もれなく感謝のプレゼント


山本兄

(高松福音集会、2003/10/05)

引用聖句:ヘブル人への手紙7章24節-25節
24しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

今日のテーマなんですけど、「もれなく感謝のプレゼント」というテーマです。何か変なテーマだと思うんですけど、このようなテーマで学ばせていただきたいと思います。

私は、主イエス様に救われる前のことを振り返ってみますと、常に「満たされていない。」という思いがありました。
自分のわがままのために、私は随分と住み心地の悪い世界を作り上げてしまっていたんですけれども、そのすべてが自分のわがままによるものだっていう、その事実を認められませんでした。
それを認めてしまうと、すべてを失ってしまうような思いがあったんだと思うんですね。後ろ指を指されたくないから、本当にそんな状況にあっても何とか挽回の機会を狙って、悪戦苦闘して、もがきにもがいていた。そんな状況にありました。

そして、もがけばもがくほど状況は悪化して、どんどんどんどん深みにはまっていく。そんな状態にあったときに、私はキリスト集会の夜の結婚式に参加することになりました。それが集会との初めての接点だったんです。
集会での印象というのは、兄弟姉妹の口から次々に、「感謝」という言葉が飛び出してくるのが、本当にとても新鮮に思えたことであります。自分には、感謝という言葉が死語になっているという、そういったことに気が付かされました。
そして、自分も「感謝です。」と言えるようになりたいと思ったことを今でも覚えております。

感謝するっていうのは、何かしてくださったことに対して、その方に対してなされることだと思いますんで、感謝をささげる対象があるんだと思うんですけども、私は結婚式のときに集会の兄弟姉妹方が、「感謝です。感謝です。」と仰られるんで、私たちが結婚式に集ったんで、「来てくださってありがとう。」という、何か私たちに対して感謝しておられるのかなと、最初勘違いしておりました。
後になって、兄弟姉妹方は、主イエス様に感謝してるんだということがわかりましたけれども、心から「ありがとう。」という、その一言が言えない状態にあった当時の私にとって、集会の兄弟姉妹方の顔が、本当に光り輝いてうつった、そういうことを今でもよく覚えております。

人間にとって、いつもいつも感謝であると思える、そんな心の状態にあることが、私たちが到達すべき、究極な、幸せな状態にあると言えるんじゃないでしょうか。
標語なんかで掲げられてるので、「感謝する心の大切さ」などと書かれて、掲げられていると思うんですけれども、わかっちゃいるけどなかなか感謝できないのが人間でありますから、努力して、無理矢理に感謝しなくっちゃとか、感謝すべきなんだと自分に言い聞かせたところで、それは幸せな状態とはほど遠い状態にあるんじゃないかと思うんです。

また感謝する心は、そのときの自分の置かれている状況に大きく影響されますから、順風のときに感謝できても、逆風のときにはとても感謝などと思えないものではないでしょうか。
ですから、いつも感謝であるというふうに思えるのは、そういうふうな心の状態というのは、なかなか得られるものではないんだと思うんです。
人間を取り巻く環境は、常に変化していますから、順風のとき、逆風のとき、色々とあると思うんですけど、どんな条件下にあっても感謝である、そう思える術があるんだとしたら、それこそ人間にとって本当に必要な宝物と言えるんじゃないでしょうか。

人間は、有史以来、どれほどその宝物を探し求めて、考え続けてきたことでありましょうか。そういう思いが、ずっとあるんだと思うんですけども、人間のそういう思い、そういったものを求めて止まない思いというものが、数多くの宗教や、哲学を産み出してきたのかもしれません。
ぼくは、「宗教は結構です。必要としない。」という人であっても、自らの力、知識を頼りに、経済的な保障を基盤として、感謝できる心のゆとりをつくり出そうとしているんじゃないかと思うんです。
そのために、人はものすごい努力を重ねていって、疲れ果てていたりするんですけれども、「宗教はいらない。」というふうに仰っておられる方であっても、これは一種の自分教とか、経済教とでも言うべき、宗教と言えなくはないでしょうか。

