引用聖句:マタイの福音書6章25節-27節
ピリピ人への手紙4:4-7
ペテロの手紙第I、5:7
この間の土曜日と日曜日、倉敷の喜びの集いがありまして、非常に祝福された集いで、ある方は急に言ったそうです、「今までのことを忘れて、今から親しく交わりましょうよ。」と。 彼はまだ未信者であり、救い主なるイエス様をもちろんまだ知らなかった。けれどこういうふうに言ったのは非常に嬉しかった。 結局、「過ぎ去ったことは、もう過ぎ去っています。問題は今からのことではないか。赦し合いましょう。」、これを聞いたとき、本当に嬉しかった。なぜならば、主なる神ご自身も同じことを思っておられるからです。 旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中で、主なる神の申し出について次のように書かれています。 よく知られている個所です。 イザヤ書1:18
ここで一度、複数形になっているけれど、単数形で読んだら、ちょっとびっくりするのではないでしょうか。 主はすべての罪の赦しを提供しておられます。主はあらゆる過ち、また、わがままを赦すことが出来るだけではなく、赦したくて、赦したくてしょうがない。すなわち、今までのこと忘れて、親しく交わりましょうよ。とイエス様は呼びかけておられます。 人間は、前に話したように、赦し合いましょうという気持ちを持つことができます。しかし、なかなか忘れられません。何かあれば、また思い出すのです。けれども主は、赦してくださるだけではなくて、忘れてくださいます。同じくイザヤ書の43章の25節を見ると次のように書き記されています。 イザヤ書43:25
結局、忘れます。永久的に。 イザヤ書44:22
主は赦すお方です。 ヘブル人への手紙の著者も同じ事実について次のように書き記したのです。10章の17節を見ると次のように書かれています。 ヘブル人への手紙10:17
結局、一度も罪を犯さなかったようにされる。人間は決して考えられないし、想像できないし、けれど義と認められることとは、それなのです。 あらゆる人間にとってどうしても必要なのは、変わらない喜びをもつことです。 ある夫婦、ご主人、兄弟は学校の先生なのです。職業としてではなくて、使命として彼は本当に先生なのです。やっぱり学生のために祈ったり、戦ったり、心配したりして。けれどもすごい問題が起こった。ほかの子どものために助けになったけれど、自分の子どものために何も出来なくなってしまった。 他人のために頑張って祝福を経験しても、自分の子どものために何も出来ないのは大変です。けれども姉妹はもう輝いた顔で言ったのです。「今回、初めて経験した。悩みながら喜ぶことができる。」、これがイエス様なのです。 問題が解決されなくても関係ない。イエス様の与える喜びとはそういうものなのです。 また、どうしても必要なのは、まことの平安を得ることです。結局、心配から解放されることです。 大部分の人間は心配します。結果として頑張ります。頑張ることによって問題は解決されれば、もっともっと頑張ってもらいたいけれど、違う。もう疲れます。 また、どうしても必要なのは、生きる希望をもつことです。前向き生活をすることができることです。 現代人にとって最も大切なのは、不安と心配から解放されることではないでしょうか。イエス様も、引用聖句の個所の中ではっきり命令なさったのです。心配してはいけません。これは主の命令です。心配することによって、何にもならないからです。 どういう人々が不安と心配から解放されているかと言いますと、自分の過ち、罪、わがままはイエス様の流された血によって赦され、忘れられ、私は永久的にまことの神によって受け入れられたと確信できる人であります。不安と心配は、確かにわれわれの力を麻痺させてしまいます。 その結果、人は疲れを感じたり、何でもないことをするのにも、多くの時間と労力を費やしたり、神経を使い過ぎたりするのです。そして仕事はわれわれをダメにするのではない。心配と不安が人間を損なうのではないでしょうか。 ダビデという王様は、3,000年前に不安や心配の種をたくさん持っていたようです。彼の書いた詩篇を読むとわかる。 けれど彼は解放された。心配と不安から解放された者です。どうしてでしょうか。彼の書いた詩篇の40篇17節に次のように書かれています。非常にすばらしい告白であります。 詩篇40:17
