あなたがたの現状をよく考えよ


山科兄

(大阪福音集会、2005/05/29)

引用聖句:ハガイ書1:5
5今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

今、読んでいただきましたハガイ書なのですけれども、預言者ハガイを通してイスラエルの民に語られたことばなのです。
「あなたの現状をよく考えよ。」、これは私たちも真剣に考えなければならないことではないでしょうか。
このハガイの時代は主の祝福がなかったのです。

ハガイ書1:6、10-11
6あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
10それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。
11わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。」

飢饉や天災は神への不従順から来るものだったのです。なぜこのように主はされたのか。ちょっとこの時代のことを考えてみたいのです。
ダビデ、ソロモン王、そのあとにイスラエルの国は分裂してしまったのです。二つに王国は分かれてしまった。
そしてついにはバビロン、今のイラクなのですけれども、その国に滅ぼされてしまったのです。多くの国民がそのバビロンに連れて行かれてしまったのです。

頭のいい人や、いい技術を持っている人、そういう働き人を全部イラクの国に連れて行ってしまった。バビロンという国に連れて行ってしまったのです。これはバビロン捕囚と言われている、そういう出来事だったのです。
70年後にペルシャ、イランが勢力をもって支配したから、捕囚の民を解放したのです。そして解放された人たちは帰って来て、壊された神の宮を再建するのですけれども、色んな妨害に会って、その再建の工事は挫折してしまったのです。
15年から18年間、工事は止まっていたようなのです。そのときのことなのです。

神殿を作ろう、主のために働こうと決心した人たちが無関心になってしまったのです。あきらめて、自分中心の生活を大切にするようになっていたのです。
そのときにハガイという預言者を通して主は語られたのです。それは、今、わたしはあなたを祝福することができないということなのです。

たぶん、イスラエルの人たちは普通の生活をしていたと思うのです。
決して旧約聖書に出てくるようなソドムやゴモラのようではなかった。勤勉に働いた。生活の向上を目指していたのです。決して何が悪いかわかっていなかったと思うのです。問題は順序が逆だったのです。
神さまを第一にする。それがなかったのです。自分の生活が第一番だったのです。

ハガイ書1:4
4「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。

ハガイ書1:9
9あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

たぶん、この当時の人たちは礼拝も祈りもちゃんとしていたと思うのです。決して主のことを全部捨て去ったわけではないのです。2節にあるように、

ハガイ書1:2
2「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

みんなで話し合ったり、祈り会をしていたかもしれない。私たちの生活の中にも、こういうことは多くあるのではないでしょうか。
私たちは信仰の希望をもって歩み始めるのです。その希望とは、周りの人の救いではないでしょうか。ご主人の救いもあるし、子どものこと、家庭のこともある。

集会に初めて来て、自分の罪や病気や家族の色んな問題を解決したいと思っています。
けれどそれらのことが長く解決されない、思うようにことが運ばない。そうなってくると、まだ時ではないから、みこころではないと言うし、この問題が解決しないと、こんなに集っているのに時々行けばいいかと思ってしまうかもしれないのです。
ご主人や親を怒らせてはいけないから、主を証ししなくなってしまうのです。色んな妥協や怠慢や自己中心を正当化する言い訳を並べ立てるのです。けれどそのことにすら気が付かないのです。

何か目で見えて行動するとか、的確なことをするということではなくて、主を第一とする生活をしているかどうかということではないでしょうか。
私たちの生活の中のすべてに主を認めるならば、多くの問題はあっても平安は与えられるし、満足を与えられます。
決して仕事が上手くいくから満足ではないのです。多くのものがあるから、喜びがあるのではないのです。

最近つくづく思うことがあったのです。持ち物が増せば、悩みが増しますという箴言のことばがあるのです。本当にその通りです。
なければ悩みはたった一つなのです。物を欲しい、欲しいと思うだけなのです。
けれども持てば、守ることや、維持することや、使い方について悩みが増すのです。3つ持てば3倍の悩みがあります。

けれども主は必要に応じて与えておられる。そのようにわかれば、主を第一にしていればいいのです。これは非常に楽なのです。ものの見方は全然変わってくるのです。
この前の集会で、ある姉妹とちょっと話していたのです。子どもが4人いるのです。それぞれに子どもの悩みがあって、色んなことがやっぱりあって、親の悩みの種なのです。
ぼくは一人しかいませんので、悩みは4分の1だなという話をしていたのです。けれど、その色んな問題を通して、子どもが導かれていくのを見る。それを見ると、祝福に変わると。悩みが祝福に変わると言うのです。4倍の恵みになってしまったのです。損したのです。4分の1ですから。

