引用聖句:ヨブ記19章25節-26節
今お読みいただいた箇所っていうのは、これはメサイアの曲目の中で歌われている、45番のテーマとなっている聖句なんですね。 今年の秋のコンサートに向けて、吉祥寺集会や、地方の集会でもメサイアの練習が始まっています。私たち夫婦も、参加させていただくことになると思うんですけれども、私はバスを歌っておるんですが、メサイアの多くの曲目、53番まであるんですけれども、その中で私が一番好きなのが、実は、ソプラノの独唱となる45番なんですね。 44番というのが、みなさまご存知のハレルヤコーラスで、それに続く曲であります。 三部構成からなっているメサイアの、第三部の始まりの曲に当たる曲です。日本名では、「贖い主がいく」、贖い主は生きているってことですね。英語では、「I know that my Redeemer liveth」ってのが、題目の曲であります。 私の葬儀の時には、是非ともこの曲を流して欲しいなあと、私は思っておるほどに、大好きな曲なんです。みなさん、ご存知だと思うんですけれども、ちょっと、聴いてみたいと思います... この45番の歌詞もそうなんですけれども、ヘンデル作曲のこのメサイアの歌詞は、ヘンデルの友人のジェネンズって方が作詞したっていうか、作ったものとなってますけれども、作詞したんではなくて、ジェネンズという方は、ほとんどすべてを聖書から切り出して、引用しているんであります。 それでこの45番の歌詞も聖書から引用されたもので、先ほど兄弟にお読みいただいた旧約聖書のヨブ記と、新約聖書のコリント人への手紙第Iから引用されたものです。 ヨブ記19:25-26
最後の、「私の皮が」というのは、僕はよく分からないけれども、ヨブはもう本当に大病に冒されて、そういうふうな大変な状況にあったわけですね。天に召された後、私は、私の肉から神を見る。お会いするんだということが書かれています。 コリント人への手紙第I、15:20
45番は、この二箇所から引用されたものなんです。大好きな、「私を贖う方は生きておられる。」、「主は生きておられる。」、集会のマガジンのテーマとなっているわけですけれども、その箇所から「生きる」ということ。本当大きななテーマについて、何か、ちょっと荷が重過ぎるかなって気もするんですが、「生きる」ということについて、ご一緒に学んでみたいと思います。 ヨブ記は、聖書の中でも実に示唆に富む、興味深い記録であります。ヨブの名前は、忍耐の象徴として知られるところとなっています。誰しもが、ヨブの忍耐を思うときに、自分の忍耐の無さを痛感させられるのではないでしょうか。 しかし、意外なことかと思われるかもしれませんけれども、この忍耐の象徴とも言えるヨブ。主なる神さまご自身が、彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない、神さまご自身がそのようにまで仰られるほどの、ヨブではありましたけれども、この試練にあって、本当立ち返る前のヨブにとっては、主なる神さまは、恐れの対象ではあっても、生きて働いてくださる、親しい存在ではなかったのではないかと思われるのであります。 先ほど、メサイアの45番に引用された、ヨブ記の箇所をお読みしましたけれども、この箇所は全部で42章からなるヨブ記の、中盤の19章からの引用であるということを、私は知りました。この箇所は知ってたんですね。この歌を大好きですから。 そして、この学びをさせていただくまで、私はてっきり、主なる神さまであられるイエス様に、孤独で導かれたヨブが、喜びをもって証しした言葉なんだと、そういうふうに思ってたんです。 しかし実際には、子どもたちをすべて失って、自ららい病に侵された状態となって、苦しみ、悲しみの中にあったヨブが語った言葉であったということを知りました。これは、ヨブの悲痛な叫び、真実の祈りであったのかもしれません。 ヨブの苦しみの叫び、そしてヨブは、自分のことを義とする。