正直な告白です。私は悩む者。王であっても、自分に仕える者たちはいっぱいいたとしても、 詩篇40:17
結局、問題をもつことが問題なのではなく、問題に対する態度、反応こそが問題ではないでしょうか。 このダビデのような態度を取ると、やっぱり主こそが自分の助け手であられることを新たに経験することができます。 このダビデは、あらゆる不安や心配を全て、主である助け手に明け渡すことによって、克服することができたのです。 明け渡す秘訣、ゆだねられる秘訣とは、相手の力を知ることではないでしょうか。相手にとって不可能なことが無いと分かれば、安心して全てをゆだねることができます。イエス様は当時も弟子たちに同じことを教えようと望んでいたのです。 すなわち、わたしにとって不可能なことは無い。絶えず覚えて。 福音書を見ると、色々な奇蹟について書かれています。あるときイエス様は、4,000人の人々、それから5,000人の人々に食物を与えられたとあります。ちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書14:13-21
女と子どもを数えると、おそらく何万人になったのではないでしょうか。 もう一ヶ所、15章です。 マタイの福音書15:32-36
配ることしか出来なかったのです。 マタイの福音書15:37-38
とあります。ちょっとだけこの二つの奇蹟を比較してみたいと思います。注意したいことは、5,000人と4,000人という数字の中には、女、子どもは含まれていない。男ばかりであったということです。 まず、5,000人の男たちをご覧になったイエス様は、彼らが羊飼いのない、迷える羊のような状態でいるのを、心からあわれみなさったのです。 他方、4,000人の男をご覧になったとき、彼らが食べる物を何一つ持っていないことに、あわれみをもよおされていたのです。 5,000人の場合は、弟子たちがイエス様の所にやって来て、「5,000人全員を帰らせてほしい。」と頼んだのです。けれど4,000人の場合には、イエス様ご自身が弟子たちに向かって、彼らに、「食べなさい。」と言われたのです。 弟子たちはこれに対して、「何もないのに、どこから食べ物を持ってくるのですか。」とイエス様に尋ねました。 イエス様は詩篇の80篇の1節が預言している牧者として、羊飼いのない五千人の羊の群れのような男たちの前に自らを現わしてくださったのです。そして4,000人の場合は、詩篇の132篇の15節に、 詩篇132:15
というみことばを成就するお方として、イエス様が自らを現わされたのです。 イエス様は確かにあわれんでくださったし、けれどもイエス様はどうして奇蹟をなされたかと言いますと、おもに自分自身こそが約束された救い主であることを証明したかったからです。 5,000人の場合は12のかごが余り、4,000人の場合は7つのかごが余りました。12という数字は、主が人間を器としてお用いになるということを意味します。7という数字は、神の完全さを表わす数字です。また、7つのかごが余ったということは、やがて来たるべき日に欠乏が無くなり、全ての者が満ち足りる、主の国が出現することをも意味します。 5,000人の奇蹟を成し終えたあと、イエス様はひとりで山に上られ、やがて山から下りて来ると、困っていた弟子たちを助けてくださいました。 今もイエス様は父の右に座しておられ、われわれのためにいつも、とりなしの祈りをしていてくださいます。けれどそれだけではなく、やがてご自分の民を大いなる患難から救い出すために、再びおいでになります。 4,000人の者に食物をお与えになったあと、イエス様はどこにも行かないで、弟子たちとともにいてくださり、弟子たちに色々と教えてくださいました。そのとき弟子たちは、患難の中にはいることはありませんでした。それと同じように、来たるべき日にもイエス様を知ることが、海をおおう水のように、地を満たし、全ての人が主によって教えられる、とあります。 イザヤ書の中で11章の9節を見ると次のように書かれています。 イザヤ書11:9
