引用聖句:ヘブル人への手紙5章12節-6章3節
この中に初めてこの集会に参加して下さった方もいらっしゃると思うんですね。だから、やはりここで言われている「キリストについての初歩の教え」ということについて、最初少し見てみたいと思うんです。 コリント人への手紙第I、1:18
初めてこの集会に、あるいはイエス様のことを聞く時に、十字架という言葉がもしその人の耳に入れば、これほど素晴らしいことはないわけであります。この十字架の言葉を愚かと考えるか、それとも逆に、十字架こそ私を救うものと考えるか、本当に大きな別れ道であります。 主を信じているクリスチャンは、聖書を本当に毎日読みますけれども、その聖書の中に書かれているみことばが目の前に本当に飛び込んでくるのです。いろんな小説を読んでいても、そのような経験はできません。もちろん新聞を読んでいて、そのような文字が飛び込んで来るという経験はできません。 聖書は全てこれいのちの書です。こんなに大部の66巻ある書物を、初めから終わりまで全部読まないと信仰が与えられないと思ったら大きな間違いで、本当に一つでも充分なのです。一つのみことばで充分なのです。 「十字架の言葉は、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私達には、神の力です。」と、このみことばを本当に文字通り信ずることが出来れば、これほど幸いなことはないのです。 神の初歩の教えと、キリストの初歩の教えと書いてありますけども、これがなければいのちは始まらないのです。 「誰でもキリストの内にあれば、その人は、新しく作られたのです。見よ。全てが新しくなった。」と、あります。キリストにつながっていなければいのちがない。これは、聖書が一貫して言っているメッセージであります。 そして聖書では、救いということを本当によく言います。いろんな動機を持ってこの集会に集ってきます。私もその一人でした。私の場合、目の前に結婚というものがありまして、その相手の女性から「あなた、信じなければ結婚しないわよ。」と言われて、それに引かれて、実は主のところに来たのです。 その動機は不純なのでしょうか。でもそのことを通して、私は主を信じるように変えられたのです。 様々な求めがあります。ある方は自分の家庭の不和、結婚したけど夫婦の仲がよくないとか、あるいは子供さんがいるけれども、子供さんが言うことをきかないとか。本当にどうしてこんなに問題があるのかと思うほど、私達が生きる限り様々な問題があるわけです。そこから救われたいと思わない人は誰もいないと思うんですね。一人一人が救われたいと思っているわけです。 けれども聖書は、ただ一言、「十字架」を指し示しているのですね。そしてこの十字架の救いとは、罪からの救いなんです。 私達は様々なことで、「あれをして欲しい」、「これをして欲しい」、そして確かにイエス様は聞いて下さるのです。「どんなことでも私にねがいなさい。」、必ず聞いて下さいます。これほど確かな神様はいらっしゃいません。 私達兄弟で祈り会をもっているのですけど、毎回祈り会の課題は20近くになります。そしてその祈りの課題が、本当にきかれているのです。最近の例でいうならば、一人の方の為に私達は祈ってきたわけです。本当に絶望のどん底に陥っているその方を励ますことは、私達がいくら励ましても、その方の心が閉じている限り、その方は立ち上がれないのですね。 でも主に祈っていたら、その方は今日御代田に行っているんですね。そして本当に、主のところにもう一度帰られて、重荷を下ろそうとしておられます。この方の為に、是非引き続いて祈っていただきたいのですけれども、祈りが応えられるという、このことを私達は経験しています。 けれども罪からの救いというのは本当にイエス様のみわざなのです。教会というところが、もし問題であるとすれば、罪を罪としてはっきり認めないところに教会の問題があります。 みことばが中心にならない限り罪は明らかにならないんです。みことばがはっきりするときに、私達の罪は明らかになります。そして私達は、飢え渇きを求めて主のところに近づくことが出来ます。だから、集会の中でみことばが中心にならなければ、もうただの仲良しクラブの集まりであります。 みことばこそ私達の骨の髄にまで語りかけるものです。それはいのちだからです。そして主はそのことをいつも、「私達にせよ!」と望んでおられます。 エレミヤ書6:14
