あけましておめでとうございます。 最初にみことばをお読みいたします。ペテロの手紙第II、3章18節です。425ページです。お読みいたします。 ペテロの手紙第II、3:18
え多くの兄弟が、え〜語っていらっしゃいますように、新しい年は昨年よりも、当然ですけどもイエスさまが再び来られるその再臨のときに近づくことができたわけです。 そのいろんなかたちで新年をお祝いしましたけれども、本当に新しい暦をページをめくることを通して主のご再臨がより一歩近づいたということを、あの…本当にめでたいことであります。 昨年はほんとに振り返ってみますと不安に一人一人が翻弄された年であったわけであります。ま何が起こるかわからないから、ま「不安だ」という人がおります。 逆に何が起こるかわからないけれども、「平安だ」という人もおります。もちろん主を知る信仰者は後の方であります。 まただいま最初に読みましたみことばは、ペテロが書いたみことばのま最後であります。 ペテロは、みなさんよくご存じのように『ネロ皇帝によって迫害をされ、殉教死をする。』というふうに言われています。まその方が、殉教前に書かれたものの一つじゃないでしょうか。 まこの手紙の中にも、「イエスさまが幕屋を脱ぎ捨てる時が来た」というに言われたというに、彼は言っています。 「幕屋は脱ぎ捨てる」とは、ま「テントをたたむ」というふうに訳す場合もあるようです。 本当の主が与えてくださる永遠の住まい、まそこに入る前の彼の手紙であります。 その手紙を読みますと本当に何が起こるかわからないけれどもでも、平安だというその平安の秘訣がここに書かれています。 たとえば、もちろんその今の3章18節もそうですけども、この手紙を書き始める最初のところでですね、2節のところでペテロはこのように言っています。 ペテロの手紙第II、1:2
と言っています。 私たちはただイエスさまの犠牲の愛、十字架の贖い、罪ほろぼしをしてくださったその義の行為のゆえに、主を信ずることのできた者であります。 そしてペテロがこの手紙の冒頭で書いていますように、この救いは人のわざに根拠があるのではありません。 ただ救い主イエスさまが成し遂げてくださったみわざに、根拠があります。最初のペテロの手紙第IIの1章1節にまこのように書いています。 ペテロの手紙第II、1:1
使徒であるという尊い働きは、もう一方でそれゆえに奴隷、というふうに名乗っているように、神さまに徹頭徹尾従う犠牲のいる働きでありました。 けれどもペテロは、主を信ずる信仰は使徒でない者もなんら遜色のない、共に同じ救いをいただく信仰であるというに、言っているわけであります。 これはペテロだけでなくって、聖書の中でたえず言われていることであります。 有名な聖書の箇所のエペソ人への手紙の2章8節9節には、まぁこのように書かれています。 エペソ人への手紙2:8-9
まこのようにパウロも語っています。そして、このような救いは、不完全で滅びる存在でしかない罪人が、主の栄光と富にあずかる救いであるということです。 単に、…単にっていうよりも、一番根本的なことなんですけども、罪赦されるということに留まらないで私たちのようなほんとに汚れ多い者がイエスさまの御姿に変えられる、ということであります。 そしてそれは、イエスさまを知れば知るほどその確信が増し加えられているという、そういう救いであります。 主イエスさまはどういうお方でしょうか。また主イエスさまは、私たちに何をしてくださるお方か、そのことをペテロは証しながら、私たちが救われ、恵みと平安をなぜいただけるかを端的に次のように述べています。それは、その次の3節から4節のところに書かれているみことばです。お読み致します。 ペテロの手紙第II、1:3-4
まペテロはこの手紙を通して、何を最も伝えようとしていたかの一つのカギが、この文章の中にあるのではないでしょうか。 それはイエスさまの神さまとしての御力を主を信ずる者が一人残らず体験できる、というすばらしい約束であります。それは、主イエスさまが与えてくださるものはいのちと敬虔に関するすべての問題の解決であるということです。 ま昨日も大晦日のメッセージの中で人が善悪の知識の木の実を食べたために、そのために死が入ってきた。それは神の警告を無視したことである、というそしてもはや私たちはいのちを無くしてしまった状態であるということが創世記を引かれてメッセージされました。 この「いのち」、主がくださってるいのち、このいのちと敬虔に関する、すべてのことが主イエスさまを通して与えられる、ということは全く驚天動地の事柄であります。 それは私たちの肉の性質からは、決して帰着しない結論であるからです。 イエスさまご自身がすでに、ま次のように言っておられました。ヨハネの福音書の6章63節ですが ヨハネの福音書6:63
