引用聖句:マタイの福音書1章18節-21節
コリント人への手紙第II、8:9
今読んで下さった箇所を通してはっきりわかることは、本当のクリスマスは大きな喜びと結びついていることです。 イエス様はどうしてこの世に来られたかといいますと、私達は本当の意味で富む者となるためです。本当の富とはいったい何なのでしょうか。言うまでもなく罪の赦しです、変わらない喜びを自分のものにすることです。 どういうことがあっても喜ぶことが出来ることは、考えられない宝物なのではないでしょうか。喜びがなければ人生は全く重苦しいものであります。変わらない喜びをもっていなければ、人生は退屈なものになります。 喜びは私達の生活を維持する上で、健全な空気を与えてくれます。喜びは生活の中で非常に大きな推進力となっているのです。喜ぶことが出来ればどういう悩みがあっても、やっぱり違います。 イエス様はどうしてこの世に来られたかといいますと、結局、私達はこの変わらない喜びを自分のものにするためです。勿論イエス様の話されたことの目的もそうでした。 「私がこれらのことを話したのは、私の喜びがあなた方のうちにも宿るため、又、あはた方の喜びが満ちあふれるためです。」 イエス様はこの世に来られた。これこそが考えられない素晴らしい事実です。多くの人々はクリスマスを祝いますけど、どうしてお祝いするのか全くわからない。結局、人間が本当の喜びを得るために、イエス様は来られました。 去年でしたか、一昨年でしたか、市川の近所のある病院で、何人かの兄弟姉妹はクリスマスの歌を歌いました。そのとき、一人の若い奥さんがいまして、彼女は歌を歌ってから急に輝いた顔で何と言ったかと言いますと「生きててよかった・・・。」 彼女は結婚していて、子供は6歳と8歳の子供だったでしょうか。人生は面白くない。ご主人はアルコール中毒で自分は無視されてしまって、死んだほうがいいと思って、自分の住居から、11階の建物から飛び降りて死のうと思ったんですけど、うまくいかなかったんです。 下で古い洗濯機の中に入っちゃって、日本製の洗濯機だったから・・・。ドイツの洗濯機だったらおそらくダメだった。 医者は勿論もうダメ、車椅子の生活も全く不可能で、入院されまして、病院の中で勿論、どういうふうにうまく死ぬことが出来るのか、自殺未遂になったし、結局、彼女の部屋とは刑務所のようなものだったんです。 いつも注意しないと今度何をするか、勿論もう足も使いものにならないから、やっぱりいろいろなこと考えるしかない。けども、やっぱりうまく死ぬことが出来なかったけど、彼女は死ぬことが出来なかったのはよかった、生きててよかったと言ったのです。 結局、いわゆる不幸を通してイエス様を信ずるようになり、喜ぶようになったのです。そのためにイエス様は来られました。 ルカの福音書の2章の中で、一番よく読まれる箇所なんですけども、クリスマスのすばらしい出来事、事実について次のように書き記されています。 ルカの福音書2:9-14
主の栄光が現われた。又、羊飼い達はすばらしい喜びの知らせを聞いたのです。内容は、救い主があなた方のために生まれた。飼い葉おけのなかにいたのです。そして、多くの天の軍勢も現われて主を賛美したのです。平和がなるように。 世界中の政治家達は、平和について考えますけど、勿論全部むだな話しです。平和になり得ません。宗教が存在しているからです。宗教が存在している限り平和になり得ません。全部むだ。 不正が捕まえられたけど、だから平和になるのではない。 恐るることはない、あらゆる心配から解放さるるべきです。「あなた方のために救い主がおうまれになった。」、確かにクリスマスの時、人々はいろいろなこと考えます。 一番宣伝するのはデパートなのではないでしょうか。結局、やっぱり買ってもらいたい。結局、儲けたい。 主なる神も、人間に贈り物をしようとしておらるるからです。そして、主なる神は非常に気前のよいお方で、こそこそしたことやケチケチしたことをしないお方です。 これ、いくら出すか・・・と思っていない。主は富んでおられる所に住んでおられ、その満ち満ちているものの中から与えられるお方です、といいますと、われわれに御ひとり子なるイエス様を与えられたのです。 ベツレヘムにおいて主なる神の愛は、純粋な、簡素な形をとって自らを啓示されました。主なる神は、何か第二次的なものを与えられたのじゃなくて、その最愛の御ひとり子であるイエス様を与えられた。 父にとって如何に大いなる犠牲であったか、今生きている間にピンとこないし、考えられない。確かにイエス様は人間になったのは考えられない犠牲ですけども、父にとっても大変な犠牲でした。ですから、聖書の中で一番よく知られている箇所の中でこの事実が強調されています。 ヨハネの福音書3:16