主の救いというのは本当にすごいと。多くの問題は私たちを祝福へと導くものなのです。ハガイのこのメッセージを通してわかることは、私たちの生活の優先順位に主を第一番にすれば、主の祝福は約束されているということなのです。
新約聖書のマタイの福音書の6章を見てみたいと思うのです。

マタイの福音書6:31-34
31そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
32こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
34だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

よく知っている個所です。よく私たちはこのことばを読むのです。
まず第一に求めるものが神さまのことなら神の国というのは、神さまの支配であります。その義というのは、神さまとの正しい関係なのです。
それは私たちがどのような方法をもっても自分で得ることはできないのです。色んな修行や色んな節制を通してもそれは何の役にも立たないのです。イエス様の十字架を受け入れることによって与えられます。決してほかの方法ではもうダメなのです。

そうすれば、私たちの悩み、将来への不安、心配のもとである衣食住すべて与えると言われます。そして34節、あすのための心配は無用と言われるように、平安と満足が与えられます。
ハガイの時代の人たちも逆だったのです。自分たちの生活を優先させていた。自分たちの目に見える問題をまず解決しようと走り回っていたのです。
だから満たされなかったのです。

実際に、物質的にも乏しかったですけれども、精神的にも平安がなかったのです。こういうことはこの旧約聖書の時代だけではなくていつもあるようなのです。
新約聖書のピリピ人への手紙の2章21節。

ピリピ人への手紙2:21
21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

主を第一にすると言っても、こういうときというのはわかりやすいと思うのです。
礼拝に行くより自分の楽しみを行なう。日曜日に遊びが優先になる。ゴルフやテニス。こういうのはすぐに自分は不信仰な者であるとだれでもわかるのです。
けれど仕事や学校の行事、地域の行事だったらちょっとややこしくなってくる。どうしてもしなくてはいけないことなのです。

自分の気持ちがどっちに向いているのかよく考える必要があるのです。もっともわかりにくいのは、このピリピの人のように、1章の14節からちょっと見たいと思います。

ピリピ人への手紙1:14-17
14また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
15人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
16一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
17他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。

この文章を読めば、ひどいことだなと思うのです。けれど当事者というのはわからないのです。自分の本当の内側というのはわからないものなのです。
一生懸命奉仕していても、結局自分のためのときが多くあるのです。そういう自分をよく吟味する必要がある。
自分の生活の中に主に喜ばれないもの、敵対するものはないのか。それによって主の祝福を逃しているものはないか。真剣に問い、また聞かなければ何も見えてこないのです。

自分の真実の姿を見せるためには、その姿を見るために主は色々なことを起こされます。ハガイの時代の人たちは、飢饉を主は送られたのです。
今の時代、病気かもしれないのです。仕事の悩みかもしれないのです。反対に、何不自由のない生活かもしれないのです。

新約聖書の中にある貧乏人のラザロとある金持ちの話があるのです。毎日贅沢に暮らしていた金持ちは、主のことを考えることもなかった。必要なかったのです。けれどその結果は、天国に行くことはなかったのです。
そのいいように思える生活こそが、主の祝福のない状態だったのです。何がいいのか本当にわからないのです。
主が、あなたの現状をよく考えよと言われるのはどういうことなのでしょうか。現状だけをみてはダメなのです。

だいぶ前の新聞なのですけれども、ちょっと面白い記事を見つけたのです。「隠れキリシタン、息づく中国奥地」という見出しの記事だったのです。
中国の奥地の貧しい村らしいのです。収入も最低レベルというところらしいのです。村の人が、900人のうち00人がそういう集会に集うところらしいのです。
中国は共産主義になってキリスト教は禁止になった。文化大革命になって、信仰をもってると捕まる時代になったらしいのです。人前で祈ることすらできなかった。教会や聖書は全部燃やされてしまったらしいのです。

そのときに主はある人に語ったそうです。「共産主義を憎むな。」と。聖書を燃やされても、将来印刷して返されるだろうということを、ある兄弟に語ったとその新聞に書かれていたのです。それを希望にずっともっていたのですって。
中国で今、表向きはではキリスト教は禁止されなくなってしまったのです。どうでしょうか。
貧しくて、ひどい目に会って、聖書まで燃やされてしまった。ハガイの時代のように祝福のない状態なのでしょうか。違うのです。聖書が燃やされても禁止されても主が語ってくださり、本当の希望を与えられていたのです。主が身近にいてくださると感じることこそが祝福そのものです。私たちと主との関係は一方通行ではない。聞くこと、祈ることなのです。

