引用聖句:レビ記19章17節-18節
ただ今のみことばは厳しいというふうに思います。ただ厳しい、一言に尽きます。けれども今日はそのことをご一緒に学びたいと思っております。 私たちが生活する上で家庭というのは本当に大切な場所であります。もちろん今日も納骨の集いに親族の方がたくさん出席してくださいました。 ただ今のみことばの中には、心の中であなたの身内の者を憎んではならない、と書かれているわけであります。 このようなみことばと全く該当しないように思えるルツ記の一コマを、もうみなさん何度もお聞きだと思いますけれども、そして多くの方がルツ記を通して与えられる恵みのうちに生きておられると思いますけれども、今晩もほんの少しですけれども、ご一緒に眺めてみたいと思います。 特にルツという人に焦点を合わせて考えてみたいと思うわけであります。 ルツ記1:1-4
4節に初めてルツという女性の名前が登場します。このルツは、エリメレク一家がベツレヘムの飢饉を避けモアブに出た中で、息子の、長男のお嫁さんとして与えられたわけであります。 しかしすでに今お読みしましたように、このエリメレク一家の当主であるエリメレク、それからふたりの男子はそれぞれ亡くなってしまったわけであります。 妻ひとりが残され、あとふたりのお嫁さんが残ったわけであります。 このような中で、さしもの飢饉に怯えていたベツレヘムに、もはや飢饉が無くなったという知らせが飛び込んでくるわけであります。 そしてナオミはもう一度ベツレヘムに帰る決心をします。そのときに、このふたりのお嫁さんに対して、それぞれモアブの人でしたから、「そこにとどまっていなさい。私はベツレヘムに帰るけれども、あなたがたはここで新しい生活を始めなさい。」、と勧めるわけであります。 オルパは非常にお義母さんと別れるのは嫌だったけれども、やはりお義母さんの言われる通りにしたわけであります。ところが、そうでなかったのがこのルツであります。そのルツの心を表現したのが1章の16節であります。 ルツ記1:16-17
このルツの姑であるナオミに対する思いがいかに厚いものであったか。そしてこれは、決して肉なる人間が行ない得ない決意であったように思います。 彼女は住んでいる土地、そこを離れると言うのであります。そして彼女は大胆に「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」とこのように言ったわけであります。 このルツの決心はのちにボアズという、彼女自身が結局は嫁ぐことになる彼の耳にも聞こえていた真実な彼女の思いでした。ナオミはこのルツと一緒にベツレヘムに戻るわけであります。 そしてこのベツレヘムの世界はどういう世界であったかというと、そこには主の恵みに人々が生きる社会でありました。 言葉で言うのは簡単ですけれども、ベツレヘムの人はこのエリメレク一家が避難したときもなおベツレヘムにとどまっていた人々であります。彼らは飢饉も経験したはずです。 そして今、豊作の収穫の時が来たわけであります。そのときにこのベツレヘムの人々の会話が記されています。それは2章の4節であります。 ルツ記2:4
この、「主があなたがたとともにおられますように。」というのは、雇い主である人が、使用人である人々に向かって言っている言葉であります。 このようなベツレヘムの人々の会話を聞くときに、神の恵みを第一にするこの生活がどんなにすばらしいものであるか、そしてこれこそベツレヘムの人々が主から受け継いだ信仰の生活をしていた何よりの証拠ではないでしょうか。 ボアズ、その人はラハブというやはり異邦人の遊女であった人がお母さんであります。その人とこのいわゆるダビデにつながる、イエス・キリストの系図につながる人との間にボアズは生まれたわけであります。 そしてこのラハブという人は、ヨシュア記の世界に生きた人であります。「雄々しくあれ、強くあれ。わたしがあなたとともにいる。」と仰ってくださったその主を、異邦人であるラハブが救いにあずかって体験した、それが彼のお母さんでした。 その信仰はこの家庭にボアズというひとりの人、信仰者を与えたわけであります。 そして彼は主の恵みを第一に言ったわけであります。 新約聖書の中でパウロという人はみなさんもお気付きだと思いますけれども、盛んに神の恵みという言葉を使います。 ところが神の恵みによって私は今の私になりました。神の恵みによって行動している云々、私は神の恵みを無にはしません。これが新約時代のパウロの生き方でありました。 旧約聖書のこの民の中に、やはりこのエリメレクの遠い親戚に当たるボアズ一家、そして彼らが居住していたベツレヘムでこのような会話がなされたわけであります。 このベツレヘムに帰って来たナオミとルツは、全能者が私をひどい苦しみに遭わせたのですから、 ルツ記1:20-21