このように言われています。私達の傷は、本当に癒されているのでしょうか。私達は本当に主のところに来て、平安をもっているでしょうか。主のところに来てなくて、どうして平安だといえるのでしょうか。主のところに、いつも主を体験していなくて、どうして平安といえるのでしょうか。 主を間近に覚える時に、私達は平安を覚えるのです。そして、主を真心から礼拝せざるを得ないのです。礼拝というのは、本当に素晴らしいものです。それは、主を心から覚えることが出来るからです。 私は主を信じてから、かれこれ30年を越えました。けれども先程お読み頂いたみことばのようにですね、いつも同じところをぐるぐるぐるぐるまわっている、そういう存在でしかありません。 けれども、最近ものすごく示されています。勿論今も仕事はしています。7割勤務ですから、週4日は勤務しているわけですね。今までのフルタイムに比べれば、3割分は減っているわけですけども、私の頭の中にはいつも、朝起きるとどのように授業しようか、そのことで頭がいっぱいなんです。 とても、主ご自身に入って頂く余地なんかないんですね。そういう生活をずーっと続けてきた時に、私の人生は本当に浮き沈みの多い人生なのです。 しかし、主は、浮き沈みがあっても私達を祝福して下さいます。けれども問題は、私達は浮き沈みを繰り返すんです。そんなケチなお方ではないんですね、主ご自身は。本当に素晴らしいお方です。その素晴らしい主の前に静まる、そして自分の罪を本当に悔い改めさせられます。 光ある主の中に出るときに私達は、「あれをして欲しい」、「これをして欲しい」という思いは、まず横に置くことが出来ます。そして、私達がもっている問題は、主が全て解決して下さるという確信にまで至るのですね。 偉そうなことを言っているわけですけども、でも本当に主の前に小さくなることが、私達にとって必要じゃないでしょうか。 私達の罪というものは、本当に、あの抜いても抜いても生えてくる雑草と同じです。もう罪に付き合っているのが嫌になる位、罪は次々に出てきます。 その罪に目を止めることをサタンは一番喜ぶのです。けれども主ご自身は私達に「その罪から、あなたは完全にすくわれたのだ。」と、「あなたの罪は、もう思い出さなくていいのだ。」とイエス様の十字架は示していて下さるんですね。 だから私達はそのことを本当に覚えるべきだなと思うのですね。 ここ数週間、実は、イゾベル・クーンという人の「神を求めた私の記録」というのを読んでいます。4回目になります。今日は、実はここからメッセージをさせて頂こうと思ったのですけども、そんな大それたことは出来ませんで、ただ一つですね、私自身が今本当に意識的に行おうとしていることを、このイゾベル・クーンの「証し」を通して、読ませて頂きたいのです。 そして、これは本当に仕事をかかえている兄弟、それから朝おきてすぐご主人の食事を作らなければならない姉妹方、あるいはまだ結婚していらっしゃらなくても仕事を持って頭がいっぱいになっている方に、是非お勧めしたい内容であります。 当たり前のことです。当たり前のことですけども、それを私達がするかしないか、大きな違いであります。このイゾベル・クーンの本の55頁のところに書いてあります。一組の夫妻が出てくるのです。そしてそれは宣教師夫妻です。 その宣教師夫妻は、たまたまそのご主人が、二人とも夏休みを利用して水泳場で泳いでいたわけですけども、近くで、溺れて助けを呼び求める人がいたので、そのご主人と奥さんは一緒に助けに行ったのですけども、ご主人はそこで命を落とすわけです。 急にその兄弟(ご主人)を失った姉妹(奥さん)の悲しみは、本当に如何ばかり大きかったことでしょう。でもそこのところでこのように書いています。 「ぐったりと切り株に腰をおろすと、エドナは(エドナとはその奥さんです)両手で顔を覆いました・・・・・・・・・。しばらくして顔をあげると、中国人のクーリーが数人、死体の前に立って恐ろしそうに眺めています。 彼女は素早く立ち上がると、彼らの方に近づいて行き、『地面の上に横たわっている体はもう、エリスではない。』と説明しました。(エリスとはご主人のことです) 『彼はもう神と共に安全に生きているのです。』彼女は彼らにキリストの福音を伝えました。」 この姉妹は、もう目の前にいるその体はエリスではない、私の主人は神と共に安全に生きていると、この中国の人々に言ったわけです。