトルは、「人生の大切な選択」ということで、いっしょに考えてみたいと思います。
今、兄弟に読んでいただいた個所は、色んな方が色んな形で引用されておられます。この記事はイエス様が二人の犯罪人といっしょに十字架につけられた事実を私たちに伝えています。

私は21年前の8月にこの集会へ導かれたことは、本当にそのとき嬉しく思いました。しかし十字架のことを考えると、いつも心の奥にそれが私と何の関係があるのかという思いを持っていたことがありました。
ですから十字架に関する賛美というのは、あんまり好きではなかったのです。「何か暗いなぁ。何かかわいそうだな。」という部分があったのですけれども、あるベック兄のメッセージの中で語られた、ローマ人への手紙5章の7節から11節、このみことばを通して私の心の内側、被われていたベールが取られたことを今でもはっきりと覚えています。
ローマ人への手紙5章の6節からにいたしましょうか。非常に当たり前のことが書かれているわけであります。

ローマ人への手紙5:6
6私たちがまだ弱かったとき、

イエス様を知らなかったとき、または、本当にイエス様をまだ知り始めたときと言ってもいいのではないでしょうか。イエス

ローマ人への手紙5:6
6キリストは定められた時

約2,000年前

ローマ人への手紙5:6
6に、不敬虔な者のために

本当にどうしようもない私のために

ローマ人への手紙5:6-7
6死んでくださいました。
7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。

これは人生を長く生活されれば確かにその事実を私たちは知ることができるのです。あの人が正しいからあの人のために死のうという人はおそらくいない。

ローマ人への手紙5:7
7情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

と、非常に少ないパーセンテージであります。

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、

本当にイエス様を知らないで、自分自身の思いや考えで生きていたとき、主イエス様が

ローマ人への手紙5:8
8キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

このときに、私の代わりに死んだということが私の心にすごく響いたのです。それが十字架の贖いかということを、直接主が私の心に語ってくださいました。そして、

ローマ人への手紙5:9
9ですから、今すでにキリストの血

主イエス様が流された血

ローマ人への手紙5:9
9によって義と認められた私たちが、彼

イエス様

ローマ人への手紙5:9
9によって

この主なる

ローマ人への手紙5:9
9神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

と。

ローマ人への手紙5:10
10もし敵であった私たち

本当に主イエス様と反対側にいた自分

ローマ人への手紙5:10
10が、御子

主イエス様

ローマ人への手紙5:10
10の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

と。
みなさんも何回も、何回もここを読まれたと思いますけれども、最初にそのテープを聞いたときに、自分自身のわがまま、罪のために他人が、しかもその神の御子である方が亡くなったという、そのことを聞いたときに、どう表現してよいかわかりませんけれども、涙が流れて仕方がありませんでした。
イエス様の十字架の犠牲はどうしようもない私の罪、わがままのゆえに主ご自身が私自身を滅びから助けるために、どうしても必要であったということを知らされ、そのテープを聞いたのが朝の5時頃だったのですけれども、そのご愛に触れて、ただただ涙が流れてしまったことを本当に今でも覚えています。
十字架の意味というのはそういうことか、ということを、本当にそのときの最初の一歩なのですけれども、それが知らされて、まさに驚くべき事実でありました。

そしてその人生の目的、今までは確かにいい生活をし、たくさん給料を貰って、良い地位に就いて、いい家に住んでというふうに思っていたわけでありますけれども、そうではなくて、そんなものはいつかは崩れ去り、いつかは無くなるものであると。
変わらない人生の目的とは何か。それは本当に、永遠の罪が赦されて、永遠のいのちをいただくことが人生の目的であるということをはっきり知らされ、このことをどうしても知らせたいと、そのときの職場においても、確かに飛行機に乗っているということは心の中ではいつも背中に死があると、別に戦闘機に乗っているわけではないので、戦争をしているわけではないから、死という問題が確かにすぐには無いかもしれませんけれども、でも21年前にその事故があった直後、あの飛行機には私は2日前に乗りましたから、自分であったかもしれないということを思ったときに、それはだれにでも可能性があるということを思わされました。
ですから、同僚、スチュアーデスの人々に、やっぱり本当の人生の目的があるのだということをどうしても伝えたいという思いが与えられました。

