古田公人兄メッセージ 引用聖句:イザヤ書5章1節-2節
コリント人への手紙第I、14:1
今、最初にお読みいただきましたイザヤ書5章では、ちょっとよく分からないところがあるんですけど、はっきりしてることは、神さまがぶどうをお植えになった。それは、甘いぶどうのなる木をお植えになったんですけど、できたぶどうは酸っぱかったということであります。 もちろん意味してることは、神さまの愛のうちに造られた人間が、本当にわがままで、神さまの御心を損なってしまったということだろうと思います。 いったいこういう変化は、どうして起こるのでしょうか。あるいは、どのようにして起こるのでしょうか。そのことを考えてみますと、本当に神さまの愛の中に造られたものが、まったく御心から違ってしまった、そしてその例は、創世記の1章にまず記されているのではないかと思います。 創世記1:26
というふうに書いてあります。神さまに似るように人が造られたということは、考えてみますと、すっごいことだろうと思います。 言い換えますと、格別の思いを込めて、神さまは人を造ってくださった。神さまの溢れるばかりの愛のうちに人は造られたのだ、ということを意味していると思います。 でも、その造られた人は、酸っぱいぶどうになってしまいました。 創世記3:4-6
創世記3:8
蛇は女に、この実を食べると、神さまのようになれるんですというふうに言ったと、5節に記されています。その言葉を聞いたとき、女の心が動き始めました。神さまのようになれる。そういうささやきに、だんだんととらえられていったのだろうと思います。 彼女はそれを取って食べ、夫にもそれを分け与えました。その結果二人は、8節にありますように、神さまの御顔を避けて、コソコソするようになったと記されています。甘いぶどうがなるはずであったのに、酸っぱいぶどうになったというその姿を、私たちはここに見ることができます。 本当にそれは一瞬の間のできごとでした。「神さまのようになりたい!」と思った、その思いが、瞬時に二人を神さまの前から身を隠す者へと変えてしまった、ということであります。 もちろん私たちは、なかなか、「神さまのようになりたい。」とは思いませんけど、その代わり、もうちょっと、もうちょっとという思いをもっています。 グリム兄弟の童話は、どなたも何かお読みになったことがあると思うんですけど、先週、ぼくは、ちょっと体の具合が悪くて、一日ばかり家で寝ておりましたときに、そのグリムの童話を読んでおりました。六十歳になってグリム童話を読むのもおかしいんですけど、その中で一つ、とても心に残った話がありました。 それは、漁師が海の側に住んでたんですけど、その漁師はいつも海へ行って魚を釣って来る。その海はとっても綺麗な静かで澄み切った海だったんです。 ある日、カレイが一匹かかったんですけど、そのカレイが、ものを言ったっていうんです。 「私は王さまの子どもの王子なんだけど、魔法でカレイになってるんだ。ぼくなんか食べても美味しくないから、放してください。」って言ったっていうんです。 グリム童話集には、魔法使いがいっぱい出てきます。昔のドイツは魔法使いがいっぱいいたんだと思うくらい、魔法使いが出てくるんですけど、そのカレイも、要するに魔法によってカレイにさせられてたんです。 で、漁師はその話を聞いたときに、カレイを放してやりました。そして家に帰ると奥さんが、「何てバカなことを。そのカレイに何か願ったら、きっと何かをしてくれたに違いない。こんなボロい家に住んでるのは、もう嫌だから、家をもらって来なさい。」って言って、漁師をたたき出すんです。 で、漁師は仕方がないから、海へ行って、 「カレイさん、カレイさん、私は妻をどうすることもできません。」と、こう言うんですけど、そうするとカレイが、「家をあげましょう。」って言って、帰ると、本当に家があったんです。 しばらくするとその奥さんは、それじゃ満足ができなくなりまして、「もっと大きな家をもらって来い。」って言うんです。 それがだんだんだんだん嵩じていくんですけど、そしてその次は何だったかな、「王さまになりたい。」って言うんです。それからその次は、「ローマ法王になりたい。」って言うんです。 そういうふうにだんだんエスカレートするんですけど、いつも望みが叶えられていくんですが、漁師が海へ行くと、だんだん海の様子が変わっていくんです。 最初は澄み切って、本当に静かな海が、二度目に「家が欲しい。」って言ったときには、すっかり色が変わり始めていたんです。 「もっと大きな家が欲しい。」って言ったときには、海はもうどす黒くなり、そればかりか泡立って、臭いにおいがしていた。 で、最後に「ローマ法王になりたい。」って言ったときは、もうとっても海が荒れてた。でも、奥さんはそれで止まらなかったんです。