2001年クリスマスメッセージ


ベック兄

(ちょうふの里、2001/12/21)

引用聖句:ルカの福音書2章10節-11節
10御使い彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

今言われたようにヨハンセバスチャンバッハという音楽家は、ま音楽を創る前にすぐ一番下に何を書いたかと言いますと、日本語に直しますと

『神だけ栄光あれ』。

それから始まったんです。自分は中心になりたくない。誉められても憎まれても関係ない。神にだけ栄光あれ、と彼は言ったのです。
結局主なる神は、彼にとって結局すべてになったからです。そして、クリスマスのとき結局同じことが言われたんです。
天から一人の使いが現れて、そして同じこと言ったんです。

神だけに栄光あれ。

主なる神が中心になれば、人間も喜ぶことができるようになります。
今、読みました箇所とは、結局初めてのクリスマスイブのとき宣べ伝えられたものでした。

ルカの福音書2:10-11
10御使い彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

よく「楽しいクリスマス」と言われますけれど、楽しいクリスマスを祝うことができる人は非常に少ないのではないでしょうか。

2,3日前にある病院まで行きました。その時ひとりの若い奥さん、32、3歳ですか。ひと言葉言ったんです。
クリスマスの歌を歌ってから、彼女は急に何と言ったかといいますと、

「生きててよかった...」

彼女の母親はそれを聞いてもう泣いちゃったんです。喜びのあまり。なぜならば彼女は長い間、「生きたくない、死にたい」と思ったからです。
ご主人はアルコール中毒で、結局おもしろくない結婚生活でした。2人の子ども4歳と8歳がありまして、けどもう耐えられないで10階のビルから飛び降りてしまったんです。
下がコンクリートだったらおしまいだったんですけど、古い洗濯機があったから。ドイツの洗濯機だったら死んじゃったでしょうけど、クックック(^^)日本製だったからやっぱりちょっと柔らかくて、(^^)助かったんです。
けども、医者はね、「もうおしまい。足、絶対に使えません。車椅子の生活もできません。」

もちろんご主人は一回もお見舞いに来たことがないし、子どもとって実家へおいたんですけど、子ども一回しか会うことができなかったんです。
結局、ご主人は「離婚だ」としか考えていない。
ですから入院されても、もちろんどういうふうにうまく死ぬことができるのか、自殺未遂何回もあったんです。
はじめてあの病院に行ったとき、刑務所じゃないかと思ったんです。結局、今度彼女は何をやるのか、「死にたい、死にたい」としか考えられなかったからです。

けども彼女はイエス様を信じ受け入れたんです。だからと言って嬉しくて嬉しくてしょうがないじゃないよ。体は別に癒されなかったし、子どもも会えないし、主人も知らん顔するし…、けども彼女は本当の救いにあずかるようになったのです。
ですから、この間「生きててよかった。」と母親は聞いたとき嬉しくなっちゃった。
結局、「どうして死ぬことができなかったか」、それだけ思ってたんです。でも今回、「死ぬことが出来なかったのはよかった」、この間ちょうどリハビリだったんですけども彼女は一人で歩いたんです。もちろん ゆっくりゆっくり。奇跡そのものです。

同じ病院でほかの人にも会いました。

一人は、結局もう、あんまり目を開けられないし、話しかけてももう通じないし、結局希望がないからです。
この間彼女は元気で元気で、けど20年間誰も見舞いに来てない。20年間だよ。それ、もう「楽しいクリスマス」だって、笑い話じゃないでしょうか。
今年は、多くの人々は「悲しいクリスマス」お祝いするなのではないでしょうか。イエス様がせっかく来られたのに、「わたしの喜びをあなたがたに」と言われたなのに、だいたいの人間は、孤独なクリスマス、平安のないクリスマスを祝う、するようになるのではないかと思います。

イエス様とは、いったいどうしてこの世に来てくださったなのでしょうか。もちろん一つの宗教つくるためなのではない。人間にいろいろなことを知らせるためなのでもない。人間は何を信ずべきか、どうゆう生活すべきか、そのためでもない。
イエス様は、人間は喜ぶことができるために来られたのです。あらゆる心配から、あらゆる不安から、解放され、生ける希望をもって将来に向かうことができるためにイエス様はこの世に来てくださいました。

