引用聖句:マルコの福音書4章35節-41節
今日夕食のときに、別に計画をしたわけではないのですけれども、以前家庭集会でお交わりした方とご一緒しました。 家庭集会のあと、お仕事か何かの色んな悩みで今休んでおられるということで、色んなお話をして、最後にともにイエス様にお祈りした方なのですけれども、それ以来初めてお会いしたわけです。しかもその夕食の場所で。 そして色んなほかの座っていらっしゃる兄弟姉妹が質問をされておられましたけれども、ある兄弟がその兄弟に、「家庭集会でのお交わりの中で何が印象に残っておられますか?」と聞かれたらしいのです。 そしてその兄弟は、何か酒飲みのこととか話してくれたことを覚えているということを仰ったのです。 そして質問した兄弟は、「あなたはお酒か何か飲まれるのですか?」、「いや、全然飲みません。」、「どんな個所ですか?」ということを話されたので、どういう個所かちょっと思い出しましたので、箴言を読んでみたいと思います。 お酒を飲んだ方は分かると思うのですけれども、酒を飲みすぎると、こういう状態になるということが箴言の中に書かれているのです。 箴言23:30-35
そしてもう一個所のところが何か宴会のところというふうに言われたのです。 箴言の23章の1節から。これは本当に普通の会社勤めしている方なんかはよく分かると思うのです。 箴言23:1
課長でもいいです。部長でもいいです。あなたが課長なり、部長と 箴言23:1-3
飛んで6節。 箴言23:6-8
と。 「今日は宴会です。」、そして、「今日は無礼講です。」、課長なり部長が、「もうどんどん飲んで、食べて、言いたいことを言いなさい。」と言われた場合、それを本気になって飲んで、食べた場合は、7節の、 箴言23:7
なぜその人に食え、飲めと言われるかと言うと、普段真面目な人はお酒飲むと本性が出るということで、その人の真実を見るというのがこの世のやり方ということを聞いたことがあります。その話をしたらしいのです。 でもその兄弟は、これは本当に人間の心の中にあることだ。このことは、本当に聖書に書いてあることは、夢の世界ではなく本当のことだということで、そのことを通して聖書をお読みになるようになられて、今日初めて御代田に来られたということであります。 主はどのようにひとりひとりに、その心のうちに語りかけるか私たちは分かりませんけれども、聖書のみことばは事実であるということを、また今日来られた方が覚えて帰られれば幸いではないかと思います。 仕事のことで悩んで来られたというふうに最初言われましたけれども、「人の窮地は神の好機」とよく知られた諺であります。 みことばにも似ている個所があります。 詩篇119:71
とあります。私自身もそうでした。本当に、二十何年前のある事故を通してもう死の恐怖でさいなまれ、そのことを通して主のもとにイエス様があわれんで導いてくださったというのが事実であります。 しかし時間を経るにしたがい、再び自分自身が窮地に追い込まれたとき、自分自身がそれを神のよき訓練として受け入れる備えが今でも全く出来ていないことがしばしばあります。 先ほど読んでいただいたみことばの中の弟子たちの場合もまさに同じ状況でありました。マルコの福音書4章の35節から38節をもう一度お読みいたします。 マルコの福音書4:35-38
あわれな弟子たちはまさに窮地に追いやられていました。彼らは途方に暮れた状態でありました。激しい嵐、水でいっぱいになった舟、それにも関わらず眠っておられる主。これは確かに試練のときでありました。 私たちも確かに同じような状況に置かれればうろたえ、絶望に陥るのではないでしょうか。 私自身のことでありますけれども、不信仰は冷静になってよく考えてみれば、これほど愚かで理屈に合わないものはないのではないでしょうか。なぜならば、神の御子を乗せたままで、舟が沈んでしまうと考えることは愚かなことであります。しかしまさに弟子たちはそのことを恐れました。 弟子たちは今まで尊敬し、従ってきた神の御子であるイエス様のことをすっかり忘れてしまい、嵐や波や水に満ちた舟のことで頭の中はいっぱいでした。 常識的な判断では、確かに絶望な状態でありました。不信仰な心はいつも私たちの心を現実の状況だけを見せ、主なる神の存在及び権威、全能を除外しています。 「常識は時として不信仰へ導くことがあります。」、とオズワルト・チャンバーツ兄が書いておりますけれども、あまりにも常識的に考えると、本当に主の存在を忘れてしまう私たちではないでしょうか。 