「私は神さまになりたい。」「神さまになりたい。」って言ったんです。 で、最後にそう言われて、本当にたたき出されるようにして漁師が海に行くんですけど、そのときはもう家を出るときから嵐でした。ものすごい嵐の中を行って、カレイにそういう話をしますと、カレイは、「お帰りなさい。奥さんは、最初のままで家にいます。」 で、そういうふうに言われて家に帰ると、家は、最初のボロ家に変わっていたという話なんです。 奥さんは、何なのかなと思うんです。それは、そこから後はグリム童話には書いてないんですけど、それはぼくは、その漁師の心を意味しているんだろうと思います。 そして漁師は、最初はカレイを可哀相だと思って放した。でも、「あっ、ただで放すんじゃなかった。何か願い事をすれば、きっと叶えられたにちがいない。」という思いが彼の心の中に起きてきた。だから海の色がすでに変わり始めてたっていうのは、そういう心の変化を海が表わしているのだろうと思います。 そして、「もっと大きな家を。」、「王さまになりたい。」、「ローマ法王になりたい。」って言った、そうした彼の奥さんの気持ちって、実は彼の気持ちであって、そしてそれは海の荒れ具合によって、全部表わされている。 欲望が大きくなるほど、大きくなればなるほど、実は心は荒れすさんでいったということを、そのグリム童話は表わしているのではないかと思います。 人間の心というものは、もっと、もっとという思いにとらえられ始めると、制御できないものだということを、同時にその話はぼくたちに語っているのだろうと思います。 もっと、もっとという思いは、あいつよりも、あの人よりも、あそこよりもという形で、その漁師の心の中に起きて来ました。 ルカの福音書の22章を見てみますと、同じような心の動きを、形は全然違いますけど、ぼくたちは見ることができます。 ルカの福音書22:21-24
これは、わたしは捕まえられて、そして十字架につきますと、イエス様が仰った夜の出来事であります。その中で弟子たちは、いったいだれが一番偉いのだろうかと言い始めた、と書かれています。 一番、イエス様にとって、一番こころみられる出来事は、まさに苦しみの絶頂がまさに今始まろうとしているときに、弟子たちは、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうと言い始めたと、書かれています。 ルカの福音書22:33
ペテロは、イエス様に向かって胸を張って、あたかも自分一人は特別な人間であると言わんばかりに、「覚悟はできています。」と語っています。でも、この現実のペテロの姿がどうだったのかは、54節からあとに書かれています。 ルカの福音書22:54-57
だれが一番偉いのかという心は、最初はごくごく小さなものだろうと思います。でもそれが、だんだんだんだん心の中で大きくなってきますと、自分が一番偉くなるということが、何よりも大切なことのように思えてくるのではないでしょうか。 本当に最初は、ちょっと何かができる喜びがある。でも、その喜びでなかなか終わらないんです。もっとできたい、もっとできたいというのは、人間として普通ですけど、その次は、人と比べて自分はよくできたいと思う。 そういう思いが形を変えて、このとき弟子たちの心の中に起こっていたのだということがわかります。 新約聖書を読んでいきますと、コリントの教会が、まさにそうであったと思います。 本当に、甘いぶどうのなるぶどうとして植えられたはずなのに、酸っぱいぶどうができたという、まさにそういう状態にコリントの教会は変わっていきました。 そしてこれは、あの、カレイを釣った漁師がそうであったように、そしてまた、イエス様が本当に捕まえられる夜に、弟子たちがそうであったように、だれが偉いのかとか、あるいはだれがだれよりも早くから教会にいるのだろうかとか、そういうことばっかりを心に思う教会に変わっていったということが、コリント人への手紙に書かれています。 そうした、本当に順調に植えられたぶどうが、酸っぱい酸っぱい、雑種のぶどうになってしまったような教会の姿に対して、イエス様がパウロを通してお語りになった言葉が、先ほどお読みいただきました、14章1節の言葉であろうと思います。 コリント人への手紙第I、14:1
と、イエス様は、コリントの教会の一人一人に向かってお語りになっているのであります。 じゃあ、愛とはいったい何なんだろう。聖書はその愛を13章の4節から7節に書いています。 コリント人への手紙第I、13:4-7
