毎日が主によって備えられた日、新しい日であり、よみがえりの日


和田芳明兄

(御代田喜びの集い、2006/07/21)

引用聖句:ルカの福音書24章44節-48節
44さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48あなたがたは、これらのことの証人です。

今、兄弟にみことばを読んでいただきましたけれども、この個所は、主イエス様がよみがえられてから昇天なさるまでの間に成された事実が要約されていると言えるのではないでしょうか。
主イエス様の復活は、主ご自身のことばが成就したものであります。イエス様は、先ほど読んでいただいた44章の後半で、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する。」と弟子たちに語られました。
モーセの律法と預言者と詩篇、この三つを合わせて、旧約聖書全体を意味するのではないでしょうか。それでは、イエス様に関する聖書の預言とは、どのようなものでしょうか。

一番目は、主は苦しみを受けなければならない。
二番目は、主は三日目に死人の中からよみがえらなければならない。
三番目として、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国々の人々に宣べ伝えられると。

一番目の、主は苦しみを受けなければならないというみことばは、有名なイザヤ書53章の1節から9節に書かれている内容であります。
よく礼拝でもこの個所を引用されて、祈られる方が多くいらっしゃいます。長いですから、その一ヶ所だけ。

イザヤ書53:4
4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

この苦しみこそ、私たち自身が負わなければならない苦しみであったけれども、イエス様が負ってくださったと5節から6節に書かれております。
次に、主は三日目に死人の中からよみがえられなければならないと。ヨナ書の1章17節に、

ヨナ書1:17
17主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。

このことは、ルカの福音書11章の30節でイエス様は言われました。
これはどういうことかと言うと、ヨナという人が主に言われて、ニネベの人々のために、「あなたがたは悔い改めなければ滅びますよ。」ということを伝えなさいとヨナは言われましたけれども、主の命令にそむいて、ほかのところに行き、船に乗って出掛けるわけですけれども、その船が難破しそうになった。そして、海に投げ込まれた。
彼はその投げ込まれた海の中で、三日三晩、大きな魚の腹の中にいて、救い出されたとあります。

主イエス様も、三日三晩、墓の中にいたあと復活成されました。
そしてヨナが異邦の大都市であるニネベの人々にメッセージを伝えに行ったとき、「悔い改めなさい。」ということを言ったとき、彼は少なくとも、死者の中からよみがえったイエス様のひな形として表現されております。
主イエス様は地上の生活、生涯において、最終的且つ、決定的な奇蹟は、ご自身の復活であります。ホセア書の6章の2節に、

ホセア書6:2
2主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。

と。主は三日目によみがえるという聖書の預言の成就であります。
そしてイエス様が十字架に架かった事実を、罪の赦しを、そしてまた、悔い改めがエルサレムから始まってあらゆる国の人々、当然日本も入っておりますけれども、今このようにして宣べ伝えられ、ここにおられるひとりひとりが主の前に悔い改め、イエス様の十字架の赦しをいただき、永遠のいのちをいただいている事実を見るときに、本当に色んな形を通して、主は私たちにその福音を伝えてくださっている。
しかし、本当に主の前に心を開かなければ、いくらいいことを聞いたとしても、それを受けることはできない。でもイエス様はこれらのみことばを悟らせるために、彼らの心を開いてくださったと、先ほど読んでいただいたみことばの中にあります。私たちがいくら勉強して、本当に頑張ったとしても、そのみことばは私たちの前には本当に心が開かれていなければ何の役にも立たないという事実であります。

よみがえられたイエス様は、開いてくださる方です。先ほど読んでいただいたみことばを含む24章は、開かれたもので満ち溢れていると言っても良いのではないでしょうか。
例えばルカの福音書の24章の12節に、開かれた墓、イエス様が葬られた墓でありますけれども、イエス様が葬られたあと、イエス様がそこからよみがえられてからっぽになった。ペテロが、主が埋葬された墓に行ったら、からっぽであったということ。
これはどのような意味を表わすのでしょうか。墓とは、救われる前の人々が生活していた、自分自身の考え、基準の中心であり、それが死に直結しているということではないでしょうか。しかし、そこから開かれたとは、主がよみがえり、主ご自身がそこからいなくなった。そのことを信ずる者も、その滅びの淵から救い出されたということを意味するのではないでしょうか。

詩篇40:2
2私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。

それは本当に主イエス様ご自身であります。私たちが巌の上に立ったのではなく、主が、私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされたと。私の歩みが自分で確かにしたとは書いていないのです。
全て主がそのように、巌の上に置いてくださり、そしてまた、人生を歩む歩みも主によって確かにされた。それは主の救いにあずかった者であり、主イエス様がよみがえられたゆえに、私たちは新しいよみがえりのいのちで歩むことができるということを表わしているのではないでしょうか。
また31節には、開かれた目。32節には、開かれた聖書。そして35節には、開かれた口というようなことが書かれております。開かれた目と開かれた聖書。本当に16節に、