芦屋集会の姉妹は、息子さんがJRの尼崎の事故に遭われたのです。大変な怪我だったのです。今後もどうなるかと言われていました。
それがどういう意味があるのか、恵みであるとか、ぼくは本当にそういうことは言うことができないです。けれどもその姉妹の短い挨拶の中で、主は支えてくださっている。また、主に頼っておられるというのを感じることができたのです。
主がそのご家族の側におられるから、良かったと言わざるを得ないのです。私たちはひとりひとり、そういう経験をしてきたと思うのです。

主が、あなたがたの現状をよく考えよと言われるとき、感謝できるときと、打ちひしがれるときがあると思うのです。現実の状況ではなく、私たちのがわに問題があるということなのです。
詩篇の77篇の1節からちょっとお読みしたいと思います。

詩篇77:1-10
1私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。
2苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。
3私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。セラ
4あなたは、私のまぶたを閉じさせない。私の心は乱れて、もの言うこともできない。
5私は、昔の日々、遠い昔の年々を思い返した。
6夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私のたましいは問いかける。
7「主は、いつまでも拒まれるのだろうか。もう決して愛してくださらないのだろうか。
8主の恵みは、永久に絶たれたのだろうか。約束は、代々に至るまで、果たされないのだろうか。
9神は、いつくしみを忘れたのだろうか。もしや、怒ってあわれみを閉じてしまわれたのだろうか。」セラ
10そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」

このアサフという作者は苦難の中にあって、主を見失ってしまったのです。主の怒りによって私は祝福されない。と思い込んでしまったのです。
私たちもこのようになるときはあることがあるのではないでしょうか。けれどこの11節からちょっと読んでみたいと思います。

詩篇77:11-13
11私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
12私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。
13神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

よく考えてみたのです。私たちの具合によっては変わらないと言っているのです。そして19節。

詩篇77:19
19あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡を見た者はありません。

これは、出エジプト記の出来事を見て、主は、神は目に見えなくても、救いの事実、それは体験できると、このように思い直したのです。
変わらない方を変わってしまったと、主の祝福が嘘のように感じるのは、私たちが信仰の本質を見失ってしまっているのです。

確かに主の祝福を感じないときがあります。何をしても喜びがない。祈っても祈っても、周りの人が導かれない。あると思います。けれど主は祝福を与えようとしておられます。私たちの変化を待っておられます。
そのために多くの悩みがあるのかもしれません。私たちが変わろうと思ってもできるものではない。できるのは何事においても、主を第一にする心構えを持つことだけなのです。決して大きな働きをできるものではないのです。そう決心すればOKなのです。
ハガイ書の18節と19節。先ほどのところなのです。

ハガイ書2:18-19
18さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。
19種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。

この表現はぼくの本当に大好きなところなのです。今までの失敗は問わないのです。信仰はそういうものなのです。いつも、今からが大切なのです。
私たち人間は過去のことを覚えて、責める者なのです。あのとき、あんなことをしたから。いつまでも文句を言うのです。私たちは人間なのです。
神ではないからわからないのです。理解できないのです。イエス様が十字架に架かってくださったことを受け入れたら、私たちの罪は帳消しになる。全く罪を犯さなかった者のようになる。

これは本当に理解できないことなのです。本当かなと思ってしまうのです。私たちは許しても、何かあったらまた思い出す。そういう者だからなのです。
人にはできないことを神は当然のようにされます。だから私たちは今日も神の前に出ることができるのです。
過去の罪、失敗を自分で責めるのは不信仰です。

今日は、このハガイという預言者に与えられた幻、ことばを通して、今私たちはどのような状況なのか考える必要性を見てきたのです。
今日も聖餐式のときに読んでくださったみことばのすぐあとですけれども、自分を吟味するようにと言われています。

私たちは主をも自分自身をも見失いやすい者なのです。また、人や昔と色んなことを比べてしまう者なのです。目に見えるものを比べて、本当に嘆く者なのです。
けれど形よりも主のご栄光だけが大きくなることを望むようになれば幸いなのです。
主の祝福のみことばを読んで終わりにしたいと思うのです。このハガイ書の2章の1節から9節。

ハガイ書2:1-9
1ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
2「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。
3あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
4しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。――主の御告げ。――エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。――主の御告げ。――仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。――万軍の主の御告げ。――
5あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
6まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
7わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
8銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――
9この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。――万軍の主の御告げ。――」

ハガイ書2:18-19
18さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。
19種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。




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