あなたの身内の者を憎んではならない


吉田兄

(御代田喜びの集い、2007/07/28)

引用聖句:レビ記19章17節-18節
17心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
18復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

ただ今のみことばは厳しいというふうに思います。ただ厳しい、一言に尽きます。けれども今日はそのことをご一緒に学びたいと思っております。
私たちが生活する上で家庭というのは本当に大切な場所であります。もちろん今日も納骨の集いに親族の方がたくさん出席してくださいました。
ただ今のみことばの中には、心の中であなたの身内の者を憎んではならない、と書かれているわけであります。

このようなみことばと全く該当しないように思えるルツ記の一コマを、もうみなさん何度もお聞きだと思いますけれども、そして多くの方がルツ記を通して与えられる恵みのうちに生きておられると思いますけれども、今晩もほんの少しですけれども、ご一緒に眺めてみたいと思います。
特にルツという人に焦点を合わせて考えてみたいと思うわけであります。

ルツ記1:1-4
1さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
2その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、
3ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。
4ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。

4節に初めてルツという女性の名前が登場します。このルツは、エリメレク一家がベツレヘムの飢饉を避けモアブに出た中で、息子の、長男のお嫁さんとして与えられたわけであります。
しかしすでに今お読みしましたように、このエリメレク一家の当主であるエリメレク、それからふたりの男子はそれぞれ亡くなってしまったわけであります。
妻ひとりが残され、あとふたりのお嫁さんが残ったわけであります。

このような中で、さしもの飢饉に怯えていたベツレヘムに、もはや飢饉が無くなったという知らせが飛び込んでくるわけであります。
そしてナオミはもう一度ベツレヘムに帰る決心をします。そのときに、このふたりのお嫁さんに対して、それぞれモアブの人でしたから、「そこにとどまっていなさい。私はベツレヘムに帰るけれども、あなたがたはここで新しい生活を始めなさい。」、と勧めるわけであります。
オルパは非常にお義母さんと別れるのは嫌だったけれども、やはりお義母さんの言われる通りにしたわけであります。ところが、そうでなかったのがこのルツであります。そのルツの心を表現したのが1章の16節であります。

ルツ記1:16-17
16ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」

このルツの姑であるナオミに対する思いがいかに厚いものであったか。そしてこれは、決して肉なる人間が行ない得ない決意であったように思います。
彼女は住んでいる土地、そこを離れると言うのであります。そして彼女は大胆に「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」とこのように言ったわけであります。
このルツの決心はのちにボアズという、彼女自身が結局は嫁ぐことになる彼の耳にも聞こえていた真実な彼女の思いでした。ナオミはこのルツと一緒にベツレヘムに戻るわけであります。

そしてこのベツレヘムの世界はどういう世界であったかというと、そこには主の恵みに人々が生きる社会でありました。
言葉で言うのは簡単ですけれども、ベツレヘムの人はこのエリメレク一家が避難したときもなおベツレヘムにとどまっていた人々であります。彼らは飢饉も経験したはずです。
そして今、豊作の収穫の時が来たわけであります。そのときにこのベツレヘムの人々の会話が記されています。それは2章の4節であります。

ルツ記2:4
4ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主があなたを祝福されますように。」と答えた。

この、「主があなたがたとともにおられますように。」というのは、雇い主である人が、使用人である人々に向かって言っている言葉であります。
このようなベツレヘムの人々の会話を聞くときに、神の恵みを第一にするこの生活がどんなにすばらしいものであるか、そしてこれこそベツレヘムの人々が主から受け継いだ信仰の生活をしていた何よりの証拠ではないでしょうか。
ボアズ、その人はラハブというやはり異邦人の遊女であった人がお母さんであります。その人とこのいわゆるダビデにつながる、イエス・キリストの系図につながる人との間にボアズは生まれたわけであります。

そしてこのラハブという人は、ヨシュア記の世界に生きた人であります。「雄々しくあれ、強くあれ。わたしがあなたとともにいる。」と仰ってくださったその主を、異邦人であるラハブが救いにあずかって体験した、それが彼のお母さんでした。
その信仰はこの家庭にボアズというひとりの人、信仰者を与えたわけであります。
そして彼は主の恵みを第一に言ったわけであります。

新約聖書の中でパウロという人はみなさんもお気付きだと思いますけれども、盛んに神の恵みという言葉を使います。
ところが神の恵みによって私は今の私になりました。神の恵みによって行動している云々、私は神の恵みを無にはしません。これが新約時代のパウロの生き方でありました。
旧約聖書のこの民の中に、やはりこのエリメレクの遠い親戚に当たるボアズ一家、そして彼らが居住していたベツレヘムでこのような会話がなされたわけであります。

このベツレヘムに帰って来たナオミとルツは、全能者が私をひどい苦しみに遭わせたのですから、

ルツ記1:20-21
20「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。...
21私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」

と20節のところで書かれているわけであります。ナオミも本当に普通の人であります。主ご自身は決してナオミをそのような所に追いやったわけではないのです。
ナオミは満ち足りて出て行きましたが、と言っていますけれども、それは子どもたちのことであって、彼女はそこを捨てたわけです。そして今素手で帰って来たと言いますけれども、素手ではないのです。ルツという人と一緒に帰って来ているのです。
けれども彼女はこの自分たちが被っている苦しみを主から受け取っています。これはただの私たちと同じ人間であるけれども、主からそのことを受け取っている。ここに私たちは大いに学ぶことがあるのではないでしょうか。