だれでも良いことを聞いたり、美味しいものをいただいたときには、親しい友人や知人に伝えたいという、ただ本当に単純な気持ちでありました。
そのときから、やはり自分の与えられた職場において主イエス様のことを伝える、伝えたいという思いで、現在にまで至っております。
本当に色んな方が導かれて、イエス様を受け入れて、今でも飛んでいる方もいらっしゃいますし、さらにもっと伝えたいという思いが与えられております。

本当に私たちは、ただあわれみと恵みによって主イエス様に一方的に救われた者であります。ただそれを、いのちの水を、本当に永遠のいのちを通り良い管として伝えるために今、私たちはまた救われて、置かれているのではないでしょうか。
自分たち夫婦がイエス様を知ったあとに、すぐにやっぱり思わされたのは、当時小学生であった二人の息子にイエス様を伝えたいということでありました。
親からどのように伝えて良いか、夫婦で祈ったわけですけれども、すぐにその事実が現われたのです。

下の子ちょっとしたトラブルを起こして、親としてはだれでもそういう体験はおありになると思うのですけれども、そのことをすぐベック兄に話をしたら、「子どもというのはそういうものだよ。でも罪がわかって良かったね。じゃあ来週から、軽井沢のキャンプがあるので前の日に来てお話しましょう。」ということを言ってくれたのです。
親としては、お兄ちゃんの方は大丈夫かなということで、「じゃあ下の子だけ連れて行けばいいですか。」という話をしたら、「いや。それは違うよ。もし二人、兄弟がいて、下の子だけが喜んで救われたら、そこでねたみが起こるよ。そして上の子の救いが遅くなるよ。」と言われたのです。ああ、そういうものかと思ったのです。
それでベック兄の別荘に泊めていただいて、次の日の朝、二人とも交わっていただいたのですけれども、「それもやっぱり家族の秩序で長男からだよ。」って言われたのです。

長男が一時間交わって、次男が一時間交わって、出て来たときには二人ともピースって言って出て来たのです。
「お父さん!ぼくたちの、いっぱい今、色んなこといっぱいやって来たけれども、もうイエス様が『2,000年前に十字架の上で全部罪の問題を解決したよ。』と言ってくださった。そして、『もう新しく生きなさい。』と主は仰っておられるから、うれしい。」って言って出て来たのです。
それが本当にその最初の、彼らのイエス様を知る機会でした。すぐにその家族の救いについて主は聞いてくださって、やっぱりそのところを逃してしまうと、段々と、中学生になり、高校生になると、本当にその自我が出てきますから、なかなか本当に救いに導かれるのは、大きな何か試練があるか、または病気か何か色んなことがあって導かれるくちが多いのですけれども、そのチャンスをやっぱり逃がさないようにすることが大切だということで、自分自身がいただいたその喜びを子どもたちにすぐ伝えることができました。

今、子どもたちは二人ともイエス様に従う者とされています。
やはり家族の救いというのは、本当に何か小さなときにやっぱり親としては気が付くことが大切ではないか。
子どもの救いを親が直接的にできることはできないのですけれども、それをやっぱり主であるイエス様のところに持って行くということが一番大切なポイントかなということを思わされました。

ちょっと話がずれましたけれども、この記事からイエス様とこの二人の犯罪人との関わり、そしてその結果について、ちょっと考えてみたいと思います。
十字架刑に関しては、マルコの福音書もマタイの福音書も、ルカの福音書も控えめに表現していることを私たちはそれを本当に注目に値します。
なぜなら、その恐るべき詳細を長々と書き続けるよりも、事実を端的に聖書は伝えております。「そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。」と、どの福音書にも簡単に書かれております。

しかしその十字架こそが私たちの人生を大きく左右する、影響を持つ最も大切な聖書のメッセージではないでしょうか。
コリント人への手紙第Iの15章の3節から4節。この個所もみなさん何度か礼拝のときにお読みになられたりすることが多い個所でありますけれども、本当に端的に書かれております。

コリント人への手紙第I、15:3-4
3私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

と書かれております。この日、ゴルゴタの丘に3本の十字架が立てられました。その様子をみなさん頭の中で想像していただければと思います。
真ん中にイエス様。そしてその両側に犯罪人たちの十字架が立てられました。
これは旧約聖書、イザヤ書53章の12節のみことばの成就であります。どういう個所かというと、イエス様はそむいた人たちとともに数えられたというふうに書かれております。
そして無限の愛とあわれみをもって、主イエス様は十字架の上から叫ばれました。自分を十字架につける、もちろんローマ人、そしてまた、色んな聖書の事がらについて反感を持っていた律法学者や聖書学者、そしてほかのユダヤ人、そして三年半いっしょであった弟子たち。