お金が、物質的な豊かさが、人間に幸せをもたらしてくれるという幻想は、少し不況となるだけで、本当に簡単に揺らぎ始めます。ましてや、自分の命がいくばくも無いときに、物質的な豊かさが孤独を癒してくれるのでありましょうか。
自分の命がいくばくも無いって、そんなときに感謝する思いをただ与えてくれるものでしょうか。物質的なものとかそういうものでは、宗教とかそういったものでは、そういったものは得られないんじゃないかなと思うんです。

ところが、キリスト教という宗教じゃないかと仰られる方もいらっしゃいますけど、あえてキリスト教という言葉を使わないで、イエス様と申し上げますけれども、イエス様を信じる兄弟姉妹方の中には、重篤な病状にあっても、喜び満ち溢れて、感謝の思いに満たされた方たちが大勢いらっしゃいます。
その中には、すでに、喜びながら天の御国に凱旋されて行かれた兄弟姉妹もいらっしゃいます。自分の死がもうじき訪れ、間近に迫っている、そんな状況にあっても、感謝の思いをもって喜ぶことができる。これこそ本当に幸せな人間の姿。人間にとって、追い求めている理想の姿なんだと思うんですけど、事実として、そのような方たちが私たちの身近にいらっしゃるということを多くの方たちに知っていただきたい、と思うのであります。

これらの兄弟姉妹たちは、主イエス様から何を得たのでありましょうか。はたして、私たち主イエス様を信じる者も、同じ状況に至ったときに喜びをもって、「感謝です。」と言えるのでありましょうか。
話はちょっと変わりますけども、私は東京でサラリーマンをしています。吉祥寺集会の最寄駅、吉祥寺駅がある中央線を使って毎日通勤しております。もっとも混雑の激しい路線として知られている中央線なんですけれども、ある日、もう本当にギュウギュウに混んでいて、身動きが取れないようなときに、新聞も読めないんで、目をつむって祈ってたり、広告に目を通したりするんですけれども、そのときは祈ってなくって、色んな広告を見ておったんですけど、中吊り広告に目をやりましたときに、今日のテーマ、「もれなく感謝のプレゼント」というキャッチフレーズが目に飛び込んで来ました。

死の床にあっても喜び、感謝に満ち溢れている。主イエス様を信じる兄弟姉妹方が、そのようになれたのは、主イエス様を信じる信仰によるんだということは、間違いないことだと思うんですけれども、この信仰によって、イエス様を信じる、信じ仰ぐ、そのことによってイエス様からいったい何をいただいたのでありましょうか。
今日は、この中吊り広告にある、「もれなく感謝のプレゼント」から、イエス様のくださるもの、イエス様のプレゼントについてご一緒に学ばさせていただきたいと思います。

この中吊り広告のプレゼントというのは、この世的なものであって、お酒の宣伝だったんですね。もれなくとあるんですけれども、残念ながら条件付きであります。
その商品を購入して初めて応募資格が得られるというものです。それで商品を購入して、そしてハガキで、あるいはインターネットで応募された方に対して、もれなくプレゼントが当たるのでありますから、厳密にはだれにでももれなくという訳ではありません。

それに対して、イエス様のプレゼントはどうでしょうか。聖書からいっしょに学んでみたいと思います。イエス様のプレゼント。どういう人たちに対してなされてるのか。聖書はどのように記しているかと言いますと、

テモテへの手紙第I、2:4-6
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

このように、プレゼントの対象はすべての人が対象であって、そしてここには、主イエス様ご自身がプレゼントとして、すべての人の贖いの代価として与えられているのだと記されています。
すべての人に対してなんですけど、何かプレゼントをいただくためにしなくちゃいけないことがあるのかということなんですけども、

ヘブル人へ手紙2:9-10
9ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

ヘブル人へ手紙2:14-15
14そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

ヘブル人へ手紙2:17-18
17そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
18主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

また、

テモテへの手紙第II、1:9-10
9神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
10それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

ヘブル人への手紙、そしてテモテへの手紙第IIの中に記されてましたけど、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人たちを、これは私たちすべてに対して、神の恵みによって、イエス様の死はすべての人のために味わわれたものである。
そして今読みましたように、私たちの働きによるのではなくって、イエス様の、イエス様ご自身の計画と恵みによる。そういうふうに書かれていますから、このイエス様のプレゼントは、特別に何かしなくちゃいけないとか、応募したりする必要はない。全人類に対して、恵みによって、与えられてるものなんだということであります。
なぜこのプレゼントが、神さまであられる主イエス様の一方的な恵みによるものなのか。聖書はエペソ人への手紙の中でその理由を明確に示しております。