4節から6節を見ていただきたいんですけど、ここには全部、否定の形で愛が書かれています。「愛は自慢せず、高慢になりません。人をねたみません。」から始まりまして、「礼儀に反することをしません。自分の利益を求めません。怒りません。人のした悪を思いません。不正を喜びません。」と書かれています。 結局愛とは、「何かをする。」ということよりも、「何かをしない。」という形でしか、本当のところは表わし得ないものだということを聖書は私たちに語ってくれる。 あのカレイに願い事をしに行った漁師の気持ちが、まさにその反対でした。「あれも欲しい。これも欲しい。それも欲しい。これも欲しい。」という自己実現を、漁師はカレイに願いました。 愛はそれとは反対に、自己否定だということを聖書は語っています。 高ぶり、誇り、もっともっとという、そういう気持ちは、それを完全に抑えるのは、ただ自己否定によってのみ可能であるということを、このところは私たちに語って、でも大切なことは、もう一つあると思います。 それは、自己否定は、自分の力ではできない。もし自分でその自己否定をしようとしたら、本当にその人は、鼻持ちならないような、いやな人間に実はなってしまうのではないかと思います。 しかし幸いなことに、この13章の4節からの言葉は、まさにイエス様そのものの姿を表わしているのではないでしょうか。もう一度読んでみたいと思います。 コリント人への手紙第I、13:4-7
私たちは、どうしたら愛を追い求めることができるのでしょうか。それはまさに、このみことばの通りの人格でいらっしゃる、イエス・キリストを私たちのうちにお迎えすることによって、私たちが霊において、イエス・キリストとともにひとつになるということにおいて、可能であろうと思います。 コリント人への手紙第Iの6章の19節に、弟子たちはこのことを語っています。 コリント人への手紙第I、6:19-20
あなたがたは、もはや自分自身のものではないと、書かれています。本当に愛そのものであられるイエス・キリストを、私たちのうちにお迎えすることによって、私たちは聖霊の宮として受けることが許される。 そのとき私たちは、本当の意味で、愛を追い求めることができるのだということを、私たちは自信をもって、いや確信をもって、受け止めることができるのではないかと思います。 私たちのうちに住んでくださるイエス・キリストに、ひとつひとつ尋ねながら、そしてみことばに聞き従って生きるとき、私たちは、愛を追い求めて生きているのだということを、深く心に留めたいと思うことでございます。 どうもありがとうございました。 江田兄メッセージ (ご本人の了解を得て公開しています。) 私の娘が、友だちとお互いになぞなぞを出し合っていたときのことを、ちょうど私が聞いたのですけど、友だちが、「なぞなぞ出すよ。」って言うんですね。 で、「いつも側にあって、目には見えなくて、自分の側にあるのにいつも気が付かない。でもこれがないと生きていけないのなあに?」って、うちの娘に言ったんです。 娘は間髪を入れずに、「イエス様!」と、答えたわけですけれども、その友人は「何それ?」、「答えは空気でしょう。イエス・キリストじゃないよ。」っていう、そういう会話をしてたんです。 彼女は、イエス様と関係をいつも切らずにいたわけです。ですから、このようななぞなぞに、すぐに「イエス様!」と答えることができたわけです。 その親の私はどうかと言えば、いわばみことばの中に、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」というみことばがありますけれもど、イエス様と出会う前は、まったくそれと反対に、「もし日々の努力があれば、豊かに実を結び、結べばすべてがうまくいく。」、このように生徒たちに、ひたすら努力を要求していたという中学教師であったわけです。 そういう教師でしたから、生徒の抱える問題は、自分が解決してやる、あるいは共に解決していこう。教師は、生徒の問題が起きれば、積極的に相談のってくのは、当然のことですから、そういう意気込みでやっていたわけですけれども、生きておられる主を知れば知るほど、その問題解決には無理があるということを認識せざる得ないわけです。 なぜなら、実際に学生たちが抱える問題というのは、とても目に見えるほど単純ではないわけであります。今日、非行、暴力、不登校、それから、不適応、ノイローゼ、いじめ、あるいは、薬への依存。そういったことが学校の現場にもどんどんどんどん、入って来てるわけですけれども、その背景にはもちろん、両親、家庭、友人、成績、人間不信そういったものがあるわけであります。 そして、自分自身に対するコンプレックスというものがそこに潜んでいるわけです。現代の学生たちが抱えている問題、心の病気というのは、全部聖書にかいてあるわけであります。 例えば、自分の欲望が抑えられない。すぐにこの世ではキレることですね。暴力をふるうと、そんなふうに言いますけれども、何とか理由をつけて、自分の責任ではなく、自分の思いを通したいわけです。 聖書には、この罪がマルコの福音書の5章の1節から5節に書かれております。 マルコの福音書5:2-4
