引用聖句:ヨシュア記6章17節
ヨシュア記1:9
人間に「賢い」ということはありえないわけです。ところが今日は、「遊女ラハブは賢かった」とあえて付けさせていただきました。 コリント人への手紙第Iの1章をお開きください。 コリント人への手紙第I、1:25
どんなに人が自分の知恵を誇ってみても、神様の愚かさは人よりも賢く、また、どんなに人が強くても、神様の弱さは人よりも強いと書いてあることを私は知らないわけではありませんけれども、ヨシュア記の25章ばかりの記事を通して、遊女ラハブは賢かったと結論付けざるを得なかったわけであります。 いったい遊女ラハブがどうして賢いと言えるのか。7つの点に分けて考えてみたいと思います。 遊女ラハブという人は、エリコ、完全な城壁をもった難攻不落とも言える、その中に住んでいた一人の女性であります。その女性は、イスラエル人が征服する占領の対象であった人々であります。 しかし、この遊女ラハブは正しい神観念を持っていたのではないでしょうか。先ほども兄弟が、日本人の神観念ということを問題にされました。ラハブはこのようにヨシュア記2章11節で言っています。 ヨシュア記2:11
彼女は自分の信じている神という表現は使っていませんけれども、しかし、そのイスラエル人の信じている神、主は、上は天、下は地において神であられる方だとはっきり認めているわけであります。 詩篇の121篇の1節、2節。有名なおことばですけれども。 詩篇121:1-2
みなさん、よくご存知のみことばであります。天地を造られた主、そのことがここで言われています。 そして、イザヤ書64章。 イザヤ書64:8
このような、神様がどういうお方であるかということを遊女ラハブは賢明にも知っていました。それがまず、彼女が賢かった理由であります。 それから二番目ですけれども、彼女は自分のことだけでなく、他の人のことを大切にした人であります。 もう一度ヨシュア記に返りたいと思います。ヨシュア記の2章の12節。ここに彼女が、エリコ陥落を目前にした中で、このように言っています。 ヨシュア記2:12
自分のことだけでなく、父の家ということを言っています。 それから、 ヨシュア記2:13
と言っています。これも、彼女が賢かったと言われる理由ではないでしょうか。 それから、三つ目ですけれども、彼女は、今自分たちが置かれている、このままの状態では滅びるということをはっきり知っていたわけです。そして、真の救いを求めたわけであります。 今も読みましたけれども、2章の13節のところに、このように書いてあったわけです。「私たちのいのちを救い出してください。」、このように彼女は心から叫んだわけであります。 いのちを死から救い出してくださいというみことばを通して私たちは、ヨハネの福音書のイエス様のみことばを思い出すことができます。ヨハネの福音書の5章の24節です。 ヨハネの福音書5:24
これは随分前ですけれども、ある兄弟が戦争体験のことを少しお証ししてくださった時に、 「彼はその時はイエス様を信じていなかった。 もちろん神国日本のために戦っていたわけですけれども、同じ兵士である同僚が銃弾を受けて、傷ついて倒れている。 最初はまだ死んだばかりという状態ですけれども、段々月日が経つと、段々それが、肉が削がれ、骨ばかりになっていく。そして、いわゆる衣服が風にたなびいている。その時に本当にこの死の恐ろしさというのを痛感して帰って来た。 しかし自分はイエス様を知って、あの死からいのちに移っているということを、本当にこのみことばを体験した。」 ということを言われたことをいつも思い出すのですけれども。 「いのちを死から救い出してください。」と。「今のままでは自分は滅びる。そして、真の救いを求める。」、これはやはり遊女ラハブが賢かったのではないでしょうか。 それから、四つ目ですけれども、彼女は行ないの伴う信仰の持ち主だったのではないでしょうか。 というよりも、信ずるだけではなくて、信じて従う信仰を持っていたように思うわけであります。ヨシュア記の2章9節。 ヨシュア記2:9
それから11節で、 ヨシュア記2:11