ルカの福音書24:16
16しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

という個所があります。ふたりはその当時エルサレムで起こったイエス様の十字架の刑について話しながら、歩んでいたわけでありますけれども、そのときにイエス様が側に寄って、色んなことを話した、ということがありますけれども、彼らは目が塞がれていて、イエス様だということがわからなかった。
しかし30節で、主がパンを裂き、彼らに渡されると、彼らは初めてイエスだとわかった。ここにおける目が開かれたポイントは、主がパンを裂き、彼らに渡された、とありますけれども、つまりパンとはみことばであり、裂くとはその意味を噛み砕いて深い心の中まで主がそのみことばを語ってくださったことではないでしょうか。
ですから彼らは、そのイエス様とは知らないで、話していたわけですけれども、本当にその主が聖書について話してくださったときに、心の内に私たちは燃えていたとあります。

私たちも本当にそのみことば自身が自分のものになったときに、その喜びは本当に考えられない、ただ単なる字として読んでいたときは、そこには何の喜びもなく、ただ守らなければいけないのではないかとか、そのようにしなければいけないのではないかという、本当に義務感しかなかったわけですけれども、そのみことばが事実、自分自身の生活として励まし、また愛を受けたときに、本当にその心の中に主イエス様の愛の炎が燃え上がるという、そういうご経験をされた方もいらっしゃると思います。
主がそのみことばを砕いて私たちの心の内に語ってくださらなければ、本当に私たちはいつまでたっても開かれない目を持った者であります。
イエス様はそのような人たちに

ルカの福音書24:25-27
25するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
27それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

とあります。
イエス様は私たちの目には見えませんけれども、本当に聖書を祈りながら読むときに、「エッ!こんなみことばがあったのか。」、ということを私たちは体験することがあります。それこそ、主イエス様ご自身が私たちに、今、必要なことばを内側に語ってくださったことではないでしょうか。
24章の35節に、ここは開かれた口として表現されているのではないかと思いますけれども、このふたりは、

ルカの福音書24:35
35彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

とあります。主によって開かれた口が、その出たことばが、主の証人としてはっきりとした態度をみなの前で表わしたと、自分たちは確かに口を開いているわけでありますけれども、本当にその主によって開かれた口でなければ、主ご自身が本当に私たちの主であり、証人としてのことばを発することはできません。ただ上っ面だけになってしまいます。
しかし彼らが体験したことは、そのまま話したことによって、主ご自身の証人としてはっきりとここで、開かれた口として表現されているのではないでしょうか。そして45節で、

ルカの福音書24:45
45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、

とあります。本当にイエス様に頼るときに、全ての道は主ご自身が開いてくださいます。
先ほど兄弟が学んでくださった、マタイの福音書11章の30節のところに、主の荷は軽いとあります。これはキリスト者の生活に何の問題も試練も、苦労も、心痛も無いという意味ではありません。
それは私たちがそれらをひとりで負わなくてもよいということを意味しているのではないでしょうか。信者にとって致命的な誤りは、人生の重荷を自分だけで負おうとすることであります。

主なる神がそのように望まれたことは一度もありません。私たちがイエス様といっしょにくびきを負うときだけ、イエス様は私たちを扱ってくださいます。くびきはふたりのためのものであり、主ご自身がそのうちのひとりでありたいと願っておられます。
主は、苛立ちさを感じるような日常の仕事の中であったとしても、労苦をともにしたいと願っておられます。
キリスト者の生活における勝利と平安を手にする秘訣は、自分という厄介なくびきを取り去り、主である方の快適なくびきを受け入れることに見い出されるのではないでしょうか。

私たちは日々、人々に福音を伝えるために色んな計画をします。しかし、さまざまな体験を通して自分自身で立てて、自分自身でした努力というものは、本当に表面的には報いられるように見えるかもしれませんけれども、結果的には喜びがない。
しかし主が開いてくださった道を歩むときには、それは、全然先は見えないけれども、あとになって、本当に主がしてくださったという喜びの思いを主ご自身からいただくことではないでしょうか。
今回、ドイツのキャンプ、ホノルルでの結婚式、アメリカ本土での集いに参加しました。これ自身も、私たちといっしょに行った兄弟姉妹が先に一生懸命計画したわけではなく、それぞれ導きによって本当に主が道を開いてくださったということしか本当に考えられません。ひとつひとつ主が、その歩むべき道において、私たちが励ましになるようなことを与えてくださいました。

まずホノルルに飛んだときに、到着2時間ぐらい前にひとりのスチュワーデスが私のところに来て、以前二、三回、私といっしょに飛んだということで、わざわざ挨拶に来られたのです。
そして、このこともまた主の備えかな、ということで、家内と二人で話をし、当然どういう旅行かということを聞かれたので、こういうふうに兄弟姉妹と一緒にアメリカを回るのだという話をしたら、本人も、「実は私もクリスチャンです。」ということを言われて、そこで交わりが始まって、ご主人も一緒にその飛行機の中で働いているという、本当に不思議な組み合わせでお会いできました。
色んな話をして、集会の本をお渡しすることができました。本当にただ主の一方的な導きであったということを思わされました。