そんな言葉をつぶやくように告白する、喋るようになるわけですけれども、その言葉の一つ一つにさえも、主イエス様が耳を傾けて聞いておられて、主イエス様がそれに応えて、生きて働かれておられるということが、証しされているのが、ヨブ記なんだと思うんであります。 みなさんもヨブ記を何回も読まれていらっしゃるかと思いますけれども、まだ読んでないよって方もいらっしゃるかと思いますので、概略を申し上げたいと思います。 ヨブ記は、まだ主イエス様がこの地上に来られる以前の、ユダヤのウツという地に住んでいた、ヨブという人に現わされた主なる神さまのみわざについての記録であります。 ヨブは、ヨブ記1章1節、先ほどもお読みしましたけれども、そこに記されているんですけれども、主なる神さまの前に正しく歩んでいた人であったと、記されています。 ヨブ記1:1
と、記されています。続く1章の9節から12節にかけてですけれども、ヨブが何でこんな災難に、災いに遭遇するようになるのかという、その理由が記されています。 さまざまな災難に遭遇させれば、ヨブは主なる神さまを呪うはずだから。ヨブを試みにあわせてほしい。そうサタンが、悪魔が神さまに願い出て、神さまは、ヨブに災いが下ることを許されたので、ヨブに次々に災難、苦難が、襲いかかることになったのであります。 ヨブに下った災いは、順に申し上げますと、子どもたちが次々に死んでしまう、そしてすべて死に絶え、最後は自らの肉体がらい病で侵されることになるというものでした。 主なる神さまを恐れて、神さまは正義に報いてくださるお方であるということを固く信じてきたヨブは、そのような状況になっても、神を呪うようなことはありませんでした。 あまりにひどい状況に、ヨブの妻からも、あなたの神を呪って死になさいとまでヨブは言われるんですけれども、それでもヨブは、主なる神さまを呪うようなことはしなかったんです。 今の箇所ですけれども、ヨブは次のように言ってます。 ヨブ記1:20-22
ヨブ記2:10
彼女っていうのは、ヨブの妻ですけれども、ヨブは妻に言った。 ヨブ記2:10
このヨブの言葉に見る、ヨブの信仰を思うときに、確かにヨブの信仰とその忍耐のすごさというんでしょうか、それを思わずにはいられません。しかし、これで終わってしまっては、何かヨブ記っていうのは、何か嫌味で、何か面白くないところで終わってしまうんだと思うんですが、あのヨブの人間らしい苦しみ、見舞い客である三人の友人たちとのやりとりに見る、人間のさばく心というんですか、そういったものが見事に記されてる、表わされてる所にヨブ記の親近感があるんだと思いますし、面白さがあるのではないでしょうか。 信仰と忍耐の人ヨブでありましたけれども、ヨブを見舞いに、三人の友人たちがやって来て、それからヨブの心は変化をし始めたのであります。 やって来た三人の友人たちは、あまりにひどいヨブの痛み苦しむ様を見て、七日七晩、ヨブとともに地に座っていたものの、一言も彼に慰めの言葉をかけてやる、話しかけることができなかったと書かれています。 ヨブは、神さまを呪うことこそしませんでしたけれども、「自分は正しく歩んで来たのに、この報いは何なんだ。」、そういう思いがついに、「自分の生まれてきた日は呪われよ。」という言葉となって、ヨブの口から出るのであります。 ヨブはその苦しみを、誰かに聞いて欲しかったんじゃないでしょうか。分かって欲しかったんだと思うんですね。 ところが、ヨブを慰めに来た三人の友人たちでしたけれども、ヨブのこのような状態に対して、結果として因果応報的な言葉を言うことになってしまって、ヨブを慰めるどころか、その罪を責めたてて、さばく結果となってしまいました。 サタンがヨブを打つことを神さまから許され、色んな災いが襲ったんですけれども、実はこれがヨブを襲ったもっともひどい災いだったんじゃないでしょうか。友人たちからさばかれるということが、実は一番の厳しい災いだったと思うんです。 神さまの前に聖い生活を送って来たことを自負するヨブにとっては、この友人たちの言葉は、屈辱的なものであったんじゃないでしょうか。ヨブは、自分を正しいとする言葉を、友人たちに吐露するようになります。 