引用聖句:サムエル記第I、30章1節-25節
今、兄弟にサムエル記第Iの30章1節から25節まで読んでいただきましたけれども、このみことばの内容から主の救いの約束と実行についての3つの事実を知ることができるのではないでしょうか。 一つ目として、家族の救いは主の約束である。 二番目は、救いに関してイエス様が導き手を備えられている。 三番目として、主の救いは求める者にはだれにでも公平に提供されているということであります。 それでは一番目の、家族の救いは主の約束であるということについて考えてみたいとおもいますけれども、今読んでいただいた2節に、「ひとりも殺さず」、と書かれています。なぜこのようなことが記録されているのでしょうか。 人間というものは自分が今まで生きて来た人生の行動、経験を通して物事を判断する性質の生き物であります。ダビデとその部下たちは、その連れ去られた家族について悲しみ、非常に悩んだことが今の3節から6節の中に読み取ることができます。 そして連れ去られた自分及び部下たちの家族はきっと全部死んでしまったに違いないと考えたのではないでしょうか。 なぜなら彼らの、ダビデたちの敵に対する態度は、サムエル記第Iの27章の11節で、彼らが今までずっとしてきたことは次のようだったのです。 サムエル記第I、27:11
要するに敵の部落を襲った場合、全部殺してしまった。ですから今度逆に、自分たちの住居が襲われて、家族みんないない。おそらく全部殺されたのではないかと。 ですから、その心の悲しみは本当に張り裂けんばかり。彼自身だけではなく、部下たちもそうだったのではないでしょうか。ですから悲しみ、非常に悩んだことが3節から6節の中に書かれております。 しかしなぜこのような問題を起こされたか。その背後におられる主の計画を悟らない民は、その現実の問題の前にうろたえて、その問題の原因は、遠いところに自分たちを連れて遠征に行ったからだと、ダビデのせいだと思い、今まで尊敬して従って来た主君を石で殺そうと言い出したと書かれております。 私たち人間は確かに順境のときには、「イエス様。イエス様。」と言うかもしれませんけれども、何かあったときには、逆に自分自身の思いが本当に赤裸々に出て、イエス様のことを忘れてしまう。そのような者ではないでしょうか。 それを受けたダビデにとっては、非常につらい苦しい状態に置かれたのではないかと思います。しかしそのようなときダビデは、もちろん自分たちの信頼する部下でありますけれども、部下であっても人間であると、人を当てにしないで彼の神に拠り頼み、奮い立ったとあります。 詩篇56:3-4
部下が自分に向かって、「そういうことが起こったのはあなたのせいだ。」というような言葉で言ったかどうかわかりませんけれども、雰囲気としてはそのような状態であり、全く孤立無縁の状態であった。そのときにダビデは最後まで主に信頼しました。 ダビデはどんな困難な問題の中においても、人に妥協したり、相談したり、また自分の考えや計画で行動を取らず、「主よ。どうしたらよいでしょうか。」という態度を取りました。つまり、聞く耳を持っているということであります。 この態度は現代の私たち、主を信ずる者にとっては一番大切なことではないでしょうか。 本当に、その部下の財産も全部奪われてしまった。そして当然、一騎当千の勇者がいるわけですから、すぐに行動を起こすことはできると思ったのです。でもダビデは主に伺ったのです。 すると主はダビデに次のように言われました。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」 やはりこの主のみことばに信頼するときに、主が私たちに語ってくださり、主のみことばが先を歩んでくださる。そうでなければ、いくら自分の思いが正しいように見えたとしても、それは失敗に帰するのではないでしょうか。 主は、「必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」とダビデに言われました。 現実の家族の救いも同様ではないでしょうか。主がみことばの約束を実行してくださることを最後まで信頼し続けることではないでしょうか。 彼らが本当にどのような状態にあったかということ。次のみことばで表わされているのではないかと思いますけれども、 ヘブル人への手紙10:34-36