彼らもイエス様が捕まったときにはだれひとり残らないで、みんな逃げてしまったわけです。そのことに対してイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と。
これはその人たちだけではなく、私たちにも言われていることであります。このとりなしの祈りによって神の御怒りが人類の上にほとばしるのをどれほど防ぐことができたか。
そしてこのとりなしの祈りは今も生き生きとして私たち信ずる者の上に、そしてまだ主イエス様をご自分の救い主として受け入れていない方々の上にも注がれています。

そのイエス様が十字架につけられているその下でローマの兵士たちは、そのイエス様の着物をめぐって、くじを引いて、分けたとありますけれども、これは何を意味しているのでしょうか。
もちろん1,000年も前、イエス様が十字架につけられる千年も前に書かれた聖書の預言の成就でありますけれども、現代の私たちに当てはめれば、大切な人生の問題について語られているにも関わらず、これは色んな集会やキャンプにおいて、目に見える世のことがらで心がいっぱいの状態を表わしているのではないでしょうか。

イエス様が上に、十字架につけられている。そして彼は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、たぶん聞こえたか聞こえないか、そのローマの兵士たちにはわかりませんけれども、その下でイエス様の着物をめぐって、くじを引いて、分けたとあります。
聖書のことがらを引きながら、野球のことを考えているという、そのアメリカで貰ったトラフトに書いてありました。私は教会に行っています。聖書の話を聞いています。でも、その吹き出しがあって、頭の中ではヤンキースとドジャースの話が出ているのです。
まさに、そのローマの兵士たちもそうであります。本当に大切なことが語られているにも関わらず、心ここにあらずということがらは求めていない人にとってはまさにそのとおりであります。

もちろんイエス様を受け入れた方でもそういう部分があるかもしれませんけれども、やはりいつも自分自身の心をその集会なり、礼拝なり、キャンプに行く前に整えていただいて、みことばひとつひとつを、本当に自分のものとすることができるようにと祈りながら参加するのと、何も考えないで行くのとは、大きな差があるのではないでしょうか。
彼らの、そのローマの兵士たちが、その後どうなったか、聖書は何も言っておりません。でも私たちは、いつもこの聖書が与えられている、そして聖書のみことばがこの部屋にもたくさん掛けられていますけれども、そのひとつひとつが私たちにとっては本当に大切なものであるということを主が語りかけていくのではないでしょうか。
本当に大切な問題について語られていたけれども、彼らは何もしていなかった。それらの状態について、エレミヤ書の25章の3節から4節。

エレミヤという預言者は、本当に心を痛めて、イスラエルの民に主から言われ、預言を伝えました。
しかし、彼ほどそのことばで、このように表わしているかわかりませんけれども、生きているうちには報われなかった預言者です。いつも、いつも虐げられて、もういいというようなところまでエレミヤはいました。それでも彼は、その主のみことばを伝えたとあります。

エレミヤ書25:3
3アモンの子、ユダの王ヨシヤの第十三年から今日まで、この二十三年間、私に

私に、というのはエレミヤです。

エレミヤ書25:3-4
3主のことばがあり、私はあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞かなかった。
4また、主はあなたがたに、主のしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたは聞かず、聞こうと耳を傾けることもなかった。

とあります。ローマの兵士たちもまさにその通りでありますし、周りにいた聖書学者、律法学者たちもまさにその通りであります。
本当に、たびたび送った。ですから、こういうふうに家庭集会を行なわれることも主のあわれみであり、恵みであり、私たち救われた者が主のみことばをできるだけ大きく聞くようにと主が本当に用意をしてくださっていることは本当に感謝に絶えません。

主は私たちをあわれみ、愛しておられるがゆえに、絶えずそのみことばを私たちに送ろうとしておられます。イエス様の十字架の頭上には、「これはユダヤ人の王」という称号を掲げた罪状書きが書かれてありました。
ここで罪状書きがギリシヤ語とラテン語とヘブル語という三つの言語で書かれていたこの重要性を十分に認識することが大切ではないでしょうか。
つまり、この三つの言語は、当時の世界の主要言語であり、だれもがそれを読むことができるようにするためでありました。と同時に、このイエス様の十字架の贖いのみわざが全世界に伝えられたということを表わすのではないでしょうか。