また不信仰はここに出てくる弟子たちのように、自分たちを不安に追いやります。 彼らは自分自身を休ませることができないばかりか、主イエス様をその眠りから起こしてしまった結果になってしまいました。 つまり弟子たちはイエス様を起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」、何という質問でしょうか。 「何とも思わないのですか。」という言葉は本当に主の敏感な御心をどれほど傷つけたことでしょうか。 主が弟子たちの困難と危険とに無関心であられるなどはいったいどうして考えることができたでしょうか。 弟子たちは、「何とも思われないのですか。」と言った時、主の御力については言うまでもなく、主イエス様のご愛までもすっかり見失っていました。 しかしこれはまさに私たちを映す鏡ではないでしょうか。確かにそうです。その困難や試練のときに「何とも思われないのですか。」という考えが私たちの口から出ないまでも、私たちの心に何としばしば浮かぶのではないでしょうか。 嵐が吹き荒れ、波は次から次へと私たちの小舟に押し寄せ、私たちは窮地に追い込まれ、途方に暮れてしまいます。 そして私たちの心はしばしば「何とも思われないのですか。」という不信仰な恐ろしい問いを投げかけそうになります。何と愚かなことではないでしょうか。 私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださった方、ご自分の天における栄光の場を離れ、罪と悩みと苦しみに満ちたこの世に下って来られ、私たちを永遠の怒りから救うために十字架の死を味わい、そして三日目によみがえり、新しいいのちを約束してくださった方がどうして私たちのことを忘れてしまうようなことがありえるでしょうか。 ピリピ人への手紙2章の6節から11節にそのことが書かれております。 ピリピ人への手紙2:6-11
と。しかしあわれな弟子たちはこの試練の時に失敗してしまいました。彼らの確信はどこかへ行ってしまいました。 そして、私たちがおぼれても、死にそうでも、何とも思われないのですかという、非常に主を信頼しない質問でイエス様を眠りから目覚めさせてしまいました。私たちは何と愚かな被造物ではないでしょうか。 たったひとつの困難がやって来ると、一方の恵みを忘れてしまうのです。イエス様がそばにいながらも、そのことを忘れてしまう。 あのダビデもあまりにも執拗なサウルの追撃の前に、主なる神ではなく、神の敵であるペリシテ人に助けを求めたと聖書の中に書かれております。 サムエル記第I、27:1
主に助けを求めないで、神の敵であるペリシテ人のところに行ってしまった。その結果はどうだったでしょうか。彼は滅びてしまったのでしょうか。そうではないのです。 彼自身がその不信仰の罪を悔い改めた。そして一方のサウルはギルボア山に倒れ、そしてダビデはイスラエルの王座に着いた、とあります。 ただ主がそうしてくださっただけではなく、失敗したゆえに、そのことをダビデが気が付かされ、主の前に悔い改めた結果、主は豊かに恵んでくださいました。 またエリヤはイゼベル、にせ預言者、色んな人を惑わした人でありますけれども、イゼベルを恐れて自分のいのちを守ろうと逃げた、と聖書の中にあります。 その結末はどうなったでしょうか。エリヤを殺そうとしたイゼベルは道路に落ちて粉々に砕かれたと書かれております。 そして一方のエリヤは火の車に乗って天に引き上げられた。死を見ないで、天に上がった。何とすばらしい結末ではないでしょうか。 今読んでいただいた記事でも、弟子たちは舟に乗っておられる神の御子、イエスとともに死んでしまうと思いましたけれども、結果はどうだったでしょうか。 かつてこの世界を創造されたその御声によって嵐はただちに静められ、海はガラスのようになりました。 マルコの福音書4章の39節。先ほど読んでいただいたところですけれども、 マルコの福音書4:39