と20節のところで書かれているわけであります。ナオミも本当に普通の人であります。主ご自身は決してナオミをそのような所に追いやったわけではないのです。 ナオミは満ち足りて出て行きましたが、と言っていますけれども、それは子どもたちのことであって、彼女はそこを捨てたわけです。そして今素手で帰って来たと言いますけれども、素手ではないのです。ルツという人と一緒に帰って来ているのです。 けれども彼女はこの自分たちが被っている苦しみを主から受け取っています。これはただの私たちと同じ人間であるけれども、主からそのことを受け取っている。ここに私たちは大いに学ぶことがあるのではないでしょうか。 神の力強い御手の下にへりくだりなさい。ちょうどよい時にあなたを高くしてくださいますというようなみことば、がやはり新約聖書のペテロの手紙の中にありますけれども、本当にそのような生活苦、そして素手で帰されたというその彼女たちが再びベツレヘムで生きる、その世界は神の恵みが第一にされた世界でありました。 だから2章の終わりにこのように書いています。 ルツ記2:23
これは本当に新しい世界の始まりであります。そしてこの2章の中にただ一言、買い戻しの権利のある人のことが出てくるわけであります。それこそ実はボアズであります。 ルツは確かに自分の生まれたふるさとを捨てました。そして新しい土地、そして自分が育った偶像の神々のいる世界から、姑ナオミの信ずる唯一の神、天地を造られた主のところに彼女は歩を進めたわけであります。 そしてそのことは先ほど少し申し上げましたけれども、その買い戻しの権利のある親戚ですが、その親戚のボアズもはっきり証ししていることであります。 ルツ記2:11-12
姑さんに彼女がしたこと、そのことが報われるように言っています。そして彼女は生まれ故郷を離れて、そして避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。 ボアズはお母さんから、ラハブお母さんもまたそのようにして避け所を主のもとに求めて来たわけであります。決してこのルツの気持ちはボアズに分からないものではありません。 お母さんがなめたその思い、今、落穂拾いをして本当にへりくだって、落穂拾いをして、姑と一緒に生活しているわけであります。しかも異邦人としてです。 そしてここに買い戻しの権利のある人が登場しますけれども、その人とルツは結び合わされなければならないわけであります。 そしてそのことが3章にはっきりと描かれているわけであります。これこそ私たちがこの旧約聖書のルツ記の学びを通してひとりひとりが学ばされることではないでしょうか。 私たちひとりひとりもまたルツではないでしょうか。そしてボアズ、買い戻しの権利のある人はイエス様ご自身ではないでしょうか。 ルツがこのボアズに、買い戻しの権利のある人に自分の心を通じさせようとする。それがどのような結末を迎えたのか。もちろん、ひとりの人間であるボアズがイエス様であるというのは例えでしかありません。ボアズはイエス様ではありません。 そしてボアズは買い戻しの権利があると言いながら、実際は第二順位だったわけであります。第一順位の人はいたわけであります。 ところが買い戻しの権利のある第一順位の人は畑を買うお金は出すけれども、ルツをいっしょに引き受けるということは出来ないと言うわけであります。 そしてボアズ自身には、このルツを引き受ける心があったわけであります。これこそイエス様の私たちに対する愛そのものではないでしょうか。 マルコの福音書の10章の45節をご覧ください。 マルコの福音書10:45
ボアズは買い戻しの権利のあるもうひとりの人と違って、順位は第二位でありましたけれども、まことにルツを買い戻すことができたわけであります。 そしてルツがどのような祝福に満ちた、そしてこれはナオミをもおおった祝福であるか、その結論はもうみなさんよく読んでおられるところだと思いますけれども、やはり必要ですので、ご一緒に確かめてみたいと思います。 ルツ記4:13-17
ダビデのおじいさんが、結局このルツとボアズの間に生まれるわけであります。このような買い戻しの権利を通して、その恩恵にあずかったルツ、そして姑のナオミ。これが私たち主を信ずる者の恵みであります。 だとしたら、私たちはこの恵みをパウロが言っているように、無にしてはならないのであります。 けれどもイエス様ご自身はそのような恐れ、恵みを無にする恐れがあるということを私たちに警告しておられます。 マタイの福音書18:21-35
ヨハネの手紙第I、2:9
ヨハネの手紙第I、2:11
ヨハネの手紙第I、3:15-16
ルツが姑ナオミから離れないで、行をともにしたことは、決して彼女の肉の力によるものではありません。 彼女は確かに姑に尽くしました。それだけではなしに彼女は選び取りました。それは生けるまことの神様。全能の主を選び取ったわけであります。 コリント人への手紙第I、8:4-6
私たちの先祖はすべて主を知らなかったのではないでしょうか。けれども私たちは主によって、あわれみによってひとりひとりが導かれたのです。 ナオミに示したこのルツの愛は、私たち主を信ずる者が上からいただく愛と全く同じであります。 ルツがどうしてそのようにナオミにつき従って行ったのか。そのことはヨハネの福音書15章のところでこのように書かれているとおりでありました。 ヨハネの手紙第I、5:1-3
もう一度最後に、兄弟に読んでいただいたみことばを読んで終わりにさせていただきます。 レビ記19:17-18
どうもありがとうございました。 |