すぐに追いつきたい。本当に親しい自分の妻や子どもが捕えられて、どういう状態になっているかということを思うときに、現代の私たちでもそういうことがあるかどうかわかりませんけれども、でも自分と例えば子どもの関係がとても遠い関係になった場合、何とかしたいというのは親の現実ではないかと思うのです。 でも親としても何にもできない場合があります。そういう場合どうするか。やはり主に頼ることしかできないのではないでしょうか。 ダビデたちもやはりそうでした。本当に、あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐ですと、ダビデたちはそこで忍耐を試されました。 そして主が、「必ず追いつくことができる。」というみことばに支えられて行ったところ、ダビデは、先ほど読んでいただいた19節で、何一つ失わず、取り戻したとあります。 家族の救いは現実である。つまり、目に見えない霊的な現実が目に見える現実のものとなった。 救われるということは、聖書の知識をもつことでもなく、また最初にイエス様の名前を呼んで悔い改めただけではなく、そのあとの歩みにおいてもはっきりと救われていなければ簡単にサタンに惑わされて、主から離れることは大いに私たちにあります。 そのときに周りの者、特に親しい者はどうするか。あれこれ騒ぎ立てるのではなく、本当に真剣に祈り、また親しい兄弟姉妹にその事実を話して祈っていただくこと。それが大切なことではないでしょうか。 そのことを通して主ははっきりとその事実を見せてくださる。人間の力でされるのではなく、主ご自身が救いを実行されるという、このダビデたちの成したこと。それは私たちに励ましと勇気を与えてくださるものではないでしょうか。 まだ確かにはっきりと自分の家族が全部救われていない場合がありますけれども、でも主はみことばにおいて約束してくださっている。そのことを私たちは忍耐をもって祈り続けること。それこそが主を信頼することではないでしょうか。 二番目として、救いに関して導き手が用意されている。 ダビデとその部下はひとりのエジプト人を野原で見つけたとあります。彼はアマレク人の奴隷であり、見つけられたときは3日3晩、飲まず食わずであったので、さぞかし打ちひしがれて、疲れて、瀕死の状態であったことが推察されます。 人間の目に映ったイエス様の状態はまさにこのようであったとイザヤ書にあります。有名な個所ですけれども、 イザヤ書53:2-3
とイエス様のことが表現されております。この奴隷も3日3晩死んだような状態で発見されました。 そのときにダビデと仲間たちの介抱のおかげで元気が与えられて、今や、自分を捨てた元の主人に渡さないなら、あの略奪隊のところへ案内しましょうと言いました。 このことはまさに、罪人が主の前に悔い改めて、この世の君であるサタンの支配から主の支配にいれられて、罪の赦しを確信し、新しい人生の目的に従おうとする意志を表わしているのではないでしょうか。 イエス様も罪のかたまりとして十字架につけられ、3日間墓に葬られましたが、3日目に聖書の預言どおりによみがえられて、罪の報酬である死を克服し、私たちに罪の赦しを得させる悔い改めを宣べ伝える導き手としてよみがえられました。そして人類の救いそのものになられたとあります。 使徒の働き10:38-40
使徒の働き10:42-43
とあります。イエス様ご自身は導き手として救い主、救いそのものとしてなられたとありますけれども、このエジプト人の奴隷もまさにそのひとつのひな型ではないでしょうか。 聖書には、「導く人がなければ、どうしてわかりえましょう。」とありますけれど、ダビデが野原で見つけたエジプト人の奴隷の回心を通して、略奪された家族、財産のところへ導かれ、何一つ失わずに取り戻したとあります。 この事実は、私たちのまだ救われてない家族についても、また迷っている家族についてもイエス様が導き手としてとりなしの祈りをしてくださっており、みことばを通して家族の救いの約束を実行してくださることを確信することができます。 三番目として、主の救いはだれにでも公平に提供されている。 ダビデはあのエジプト人の導き手を案内として敵を破り、奪われたものを全部取り戻したとあります。そして彼は取り戻したものを、追跡に参加した者と、疲れて参加できなかった者に対しても公平に分け与えたとあります。 しかし、このダビデの取った方法に文句を言った者もいました。確かに人間的に考えるならば、労を多くした者がたくさん与えられるのは当然かもしれません。 しかし救いは主イエス様の十字架の犠牲を通してのみ、提供されている一方的な恵みであります。 そこには人間的なひとつの宗教に入ったり、ひとつの行ないをしたりすることではなく、ただ主イエス様の一方的なあわれみであり、そのことをダビデは分捕り品の分け方を通して私たちに語っているのではないでしょうか。 決して戦いに行った者がたくさん取るわけでもなし、残った者がダメなわけではなく、主ご自身はひとりひとり、どんな人においても主の約束が公平に与えられている。 ローマ人への手紙3:20