(これを書いた)イゾベル・クーン始め、それから有名なハドソン・テーラー、こういう人達は、いずれも中国の伝道のために捧げた人々だったわけです。 そしてこのエドナとイゾベル・クーンとの共同生活が始まります。この時エドナはぐらぐらした、ある意味での信仰の持ち主でした。けれども少しずつ主は導いて下さるんですね。そして共同生活の中でですね、こういうふうに書いているのです。 「はからずもエドナは、さらに深い祝福を私にもたらしてくれました。彼女と生活をしてみて、私は生まれて初めて、聖霊に満たされた人々の日常生活がどんなものであるかを知ったのです。 私の霊性をもっとも引き上げてくれたのは、講壇からなされる説教ではなくて、エドナ自身だったのです。彼女は毎朝目が覚めると、すぐに他の誰よりもまず主の御顔を求めました。目が覚めた時に、しゃべったり眠る前に枕を投げあったりするようなことは、決してありませんでした。 深い痛手を受けたこの魂は、ただ主をのみ恋焦がれ、朝の最初の思いは、まず主との交わりと、そのご臨在を慕い求めることでした。 そして彼女は、私の心にも同じ渇きを点火したのです。私もまた傷付いた心を抱いていたことを覚えていらっしゃるでしょうか。」 彼女(イゾベル・クーン)も、本当に主を求める時に、多くのクリスチャンホームの子供達が経験するようにですね、小さい時は一生懸命主を信じていたのに、本当にこの世はサタンに満ちていますね。その小さな子供の信仰を、いっぺんに台無しにする言葉で躓くのです。「あなたは、お父さんやお母さんの言っていることを信じているでしょう?でもあなたは、その信仰に根拠がありますか?」 長い間お父さんやお母さんに従ってきた信仰をですね、ものの見事に否定されてしまったのです。それから彼女は、放浪の、ある意味で精神の軌跡を辿るのですね。彼女はその時のことを、エレミヤ書から引用しています。 エレミヤ書23:12
箴言にありますけれども、人の目には、まっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 彼女はもはや、お父さんお母さんの言うことを聞かないで、自分の石段を一歩一歩、この石橋をたたいて渡ります。自分の確信の中に、新しい人生を始めようと思った。そして結局それは、主から離れていくことになったのですね。 多くの子供達が、本当に学校教育の中で、あるいはテレビやラジオや新聞や様々な中で、いとも簡単に主から引き離されてしまうのです。けれども実は、主ご自身は引き離さないお方なのです。主ご自身は本当に忍耐強く、信仰をリバイブする、もういっぺん返ってくるのを待って下さるお方なのですね。 こういう経験を経ながらこの彼女は、その後ダンスやそれから演劇やら、ありとあらゆる普通若者が求めるものを求めて行くのですけれども、結局はもう失恋し、そして自殺を図るのですけども、自殺を図っても、もし自分がこのまま死んでしまったらお父さんがどれだけ悲しむかもわからない。そのことを思うと、死ぬことも出来ないのです。 生き続けることも出来ない・・・。死ぬことも出来ない・・・。これが彼女の大きなジレンマなんですね。でもその時に、「主のあるところには、平安あり。」という、これは彼女が所属していた大学で、一生懸命彼女の信仰をあざ笑った人が引用した言葉の中にダンテの言葉があったようです。 「主のあるところに、平安あり。」、彼女は本当に苦しくなって、本当に神様がおられるかどうか教えてください、と心から求めるようになったんですね。そしてその祈りを捧げた途端に、彼女はずいぶん身が軽くなったわけです。 そうした様々な経験が、この中に書かれているわけですけども、英語では、「by searching」この訳者は、「神を求めた私の記録」と書いていますけれども、この神を求め続けることを通して、主がどんなに栄光を現わして下さったか、そのことを彼女は証しで書いているわけですけど、その前半の方で彼女は、このエドナという女性と共同生活をする中で、その当初、何よりも主を恐れ敬うこの臨在を経験したのですね。 それから彼女は、終生そのことを勿論行っていっているわけですけども、雅歌の5章2節からお読みいたします。 雅歌5:2-8