とあります。最近も台風が来ましたけれども、本当に各地にひどい被害を与えているのは毎年のことであります。しかしイエス様にかかると、台風も被造物であり、本当に「黙れ、静まれ。」と、なぎになったとあります。 これは主イエス様の恵みと天地を創造された主としての権威が同時に現わされた瞬間ではないでしょうか。 なかなかそのことを、書いてあることを体験しなければ信ずることはできないのですけれども。 私は台風ではないのですけれども、飛行機の乱気流に会ったときに、まさにこのことを体験しました。 1時間45分のフライトの前に、ひどい揺れがあるという予想を得て出発しました。満席であり、もう本当に人間の力では不可能な状態でありました。 そして当然機長からも、おそらく到着までは乗務員も座席ベルトはしっぱなしであるので、お客さまには何もサービスが出来ないだろうと言われました。 上がりました。確かにすごい。小型機でしたので非常に風の影響を受けます。木の葉のように揺れました。 しかしこのとき、このマルコの福音書4章39節を思い出したのです。そして本当にこのことが、主が聞いてくださるかなということを私は思わされて、もう必死でそのことを祈りました。 「どうぞ乱気流を静めてください。全部でなくて結構です。静かにしてください。」ということを祈りました。静かになったのです! これはぼくしか言えないのです。ほかの人は聞いていて、えー、そんなことあるかな、と思うかもしれませんけれども、確かにそうでした。 そして到着前の準備が終わったときにまた激しく揺れ始めました。そして到着しました。お客さんが、「いやー、今日は揺れると聞いていたけれども何か途中で静かになったね。」というふうに降りて行かれました。 お客さんが全部降りてから機長も言われました。「ごめんなさい。今日は揺れると言って、何かミスインフォメーションを与えてしまって申し訳ありません。揺れなかったですね。途中。」 「そうでしょう。」ということで、実はこの話を税関に行くまでにその機長に話をしたのです。主イエス様の実際のこの話です。 黙れ、静まれという嵐を静めた個所があるのです。聖書にはその事実が書かれているのですという話をしたときに、彼自身はもちろんイエス様を知らない方ですから、きょとんとしていました。 でも、ぜひ聖書のことを知ってください、ということで帰りにリンデの本を渡すことができたわけですけれども。 本当に、先ほどのメッセージの兄弟が言いましたように、もしあなたが信じるなら、あなたは主の栄光を見る。 信じるか信じないか、二つに一つなのです。 ですからみことばの書いてあることを本当に真剣に祈りながら信じるならば、主はそのことをなしてくださいます。 主は休息を妨げた弟子たちを叱る代わりに、彼らを恐れさせたその原因をお叱りになったのです。 普通だったら、「何だお前たち。信仰がないじゃないか。こんな嵐でも平気だろう。」と言うのではないかと思うのです。 でもそうではなくて、弟子を叱る代わりにその原因である嵐に対して「黙れ、静まれ。」とイエス様は言ってくださったのです。そのように私たちを守ってくださる方なのです。 これが、「何とも思われないのですか。」、と言う弟子たちの質問に対する主イエス様の返事でありました。何と愛に満ちた、そして恵みに富んだ方ではないでしょうか。 聖書の中には色んな個所が出てきます。あるときペテロがイエス様のみもとに来て言ったのです。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 ここでペテロはその最大限、自分のもっている、もっているであろう信仰の広さをイエス様の前に表わしたのではないでしょうか。私たちもそのような者であります。 しかしイエス様の言われたことは、「七度までとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」 これは完全に赦しなさいということなのです。これは本当に悔い改めたら、いつも赦すことであるということが本当に永遠の愛であり、それが十字架の源であるということをペテロに伝えたかったのではないでしょうか。 イエス様は人の失敗を責め立てるのではなく、それを覆ってくださるその愛こそ、十字架の犠牲そのものであるということをペテロに伝えてくれました。それは私たちにも語られているのではないでしょうか。 私たちはいつも失敗する者であります。本当に主イエス様に喜ばれるように歩みたいと思っても出来ない者であります。 しかしそのことを正直に認めれば、主は本当に赦してくださいます。 イエス様はご自身がすべての罪の犠牲となってくださったゆえなのです。 ペテロの手紙第I、2:22-24