と。 ローマ人への手紙3:22
と。ダビデがその分捕り品について、文句を言った者に対してはっきり言ったことは、「私はそれらの人に対しても同様にしたい。」と言ったことは、主イエス様ご自身が私たちに、ひとりひとりに仰っておられることではないでしょうか。 偉い人が何かをした。本当にダメな人は何もできない。だから救いは偉い人に与えられるということではなく、どんな人においてもイエス様を信じる信仰を得ることによって、神の義であって、それはすべての信じる人に与えられて、主から見れば何の差別もありませんとあります。 イエス様が十字架につかれて、罪の結果である主を滅ぼし、勝利をおさめられたので、天の御国の扉は信じる者すべてに向かって開かれています。この天国の扉はイエス様ご自身を意味しています。イエス様は、 ヨハネの福音書10:9
と、ヨハネの福音書の中に書かれております。 開かれた扉は自由にはいることができます。しかし扉が閉ざされると、もはやはいることはできません。大洪水の前、ノアの箱舟の戸も主が閉ざされたとあります。これはだれも開けることができません。 イエス様を救い主、そして主として受け入れた人々は、今この瞬間も父なる神へ開かれた道を持っており、さらに後ろには天国へ開かれた道を見いだすことができるのです。 イエス様は世界のさばきの起こる前に、ラッパの響きのような声で私たちを安全なところへ導こうとなさっています。信ずる者はさばきに会うほうへ進んでいるのではなく、イエス様の再臨に向かって進んでいるわけであります。 ですからこのダビデの主に対する態度を通しても、私たちはまた主の約束である家族の救いと、そしてまた主イエス様の再臨を心から待ち望もうではありませんか。 「人間ならよく話せばわかる。」という言葉がありますけれども、話してもわからないということを体験されたことがあると思うのです。 もちろんこの世において、仕事のことにおいても、「話をしても全然通じない奴だ。」というような部分があると思いますけれども、私たちはイエス様を信じたときに、同じ御霊をいただいているがゆえに、本当にこういう集会に来ても、初めて会った人でもすぐにひとつになれるということを体験することが多いと思うのです。 でも家族の中に、両方主を見上げていてもひとつになれないというときが来たときには、それはもう本当に何と表現していいかわからない、つらいことであります。そしてお互いの話がまったく通じないという部分も長く続けば続くほど、本当につらいものがあります。 やはりみことばを伝えていくことは親の責任であります。自然に置いていても子どもたちは救われません。決して信仰は遺伝はしないとベック兄が仰いましたけれども、子どもたちは子どもたちで個人的にはっきりと主につながるまで、親は忍耐をもって祈り続けることが大切であり、それが次の時代を背負う若者たちであり、ひいては集会のそのひとつの群れの、やはり成長のためには私たちがそこに目を向けていかなければならないと思います。 新しい若い人たちが、本当に以前のようなその活発さが無くなってきて、その交わりも何かこう、はっきりしたいものがあるというふうに聞いておりますので、私たち大人として次世代の成長のために、本当に心一つにして祈っていくことが大切ではないかということを今回与えられました。 ダビデもやはり歴戦の兵でありましたけれども、自分たちの子どもたち、また娘、妻たちがさらわれたときに、そこですぐに飛び出さないで、やはり「主よ。どうしたらよいでしょうか。」と聞く態度。それは現代の私たちにも求められていることではないでしょうか。 何か自分の力でできるようなふうに錯覚に陥りますけれども、決して人の救い、また私たちの集会のことについては、主イエス様ご自身が成さなければ、何にもできないと思いますので、これからもこういう交わりを通して本当に心一つにして、本当に苦しんでいる人や悩んでいる人とともにイエス様を見上げて、その方々の上に本当に主にある祝福があるように祈っていければさいわいではないかと思います。 では最後に一ヶ所読んで終わりたいと思います。 ヨハネの黙示録22:10
ヨハネの黙示録22:12
ヨハネの黙示録22:14
ヨハネの黙示録22:17
ヨハネの黙示録22:20
イエス様が来られるときがあり、恵みのときが本当に短くなっております。自分たちの大切な子どものために、本当にはっきりと主につながるように祈って行きたいと心から思います。 ありがとうございました。 |