この言語はいずれも一定の概念を示していました。つまり、ギリシヤ語は文化と知識に関する言語であり、その分野でもイエスが王であることを、その罪状書きは告げていました。
つまり、ギリシヤ圏の人々に対して、このイエス様の十字架のことが伝えられたわけです。そしてラテン語は、法律と政治に関する言語であり、イエス様はその分野でも王であられたということ。
つまり、法律や政治に関わる人々、並びに、ラテン語を話す国々の人々にまたイエス様の十字架が伝えられたということであります。

そしてヘブル語は啓示された信仰に関する言語でありました。つまり、色々なその主の御用に携わっている。でも目くらにされている人々に対してそのことばは、ヘブル語を通して十字架のことが伝えられた。
つまり、主イエス様は、あらゆる分野においても主の主であられ、そして、王の王であられることを、その罪状書きを読んだひとりひとりを通してその人々が意識しようがしまいが、主はすべての主であることを当時の全世界に伝えられた証拠ではないでしょうか。
そして十字架刑が執行されたとき、そこで何が起こったか。聖書は次のように言っております。

強盗たちは最初二人ともイエスを罵ったと書かれておりますけれども、一部の福音書からはこの事実を次のように書かれております。
ひとりは、キリスト、つまり救い主なら、自分たちを救えと言いました。しかしその後、もうひとりの人が、気持ちに変化が生じた。そして彼はもうひとりの強盗に向かって、そんな不遜なことばをたしなめたという個所があります。

ルカの福音書23:41
41われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。

つまり、自分自身がどうしようもないから十字架につけられたということを自分自身で認めているわけです。もう自分はどうしようもない者だということを、その強盗が最後の最後に自分自身のことを認めました。
そして、この強盗はイエス様に向かってこう言ったのです。

ルカの福音書23:42
42「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

そしてあなたの十字架の血潮は私を聖めるとか、そんな決まりきったことは何も言わなかった。
ただ、彼自身はその心の内側を正直に隣にいるイエス様に告白したということです。「イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」、これは驚くべき信仰ではないでしょうか。

この死にかかっていた強盗は、イエス様が死者の中からよみがえられ、やがてこの世界を治められることを信じたのである。
どこでそれを聞いたのか、聖書は何も言っておりませんけれども、本当にどこかで、イエス様が三年半、そのみことばを宣べ伝えたときに、彼らはどこかで聞いたのかもしれないし、また、救われた人々を通して聞いたのかもしれないけれども、本当に彼自身は主がよみがえることを知っていた。
そのために、「私のことを本当に思い出してください。」、本当に、こう小さな声だったかもしれませんし、へりくだって、本当に、そのことばを言うのが精一杯だったかもしれません。

イエス様は彼に何と言われたのでしょうか。「まあ、あなたがたは、そういう悪いことをしたから当たり前だ。」とは言わなかったのです。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と。明日まで待ちなさいとか、あさってまで待ちなさいとは仰らなかった。
「きょう、わたしとともに天国にいます。」、はっきりとその確信を与えられた。イエス様はその日のうちに、ともにパラダイスにいるという約束をもって、彼の信仰に報われました。

きょうというのは、何という早さでしょうか。このイエス様とひとりの強盗の話は、救いは悔い改めと信仰が条件であるという真理を明らかにしています。
けれどもこの話にはもっと他の重要なことがらも含まれています。つまり、救いとは、いわゆるさまざまな宗教的な決まりきった・・・

(テープ A面 → B面)

・・・色んな場所でイエス様のことを語るときに、からかわれたり、嘲られたりする経験はあると思います。
でも、それでもこの強盗は大胆に告白した。主イエス様の証しをしたわけであります。

この態度を見るときに、私たちは最後まで希望があるということを思うことができるのではないでしょうか。
本当に病気で死にかかっている家族のもとに行って、イエス様のことを伝える。その最後の最後まで主が待っていてくださっているということは本当に主のあわれみであり、主はすべての人が真理を知って、救われることを望んでおられるというみことばに従って主は働いておられるということを私たちはまた希望をもって歩むことができるのではないでしょうか。