この雅歌というのは、イエス様と、あるいは神様と、それからイエス様を信じる信者、それが交互に描かれているといわれます。 英語の聖書には、この5章2節から8節までの最初のところに「beloved」と書かれています。「愛されている」。そして9節のところには「friends」と書かれています。 それと又、10節から16節のところには、「beloved」と書いてあります。そして主ご自身を「lover」というように表現されているのですけども、そういうその聖書の中にですね、ここは「beloved」の言葉だと書いているのですね。 この5章の2節から8節まで、長い文なんですけども、これは彼女の経験をここで書いているわけです。ここで、「戸をたたいて愛する方」とは、いうまでもなくイエス様です。戸をたたいて愛する方。聖書のなかでは、あのヨハネの黙示録のラオデキアの教会の言葉が有名ですね。 ヨハネの黙示録3:19-20
イエス様は戸をたたかれるお方です。そしてこの雅歌のところは、本当に戸をたたいて「愛する方」は、私達をどのように呼ばれているかというと、「わが妹」と呼んでいます。 兄弟姉妹、イエス様は長子です。「わが妹」と呼んでおられます。それから「わが愛する者」と呼んでおられます。それから「わたしのハト」、礼拝の中でも読まれましたけども、聖霊がハトのようになって下ってくる、「わたしのハト」というように、主は私達を呼んでくださいます。 それから「汚れのない者よ」というふうに呼んでくださいます。この「汚れのない者よ」というところは、ある意味でキリストの教えの初歩といえば、初歩かもしれません。 少し、「汚れのない者」とはどういう意味なのかご一緒に見てみたいと思いますが、ヨハネの福音書のイエス様が足を洗われたところですね。 ヨハネの福音書13:5-8、10
同じく、 ヨハネの福音書15:3
エペソ人への手紙5:25-27
イエス様が十字架におかかりになったのは、私達がそのみことばの洗いにより、聖められる為です。そして私達を聖く、傷のない者として立たせるためです。 テトスへの手紙3:1-5
このように、現れたのは主ご自身なんです。私達は本当に汚れ多いんです。けれどもこの雅歌の愛する方はですね、「汚れのないものよ。」と私達を呼んで下さるのです。勿論「わが妹」、「わが愛する者よ」、「私のハトよ」、その方が望んでおられるのは、私達の心の中に入るということです。私達が、主と交わりを持つということです。主ご自身と本当に親しく交わるべきです。 けれどもこの時に、この花嫁は実は心の扉、ここには具体的に戸を、戸のかんぬきをかけて閉めていたのです。声も聞こえていたんですけども、すぐに出て行かなかったのです。何故かと言うと5章3節です。 雅歌5:3
このように言っているわけですね。実はその前にこの愛する方は、「わたしの頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」と・・・。本当に主は働いておられたんですね。私の父は働いている。だから私は働かなければならない。 主が働いている時に、本当にこの乙女は主と心が離れていたのですね。用意が出来ていなかったんです。 ミヘルスブルクのドイツの集会に参加させていただきましたけれども、その時に、その台所を預かっているのがシュベスター達です。そのときその台所に一人の集会の姉妹がご一緒させていただいたのです。そして私達はその結果をただ受け取るだけでした。 本当にものの見事に、というのですか、主のもてなしとはこういうものだという位にもてなしをして下さいます。そして、私達は主の愛を痛いほど味わって帰ってくるわけですけども、その主の愛が押し出される背後に、主の厳しさがあるということを、その一人の姉妹は台所に入ってわかったと言っていました。 何故ならばそこでは、してはならないことと、するべきことがはっきりしている。そして時間が厳格であるというのです。これはドイツ人の性格で、おそらくスペイン人では、そういうことは出来ないかもわからないのですけども、イタリア人とかもですね、そんなことにならないかも知れませんから、だからこれは、ある意味で人の考えかも知れませんけど・・・・。 でも本当に、この雅歌に出てくる女の人は、「わたしの頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」という、主が行動なさっている時に、実は彼女はもう着物を脱いでしまったのですね。そして足も洗っていたわけです。 ぬくぬくと自分の家のなかでいたわけです。だから出られないのですね。声は聞こえるけれども出られないのです。そして、しかも主の執拗な、私達の心の内側に入りたいという思いは、 雅歌5:4