遣わされたイエス様こそが、父の愛の現われそのものです。どうしてイエス様は遣わされたかといいますと、御子を信じる者は一人として滅びることなく、永遠の命をもつためです。ヨハネの手紙第Iの4章9節にもヨハネは全く同じことをちょっと違う言葉で書き記したのです。 ヨハネの手紙第I、4:9
言葉は人となった。私達の間に住まわれた。私達はこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた、ひとり子としての栄光であるこの方は、恵みとまことに満ちておられた、と弟子達は喜んで告白することが出来たのです。 当時の人々は、この贈られた宝物に対して如何なる態度をとったなのでしょうか。イエス様を生んだマリヤは、初めは「何のことでしょうか?」と思いを巡らしていました。 すると御使いは言った。「恐れるな。マリヤよ。あなたは主なる神から恵みを頂いているのです。見よ、あなたは身ごもって男の子を産むようになる。その子をイエスと名付けなさい。彼は大いなるものとなり、いと高きものの子と唱えられるのです。」 ルカの福音書の1章をみるとマリアの考えについて次のように書かれています。 ルカの福音書1:34-35、38
最近生まれる子供は、生まれる前に男か女なのかわかるようになっていますけど、結婚する前に子供を与えられるかどうか誰もわからない。男か女か勿論誰もわからない。勿論、子供出来る前に生まれる子供の名前について考える人は、おそらくあまりいないでしょう。けどもマリヤは全部わかった。男の子で、そして付けるべき名前は「イエス」である。イエスとは「罪から救うもの」です。 ヨセフの態度はいったいどういうものだったでしょうか。マタイの福音書1章19節を見ると次のように書かれています。結局二人は、お互いに愛し合ったし、いつか結婚すると約束しあっていました。けども彼は(マリヤが)急に妊娠しているのじゃないかと分かった時、考えられないショックを受けたんです。 マタイの福音書1:19
マタイの福音書1:24-25
聖書を見ると、結局、結婚する前に親しい関係をもってはいかんとはっきり書かれています。現代人の多くは、この聖書のみことばを無視して、お互いに愛し合っているからいいじゃないかと、いつかどうせ結婚するなのではないか。けども、うまくいきません。主の祝福がないからです。 マリアとヨセフとは勿論、親しい関係をもっていなかったけど彼女は妊娠した。もう考えられない。医学的にも考えられないことなのではないでしょうか。 けども、旧約聖書の中でそのことははっきり預言されたのです。イザヤ書の中で結局、処女がみごもるようになるとはっきり書かれています。 確かにヨセフは初めにびっくりしました。けども、御使いが彼に全てのことを明らかにした後に、主のみことばに従おうと決心したのです。だから、彼女は殺されなかったのです。結婚しないで子供を産む女性は皆、石で殺されてしまったのです。ヨセフは彼女と結婚したから、結局皆ヨセフの子供だと思っちゃったんです。けども、ヨセフもマリヤも決してそうではないとわかったのです。 当時の祭司の奥さんであるエリザベツの態度はどういうものだったのでしょうか。彼女は非常に幸いなものであり、賛美が唇の上に上りました。そして彼女はマリヤとともにこの大いなる贈り物に対して、主に心から感謝し、喜んだとあります。 ルカの福音書1:42
ルカの福音書1:44-45
けども、全く違う態度をとった人もいました。ヨハネがこの悲しい事実について、又その理由について次のように言われました。 ヨハネの福音書3:19
悲しい事実です。イエス様が光として約束された救い主で来られましたけども、人々は光よりも闇を愛した。どうしてであるかと言いますと、その行いが悪かったからである。結局悔い改めたくなかったからです。頭を下げたくなかったのです。 当時の宿屋の主人は、その贈り物を理解することが出来ませんでした。彼は如何なる贈り物が彼にもたらされたかということに気が付かなかったので、彼らのいる余地がないと断ったのです。彼は、この贈り物の価値を認識しなかったのです。 ルカの福音書2:7
飼い葉おけで生まれた主イエスは、後ですぐ親と一緒にエジプトまで逃げなければならなかったし、そして、イエス様の最後とは十字架の上でした。 当時の王様であるヘロデ王は、ひどく残酷な気持ちを持つようになりました。自分の王国を失うのではないかと思ったゆえに、彼は、このことを聞いて不安を感じたのです。 彼は、この贈り物が、彼に対して永遠の王国に至るための戸を開けるであろうということを知らなかったのです。 マタイの福音書の、今度2章ですけども、次のような箇所があります。 マタイの福音書2:8