またさらに大切なことは、主イエス様に会った人が全部自動的に救われるわけではないことをこの記事から知ることができるのではないでしょうか。
強盗はふたりいました。主イエス様の前にはふたりとも全く同じ状態に置かれました。しかし救いにあずかったひとりのことしか書かれていません。もうひとりの強盗のことは、聖書は何も言っておりません。
覚えておきたいことは、死という現実の向こう側にある喜びの本質は主イエス様との個人的な交わりにあるということであります。ですからひとりひとりが、大人であっても子どもであってもイエス様との関係が整えられなければ救いはあり得ないということではないでしょうか。

私たちが小学生の子どもたちにそれを伝えたかったのは、小さいからとか、分からないからという思いは全くありませんでした。
なぜならばイエス様は、子どものようにならなければ天の御国に入ることはできないと仰ったゆえに、本当に子どもは素直でありますから、そのことを素直なときに主のことを伝えるということは、本当に大切なことだということを思わされます。

この死にかかっていた強盗に対する約束の確信は、「あなたはわたしとともにいる。」ということばにありました。これこそ私たちの幸いな確信ではないでしょうか。
この大変な世の中に私たちは生きておりますけれども、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と主はどこにでもおられ、私たちの側にいてくださり、私たちの苦しみ、悩みを直接話すと、本当にそのみことばを通して語ってくださったり、または心に必要な交わりを通して平安を与えてくださるということを何度も体験されたということを私たちは知ることができます。

パウロは喜びの書簡と言われているピリピ人への手紙の中に、その死を前にした強盗と同じ心の状態になったということを彼自身が書いております。

ピリピ人への手紙1:21-23
21私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
22しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
23私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

先日、闘病生活を送っておられる兄弟のお見舞いに行って来ました。
本当に痩せ衰えられましたけれども、霊は本当に燃えておられて、ちょうど娘さんのお友だち夫婦が来ていらしたのですが、そしたら兄弟が、「兄弟、お願いがあります。是非あのお友だちにイエス様のことを伝えてください。」
自分は本当にもう起き上がれない状態だったのですけれども、でもその状態を置いて、自分の娘の友だちの救いのことを言われたというときに本当に、身体はもうボロボロであるけれども、霊は生きて働いておられるということを新たに知らされました。

そして、葬儀のためということで彼の証しと、そしてまた彼の証しがそのまま入ったCD、それが葬儀のときに、来られたみなさんに配られるものなのですけれども、一冊だけ、ベック兄に渡してくださいということでいただいたのですけれども、そこには本当に主の喜びだけが書かれてあり、もうイエス様だけですということが書かれてありました。
本当に自分自身のことは何も思わないで、「もしも早く逝ければ、もっと早く逝きたい。」と。「でもまだここに置かれているのは、最後まで主のご用があるからだ。」と、まさにこのパウロの言っているみことばではないでしょうか。

ピリピ人への手紙1:23
23私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。

と書いてありますけれども、まだあとどのくらいこの地上にいるかわからないけれども、最期まで主のことを伝えたいということを仰っておられました。
イエスキリストの側からひとりは天国へ、もうひとりはどうなったかわかりません。ところで私たちは十字架のどちら側にいるでしょうか。

聖書の中でイエス様は、この世には二つの選択があると言われました。
この世には二つの門があります。ご存知でしょうけれど、一つの門は広く、一つの門は狭い。
この世には二つの道があります。一つの道は広く、一つの道は狭い。
また、この世には二つの群れがあり、一つの群れはたくさんの人があり、もう一つの群れは少しの人しかいない。
この世には二つの目標がある。一つは永遠の滅びであり、一つは永遠のいのちです。

どちらを選ぶかは、主は決して強制されないからです。自由な選択が人間に与えられている。ですから、すべての人が真理を知ることを望んでおられると書いてあるのです。
すべての人が救われるとは主は仰っておられない。そこが厳しいところでもあるし、人間自身が本当に、意思で主を選ぶ時が与えられている。
それも最後までこの強盗のように与えられているということは本当に主は私たちひとりひとりを愛しておられるのではないでしょうか。