汚れた霊。これに付かれた人は、恐ろしい、荒れ狂った生活者と言われたわけです。今日の世界のこの荒れ、そして狂いは、いわば汚れた霊の仕業であります。 この箇所は、レギオンという、悪霊の名前がレギオンというんですけれども、このレギオンに仕えていた人の姿を、私たちの罪にとらわれている人間の歩みを、みごとに表わしているのではないかと思います。 墓場に住んでいて、そして彼にはいのちがなく、闇に支配されている腐った世界に住んでいるわけであります。自分で光の中に出ることができずに、道徳や、それから法律も人間の欲望をとらえることができないということが、ここに書かれているわけです。 その結果、苛立ちであったり、自分を傷つけることをしてしまうわけです。それを留める力は人間にはないと、ここにはっきり書いてあるのであります。 いじめの問題も、やはり聖書に書かれております。自分より下の立場の者を相手に、他人をあざけ笑ったりすること、そして自分の弱さを隠して、人の弱さを笑いものにして、それを蓑傘にして、自分の苦しみを軽くしようとする。 そのような行為が今日、残念ながら日常茶飯事に行なわれているわけです。いじめる側になってしまった生徒に、なぜいじめをするのかと聞けば、生徒たちは、自分のその罪を認めるよりも、まず先に、当事者(いじめられてる被害者)に、責任を転嫁するわけです。正当化。いじめる側になってしまった生徒たちの言葉で、正当化するわけです。 このように、心の奥には他人を引き下げようとするような、そのような冷たい、陰険な心が人間の中にあるわけであります。主はこのように、神自ら書いたのです。 ルカの福音書23:32-34
ルカの福音書23:35
ルカの福音書23:39
いじめをする側になってしまった子どもたちそのものが、ここに書かれているわけです。傍観者のことも書かれてあります。面倒臭いことには関わりたくない、という傍観者であり、大衆に流され、周りにすぐ流されやすい。そして、自分がもっともらしいことをしているように思う。そのような性格がここに書かれてあるわけであります。 もうひとつ、心の病気として不登校とか、ノイローゼ、それから、不適応を見てみたいと思いますけれども、こういう子どもは、例えば中学生に入って来るときには、まったくそういう傾向がないわけです。 正に他人事のように、それを傍観者として見ているわけで、自分は間違ってもそうはならないと思うわけであります。色々タイプはありますけれども、自己実現型の子どもに限って、突然失速することもあるわけです。 私たちは日常、何か目標を立てて、「よし。やったるで。」と、自信満々に何かに取り組もうとすることが、勉強にしても、習い事にしてもあるわけであります。自己を実現するための努力を継続することというのは、とても尊いと書かれております。 意志が固ければ固いほど、挫折をしたときは、本当に自己嫌悪に陥るわけであります。また、自分の心の中の良心の問題、「挫折するつもりはなかったのに、挫折してしまった。」と、「コントロールできるはず。」と、思っていたことができなかったときに、それは非常に自分の心の中に醜さとして残ってくるわけであります。 さきほど兄弟も引用されてましたけれども、マタイの福音書の26章の31節から、飛び飛びに見てみたいと思いますけれども、 マタイの福音書26:33
と言いました。ペテロは明らかに、このイエス様の言葉「あなたたちはつまずきます。」という言葉を否定しておりました。しかしそうすることで、ペテロは空威張りをしたのではありません。自分の言っていることが、彼は真実であると確信していたわけです。 そこで、ペテロがあまりにも自分を強く信じていたので、主は、すべての弟子たちに言われたことをあえてペテロに向かって次のように言われました。 マタイの福音書26:34
イエス様は、ペテロが、主を知ってる人たちの中に含まれていることを見たかったわけです。しかし、ペテロ自身があまりにめでたかったので、あらゆるイエス様の断言も彼を納得させることはできなかったわけです。 自分が見えていなかったと言うべきかもしれません。そして彼は、前よりさらに強力に、35節にこのように書いてあります。 マタイの福音書26:35
