新年おめでとうございます。今年こそ、イエス様に来てもらいたい気持ちでいっぱいです。 まず詩篇から3箇所お読みいたします。 詩篇81:10
これは主の呼びかけです。16篇11節はダビデの経験です。 詩篇16:11
また、アサフの告白。 詩篇73:28
それから、イエス様の切なる願いについての箇所です。 ヨハネの福音書15:11
私たちにとって大切なのは、新しく生かされることであり、またイエス様の愛によって動かさるることです。天に召された愛する兄弟のように、心から叫ぶことです。兄弟は、 「兄弟、姉妹、喜びに満ちて、イエス様大好き。イエス様大好きよ!」 と歌ったのです。 大切なのは、私たちがいろいろな信仰的な内容を信じているということじゃなくて、実際に、イエス様との交わりを持っているかどうかだけが大切です。 主イエス様を信じ、知るようになり、イエス様を愛するようになった人々に、イエス様は次のように言わなければならなかったのです。 ヨハネの黙示録3:17
何もわからないのは大変ですけど、わからないことでさえも、わからなければ悲劇的なのではないでしょうか。 ソロモン王について聖書は言ってます。 列王記第I、3:3
短い文章です。けども、彼の祝福された生活の秘訣だったのではないでしょうか。 イエス様のゆえに迫害された人々にペテロは次のように書いたのです。 ペテロの手紙第I、1:8
あなたがたは、イエス・キリストを愛している。 主なる神は、愛そのものです。私たちはこの事実について考えると、礼拝せざるを得ません。この愛の証拠なるものは、この罪にまみれた世界に贈られた、また死にわたされた、主イエス様です。この愛を経験した人々は、大いに喜ぶことができます。 今日来られたお一人お一人についても、彼は、彼女は、イエス様を愛していると言えるかどうかは問題です。 一番大切なのはいったいなんなのでしょうか。言うまでもなく、一番大切なことを知ること。また大切にすることなのではないでしょうか。イエス様の教えたことは、一つの教えではなく、一つの呼びかけでしょう。 マタイの福音書11:28
結局、「おいで。待っとるよ。」、イエス様のところに行くと、愛されてることを知り、解放され、大いに喜ぶようになります。 あなたの神である主を愛せよ。 これは最大の、そして一番大切な戒めです。主なる神は、私たちの二心のない愛を求めておられます。 主はまごころからの愛を望んでおられます。まことの愛は、主からのものものです。神なきまことの愛は存在しません。まことの愛と主とは不可分のものです。 ヨハネの手紙第I、3:16
主は私たちのためにご自分のいのちをお捨てになりました。 大部分の新約聖書の手紙を書いたサウロは、長い間イエス様のことを憎み、信ずる者を迫害しました。いかなる人間も、彼を間違った道から引き戻すように、納得させることはできなかったんです。 彼はどのようにして、イエス様の熱心な伝道者、また証人となったのでしょうか。そのことを、彼は一つの文章で短く語っています。 ガラテヤ人への手紙2:20
と。彼は何を瞬間的にわかったかと言いますと、あの愛は私を圧倒してしまった。あの愛は私の人生を根底から変えた。この愛は私を迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求するものです。 パウロの宣べ伝えたのは、十字架につけられたイエス様です。十字架は何を語ってるのでしょうか。 わたしはあなたの創造主であり、あなたの救い主でもあり、愛そのものです。わたしは自分自身を犠牲にし、苦しみの人哀しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を支払った、と。 マタイの福音書22:37
これが大切な第一の戒めです。けど、正直な人はみなわかります。すなわち、自分の力では主の律法を主の戒めを守ろうと思ってもうまくいかない。イエス様のみもとに近づき、言うべきです。 「私は守りたいけど無理です。できません。敗北者です。あなたが助けてくださらなければ、まったく不可能です。 私のうちには何一つ良いものが宿っていません。自分の力によっては、まったく自己中心的な生活を送ることしかできません。」 主の呼びかけとは次のようなものです。 イザヤ書57:15
私たちは、はじめの愛から離れてるなのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録2:4-5
はじめの愛はイエス様との交わりです。イエス様なしに何事も発っせず、何事も成し得ないということです。 もし毎日毎日、神のみことばである聖書が、われわれの力の泉また慰めのもととなり、喜びの源となっているならば、そして、私たちの考えと行ないの中心にイエス様がおいでになるならば、それこそが私たちのはじめの愛が保たれてることの証拠です。これが、燭台がその場に置かれてることの大切な条件です。 初めの愛の特徴は、イエス様の足元に静まることです。すべてを主に明渡すことです。徹頭徹尾主にだけ、より頼むことです。また主の御心に従うこと。そして主と主の導きに信頼することです。 最後にイエス様を生んだマリヤの告白を読んで終わりたいと思います。 ルカの福音書1:46-47
別の卑しいはしための証し、また祈りを、ちょっと紹介いたします。ドイツのアイドリンゲンムッターハウスの創設者でした。 「私は学び、そして知るようになったのは、主イエス様との交わりの時間をないがしろにすれば、得るものがなく、損することばかりです。 イエス様の御顔をさがさないと、主の御声を聞こうとしないと、主に対する奉仕のための能力も失うのです。 主イエスの御声に対して聞く耳がないと、何をしても余計な時間を必要とするし、御心のままに成すことができません。主の御前に静まらないと、落ち着きがないし、自分を否定することもありえません。 主の声を聞こうとしない日は、実を結ばない日です。主よ、語ってくださいと望まないこととはあらゆる不幸の原因です。 イエス様、私はいくら損しても大切なこと失っても、あなたの御前に静まることだけを望んで、また願ってます。主イエス様は多くのことしてもらいたいでしょうが、しかし最も大切なのは、聞く耳を持つことです。 「私を祈りの人にしてください。」 |