まあ、大嘘つきそのもの。 マタイの福音書2:13-16
当時の羊飼い達は目で見、耳で聞き、そして急ぎ足で主を賛美しベツレヘムへ向かったと書いてあります。 ルカの福音書2:8-18
とあります。又、マタイの福音書2章の中でも、遠い国から来た博士達についても、いろいろなことが書き記されています。 マタイの福音書2:10-11
この宝物は、勿論彼らにとって全てでした。けども、主イエス様のためだったら、喜んで全てを捧げることが特権であると思ったのです。 いうまでもなく、ヨセフ、マリヤもこの宝物が必要でした。彼らは本当に貧乏人そのものだったのです。普通だったら子羊が捧げられるようになったのです。けどもヨセフとマリヤは、そのお金でさえもなかったのですから鳩だけ捧げたのです。 エジプトへ逃げるために、向こうで生活するために、やっぱりこの宝物はどうしても必要でした。またルカの福音書2章に戻りまして、一人の老人に会いました。シメオンという老人でした。 彼は待ち望む思いに満ち溢れた、と聖書は言っています。そして彼は、今や長い間待ち望んでいた救いを見ることが出来た。彼は幼子を腕に抱き、主に感謝したと書かれています。 ルカの福音書2:27-30
もう一人の年配の方がいました。すなわち、ハンナという女性です。彼女も主に感謝を捧げ、そしてこの幼子のことを、エルサレムの救いを待ち望んでいる全ての人々に語り聞かせたとありますね。 ルカの福音書2:37-38
とあります。当時、自分の救いの必要性を求めた全ての人々は、救い主の出現を心から待ち望んでいました。約束された救い主の出現を待ち望んでいた全ての人々は、このことが実現されたとき、その方がどういうお方であるか、ということを知ることが出来たのです。 そして、そのことを知ることが出来た人々は、誰でもこの方を喜んで受け入れただけではなく拝んだのです。けども、大部分の人々はこの方、即ちイエス様を受け入れようとしなかったのです。 ヨハネの福音書1:11
とあります。彼らの心の根が暗くされていたから、自分達が主イエス様を必要としているということがわからなかったのです。宗教的な指導者達は、聖書学者達とは無関心であり、イスラエルの民の大部分は悔い改めようとしなかったし、ヘロデ王は、この救い主を滅ぼそうとしたのです。 イエス様を待ち望まないということ、またイエス様を求めないということは、イエス様を拒んでいるのであり、これほど愚かなことはないなのではないでしょうか。 私達は主の大いなる贈り物に対して、どのような態度をとるなのでしょうか。 マリアのように、驚き、そして「お言葉通りなりますように」と願うなのでしょうか。ヨセフのように、びっくりしてから従順に従うのでしょうか。 エリザベツのように、全く幸いなものと唱えられるのでしょうか。 宿屋の主人のように、追い返すことが出来なかったり、ヘロデ王のように、ひどく残酷な気持ちを持つなのでしょうか。 羊飼い達のように、目で見ることが出来、博士達のように大いなる喜びに満たされるなのでしょうか。 シメオンのように待ち望み、再臨されるイエス様を待ち望み、ハンナのように主なる神に感謝を捧げ賛美するなのでしょうか。 主はどういう名前を持っているか。「来られる方」です。主は来られる方です。 イエス様は確かに来られた。だから私達は喜ぶことが出来る。来られたから嬉しい。けどもそれだけでなく、この来られたお方が十字架の上で犠牲になり、救いの道を開いたのです。 けどもそれだけでなく、この主はまた来られます。ヘブル人への手紙の9章を見ると次のように書かれています。クリスマスの時、やっぱり2,000年前に来られた主イエス様についてだけ考えることとは、ちょっと充分なのではないと思います。 ヘブル人への手紙9:28
イエス様はご自身を捧げられました。無視されても、呪われても、殺されても結構であると、イエス様は思われたから、私達は喜ぶことが出来るのです。 罪の問題を解決するお方とは、イエス様しかいない。けどもイエス様はまた来られます。 ヘブル人への手紙10:37