と預言されています。 エレミヤも同じ事実について次のように書いたのです。 エレミヤ書31:34
とあります。今まで述べてきた二つの奇蹟をとおして分かることは、そこにおいて人間の本当の姿が描き出されているということではないでしょうか。 すなわち、彼らは、羊飼いのない迷える子羊と同じであり、羊飼いをもっていないゆえに、まことの霊の糧をも持っていないということです。 また、この二つの奇蹟をとおしてイエス様が、欠けているものを満たすお方として、すなわち、良い牧者として、また、天から来られて、生きたパンとして現われてくださったことをも読み取ることができます。 まず、良い牧者としてイエス様はご自分のいのちを、われわれのためにささげてくださいました。 ヨハネの福音書10:11
とヨハネの福音書10章11節に書き記されています。 そしてまた、天からのパンとしてイエス様はご自分を信じた者たちに永遠のいのちを与えるためにご自身をささげてくださったのです。 ちょっとヨハネの福音書の6章を見てみましょうか。 ヨハネの福音書6:29
人間は信じようと思っても出来ません。イエス様は、信仰の創始者と呼ばれている。もし、どなたか信ずることが出来れば、これこそ主のなさったわざ、そのものです。 ヨハネの福音書6:30-35
イエス様はご自身の力をお現わしになり、そして弟子たちが、この偉大なる主に心から信頼することを、徹頭徹尾信頼すべきことを知らせてくださったのです。 イエス様は何千人に対して、弟子たちが見ている目の前で、食物をお与えになりました。そしてまたイエス様は、自然をもご自身に従わせることができると明らかにしてくださったのです。 弟子たちは結局、イエス様は何でもできると確信できるようになった。 弟子たちが水の上で非常に困った状態に陥ったこともイエス様の導きでした。彼らはイエス様の一言によってその瞬間、荒れ狂っていた波が鎮まったというすばらしいイエス様の御力を体験したのです。 嵐から静けさに。不安と恐怖からまことの平安に。絶望から主イエス様にあっての喜びに変わるのです。 イエス様の導きの目的は、ただ単に、弟子たちがイエス様の力と導きに信頼することだけでなく、イエス様の無限の可能性をも信頼することでした。イエス様にとって不可能なことはない。 イエス様は全知全能なるお方です。したがってイエス様にとって、奇蹟も当然のことであったということを、弟子たちは知るべきでした。 当時の人々のイエス様に対する判断とはいったいどういうものだったのでしょうか。マルコの福音書の8章を見ると次のように書き記されています。 マルコの福音書8:27-30
とあります。当時のある人々は、イエス様はバプテスマのヨハネだと言ったのです。すなわち、主なる神がバプテスマのヨハネをよみがえらされ、もう一度新しい使命をお与えになったのだと思ったのです。 確かにイエス様はヨハネと全く同じように、罪に対しては厳しく戦ったのですけれど、それだけではなくイエス様は、罪を赦す権威をもっておられたお方です。 また、ある人々は、エリヤだと言いました。エリヤとは、最も強い大胆な預言者でした。確かにイエス様も人間を全然恐れないで、大胆に来たるべきさばきについて、来たるべき神の国について話されたのです。けれども、イエス様こそが神の国の王、そのものです。 また、ある人々は、預言者のひとりだと言いました。すなわち、悔い改めを迫る預言者として、主なる神がイエス様を遣わされたのだと思ったのですけれども、イエス様は預言を与えたお方よりも、預言の成就そのものだったのです。 そこでイエス様は弟子たちに向かって直接尋ねたのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と。そのときペテロは弟子たちの代表者としてすかさず、「あなたは神の子キリストです。」旧約聖書で約束された救い主ですとはっきり答えました。 「あなたはメシヤであり、旧約聖書全体が約束しているそのお方にほかならない。あなたは父なる神の完全なみこころを行なうお方であり、悪魔を滅ぼして、永遠のいのちを与えてくださるお方です。あなたのために旧約聖書が書かれています。あなたこそ世の救い主であり、来たるべき王の王です。」と。 イエス様は当時の弟子たちだけではなく、われわれにも同じように聞いてくださるのではないでしょうか。