神の力強い御手の下にへりくだりなさい。ちょうどよい時にあなたを高くしてくださいますというようなみことば、がやはり新約聖書のペテロの手紙の中にありますけれども、本当にそのような生活苦、そして素手で帰されたというその彼女たちが再びベツレヘムで生きる、その世界は神の恵みが第一にされた世界でありました。
だから2章の終わりにこのように書いています。

ルツ記2:23
23こうして、彼女はしゅうとめと暮らした。

これは本当に新しい世界の始まりであります。そしてこの2章の中にただ一言、買い戻しの権利のある人のことが出てくるわけであります。それこそ実はボアズであります。
ルツは確かに自分の生まれたふるさとを捨てました。そして新しい土地、そして自分が育った偶像の神々のいる世界から、姑ナオミの信ずる唯一の神、天地を造られた主のところに彼女は歩を進めたわけであります。
そしてそのことは先ほど少し申し上げましたけれども、その買い戻しの権利のある親戚ですが、その親戚のボアズもはっきり証ししていることであります。

ルツ記2:11-12
11ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。
12主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」

姑さんに彼女がしたこと、そのことが報われるように言っています。そして彼女は生まれ故郷を離れて、そして避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。
ボアズはお母さんから、ラハブお母さんもまたそのようにして避け所を主のもとに求めて来たわけであります。決してこのルツの気持ちはボアズに分からないものではありません。
お母さんがなめたその思い、今、落穂拾いをして本当にへりくだって、落穂拾いをして、姑と一緒に生活しているわけであります。しかも異邦人としてです。

そしてここに買い戻しの権利のある人が登場しますけれども、その人とルツは結び合わされなければならないわけであります。
そしてそのことが3章にはっきりと描かれているわけであります。これこそ私たちがこの旧約聖書のルツ記の学びを通してひとりひとりが学ばされることではないでしょうか。
私たちひとりひとりもまたルツではないでしょうか。そしてボアズ、買い戻しの権利のある人はイエス様ご自身ではないでしょうか。

ルツがこのボアズに、買い戻しの権利のある人に自分の心を通じさせようとする。それがどのような結末を迎えたのか。もちろん、ひとりの人間であるボアズがイエス様であるというのは例えでしかありません。ボアズはイエス様ではありません。
そしてボアズは買い戻しの権利があると言いながら、実際は第二順位だったわけであります。第一順位の人はいたわけであります。
ところが買い戻しの権利のある第一順位の人は畑を買うお金は出すけれども、ルツをいっしょに引き受けるということは出来ないと言うわけであります。

そしてボアズ自身には、このルツを引き受ける心があったわけであります。これこそイエス様の私たちに対する愛そのものではないでしょうか。
マルコの福音書の10章の45節をご覧ください。

マルコの福音書10:45
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

ボアズは買い戻しの権利のあるもうひとりの人と違って、順位は第二位でありましたけれども、まことにルツを買い戻すことができたわけであります。
そしてルツがどのような祝福に満ちた、そしてこれはナオミをもおおった祝福であるか、その結論はもうみなさんよく読んでおられるところだと思いますけれども、やはり必要ですので、ご一緒に確かめてみたいと思います。

ルツ記4:13-17
13こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところにはいったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
14女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。
15その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
16ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
17近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた。」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。

ダビデのおじいさんが、結局このルツとボアズの間に生まれるわけであります。このような買い戻しの権利を通して、その恩恵にあずかったルツ、そして姑のナオミ。これが私たち主を信ずる者の恵みであります。
だとしたら、私たちはこの恵みをパウロが言っているように、無にしてはならないのであります。
けれどもイエス様ご自身はそのような恐れ、恵みを無にする恐れがあるということを私たちに警告しておられます。

マタイの福音書18:21-35
21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
22イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
23このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
24清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
25しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
26それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
27しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
28ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
29彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
30しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
31彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
32そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
34こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
35あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

ヨハネの手紙第I、2:9
9光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

ヨハネの手紙第I、2:11
11兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

ヨハネの手紙第I、3:15-16
15兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

ルツが姑ナオミから離れないで、行をともにしたことは、決して彼女の肉の力によるものではありません。
彼女は確かに姑に尽くしました。それだけではなしに彼女は選び取りました。それは生けるまことの神様。全能の主を選び取ったわけであります。

コリント人への手紙第I、8:4-6
4私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
5なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
6私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

私たちの先祖はすべて主を知らなかったのではないでしょうか。けれども私たちは主によって、あわれみによってひとりひとりが導かれたのです。
ナオミに示したこのルツの愛は、私たち主を信ずる者が上からいただく愛と全く同じであります。
ルツがどうしてそのようにナオミにつき従って行ったのか。そのことはヨハネの福音書15章のところでこのように書かれているとおりでありました。

ヨハネの手紙第I、5:1-3
1イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
2私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
3神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

もう一度最後に、兄弟に読んでいただいたみことばを読んで終わりにさせていただきます。

レビ記19:17-18
17心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。
18復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

どうもありがとうございました。




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