と。 もう私たちの罪はもう2,000年前にイエス様の十字架によってもう赦された。解決された。それを聖書は私たちに語ってくださいます。 しかしその前に、本当に自分自身がわがままでどうしようもない者であったということを主の前にごめんなさいするということが第一条件であります。 イエス様は今も常にご自分の民の求めに応え、私たちの心配を静め、恐れを取り去ろうと備えておられます。 私たちは日々、主イエス様により頼まないことによって、つまり自分を正しいとする態度にどれほど大きな損失を被っていることでしょう。 そのときは分からないかもしれませんけれども、あとになって、「しまった。」、と思うのではないでしょうか。「いやー、もっと早く謝ればよかった。」 そして私たちは、次にその少しの風や波や雲に苛立ち、ふさぎ込んでしまいます。 主のみそばで静かに横になって休息を取る代わりに、恐れと困惑で心の中がいっぱいになってしまいます。 嵐を主に信頼するための機会とせずに、主を疑うための機会にしてしまった弟子たち。私たちの髪の毛の数さえ主はご存知であると仰っているのに、ささいな問題が起きるとすぐに私たちは滅んでしまうと考えてしまいます。 主イエス様が弟子たちに語られた次のことばは確かに私たちに対することばでもあります。「どうしてそんなに怖がるのですか。信仰がないのはどうしたことですか。」 信仰と言うと何かすごく堅くて、本当にガチガチにならないといけないと思いますけれども、ここで信仰と書かれているのは英語の聖書で見てみますと、普通の信仰のfaithではなくて、confidenceというふうに書かれています。それは信頼、信用という言葉であります。 ですからイエス様はつまりわたしに、「信頼をもっていないのですか。」と本当に柔らかなことばで私たちに尋ねておられます。 いつも私たちは色んなことが起こると、全く信仰が無くなった状態になってしまいます。それでもいいのです。 イエス様はいつも、本当に優しい愛で私たちを包んでくださいます。そのままの状態で、私は本当にあなたのために生きたい。あなたの喜ばれるようにしたいと思うけれども出来ません。ごめんなさい。ということを本当に心から言うことができれば主はいつも本当に喜んでくださいます。受け入れてくださいます。 私たちの不信仰な心がすぐに主のみことばを疑ってしまうにも関わらず、主は私たちの内側に本当にその思いを与えてくださり、そして私たちが主を呼び求めたときに、助けるためにいつも近くにいてくださいます。 イザヤ書41:10
この大変な、本当に不確実な世の中でだれがこのようなことを言うことができるでしょうか。イエス様だけであります。 そのイエス様のみことばは本当に真実であり、このみことばで私は本当に長いフライトの生活の間どれだけ守られたか、本当に言葉に尽くすことは出来ません。 キリストは舟に乗っておられます。それで満足しましょう。静かに主を信頼いたしましょう。 主は私たちの主についての貧しい考え方にしたがってではなく、主イエス様ご自身の私たちに対する完全な愛にしたがって私たちを取り扱ってくださいます。 これが天にある故郷での永遠の安息に向かって人生の荒波を旅している私たちの航海の間、私たちのたましいをなぐさめ、また支えてくれるのではないでしょうか。 最後に、弟子たちがどのような影響を受けたか、見て終わりたいと思います。嵐が静まり、波が静かになった。そして弟子たちは当然主イエス様に対して静かな礼拝が捧げられるはずでした。「主イエス様。あなたの御名を心よりほめたたえます。 ヨハネの黙示録15:3-4
しかし弟子たちは、恐れと叱責されたものの驚きを表わしてしまったのです。彼らは大きな恐怖に包まれて互いに言った。 「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」、まだイエス様のことを弟子たちは本当によく分かっていなかった。 確かに弟子たちはもっとイエス様を知っているべきでした。それは私たちにも言えることではないでしょうか。 もうすぐイエス様が来られるまでに私たちは色んな本当に大きい、小さい嵐、波を体験すると思います。 しかしこの弟子たちの失敗は、失敗ではなく、さらに主イエス様をよりよく知る機会であることを深く覚えることができれば、本当に幸いではないかと思うのです。決して主は私たちの失敗を責めません。 ごめんなさいをしたあと、主はいつも、「今から。」と仰ってくださいます。過去のことを、「もうすでにあなたの罪を思い出さない。」、と主は仰ってくださっています。 本当に今日、また初めて来られた方、色々な失敗した、本当に喜びがないと思っているかもしれませんけれども、そのことをそのまま主に正直に打ち明けるならば、主は、「もう終わったよ、今からだよ。」、ということを言ってくれるのではないでしょうか。 最後に私たちひとりひとりがどんなに主に愛されているか、その個所を読んで終わりにしたいと思います。 イザヤ書43:1-5
イザヤ書43:11
ありがとうございました。 |