とんとんと戸をたたかれるだけでなく、実際に中にはいって来られようとしている「私の心は、立ち騒ぎました」 雅歌5:5
やっと彼女は戸をあけたわけです。けれども、その後、 雅歌5:5
彼女はすぐに出なかったのです。自分の醜さを、「あなたは汚れない者」と呼んでおられるにも拘らず、没薬をしたたらせて出ようとしたわけです。そのうちにこの愛する方は去っていかれました。もう彼女にとっては、本当に主を見失ってしまうんですね。それがこの彼女の悲痛な叫びなのです。 ルカの福音書12:35-40
ヘブル人への手紙9:28
このみことばは私にとって本当にありがたいみことばになりました。私は今まで、自分の罪からの救い、罪を負うために来られた主を知っているだけでした。 そして主が再び来られることに対して無感覚でした。けれども、ここに彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られると書いてあります。もし待ち望んでいなければ、救いに預かることが出来ないのではないでしょうか。 罪から救われている、そのことはもう主の2,000年前のみわざで終わっているのです。私達は、前進しなければならないのです。 あの宣教師は、あの亡くなった宣教師は、聖書の中にピリピ人への手紙のみことばを残したそうです。そしてそれが奥さんのエドナに大きな励ましになったようです。 ピリピ人への手紙3:13
英語では、「onething I do」と書いてあります。「onething I do」一つのことを私はする。ただこの一事に励んでいます。パウロもまたこのように言っています。 ピリピ人への手紙3:8-15
私達は、一人一人が本当にこれと違った考え方をしているのなら「神は明らかにして下さいます。」と言われるこの主にたずね求めなければならないのではないでしょうか。 最後にその雅歌の結末を見て終わりたいと思います。 雅歌の、あの彼女は、愛する方が背を向けて去っていかれた後どうしたでしょうか。交わりが絶たれた後、彼女は茫然立としていたでしょうか。彼女は主をたずね求めたのです。 けれども夜回りは、彼女を身ぐるみ傷つけます。城壁を守るものたちも剥ぎ取ります。まるで、それこそあの良きサマリア人の例にあるように、本当に暴行を受けるわけですね。けれども彼女は、主を求めるわけです。そして、「私と一緒になって捜してください」といった時に、「friends」はどういうふうに答えたのかといいますと、 雅歌5:9
ここには、本当に冷ややかな言葉があります。彼女にとってみると花婿なのです。そして彼女は花嫁なのです。 あなたが、そのように私達に切に願った、あなたの愛する方は、ほかの愛人より何が優れているのですか。それに対してこの「beloved」という彼女は歌います。 雅歌5:10
そしてずっと続いて、16節、 雅歌5:16
そして6章1節、また「friends」は言います。それに対して「beloved」はこのように応えます。 雅歌6:2-3
これはですね、ずっと雅歌を読んで頂くとわかるのですけども、実はここには主客の違いがあるのです。例えば、2章の16節 雅歌2:16
と、こういう本当に親密な交わりの時があったんですね。でもこの時は、「私の愛する方は私のもの」・・・。私が中心なのです。そしてその後に、「私はあの方のものです」と。 そして様々な悩み苦しみの中で主を求めた彼女は、「私は私の愛する方のもの」と告白できたのです。まず、「私は、私の愛する方のもの」、そして、「私の愛する方は私のもの」と言ったのです。 さらにこの雅歌をよんでいきますと、7章の10節、このように書かれています。 雅歌7:10
本当に、ここに教会とイエス様との素晴らしい関係があります。そして私達、主を信ずる者とイエス様との素晴らしい関係があるのですね。 主は私達を愛してくださる、そのことを本当に、もっともっと我々は、この礼拝で味あうべきではないでしょうか。それが周りの人々の救いにもなるわけですね。 私達は、主が再び来られることを、本当に心から待ち望むものとされたいわけであります。 どうも、有難うございました。 |