ペテロはだれかを欺こうとして、このように言ったのではありません。彼は、主を愛し、主に絶対に従いたかったと思っていたに違いありません。彼がそのように語ったときに、彼は自分の心からその愛を表わし、そうでありたいと願っていたわけです。 私のような人物こそ主が喜んでくださると、思っていたわけですけれども、まさか、そういう自分が、そういう自分ではなかったと、このときには気付くことはなかったわけです。 38節、41節では、ゲッセマネのことが書かれてますけれども、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」、それがペテロまさしくそのものであります。やる気はあったけれども、とても弱い。 その後何が起きたかと言えば、「私はそんな人は知らない。」と、三度言ったわけであります。これが、ペテロであります。 彼は、自分の感情や感覚にまったく支配されておりました。これからのことをまったく予測できなかったわけです。このギャップを感じたときに、人間は「ドン」と落ち込むわけであります。 誰もがペテロであり、自信を打ち砕かれることがある者であります。 私も数年前、まったく同じことがありました。私は、数年前、三年間スペインのバルセロナの日本人学校で、派遣教員として駐在しておりました。卒業していく受け持ちの子どもたちに、証しの手紙といっしょに「光よあれ」を学校内で渡しました。 それが問題になり、校長に言われました。校長は、何冊か回収したんでしょうけれども、その本を机の上に置いて、「これは宗教活動ですね。」と、開口一番に言われたわけです。私は、「いいえ。宗教ではありません。宗教と信仰は違います。」と、はっきりとそこで突っぱねてしまったわけです。 校長は、「それじゃあ、文部省に電話していいですね。」、私は、「結構です。でも、その前にまずその本を読んでいただけますか。」と、お願いしたわけですけれども、その私の声を後ろで聞きながら、今でも覚えていますけれども、「光よあれ」の表紙をデカデカとFAXして、後ろにある家庭集会の住所等もすべてコピーして、文部省に直ちにファックスをしました。 知恵のない私は、真っ向から管理職と対立してしまったわけです。日本人学校への派遣教員の一番恐ろしい言葉というのは、任期短縮という言葉であります。今は通常2年になっているのでけども、当時は三年でありました。 しかし、教員の身分に何かある場合、何かあった場合、それが任期が終わらないうちに日本へ帰らせるということが行なわれていたわけです。 私にとっても、その任期短縮という言葉は、その校長とその問題が起きたとき、一番最初に何が自分の頭の中によぎった言葉ですね。イエス様のことではなくて、「信仰と宗教は違います。」と言っていながらも、任期短縮という言葉が頭をよぎったわけです。 その後、文部省、それから県の教育局から、ご丁寧にも国際電話をいただきました。人事課長からは、「すぐに、校長と理事会に謝りに行け。」と、「いったいおまえは県の代表として、何をやっているんだ。」、お叱りをいただきました。「おまえ、今さら、帰って来るところはどこにもないぞ。」と、言われたわけです。 結局私は頭を下げました。しかし、条件付きでありました。校長は次のように言いました。「私は、二度と宗教活動は致しません。」という誓約書を理事会に出しなさい。 私は、任期短縮になりたくなかったゆえに、「宗教活動を致しません。」という誓約書を書きました。まさに、「あの人のことを知らない。」と言ったペテロのようなものでありました。 しかし、私たちには、あのことは本当に必要なことであったことが、そのあと色々とわかってくるわけであります。 その誓約書を書いたことによって、理事会の、理事会は保護者ですから、保護者、それから同僚みんなに、私はキリスト者であることがわかりました。証しをせずに、それまで現地で生ぬるい生活をしていた私たちの生活を、主は、それ以上許されなかったこともわかりました。 その後現地での生活は、色々人目もありましたけれども、主が祝福してくださったことはもちろんであります。 それまでは、自分のプライド、自尊心というものが私にはありました。物事に自分なりに誠実で、あらゆるものに自信があって、それなりにへりくだって仕事していて、いわゆる人格というものを、自分なりにもっていたつもりでしたけれども、それが、ガラガラと音を立てて、崩れていったわけです。 本当に何ひとつ信頼するもの、それから自分の信仰とか、そういったものも全部何もないということを、その時に知らされたわけであります。 しかし主は、そんな烙印を押された県の一教員をも、本当に祝福してくださったわけです。私は、何も手にすることがそのあとできませんでした。ひとつしたことは、妻とそれまでは本当に主に、「あわれんでください。」と祈った。それしかできなかった。 好きでなった、教師という職業に烙印を押されたということは、本当に当時の私にとっては、死んだも同然だったわけですけれども、自分のその醜い罪も、すでに十字架でイエス様とともに十字架に死んでいるというみことばをいただいて、本当に救われたわけであります。何もできなかった。これは、私たちにとっては本当に必要なことでありました。 ルカの福音書10章の29節です。