確かにイエス様は多くのこと話されたんですけど、話された目的とは、人間は理解してもらいたい、納得するように、そういう気持ちがなかったんです。
イエス様の告白とは、次のようなものです。

ヨハネの福音書15:11
11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

結局イエス様の喜びを持つこと。これこそが、イエス様のこの世に来られた目的です。
結局神が人間になったという事実について考えてももちろんピンときません。考えられないからです。

日本からはじめてドイツに帰ったとき、母は入院していました。病院に行くと医者は「残念でしたけど、あなたの母は長くても7週間しかもたない。癌よりもひどい。もう手上げです。」
けども母はその後でまた30なん年間生きていたし、92歳で召されたんです。

言いたいことは、重病人はまた元気になる可能性がある。今、話した若い奥さんはね、車椅子の生活でさえももうできないと言われたんですけどやっぱり一人で歩くようになった。
結局、母も重病人だったけど、また元気になったんです。あり得ることです。もう全く、金のない人は働いて、苦労して、大金持ちになる可能性もある。
世界で大きな会社を経営するようになった人々の大部分はもう、全然駄目だったよ。ゼロからはじまった。
ねぇ、学校のとき、「もういやです。勉強したくない、したくない」と思っても後で立派な学者になった人、ずいぶんいます。
そういうことあり得ることですけど、神が人間になることだって、ちょっと考えられない。いっくら考えてもつかめないよ。

まことの神は何でもできるお方です。何でも知っておらるる方です。人間はだめ!明日のことでさえ知らない。無から何も創れない。みじめなんです。
そして神が人間になった。聖書はどんな言葉でそれを表現してるかと言いますと、

ヨハネの福音書1:1
1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

これだけ読むとちょっとピンとこない。いったいどうものですか、神なんて。
「はじめに ことばがあった。」
このことばとは、神の言葉でもないし、人間の言葉でもないし、人格者です。主イエス様です。

「はじめに主イエス様があった。この主イエス様は、父なる神とともにあった。
主イエス様は神であった。この主イエス様は人となって私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた一人子としての栄光である。この方はめぐみとまことに満ちておられた。」

結局生けるまことの神は人間になった。

ある姉妹は、5、6年まえだったんです。非常に悩んでいまして、主人とうまくいかない。なぜならば、話しても話にならない。
全く会話のない結婚生活です。「おはよう」でさえも言わないよ。私、私、あなた、あなた。
もしイエス様同じ態度とったならば、おしまい(;;)。
あのご主人は、何と言ったかと言いますと「私は、実はハイレベルな人間です。あなたはそうじゃないから、あなたと話す必要はない。」
ちょっと、ねぇ。この間火曜日に行ったとき、僕の前に座った兄弟も笑っって笑って、もうなかなか止まられなかった。
もちろん彼はお医者さんで、大学の教授だったし、ほんとに立派な人格者です。けど、彼も絶対に「私はハイレベルな人間だ」と言えないよ。本当に。

人間はそういうふうに、めくらにされている者です。ハイレベルである人間はいない。みんなみじめで、わがままのかたまりで、過ちを犯すものです。
天国に入る資格がないんです。善を行なう人はいない。ひとりもいない。人間はもちろんもう、最低です。
けど、ハイレベルであるイエス様が降りてくださったんです。人間になったのです。
もし人間は、「イエス様。イエス様。よく来たね。待ってたよ〜。」という態度とったならば良かったんですけども、聖書の言ってることは違う。

この方はご自分の国に来られたのにご自分の民は受け入れなかった。

私たちは、救い主は必要ない。われわれの罪を赦さなくてもいいよ。私たちは自分の力で頑張りますから。
結局、この態度とる者は「楽しいクリスマス」はもちろん知ることができません。
イエス様は、ある教会から追い出されてしまったんです。けども、イエス様は追い出されても、「ああそうか、さようなら。」という態度とらないよ。
イエス様はなんと言っとるかといいますと

ヨハネの黙示録3:20
20わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

結局イエス様は、人間と交わりをもちたい。どうしてであるかというと、イエス様は急に寂しくなっちゃたんじゃないよ。結局人間のためなんです。イエス様との交わりがなければ、人間は幸せになり得ないからです。
クリスマスにおける出来事は大切ですけど、この出来事のたとえは、一人の(フランシクスソンアシシ?)あるイタリア人と、彼のらい病人より、よいたとえはないと思います。