エペソ人への手紙2:8-9
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

イエス様によるこのプレゼントが、私たちの行ないによって与えられるものではなくて、恵みによるものであると聖書は言っていて、さらにプレゼントは、すでにもう永遠の昔に贈られているんだとも記されています。
それは、だれの誇りにもなるものじゃなくて、本当に恵みとして与えられるものなんだということが書かれているわけですけれども、理解に苦しむものではないかと思うんですが、でも本当に嬉しいプレゼントなのであります。

聖書はこのプレゼントのことを、「救い」と言っています。先ほどお読みしたヘブル人への手紙の中にも記されておりましたように、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた私たちを、私たち全員を、死の恐怖から解放してくださったからであります。だから救いなんであります。
このようにイエス様のプレゼントは、この世のプレゼントとは異なっていると思うんですけれども、随分違っていると思うんですが、共通点もあります。それは何かと言うと、応募の期限があるということです。聖書は次のように記しております。

伝道者の書12:1
11あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。

一日でも早く、あなたの創造者、イエス様のことを覚えなさいと、記されております。
聖書には、「応募期限はいついつ迄。」というふうに記されておりません。各人、異なっているからであります。おのおのが主イエス様と天の御国でお会いするまでに。
今、伝道者の書にありましたように、若い人は、明日よりも今日、一時間後よりも、もう今すぐに、少しでも早く、主イエス様のプレゼントを、もう届けられているプレゼントを受け取って、我が物とする必要があると、聖書はすすめておるのであります。

人間が主イエス様と顔と顔を合わせてお会いするというのは、個人的に死を迎えるか、あるいは生きていて、私たちが生きているときに、主イエス様がまた天の御国からご再臨なさるとき、私たちは主イエス様と会うことになる。このどちらかであるわけですけれども、私たち人間が主イエス様とお会いするときに、この恵みのとき、プレゼントの期間は、終わってしまうので、そのときまでに、このプレゼントを開けて我が物としなさい。
このプレゼントは、本当に喜びをもたらしてくれるものなんだからと、聖書は私たちにすすめているのであります。

プレゼントの贈り主である、主イエス様にお会いするまでに、頂戴したプレゼントを心から感謝して、「イエス様、本当にありがとうございました。」と、お礼が言えるようにしておかないと、イエス様にお会いしたときに、イエス様の御怒りは想像を絶するものとなるのであります。
では、主イエス様のプレゼントを受け取って、我が物とするために、私たちはどうしたらよいのでありましょうか。聖書は次のように記しております。

ローマ人への手紙10:9-12
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。

ユダヤ人と日本人の区別はありません。

ローマ人への手紙10:12-13
12同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。

と、あります。たったこれだけのことでOKなんですけれども、「主イエス様こそ唯一の神さまだ。」と信じることは、人間的な努力や理解によってでは極めて難しいと言えるのではないでしょうか。
すでに、イエス様を信じるようになった兄弟姉妹方たちも、おそらく、まだ、あの、イエス様を信じていない方たち、また家族に、「こうしたらイエス様を信じることができますよ。」と、HOW-TO的なアドバイスはできないんじゃないでしょうか。

この信仰に導かれるようになるまでに、私たちは色んなことで悪態ついてきたと思うんですね。「アホかー。神さまを信じるなんて。」、私、そんなふうに考えたことあります。
「宗教は嫌だな。神さまの存在なんか信じることができる奴っていうのは、本当に幸せだ。そう思うよ。」、そんなふうにも思いました。「ただ、精神的に弱い、本当にそういう人たちがよりどころとして神さまに頼るんだ。」
かつて、私はこんな悪口を吐露してきた者でありますけれども、そういった、今イエス様を信じる兄弟姉妹方もかつて、そう言ってきた方が多いんじゃないかと思うんです。