この友人たちとヨブの、重苦しい言葉の往訪と言うんでしょうか、やり取りの中で、友人たちはヨブに結局何も応えられず、代表の登場人物のエリフという人が、自らを義とするヨブの言葉の中に潜む罪を指摘するのですけれども、急展開して、嵐の中から主なる神さまご自身が、直接ヨブに語りかけられるようになるのであります。 主なる神さまとの交わりを通じて、ヨブは、私の贖い主は生きておられると、本当は思っておったと思うんですけれども、それまで頭で思っていた主なる神さま、その主なる神さまが、本当に生きて働いておられて、自分のような小さな存在に対しても無関心ではなくて、いつも心配しておられる、そういう神さまなんだ、いつも一緒にいてくださる神さまであられるんだっていうことを、体験的に知る者とされたんであります。 主なる神さまの前に、ヨブは悔い改めに導かれて、ヨブは友人たちのために祈って、ヨブの体は元通りに回復されたという、そういうドキュメンタリー記録が、ヨブ記であります。 このヨブ記に込められている、主なる神さま、イエス様が私たちに示そうと思っておられることは、とても多いんだと思うんですけれども、私はヨブ記から学んだことを四点ほどにまとめてみました。 第一番目。私たちは主なる神さまのなさることの意味が、ほとんどわからない。でも、主イエス様は、私たちに最善をなしてくださっているんだということ。 第二番目。友人たちが、主に立ち返るために、ヨブが犠牲となった。またヨブが、主に立ち返るために、ヨブの子どもたちが犠牲となった。その事実に、これは旧約時代の記録でありますけれども、その犠牲の死に、主イエス様の犠牲の死、すなわち十字架のみわざがすでに現わされていたということを学ぶことができるんじゃないかということ。 第三番目。ヨブがどんな状態にあっても、主なる神さまは憐れまれ、私はいつも離れることなくあなたとともに歩んでいるんだ、あなたを愛しているんだということを、体験的に示されて、ヨブの信仰を本当に、その人生を本当に生き生きとしたものとしてくださったんだということ。 第四番目。主イエス様はヨブ記を通して、ヨブに働かれたそのみわざを通して、生きることの本当の意味を私たちに、教えてくださっているんだということ。 こんなふうに私は思いました。順に、聖書からそれを学び見たいと思うんですけれども、第一番目の、私たちには、主なる神さまのなさることの意味が、ほとんど分からない。でも、主イエス様は、私たちに最善をなしてくださっているということについてですけれども、このヨブ記を読んだ方、何でイエス様は、主なる神さまは、潔白で正しく、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブに、このような試練をお与えになることを許されたのか。そういう思いをもつのではないでしょうか。 このことについて聖書は、別の箇所で次のように告げているのであります。 申命記8:11-17
もう一箇所、 コリント人への手紙第I、10:13
私たちは、ヨブほどではないかもしれませんけれども、大なり小なり試練に遭遇する者であります。その背後には、主なる神さまの、「おまえのことを本当に幸せにしよう。」という、深い目的があるのだと、聖書は記しておるのであります。 私たちには、主なる神さまのなさることの意味が、ほとんど分かんなくて、「何でですか!どうしてですか!」と、その御心をしょちゅう疑ってる、疑いがちになっているんじゃないでしょうか。 主イエス様は、私たちにいつも最善をなしてくださっているんだということを、ヨブ記を通じて私たちは知ることができます。 第二番目。友人たちが、主に立ち返るためにヨブが犠牲となった。ヨブが主に立ち返るために子どもたちが犠牲となった。その事実に見る、主イエス様の犠牲の死、すなわち十字架のみわざが、すでに旧約の時代ですけれども現わされていたということを学ぶことができるということです。 ヨブが遭遇した最初の試練は、彼の子どもたちがみな死んでしまうという、悲惨なものでありました。またヨブ自身、全身腫物で侵された状態となったことで、結果的にヨブの友人たちも、主なる神さまの御前に悔い改めようと導かれたのであります。 