有名な、よきサマリヤ人の話がそこにありますけれども、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われました。そして強盗どもは、その人の着物をはぎ取って、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行ったわけです。 そこに次の三人が登場するわけであります。祭司、レビ人、サマリヤ人であります。祭司という仕事。これは、神殿にいけにえをささげて、神殿をつかさどるという仕事であり、レビ人、これも神殿の御用にあたるエリートクラスの者であります。 しかしこの二人は、反対側を通り過ぎて行って何もしなかったわけです。しかし、この野垂れ死になった旅人からバカにされていた、このサマリヤ人は、違っていたわけです。 本来なら、このときばかりかと、足蹴りをして当然の状況にもあったにも関わらず、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをして、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。 だれが隣人になったかと言えばですね、サマリヤ人。当然、サマリヤ人であります。この美談、あるいは人間の理想像として、私たちは目標をもつべきだとしたら、学校の教材、それから、例えば国語、もしくは道徳、あるいは人権教育などの授業で、喜んで文部省は使うはずであります。 もし、これが教材としてあった場合には、たぶんこのような指導案が作られると思います。 「教師の発問1.祭司、レビ人の心の内面はどうだったでしょう。教師は尋ねなさい。」という、きっとそういうガイドラインが出ると思います。 すると、予想される答えは、「嫌なことに関わりたくない。」、「追いはぎがいるかもしれない。」、「もっと大事な仕事がある。しかし、幸いだれも見ていない。気付かない振りをしよう。」と、子どもたちは答えるのです。 それに続く、今度教師、 「発問2.しかし、もしこの時他人が、ほかの人がそこにいたらどうだろうか。」 予想される答え、「通り過ぎなかっただろう。」、教師は次のようにまとめると思います。つまり現場にこの人しかいなかったら、このそれぞれ、祭司やレビ人しかいなかったら、きっとそうなるでしょう。しかし、だれも見ていなかったということ。これが大きく関係しています。 人間は、人の目を気にする生き物であります。そして、人の目のある所、ない所では、行動が異なるんです。そこには偽りがあります。語弊が生まれます。自分の良心を大事にしましょう。このようにきっとしめくくると思います。 またさらに、発展型としては、祭司やレビ人は、この人を助けたら、自分はどうなるかと、きっと考えたに違いないと。しかしこのサマリヤ人という人は、この人を助けなかったら、この人はどうなるかと考えるに違いないでしょう。 教師の結論としては、「お互いに親切にしましょう。」としめくくるに違いありません。しかし私たちには、それができないわけであります。 ちなみにこのよきサマリヤ人の話には、イエス様ご自身は出て来られません。ではもし、この登場人物たちの中で、誰がイエス様であるかと言えば、消去法でいくとわかるかと思いますけれども、もちろん強盗でもなければ、レビ人でなければ、祭司でもありません。サマリヤ人こそ、イエス様ご自身であります。 そして、私たちの姿はどれかと言えば、強盗に襲われて、着ぐるみ剥がされて、半殺しにされた私たち。それが旅人に、そして自分たちでいるわけであります。 主は本当にみじめな者、価値のない者、何もできない者をあわれんでくださるお方であることが、本当にここからよくわかると思います。 先ほど少し見てみましたけれども、悪霊につかれた男は、イエス様に治していただきました。そして、二千頭の豚を犠牲にすることさえ、イエス様は断れませんでした。 次に出て来た強盗たちのもう一人の強盗は、「御国の位に着くときは、私を思い出してください。」と、イエス様に、あなたが主であるということを確信した。その強盗は、すぐさまパラダイスに行くことを許されました。 裏切ったペテロは、イエス様から、「どうして裏切った。」と、聞かれませんでした。ただただ、私を愛するかと主は聞かれただけであります。 イエス様に祝福される条件、その秘訣は、実に私たちが小さくなって、弱くなって、イエス様の前に出ることではないかと思います。この世では、小さくなること、弱くなることは、まったくマイナスに思われます。 しかし、私たち一人一人を愛しておられるイエス様は、その小さい者、弱い者に、大きく働いて応えてくださいます。最後に一箇所お読みします。 コリント人への手紙第II、12:10
イエス様にあって、私が弱いときこそ、私は強いからです。 ありがとうございました。 |