ちょっとイエス様を知るようになった者は、結局輝かしい、輝く素晴らしい将来を持つ者です。イエス様は信ずる者にとって道であり、心理であり、いのちです。 イエス様無しの将来は真っ暗闇です。イエス様を知るようになった者は、本当に喜ぶことが出来ます。なぜならば、私達は確信することが出来る。もうちょっとでイエス様はまた来られます。 今日かもしれない。イエス様は、「明日のことは思い煩うな。今日のことは充分なのではないか。」、毎日イエス様はもうちょっとで来られる、と考えると全然違うなのではないでしょうか。 イエス様の再臨を信ずることとは、勿論、決して充分ではない。待ち望まないとあんまり価値のないものです。 イエス様の空中再臨について、確かに多くの箇所がないんです。けども、我々にとって一番大切なのではないでしょうか。主な箇所はテサロニケ人への手紙第Iの4章と、コリント人への手紙第Iの5章ですけども、 テサロニケ人への手紙第I、4:16
即ち、再臨される主とは、十字架の上で犠牲になられたイエス様ご自身です。 いわゆる教会歴史をみると、今まで大体400人の人々は「おれは再臨されたキリストだ。」と言い張ったのです。笑い話です。十字架上で犠牲になったイエス様ご自身が来られます。他の人間ではない。 私は再臨されたキリストであるという人に又、「ちょっと、あなたの手と足を見せて」と言えばわかるよ。釘跡がなければ嘘つきです。イエス様ご自身が天から下って来られます。 それから、キリストにある死者がまず初めによみがえり、先に召された方々が先です。私ではない。けど、次に生き残っている私達が、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と出会うのです。 このようにして、我々はいつまでも主とともにいることになります。 夕べ、ある姉妹は、ご主人のことについてどうしようかと相談されましたが、祈るしかないという結論になっちゃったんです。結局、主人達は奥さんに勧められたら、だいたい反発します。あのご主人は結局、集会のメッセージを聞いて、再臨のメッセージを聞いて、それからちょっと心を頑なにしてしまったらしい。 結局、聖書ははっきり何と言っているかといいますと、イエス様はまた来る、その時、悔い改めをした人々、本当に主の前でペチャンコになった人々、イエス様、憐れんでください、赦してくださいと願った人々は、勿論天に引き上げられるようになります。 主を見上げる。あのご主人は、「もう嫌です。」、笑い話としか言えなかったのです。 昔、何十年前だったかわからないけど、ある方が軽井沢で、ある兄弟と話したんです。イエス様の再臨の話です。 そして、その方はもうおこって「けしからん、おかしい、帰ろう!」娘に帰ろうと言って、けど主は恵んで下さって、とんでもない霧になったんです。もう、車乗れないよ。 5メートル先がもまともに見えない。危なくて、仕方がなくて一晩残って、次の日イエス様に克服されてしまって、イエス様を信ずるようになっちゃったんです。 まともな人間が、再臨なんて考えられないなのではないでしょうか。勿論そうね。けども、残されないようにと心配するようになれば、有難いなのではないでしょうか。 イエス様が来る時、結局今まで主を信じた人々は皆よみがえります。灰になった体の中から新しい体が出ます。 御代田の待合室、納骨堂へ行って調べたらいい。もしかすると灰になっているかもしれないし、自分が救われていなかったとわかります。 けども、本当の意味で救われた人々の壷は空っぽです。何も入っていない。結局、私達は半分しか救われていないでしょう? 私達が今、経験出来る救いとは、霊的な救いだけだよ。罪の赦しは得られますし、神との平和を持つようになります。霊の命を自分のものにすることが出来る。 体はまだ贖われていない。みんなまだ疲れるでしょう?また病気になるじゃない。だから完全な救いじゃないよ。イエス様の救いは完全な救いです。いつ私達がこの完全な救いを経験するかと言いますと、再臨のときです。今の体も変えられます。一瞬のうちに栄光の体、甦りの体になるとあります。 もう一つの箇所は、コリント人への手紙第Iの15章。いつも両方の箇所を読むべきではないかと思うんです。なぜならば、ある人々は疑問するようになるんです。イエス様は今日来るかもしれないけど、ちょっと心配なんです。もし残されたら・・・、 「私たちの生活はあんまり模範的じゃないのではないか」と、勿論、みんなそう思うなのではないでしょうか。私は大丈夫と自信を持っていればちょっと困るなのかもしれない。けども、私達ははっきりとした確信を持つべきです。ですから、このコリント人への手紙第Iの箇所は非常に有り難い。 テサロニケにいる兄弟姉妹は模範的でしたよ。パウロは彼らについて考えたら、もう嬉しくて嬉しくてしようがない。主よ、感謝しますと言えたのです。 コリントにいる兄弟姉妹に対してパウロは考えたときに、もう泣いちゃってた。もうお手上げなんです。どうしようもない。彼らは確かに救われたよ。永遠の命を持つようになったけど、パウロにとってコリントにいる兄弟姉妹は悩みの種でした。 けども彼らにも、パウロは同じことを書いたから有り難い。 コリント人への手紙第I、15:51-52