すなわち、ヨブの子どもたちもまたヨブ自身も、主なる神さまの道具として用いられたのであります。私たちが集っている、このキリスト集会の中でも、家族の死を通して導かれた方、家族に発生した深刻な問題を通して、イエス様の御前に導かれた方が数多くいらっしゃいます。 その深刻な状況から、本当の喜び、本当の幸せに導かれて、それまでバラバラであった家族から、本当に一つとされた家族とされたという、経験をお持ちの方たちが大勢いっらしゃいます。 そして、先に永遠のいのちへ導かれた家族との、天国での再会を心待ちにしているという、兄弟姉妹方が大勢いらっしゃるのであります。 試練に会う前のヨブには、「子どもたちが心の中で神さまを呪ったかもしれない。」、そういう思いがありました。そのためにヨブは、子どもたちを祝福することにしていたんだということも記されています。 このヨブの思いの中には、ヨブ自身は含まれておらず、自分は神さまを呪ったりしないという、高ぶりの心があったんだと思うんですけれども、その子どもたちが罪を犯すかもしれないと、ヨブがそう思っていた、ある面で見下げていた子どもたちが、主なる神さまとヨブの和解のために、犠牲として用いられたのです。 ここに主イエス様の十字架のみわざが象徴的に記されているんじゃないでしょうか。 イザヤ書53:2-3
ヨハネの手紙第I、4:9-10
ヨブ記、本当に尊ばれてなかった、罪を犯すかもしれないと思っていた子どもたち、それが用いられて、犠牲となって、救いのために、私たちを救うために用いられた。 本当ヨブ記には、イエス様のみわざっていうのが現わされているんだと思います。 第三番目。ヨブがどんな状態にあっても、主なる神さまは憐れまれて、わたしはいつも離れることなく、あなたとともに歩んでいるんだ、あなたのことを愛しているんだということを、体験的に示されて、ヨブの信仰、ヨブの人生を、本当に生き生きとして、そうしたものとしてくださったんだということ。これについて学びたいと思います。 聖書のテーマは、旧約聖書、新約聖書ともに、主イエス様であります。旧約聖書には、主イエス様こそ登場しませんが、先ほど申し上げましたように、その出現が預言されています。 ヨブ記にも、主イエス様の十字架のみわざ、すなわち犠牲となって私たちのために死んでくださった、その真実の愛が表わされているんだということを、先ほど学びましたけれども、新約聖書、旧約聖書を通じたら、その愛は変わることのない、主イエス様による永遠の愛であります。 この愛について、聖書から二箇所拝読してみたいと思います。 エレミヤ書31:3
ヘブル人への手紙13:5-8
ヨブの友人たちは、イエス様の十字架のみわざを知らなかった時代の人たちでありましたけれども、しかし主なる神さまは生きておられて、主の前に罪を、あわれんで、悔い改めに導いてくださって、悔い改めた者を主は受け入れ、祝福してくださるということを体験的に知った。 それまでのヨブは、神様のことを知り歩んでいるつもりでも、神様には物足りなかった。 (このあたりで、テープに雑音がはいって聞き取りにくいですので聞き落としがあります) 主なる神さまは、本当にヨブのことを愛して、この永遠の愛によって本当に愛して、大切にしておられて、ヨブともっと親しく交わりを持ちたかったのではないでしょうか。 主なる神さまが、「正しい。」とまで仰っている、これほどの人物であったヨブですけども、そしてその友人たちも、本当に聖書の愛に熟知されてたような方たちだったと思うんですけれども、ヨブが、そしてヨブの友人たちが、祈りをささげるという記載がほとんどないのであります。 とりなしの祈りについて、ヨブ記の最後の最後になって、初めて出てくるわけであります。私たちキリスト集会の兄弟姉妹方、今日も礼拝で兄弟方が、愛する主イエス様を祈ってくださいました。 私たちにとって、これは当たり前のことのように今、言ってるんだと思うんですけれども、ヨブの時代の人たちからは、想像できないほどに恐れ多いことであったんじゃないでしょうか。 