このように、本当にそのエリコの住民がイスラエルの攻撃を受ける前夜、色んな、その、ヨルダン川の向こうの地で行なわれたふたりの王の滅亡、また、それ以前の出エジプトの出来事を通して、いかに主の力が絶大なものであるか、それを知って、そして自分たちが今、その滅ぼされる対象にあるということを、本当に震えおののいているということを、ここで、知っていると言っているわけです。 ヤコブの手紙の2章19節に、このようなみことばがあります。 ヤコブの手紙2:19-20
住民もあなたがたのことで震えおののいているというのは、まさしく、悪霊どもがそう信じて、身震いをしているという、それと全く同じではないでしょうか。 しかし、このラハブは震えおののきながら、違ったわけであります。それは24節、25節を見るとよく分かります。 ヤコブの手紙2:24-25
このように書かれているからであります。 彼女の信仰は恐れを持ち、そして、主に敵対するというのではなしに、そこにとどまっているのではなしに、そこから主の側に立つ。そして実際にこの使者たちを招き入れ、そして別の道から送り出しているわけであります。これが四つ目の賢さであります。 それから、五つ目ですけれども、この彼女の行為は命懸けの行ないであったということであります。ヨシュア記の2章の15節です。 ヨシュア記2:15
エリコは水も漏らさぬ体制でもって、イスラエル、神の戦いに備えていたわけです。 そしてこのラハブの家に使者が入ったということも、実はエリコ側ではキャッチしたわけであります。だからある意味でこのラハブは、本当に全ての行動を見破られていたわけであります。匿いきれるものではなかったわけであります。 しかし彼女は命懸けでこの使者を、綱で窓からつり降ろしたわけであります。これは同じようなことが使徒の働きの9章24節、25節に書かれていることを見ると、いかにこれが大変なことであったかが分かります。 使徒の働き9:24
パウロ 使徒の働き9:24
パウロ 使徒の働き9:24-25
その方法しか、逃がす方法は無かったわけであります。彼女が綱を降ろすということは、その使者の命を彼女は握っている。そして無事に逃げさせる。このようなことを見ても、彼女が本当に賢かったということが分かります。 それから、六つ目です。主のみことばに忠実であったということがうかがえます。それはヨシュア記の2章の21節です。 ヨシュア記2:21
「おことばどおりにいたしましょう。」というふうに言った相手は、斥候に対して言ったわけであります。しかし、注意深くこのヨシュア記を読んでみますと、主なる神様がヨシュアに命じられます。 そしてヨシュアは司に命じます。そして司は民に命じます。しかも、この主なる神様と民、あるいは指導者ヨシュア、つかさとの間には、いわゆる軍隊のような指揮命令系統以上のものがあるわけであります。 そこにはお互いがお互いに主の御霊に満たされている。そしてお互いがお互いに、強くあれ、雄々しくあれと励まし合っていることがよく分かります。例えばヨシュア記の1章の9節ですけれども。 ヨシュア記1:9
これは主なる神様が指導者ヨシュアに仰せられたおことばであります。しかし、後半のほうの16節を見ると、民がヨシュアに答えて言います。その最後のところの18節に、ただ強く、雄々しくあってくださいと言っています。 ある意味で、主がともにおられるから、強くあってください。雄々しくあってください。という合言葉でもあったわけです。 その斥候に対して「おことばどおりにいたしましょう。」とラハブは言うことができた。これは、主のみことばに忠実であったラハブのことを示しているのではないでしょうか。 そして彼女は、窓に赤いひもを結んだわけであります。もちろんこの赤いひもが何を意味するかは、彼女はよく知っていたわけであります。 それはヨシュア記の2章の10節のところを見るとよく分かります。もう一度9節から読みますと、 ヨシュア記2:9-11
と、先ほどもお読みしましたみことばが、ここで出てくるわけでありますけれども、出エジプトの中で行なわれた出来事を、当然彼女は知っていたはずであります。 出エジプト記の12章の12節、13節をお開きください。これは12章の1節からずっと続くみことばでありますけれども、長いですから、12節、13節だけにしておきます。 出エジプト記12:12-13