ヨハネの福音書15:3
このようなイエスさまのおことばに、明らかなようにいのちときよさの与えぬしは、ただおひとり子であるイエスさま、神の子であるイエスさまだけです。 そしてこのいのちときよさは、主イエスさま抜きにどんなに修養を重ねようと、学習を重ねようと、会得できるものではありません。 それはただ一方的にわれらが受け取る性質のものであります。なぜならばそれは、私たちのいのちで、…いのちに関わることだからです。 ヨハネの黙示録の22章17節に、途中からですけども、 ヨハネの黙示録22:17
と言っています。イザヤ書の55章の1節から3節には イザヤ書55:1-3
このように書かれています。 神さまとしての御力は、主のみことばを聞くだけでいのちをいただくことのできる、人をまったく新しく生まれ変わらせる力を持つものです。 しかし、このペテロの手紙では神の御力にもう一つの光が当てられております。 それは言うまでもなく主の来臨のことであります。そして、この主が再び来られること、ということこそ、いのちと敬虔に関するすべてを与えることのできる神さまとしてのイエスさまの御力の行使意外の何物でもありません。 そしてその主が来臨されるということは罪人である私たちが、贖いが、完成される、という時でもあります。 10節11節のところに、このように書かれています。 ペテロの手紙第II、1:10-11
と書かれています。 もちろん、そのために少なからず障害があることもこのペテロの手紙は述べられています。 それは、主が再び来られるという事実に対する世の人々や教会内におけるにせ預言者の挑戦であります。 世の人々は、古き時代から繰り返しそのことに挑戦しています。 創世記19章4節から5節にはそのソドムに住んでいた人々が、その中に住んでいるロトが主の御使いを迎えてそして交わりを持とうとしていたときに、このようにしたと書いてあります。 創世記19:4-5
ペテロはこの人々に対して、端的に同じペテロの手紙の2章7節で、 ペテロの手紙第II、2:7
とまとめています。「無節操」という言葉で世の人が持っている性質を描き、その危険を指摘しています。 そしてそれに惑わされることのないようにペテロの手紙第II後ろの方の3章17節でこのようにまとめています。 ペテロの手紙第II、3:17
そして、このような主が与えてくださる聖さに対する挑戦、来臨に対する否定は、教会内のにせ預言者を通しても行なわれるということが指摘されています。 ペテロの手紙第II、2:1
と主の再臨を否定する人たちの姿が、描かれています。 けれども、もし私たちも同じような思いを持っているとしたら、ペテロがみことばの権威を持って次のように言ってることに耳を傾けるべきでないでしょうか。3章8節から13節。 ペテロの手紙第II、3:8-9
「主が来られない」、「まだ来られないじゃないか。」そういうふうに私たちは、思うときに絶対、そういうことはないわけであります。 むしろ、主はご自身のいのちと敬虔の与え主としてすべての人が救われることを待ち望んでおられるわけです。そして、忍耐しておられるわけです。 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。と書かれています。マタイの福音書の24章37節から39節には、 マタイの福音書24:37-39
最後にみことばを一箇所読んで終わりにしたいと思います。 今朝読んでいまして、ほんとに古き時代からこのことが言われているということを、改めて気づかされました。 詩篇の68篇の3節4節。889ページです。 詩篇68:3-4
「雲に乗って来られる方のために道を備えよ」と。ほんとに聖書は、私たちに希望を与えるために絶えずこのように語っています。 主イエスさまの恵みと知識において、成長させていただき、今の時間を救霊のために、さらに主の助けを祈り求めながら 今年一年が過ごせればほんとに幸いであります。 どうもありがとうございました。 |