イエス様は罪人の友です。イエス様はどんな人々を受け入れてくださるのでしょうか。イエス様はみもとに来るどのような人も拒まず、受け入れてくださいます。
足萎えの人、目が見えない人、そして当時忌み嫌われた、らい病の人に対しても主は直接触られたと記事が出ております。イエス様はどのようにしてその罪人を受け入れてくださるのでしょうか。何も難しいことは必要ないのです。
この強盗のように、「ごめんなさい。」と頭を下げるか、または、パリサイ人と取税人の祈りにあるように、「本当に、こんな罪人をあわれんでください。」と、もう主の前に正直になった者は主は受け入れてくださいます。

イエス様はいつ受け入れてくださるのでしょうか。聖書は、「見よ。今は恵みの時、救いの日です。」と言っておられます。本当の人生の目的である永遠のいのちを持っていない方は今すぐに本物を得ることができます。
教会に行っていた、行っていないは全く関係がありません。というのは、3年ぐらい前でしょうか、御代田のキャンプである兄弟お会いしたのですけれども、その兄弟は集会に来る前に、23年間ですか、教会に行っておられたそうです。

で何を相談に来られたかというと、「私には喜びがありません。聖書のみことばを読んでも全く私の心には響きません。どうしたらいいでしょうか。」と言われたので、ぼくは、「その前の教会でイエス様を受け入れたときに、イエス様の前に自分自身がどうしようもないということを心から悔い改めましたか?」という話をしたら、「えっ?!そんなことは何もしてません。教会に行っているうちに段々と年月が経って、知らないうちに役員をして、知らないうちに色んなご奉仕になって現在に至っています。」ということを言われたのです。
「あ〜、そうですか。じゃあやっぱり最初に『イエス様』という門を通らないと、本当にそれは喜びがないのではないでしょうか。」ということで、一緒に悔い改めの祈りをしたのです。

そしてそれから三ヵ月後のキャンプのときに、彼はパッと来て、「本当に感謝です。やっと入り口に入れました。何かもう、嬉しくて。」と。「みことばが全部その心の中にはいってくるのです。家内もそのことを通して導かれました。」ということを言われて、「あー、良かったですね。」って。
「本当にこの世の色んな儀式や習慣は、本当に主イエス様の来るところを妨げる。こうしなければいけない。ああしなければいけないという思い、教えが私たち、小さいときからはいっていますけれども、主は決してそうではなく、そのままの状態で、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが重荷を取ってあげます。』という、本当にそのままの状態でいくことが大切ですね。」ということを言われて、「その言っているみことばが初めて自分のものになりました。」ということを仰っておられました。

私たちも確かにイエス様を受け入れて暫くすると、喜びというのは自分で稼いだものではないので、与えられたものでありますから、無くなっていくのです。
だから集会に出て、または、キャンプに出てみことばをいただかなければ、私たちは喜びが無くなってしまう。日々、食事をするのと一緒なのです。
今日、たくさん食べたから、明日から一週間食べないということはないと思うのです。霊の糧も肉の糧も、日々主が備えてくださって、それをいただくときに私たちは一歩、一歩主が本当にその歩みを整えてくださって、本当に最後は主に似た者と変えてくださるとあります。

ですから、本当に一足飛びにもならないでしょうし、主はどのようにひとりひとりを導いてくださるか、主はひとりひとりに対してご計画を持っておられますので、本当に絶えず、マルチン・ルターが言ったように、「日々悔い改めの連続です。」と。「今日もあなたのために何も出来ませんでした。ごめんなさい。」と言えば、もうそれで終わりなのです。
だから、やはり、その単純な主の福音に対して、私たちも心を開いて、家族の救い、友人の救いを祈っていくことができれば幸いではないかと思います。
なぜなら、「わたしに来る者は、わたしは決して捨てない。」と、主は私たちひとりひとりに呼びかけておられます。

では最後に一ヶ所読んで終わりたいと思います。申命記の30章の11節。
イエス様は私たちに決して無理なことを要求しません。無理なことを要求しても出来ないからです。

申命記30:11-15
11まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
12これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
13また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
14まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
15見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。

申命記30:19
19私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。

主イエス様が強盗のひとりに言ったように、「きょう、わたしはあなたとともにパラダイスにいます。」と。
今日という日は今日しかないのです。今日という日をまた、いただいたみことばをもって歩むことができれば幸いではないかと思います。
以上です。ありがとうございました。




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