2002年元旦御代田メッセージ


吉田兄

(御代田、2002/01/01)

あけましておめでとうございます。
最初にみことばをお読みいたします。ペテロの手紙第II、3章18節です。425ページです。お読みいたします。

ペテロの手紙第II、3:18
18私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

え多くの兄弟が、え〜語っていらっしゃいますように、新しい年は昨年よりも、当然ですけどもイエスさまが再び来られるその再臨のときに近づくことができたわけです。
そのいろんなかたちで新年をお祝いしましたけれども、本当に新しい暦をページをめくることを通して主のご再臨がより一歩近づいたということを、あの…本当にめでたいことであります。
昨年はほんとに振り返ってみますと不安に一人一人が翻弄された年であったわけであります。ま何が起こるかわからないから、ま「不安だ」という人がおります。
逆に何が起こるかわからないけれども、「平安だ」という人もおります。もちろん主を知る信仰者は後の方であります。

まただいま最初に読みましたみことばは、ペテロが書いたみことばのま最後であります。
ペテロは、みなさんよくご存じのように『ネロ皇帝によって迫害をされ、殉教死をする。』というふうに言われています。まその方が、殉教前に書かれたものの一つじゃないでしょうか。
まこの手紙の中にも、「イエスさまが幕屋を脱ぎ捨てる時が来た」というに言われたというに、彼は言っています。
「幕屋は脱ぎ捨てる」とは、ま「テントをたたむ」というふうに訳す場合もあるようです。
本当の主が与えてくださる永遠の住まい、まそこに入る前の彼の手紙であります。
その手紙を読みますと本当に何が起こるかわからないけれどもでも、平安だというその平安の秘訣がここに書かれています。

たとえば、もちろんその今の3章18節もそうですけども、この手紙を書き始める最初のところでですね、2節のところでペテロはこのように言っています。

ペテロの手紙第II、1:2
2神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

と言っています。
私たちはただイエスさまの犠牲の愛、十字架の贖い、罪ほろぼしをしてくださったその義の行為のゆえに、主を信ずることのできた者であります。
そしてペテロがこの手紙の冒頭で書いていますように、この救いは人のわざに根拠があるのではありません。
ただ救い主イエスさまが成し遂げてくださったみわざに、根拠があります。最初のペテロの手紙第IIの1章1節にまこのように書いています。

ペテロの手紙第II、1:1
1イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ

使徒であるという尊い働きは、もう一方でそれゆえに奴隷、というふうに名乗っているように、神さまに徹頭徹尾従う犠牲のいる働きでありました。
けれどもペテロは、主を信ずる信仰は使徒でない者もなんら遜色のない、共に同じ救いをいただく信仰であるというに、言っているわけであります。
これはペテロだけでなくって、聖書の中でたえず言われていることであります。
有名な聖書の箇所のエペソ人への手紙の2章8節9節には、まぁこのように書かれています。

エペソ人への手紙2:8-9
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

まこのようにパウロも語っています。そして、このような救いは、不完全で滅びる存在でしかない罪人が、主の栄光と富にあずかる救いであるということです。
単に、…単にっていうよりも、一番根本的なことなんですけども、罪赦されるということに留まらないで私たちのようなほんとに汚れ多い者がイエスさまの御姿に変えられる、ということであります。
そしてそれは、イエスさまを知れば知るほどその確信が増し加えられているという、そういう救いであります。

主イエスさまはどういうお方でしょうか。また主イエスさまは、私たちに何をしてくださるお方か、そのことをペテロは証しながら、私たちが救われ、恵みと平安をなぜいただけるかを端的に次のように述べています。それは、その次の3節から4節のところに書かれているみことばです。お読み致します。

ペテロの手紙第II、1:3-4
3というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
4その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

まペテロはこの手紙を通して、何を最も伝えようとしていたかの一つのカギが、この文章の中にあるのではないでしょうか。
それはイエスさまの神さまとしての御力を主を信ずる者が一人残らず体験できる、というすばらしい約束であります。それは、主イエスさまが与えてくださるものはいのちと敬虔に関するすべての問題の解決であるということです。