しかし、私はそんな者でありましたけれども、イエス様を信じる兄弟姉妹方と初めてお交わりしたとき、夜の結婚式でしたけれども、本当に清らかな世界があるということを体験しましたし、救われた人たちの生き様にある静かな力強さ、静かな喜びを見させていただいているうちに、自分の心にぽっかりと空いた、満たされない思いを感じたのでは、と思うんです。
冒頭で申し上げましたように、私の心には、この人たちのように、このイエス様を信じる人たちのように、感謝する心がないと、私は気付かされたのであります。そして、心の飢え渇きからあるとき、主イエス様か、否かという、その二者択一の選択肢に立たされたときに、私は自らの意思で、主イエス様の方を選び取っていたんですけれども、そのような方たちが大勢いらっしゃるんじゃないかと思うんです。
これは、主イエス様のプレゼントを受け取り、主イエス様のこのプレゼントの贈り主である方を知った人に対して、本当にその人を喜び踊る者と変えてくださる、このプレゼントの力によるものだと、私は思うのであります。

今まで色々と申してきましたけれども、このプレゼントについて申し上げますと、このプレゼントは、すべての人に与えられているもので、すべての人に受け取る資格があること。
今も言いましたけども、この主イエス様のプレゼントは、もう各人に届けられていること。
三番目、主イエス様とお会いする前に、プレゼントを受け取り、我が物とする必要があること。

この三点を、学んできたかと思うんですけれども、このプレゼントそのものについて、聖書は何と言ってるのでありましょうか。先ほども、主イエス様のプレゼント、それは主イエス様ご自身であるといって、書かれてありましたけれども、主イエス様ご自身っていうのは、どういうことを言っておるのでしょうか。
それは、私たちのために身代わりとなって十字架にかかってくださって、いのちを投げ出してくださった、ご真実の愛のことであります。イエス様の愛について、何箇所から学んでみたいと思いますけれども、

ペテロの手紙第I、2:22-25
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ヨハネの手紙第I、4:9-10
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

主イエス様が私たちを愛してくださっているという事実、これがプレゼントであります。
イエス様のプレゼントは、この愛に、十字架のみわざによって裏付けられた永遠のいのちであります。

ローマ人への手紙6:23
23罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

イエス様のプレゼントは希望を与えるもので、このプレゼントを受け取る者は失望させられることがないと、聖書は約束しております。

ローマ人への手紙5:2-5
2またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

イエス様のプレゼントは、もうすでに...

(テープ A面 → B面)

ヘブル人への手紙13:7
7神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。

指導者たちと言っているけれども、神のみことばをあなたがたに証しした兄弟姉妹方のことを思い出してみなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。死の床にあっても喜びに満たされて、天の御国に凱旋されていった兄弟姉妹方の生き様を見なさいと言っています。
その生き様はどうだったでありましょうか。聖書の言う通りではありませんか。
この、イエス様のプレゼントですけれども、この世において歩んでいる私たちに対しても、本当に喜び、そう思うんですけれども、天の御国で私たちを完全な者としてくださると記されています。

ピリピ人への手紙3:20-21
20けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
211キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

本当に嬉しいプレゼントだと思います。
この世のプレゼントっていうのは、いつの時か、いつの日か色褪せてしまったり、忘れ去られたりするものですけれども、主イエス様のプレゼントは、いつの日にも新鮮な発見があります。
私たちはそのプレゼントを受けた者ですけれども、いただいた者ですけれども、一生涯かけても味わい尽くすことのできないプレゼントなのだと、聖書は記しています。

ローマ人への手紙11:33
33ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

私たち、イエス様を信じる者となった者であっても、歳を取れば取るほど、年が経てば経つほどに、イエス様の御心をまったく知らないで歩んで来たということを、恥じ入ることが多くなるんだと思うんです。
聖書は、コリント人への手紙第Iで次のように記しているからです。

コリント人への手紙第I、2:9
9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
と、書かれています。
私たちも、「こういうもんだ。」と、決め付けちゃうようなときありますけれども、全然そういうことはない。本当私たち、何もわかっていないということを、日々知らされる。イエス様のプレゼントというのは、そういったものだと思います。
新鮮な驚きがあります。本当に毎日、悔い改めさせられるプレゼントなんだと思うんです。主イエス様は、私たちの思いをはるかに超えて、良くしてくださるお方なのです。

この主イエス様のプレゼントは、私たち一人一人、人間一人一人に確かに届いています。そのプレゼントは今も、現在もすべての人に注がれているものであります。イエス様は、ともに歩んでくださり、重荷を負っておられるのであります。
集会の兄弟がメッセージの中で私に教えてくださいました。今日という日、この瞬間瞬間が、イエス様からのプレゼントなんだそうであります。だから現在ということを、英語では、「at present」というのだそうです。