そしてホノルルでの結婚式のメッセージをしてくださいということを、一ヶ月ぐらい前に言われて、前の夜、いつもやはり書いた原稿を声に出して読んだりしていました。
家内の前でやると恥ずかしいので、いつも自分一人で、トイレに入ったりして練習していたのですけれども、練習しているときというのは、間違えてばっかりいるのです。発音記号を間違えたりして。でも、本当にみなさんに出掛ける前に祈っていただいて、話をしたのですけれども、メッセージをお話して最後に、次のような個所があったのです。
「夫婦というものは何かがあって、二人の間に重苦しい空気が流れるようなときに、『悪かった。本当にすまなかった。』という一言を言うことが大切です。」と、その原稿を読んだときに、自分自身が、こんなことを言いながら、自分はそのようなことをしているだろうかという思いを、急に主から与えられて、でもそのまま英語で言ってしまったのです。

「私は結婚して三十何年になりますし、イエス様を知ってから、二十何年になりますけれども、今考えると、本当に『自分が悪かった。本当にすまなかった。』と言ったことは、本当に少なかったです。しかし、今日という日、このメッセージをしたことを通して、是非そのことを家内に伝えていきたい。」と言ったら、みんなドッと笑ったのです。それまではシーンとしていたのですけれども。
これこそ、自分は言おうと思っていたわけではないのですけれども、主に押し出されたということで。本当にその日から・・。あとで家内に聞いてもらえばわかるのですけれども、「ごめんなさい。」とかって言えるようになったのです。
それまでは、なかなか言えなくて、「自分は悪くない!」っていうふうに思っていました。これも本当に主からいただいた恵みでありました。

それからアメリカ本土での集いでは、今回来られた方があったのですけれども、その方は次のように言っておられました。
「米国在住十一年、聖書は最初、『本』だったけれども、最近は内側からものと思うようになった。」と。これは自己紹介で仰ったのですけれども、その間に本当に嗚咽しておられました。
その後、「今日は本当に最高の一日だったと、本当に祈れて良かった。」と、集会の姉妹にE-mailが来たそうです。そのほか本当に多くの方々が集われました。主が本当に心を開いてくださっているということを体験的に私たちは見ることができました。

その人たちの苦しみに対して、私たちは何もわかりませんけれども、主ご自身が弱さに同情される方でないということを、本当に主がその中心におられて、その来られたおひとりおひとりに心に語ってくださったということを深く思わされて、私たちもまた、次に是非また来てください、ということをおひとりひとりが言われたことを思い出しました。
あと、最後に帰りの飛行機の中で、家内の横に座った女性がいたのですけれども、非常に感じの良い方だったのです。それで家内が喋っていたときに、その方がクリスチャンだということがわかりました。

そして、すぐに、その、どこまでが本当のクリスチャンかということを家内自身が聞きたくて、「レフトビハインド」というビデオを観たかどうかということを聞いたら、もう彼女は「何年か前にもう観た。」と。
そしたらもう、「主が来ることを本当に望んでいる。」ということを言ったときに、もうそこで初めて会った人なのですけれども、一つとなれた。
そしてお互いの名前を交換して、本当に主が来られる時に、天国か、本当にまた、再臨の時に会うことができるようにと。もう帰りは家族のような感じで別れることができた。それも主から備えられた、私たちに対する、この旅行のなぐさめでありました。

主は開いてくださる方であります。私たちもまた、よみがえられた主から、その開かれた口、目、心を与えられて、さらに主の証人として、まだまだ本当にイエス様のことを知らないで、苦しんでおられる方に、ことばで何か喋ることは確かに難しいかもしれませんけれども、本当に主を喜ぶことを通して、本当に主は私たちひとりひとりに必要な方々を導いてくださる。
ひとりひとりに主は備えられた人々があると聖書の中に書かれております。どれだけの人がその救われた兄弟姉妹に備えられているか、私たちはわかりませんけれども、毎日が主によって備えられた日であり、毎日が新しい日であり、毎日がよみがえりの日、いのちであり、歩むようにと主が望んでおられるのではないかということを、今回の北米の旅を通しても現実的に思わされました。
主は生きて働いておられ、そして全ての人が真理を知って救われることを望んでおられる。全ての人が悔い改めて、主を知ることを望んでおられると、この終わりの時に、また私たちもまた新たに、本当に主イエス様に祈りながら、主よ、どうぞ、ひとりひとりを主のしもべとして導いてください。と祈ることができれば、幸いではないかと思います。

では最後にもう一回、先ほど読んでいただいたみことばを読んで終わりたいと思います。

ルカの福音書24:45-48
45そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
47その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48あなたがたは、これらのことの証人です。

ありがとうございました。




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