あるとき彼が馬に乗って行きましたとき、突然らい病人の群れにとりまかれました。彼は、彼らのあわれな様子を見て、心を動かされました。
そして彼は、いっぱい入った財布を投げ与えたんです。もう、らい病人たちは嬉しくなって彼の高価な着物を、接吻したのです。そんな大きな恵みを経験したことがないからです。
けど、しばらくしてから彼はまた戻ったんです。豪華な服を宿屋に置いていきました。このときも彼は先へ行こうとはしなかったのです。
自分の高い馬から降りて、らい病人の世話をしました。彼は、彼らの傷を洗いました。彼らのぼろきれをきれいにしました。そして彼は、彼らと一緒に住むようになり、彼らの兄弟となったのです。

これがクリスマスです。
唯一の、良い高いレベルのイエス様が、降りてくださったのです。人間になったのです。われわれにとって、ちょっとかんがえられない奇跡でした。
イエス様を生んだマリヤは次のように言ったのです。

ルカの福音書1:46-48
46マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
47わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

結局、楽しい喜びに満ちたクリスマスを祝うことができる人々とは、どういう者なのでしょうか。
このマリヤのような態度とる者です。彼女は、「卑しいはしためです。たいしたもんじゃない。価値のない者です。けども、主があわれんでくださった。だからこそ、私は主をあがめます。」
イザヤという預言者も同じこと言ったのであります。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐るることはない。主は私の力。私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

結局救いとは、救い主を持つことです。救い主を受け入れることです。
救い主を受け入れた人々とは、確信することができる。すなわち、私のわがままは赦されている、と。赦されてる!忘れられている!と、確信できる人だけが、本当の意味で喜ぶことができます。
罪ほろぼしのために人間は何にもできません。いくら努力しても金を出しても、何にもならない。
人間はなにもできないから、イエス様は来られた。生きるためじゃない。死ぬためです。

今の若い奥さんは「生きててよかった。」と言ったのです。私たちは言いたいのです。
「イエス様。あなたは 生まれなかったら大変。」もし、イエス様が生まれなかったら死ぬことができなかったんです。
もし、イエス様が死ぬことができなかったならば、われわれの罪の問題は決して決して解決され得ない。そうしたら、救いがない。希望もない。おしまい。
イエス様は、生まれた。死ぬためです。罪の問題を解決するためです。

それから、イエス様は孤独から解放するためにも来られたのです。
「わたしは決してあなたがたから離れない。あなたがたを捨てない。いつまでもあなたがたとともにいる。」とイエス様は言われたのです。
イエス様の前に頭を下げて、イエス様の救いのために感謝する者は、必ず孤独から解放されます。寂しくても一人ぼっちじゃない。
イエス様はいつもついておられるからです。

もう一つ、この救い主であるイエス様に頼る者は、安心してクリスマス迎えることができるし、新しい年も迎えることができるし、そして安心して死ぬこともできる。死を恐るる恐れからの解放こそ、最高の賜物なのではないでしょうか。
ある台湾で生まれた兄弟がいまして、そしてずっとアメリカで働いて、博士をとって大学の教授になって、彼は、一つの歌を作ったんです。最後にいつも

兄弟姉妹、喜びに満ちて、イエス様大好き。イエス様、大好きよ!

そういう歌なんです。彼はもうだれであってもこの歌を歌ったんです。子どもっぽいなんです(^^)(^^)。けども、もうみんな嬉しくなっちゃたよ。
結局大切なのは、いろいろなこと勉強すること、知ることじゃないんです。イエス様を大好きになることです。
イエス様を大好きになる人の人生は嬉しい人生だと思う。けども、多くの人々は「自分の人生は虚しかった、台無しになった」と言うかもしれないけども、決して遅くないよ。
今からやっぱり、「イエス様ごめんなさい。あわれんでください。私のためにも死んで下さったからありがと。今から全部おゆだねいたします。」、この態度とる者は、必ずこの兄弟のように言えるのです。

兄弟姉妹、喜びに満ちてイエス様大好き。イエス様大好きよ!

こういう心構え持つ者が幸せなのではないでしょうか。




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