イエス様からいただいたプレゼントというのは、本当に色んなプレゼント。これもそうだ、あれもそうだって思わされることが多いと思うんですけれども、目に見えないものばかりではありません。私たちの生活に、具体的な形で示されるものが数多くあると思うんです。
私、今日こういうふうなテーマで話させていただいてますけれども、電車の中で、「もれなく感謝のプレゼント」、そんな広告のキャッチフレーズが目に留まったというのも、意味があることだと思うんです。
そのことを通して、イエス様のことを考えさせられることになりました。すべて、身の回りに起こる出来事には意味があって、無意味なこと、不要なことというのは、主にあって何ひとつないんだ、そういうふうに思います。

私たち、色んなことを目にすると思うんですけれども、例えば赤ちゃんがお母さんに抱かれているとき、本当に安心して、安らいでいるんですけれども、ひとたび引き離されると、ほんの少しの間であっても、不安になって泣き叫び始めます。
そのことを見てると、きっと人間が神さまから離れてるっていう状態は、こんな状態なんじゃないかと思わされるんです。神さまに、それで立ち返ったとき、赤ちゃんがまたお母さんに戻ったとき、泣き止んで、もう本当に平安そうな表情をします。
ですから、私たちが神さまに立ち返ったときの喜びっていうのは、こういったものじゃないか。また天の御国でイエス様のところに戻ったとき、その喜びってのが、いかばかりなんだろうかというふうにも私は思うんであります。

まだイエス様を信じていない方たちに申し上げたいんですけれども、あなたは不安ではないでしょうか。あなたは孤独ではありませんか?あなたは自分の死というものを直視できるんでしょうか?
また、今、秋でいい季節ですけれども、道端に咲いている小さな花をひとつ見ても、私たちはその美しさ、造形の見事であることに創造主の、神さまのみわざを覚えないでありましょうか。
まだイエス様に出会えていない方にお伝えしたいんですけども、その花は、偶然に咲いているのではありません。

また、今、本当に世の中が乱れていて、若者たちの退廃的な姿を通して、若い人たちの心の飢え渇きを、霊の飢え渇きを私たちは覚えるものではないかと思うんですけれども、物質的に豊かになったこの現代社会でも、彼らの心を満たすものは、決して物質なんかじゃないんだということを、私たちは気付かされるんじゃないでしょうか。
まだイエス様に出会えていない方に申し上げたいんです。うつろいゆくもの、色褪せるものではない、永遠に続く、永遠の喜びが、あなたとともにあるのであります。

またテレビで、凶悪な犯罪の報道をよく耳にします。珍しくなくなってきてます。その凶悪犯の心を柔らかくして、悔い改めに導くものは、主イエス様の愛しかないと思わずにはいられないんではないでしょうか。
なぜなら、イエス様のことをまだご存知ない方に申し上げたいんですけど、それはなぜなら、イエス様は「わたしはあなたを愛している。わたしは、そのままのあなたを受け入れて愛している。」と仰ってくださっておられるからです。

人間関係で苦しい状況にあるとき、また経済的に厳しい状況にあるとき、心の病や、肉体的な病に苦しんでいるそのとき、私たちの身の回りに起こるすべての出来事がうまくいかないように、すべてうまくいかないように思えるそのとき、それは、主イエス様からのプレゼントが届けられているんですよ、ということを知らせる合図なのであります。
主イエス様からのプレゼントには、のし紙がされていて、次のように書かれています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたし、イエスのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを折って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」

そう、書かれているのであります。
今日は、「もれなく感謝のプレゼント」というテーマで学ばさしていただきましたけれども、主イエス様のプレゼントを、我が物とした人は、例外なくすべて、感謝する心が与えられて、本当に幸せな者へと変えられるのであります。
プレゼントであられる主イエス様を見つめて、感謝する思いをいただいて、心から主イエス様を喜んで、この新しい一週間、この人生の旅路を歩んで行けたら何と幸いなのではないでしょうか。

今日の学びの終わりに、今日の引用聖句を拝読して終わりとさせていただきたいと思います。

ヘブル人への手紙7:24-25
24しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

どうもありがとうございました。




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