皆、イエス様の体に属するものになるものは皆、引き上げられます。そして皆変えられるのです。イエス様の御姿に変えられるのです。 いつでしょうか。やっぱりそのときです。誰も私はOKと言わないなのではないでしょうか。皆、不完全でダメなのです。迷える羊です。 もし、イエス様を信ずることによって、迷える羊がすぐ羊飼いになれば有り難い。けど、なるもんじゃないでしょう。迷える羊として生まれた者は死ぬまで迷える羊です。だから羊飼いに飼ってもらわなくちゃならない。パウロは58節に書いているんですね。 コリント人への手紙第I、15:58
労苦が、むだでないことを知っているのですから、と書いていない。主にあってと書いてあります。これが問題です。主にあってむだでないことが約束されています。 主に頼ると私達は必ず守られ、導かれ、満たされ、用いられます。主に頼らなければ、主は私達を守ることが出来ないし、導くことが出来ないし、満たすことも出来ないし、用いることも出来ないのです。 ピリピ人への手紙の中で、パウロは45節ですけども、短い文章ですけども、主は近いのですと書いたのです。主は近い。彼はまず刑務所の中で何を経験したかといいますと、私は一人ぼっちじゃない、主が離さないから。 パウロは、ローマの刑務所に入ったとき、主も一緒に入っちゃった。だからパウロは、ピリピ人の手紙を、喜びの文と言われている手紙を書いたのです。主は近いと、彼は当時の信ずる者に書いたのです。 すなわち、イエス様の再臨を喜びつつ生活しましょうよ。やがて行われる主の再臨に対して、心の備えをすることが要求されています。主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者が、ちょっと少ないなのではないでしょうか。 結局、毎日、今日かもしれないと考えるべきなのではないでしょうか。 新約聖書の中で、再臨について430回述べられています。だから、考えられないほど大切です。 (テープ A面 → B面) キリストに対するこの望みをいだく者は、みなキリストが聖くあられるように、自分を聖くします。結局、待ち望む者は、適当に生活することが出来ない。 私達は主の再臨を意識しつつ、待ち望んで生活しているならば、やっぱり注意深くなり、そして光の中を歩みたいと望むようになります。すなわち、今まで以上に主を待ち望むようになります。 イエス様を待ち望む者は一つの願いを持っています。すなわち、イエス様を喜ばせたい、また、「イエス様、あなたを喜ばせたいけどどうしたらいいの?お教えになって下さい」と願うようになります。 ある一人の人間を喜ばせたいと思っているから、霊的に全然成長しない、苦労が無駄です。パウロは、ガラテヤ人への手紙1章の10節に次のように告白しました。一つの証しです。 ガラテヤ人への手紙1:10
人間を喜ばせたいか、人間の奴隷になるか、主のしもべになるかのどちらかです。主の再臨を待つ望む人の一つの特徴は何であるかと言いますと、まだ救われていない家族のために祈り続けます。 途中でやめる人もいるなのではないでしょうか。どうせダメだ。勿論、現実見るとそれしかないでしょう。けども、イエス様は家族の救いを約束しているから望みがある。イエス様はいつも我々の祈りに対して応えようとなさっています。 また、イエス様を待ち望んでいる人々の見方は、イエス様のような見方なのではないでしょうか。イエス様について聖書は言っています。 マタイの福音書9:36
イエス様は無関心ではなかったのです。イエス様にとって、人間一人一人の魂は全宇宙の財産よりも尊いのです。魂を獲得することとは、イエス様を紹介することです。 人を納得させようと思っても全く意味のないことです。イエス様を紹介しておいたら早く手を引いて、「今度はイエス様、あなたの番です。主よ。」という態度をとると、主は必ず働いて下さるのです。 パウロは、 コリント人への手紙第II、9:22
と、書きました。 イエス様は来られただけでなく、イエス様はまた来ます。毎日、イエス様を待ち望みつつ、イエス様を仰ぎ見ると、やっぱり人生は変わります。 パウロの呼びかけだけではなく、手紙を書いた人達の全ての呼びかけとはどういうものであったかと言いますと「意識的に主にだけより頼みましょう。」「主の再臨を喜びながら行きましょう。」、また、「失われた魂の救いのために祈り続けましょう。」 私達はどうしてイエス様を知るようになったなのでしょうか。主を待ち望むためです。ですから、今日かも知れないと言う待ち望みを持つことこそが考えられないほど大切です。 |