あの、窓に赤いひもを結ぶということは、もちろん新約時代の十字架のイエス様の贖いの血潮を意味しているわけであります。そのように、主のみことばに忠実に従って、彼女は窓に赤いひもを結んだわけであります。 そして最後に、七つ目。彼女が極めて賢かった理由は、実は自分自身を知っていた。自分の罪を知っていたということではないでしょうか。 それは何もヨシュア記の中に書いていませんけれども、このヨシュア記は、ラハブを紹介するとき、ただ一言、2章の1節のところです。このように紹介しているわけであります。 ヨシュア記2:1
「遊女」とはっきり記されている。これは聖書そのものが記しているラハブの正体でありました。 遊女ラハブは、正しい神観念を持っていました。そして、自分だけでなく、自分の家族を大切にもしました。そして、自分が滅びから救われなければならないことを知っていました。そして、行ないの伴う信仰の持ち主でありました。そして、命懸けでそのことを行ないました。そして、みことばに忠実に従いました。何よりも自分自身を知っていたわけであります。 このような遊女ラハブは結果的に、主のどのような祝福を受けたのでしょうか。それを三つに分けて次に考えてみたいと思います。 まず、言うまでもありませんけれども、遊女ラハブは、自らの命を救うと同時に、父の家族、彼女に属するすべての者を救ったわけであります。 ヨシュア記6:25
と書いてあるとおりであります。 現実に、この家族全員が救われるために、並大抵のことではなかったと思うのです。この、赤いひもを結んだこの家に、彼女は当然とどまっていなければなりませんけれども、2章の18節に書いていますように、 ヨシュア記2:18-19
と書いているわけです。そしてだれもその家から出なかったわけであります。それこそ、あのソドム・ゴモラの時です、ロトの妻は後ろを振り返って、塩の柱になったわけであります。 それに比べて見ると、ラハブの家族は全員がそこを、主の滅びの対象にならなかったわけであります。主が大いにこのラハブの信仰を祝福してくださったのではないでしょうか。 それから二番目の祝福は、彼女の遊び女、弄ばれる女、あるいは、遊び女、そのところから彼女が解放されているということであります。なぜならば、遊女ラハブはサルモンという夫をもちます。そして、ボアズという子どもを育てたからであります。 マタイの福音書1:5
というふうに書かれていますけれども、これは短い記事ではありますけれども、遊女ラハブがサルモンという夫をもって、そしてその間にボアズが生まれているということであります。 ヨハネの福音書の8章。有名な姦淫の女の場面であります。ヨハネの福音書の8章のところに、あの姦淫の女は、人々に責められ、石打ちの刑に遭いそうになったわけであります。 その時にイエス様は、あなたがたの中で罪のない者が、この女に石を投げなさい。そしてひとりずつ遠ざかって行ったわけであります。そして8章9節。 ヨハネの福音書8:9-11
ラハブもまたエリコの城壁の中に、ある意味でおとしめられた女性として生活していたのではないでしょうか。 しかし彼女は、主に従いとおす信仰を通して家庭を持ち、そしてボアズを子どもとして育てたのではないでしょうか。彼女は、悔い改めの実を結んだということが言えます。 そして三番目に、これが最後ですけれども、何よりも彼女自身があのイエス様に連なる系図の中のひとりになったわけであります。ヤコブの手紙の何よりも証明ではないでしょうか。ヤコブの、先ほど引用したところですけれども、 ヤコブの手紙2:25
このイエス様に連なる系図のひとりに加えられていること。これこそ彼女自身が生涯、主とともに離れることのない、そのような証しではなくて、何でしょうか。 ヨシュア記の1章の9節をお読みしたいと思います。 ヨシュア記1:9
ヨシュア記1:5
ラハブは全く、イスラエル人の滅ぼされる対象でありました。しかし、ラハブそのものも主ご自身は愛しておられて、そして、この同じ信仰をラハブに与えなさったのではないでしょうか。 主はいつも、私たちがどのようにして主の前に賢い者か。そのことを問われるのではないでしょうか。 私たちは確かに、自分でいくら賢いと言っても、神様の知恵、神様の強さに比べるものはありません。けれども、この愚かな者が自分の罪を認めて、主に本当に拠り頼む時、主の家族として加えられるのではないでしょうか。 そのことを、このラハブを通して十分味わうことができました。どうもありがとうございました。 |