私たちが大変な苦しみの中にあるときに、集会の兄弟姉妹方が、祈りましょうと声をかけてくださって、ともに祈ってくださることほど、心強く、嬉しいことはないんじゃないでしょうか。 私たちに与えられた、主なる神さまからの最大の恵み。もちろん永遠のいのちも、本当に感謝なことでありますけれども、与えられた最大の恵みというのは何なのかと言うと、祈りなんじゃないでしょうか。 主なる神さまと、直接お話ができるんだという特権は、主イエス様の十字架の犠牲の死によって、私たちと主なる神さまとの和解がなって、初めて与えられたもんなんじゃないでしょうか。ですから私たちは、本当に主イエス様の十字架の犠牲のみわざに感謝すべきなんだと思います。 主なる神さまに対して、大きな罪を犯してしまったヨブでありましたけれども、主との交わりを許されて、罪を赦されて、受け入れられている。それを知って、大いに喜ぶ者となったのではないでしょうか。 ヨブ記には詳しくは記していませんけれども、主は、ヨブの前の半生よりも、後の半生をもっと祝福されたと短く記しています。ヨブの後の半生は、主との交わりである、祈りをささげる喜びに満ちた日々であったんじゃないでしょうか。 最後に、主イエス様は、ヨブ記を通して、生きることの本当の意味を私たちに教えてくださっているんだということ。このことを、学んでみたいと思います。 聖書には、多くの人生がノンフィクション記録として詰まっています。ヨブ記には、ヨブの人生を通じて、本当に大切なことが証しされています。 聖書の中のほかの登場人物たちと同じように、ヨブは人生の失敗を体験します。そして、罪を犯した事実を認めて、主なる神さまに立ち返って、悔い改めて、再スタートして喜びをもって人生を全うした。そういうヨブの人生が証しされているのが、ヨブ記であります。 ヨブ記の終わりで、ヨブは友人たちのために祈り、回復されたんですけれども、ヨブのとりなしの祈りは、生きて働かれる主なる神さまからの、「祈りなさい。」との、導きによるものでありました。 このヨブ記に記された、生きることの本当の意味、本当に大切なことっていうのは、隣人を愛して、隣人のために祈るということではないでしょうか。 主イエス様ご自身が、私たちへの戒めとして、次のように語っておられます。 ヨハネの福音書15:12-13
神さまであられる、主イエス様のような愛は、だれも持ち合わせていないんだと。愛し合いなさいと仰っておられる、主イエス様ご自身が、仰っているんであります。 しかし、ヨブ記に記されているように、祈りに応えて、主なる神さまが、変わらない永遠の愛をもって、私たちのために、私たちの祈りのために、とりなしてくださるのであります。私たちは、いや、私は本当に祈ることの少ない人生を送っていると思います。 そしてすぐに神さまにおゆだねすることをせずに、自分の身勝手な思いのままに物事にあたろうとする者であります。そんな私のために、私たちのために、イエス様、主イエス様は祈りの人生を歩まれて、模範を示してくださったのであります。 主イエス様は、主はいきておられる。集会のマガジンのテーマとなっていますけれども、主は生きておられるというのは、主がとりなしの祈りをもって、日々、瞬間瞬間、生きておられるということであります。 私たちも、本当にそういうふうな人生を歩まれたイエス様のなす足跡にならっていきたいと思います。 本日の、ヨブ記の中から学んで得られた、私なりに得られた結論は、生きることの本当の意味、本当に大切なことっていうのは、隣人を愛し、隣人のためにイエス様に祈ることでありますけれども、私たちは、隣人を愛することができない性質を持ち続ける者でありますので、聖書は、次のように語っています。最後の箇所になります。 ヘブル人への手紙12:1-2
主イエス様の御心がなりますようにと祈りながら、主イエス様を本当に見失うことなく、一心に見つめて、祈り人として今も生きておられる主イエス様の愛に見習って、このイエス様の御再臨の近いとされる、この時代を歩んでいけたら、私たちは幸いなんではないでしょうか。 どうもありがとうございました。 |