ま昨日も大晦日のメッセージの中で人が善悪の知識の木の実を食べたために、そのために死が入ってきた。それは神の警告を無視したことである、というそしてもはや私たちはいのちを無くしてしまった状態であるということが創世記を引かれてメッセージされました。
この「いのち」、主がくださってるいのち、このいのちと敬虔に関する、すべてのことが主イエスさまを通して与えられる、ということは全く驚天動地の事柄であります。
それは私たちの肉の性質からは、決して帰着しない結論であるからです。
イエスさまご自身がすでに、ま次のように言っておられました。ヨハネの福音書の6章63節ですが

ヨハネの福音書6:63
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

ヨハネの福音書15:3
3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。

このようなイエスさまのおことばに、明らかなようにいのちときよさの与えぬしは、ただおひとり子であるイエスさま、神の子であるイエスさまだけです。
そしてこのいのちときよさは、主イエスさま抜きにどんなに修養を重ねようと、学習を重ねようと、会得できるものではありません。
それはただ一方的にわれらが受け取る性質のものであります。なぜならばそれは、私たちのいのちで、…いのちに関わることだからです。
ヨハネの黙示録の22章17節に、途中からですけども、

ヨハネの黙示録22:17
17渇く者は来なさい。いのちの水がほしいものは、それをただで受けなさい。

と言っています。イザヤ書の55章の1節から3節には

イザヤ書55:1-3
1ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。
2なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。
3耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。

このように書かれています。
神さまとしての御力は、主のみことばを聞くだけでいのちをいただくことのできる、人をまったく新しく生まれ変わらせる力を持つものです。

しかし、このペテロの手紙では神の御力にもう一つの光が当てられております。
それは言うまでもなく主の来臨のことであります。そして、この主が再び来られること、ということこそ、いのちと敬虔に関するすべてを与えることのできる神さまとしてのイエスさまの御力の行使意外の何物でもありません。
そしてその主が来臨されるということは罪人である私たちが、贖いが、完成される、という時でもあります。
10節11節のところに、このように書かれています。

ペテロの手紙第II、1:10-11
10ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
11このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。

と書かれています。

もちろん、そのために少なからず障害があることもこのペテロの手紙は述べられています。
それは、主が再び来られるという事実に対する世の人々や教会内におけるにせ預言者の挑戦であります。
世の人々は、古き時代から繰り返しそのことに挑戦しています。
創世記19章4節から5節にはそのソドムに住んでいた人々が、その中に住んでいるロトが主の御使いを迎えてそして交わりを持とうとしていたときに、このようにしたと書いてあります。

創世記19:4-5
4彼らが床に着かないうちに町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまですべての人が町の隅々から来てその家を取り囲んだ。
5そして、ロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

ペテロはこの人々に対して、端的に同じペテロの手紙の2章7節で、

ペテロの手紙第II、2:7
7無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。

とまとめています。「無節操」という言葉で世の人が持っている性質を描き、その危険を指摘しています。
そしてそれに惑わされることのないようにペテロの手紙第II後ろの方の3章17節でこのようにまとめています。

ペテロの手紙第II、3:17
17愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。

そして、このような主が与えてくださる聖さに対する挑戦、来臨に対する否定は、教会内のにせ預言者を通しても行なわれるということが指摘されています。

ペテロの手紙第II、2:1
1しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。

と主の再臨を否定する人たちの姿が、描かれています。
けれども、もし私たちも同じような思いを持っているとしたら、ペテロがみことばの権威を持って次のように言ってることに耳を傾けるべきでないでしょうか。3章8節から13節。

ペテロの手紙第II、3:8-9
8しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
9主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

「主が来られない」、「まだ来られないじゃないか。」そういうふうに私たちは、思うときに絶対、そういうことはないわけであります。
むしろ、主はご自身のいのちと敬虔の与え主としてすべての人が救われることを待ち望んでおられるわけです。そして、忍耐しておられるわけです。
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。と書かれています。マタイの福音書の24章37節から39節には、

マタイの福音書24:37-39
37人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
38洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
39そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

最後にみことばを一箇所読んで終わりにしたいと思います。
今朝読んでいまして、ほんとに古き時代からこのことが言われているということを、改めて気づかされました。
詩篇の68篇の3節4節。889ページです。

詩篇68:3-4
3しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。
4神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。

「雲に乗って来られる方のために道を備えよ」と。ほんとに聖書は、私たちに希望を与えるために絶えずこのように語っています。
主イエスさまの恵みと知識において、成長させていただき、今の時間を救霊のために、さらに主の助けを祈り求めながら 今年一年が過ごせればほんとに幸いであります。

どうもありがとうございました。




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