「あなたは、わたしをだれだと言いますか。」と。 ほかの人が何と言うかではなく、あなた自身がこの問いに対して何と答えるかが大切です。あなたはご自分の告白として、いかなる答えをするのでしょうか。 また、これらのことを、ペテロと同じように信じたとしても、その信じたことをあなたが日々体験しているかどうかが問題です。ほかの人々があなたの日常生活を見て、主イエス様がいかなるお方であるか、おのずから分かるのでしょうか。 私はよく、ある集会の兄弟姉妹を見て、そして見た結果として、「イエス様。ありがとう。あなたさまは、すばらしい。」と思うようになり、礼拝せざるを得ません。なぜならば、兄弟姉妹はイエス様の大いなる力を表わす者、証明する者になったからです。 ペテロの告白は、単なる頭の知識ではなく、本当に上からの啓示によるものでした。 ペテロの告白は、教養や理性によっては、決して与えられないものであり、まさに上からの賜物にほかならなかったのです。 ペテロはイエス様がいかなるお方であるかを悟るに至り、イエス様を喜んだのです。 自分の思いではなく、この告白の土台はまさに、主のみわざでした。自分の思いではなく、上から与えられたものでした。 パウロも同じことを経験したのです。よく読むガラテヤ人への手紙1章12節に次のように書かれています。 ガラテヤ人への手紙1:12
イエス様は主なる神のあなたに対する啓示そのものです。「イエス様がわたしは何々である。」と言われたとき、それは単なる教えではなく、まさに主なる神の啓示そのものでした。 最後に、わたしは何々であると言われたイエス様のみことばをちょっ7つばかり、ヨハネの福音書から取り出して、考えて終わりたいと思います。 イエス様はヨハネの福音書14章1節に次のように言われました。 ヨハネの福音書14:1
「わたしを理解せよ。」と書いていない。「わたしを信じなさい。」、これこそがわれわれに対する主の命令であり、最も大切なことです。 イエス様は、「道徳的に高い生活をせよ。」、「宗教家になれ。」、「わたしの教えを勉強し、理解せよ。」と言ったのではなく、ただ、「わたしを信じなさい。」 けれど、イエス様を信ずるとはいったい何なのでしょうか。イエス様の言われた7つのみことばを通してそれを知ることができると思います。 まず第一番目。ヨハネの福音書6章の35節。イエス様の証しです。 ヨハネの福音書6:35
ここも二回も、「決して、ない。」とあります。 ヨハネの福音書6:51
いのちのパンとして、生けるパンとしてイエス様は、主なる神の贈り物をあなたに与え、永遠のいのちに至ることを心から望んでおられます。 もうすでにイエス様のみもとに来ているのでしょうか。信ずることとは、イエス様のみもとに行くことです。信ずるとは、いのちのパンを食べることです。すなわちイエス様を自分のものにすることです。それによってのみ、心の飢え渇きは完全に満たされます。 エレミヤは2,600年前にそれを経験しました。 エレミヤ書15:16
あなたの飢えと渇きは満たされているのでしょうか。満たされる秘訣は、「イエス様のみもとに行きなさい。」、「イエス様を信じなさい。」、「イエス様を食べ、自分のものにしなさい。」 第二番目。ヨハネの福音書8章の12節。ここでイエス様は、また自分自身を明らかにしてくださいました。 ヨハネの福音書8:12
イエス様は世の光として、あなたを罪のやみから明るみに出るようにと招いておられます。そしてあなたが光の中にまことのいのちを見い出すようにと呼びかけておられます。信ずるとは、この個所によると、イエス様に従うことです。 私たちはイエス様に従う者になったのでしょうか。私たちの歩みは、光の中の歩みなのでしょうか。私たちは自分の考えや動機を人に知られたくないと思うのでしょうか。私たちは本当にいのちの光を持っているのでしょうか。 ダビデは、 詩篇119:105
と告白したのであります。 またイエス様ははっきり言いました。 ヨハネの福音書3:36
意味は、永遠の滅びです。 永遠のいのちを得ることは、すばらしい事実であり恵みです。けれども提供された恵みを拒むと、永遠の滅びを経験しなくてはいけない。 第三番目のイエス様のみことばとは、 ヨハネの福音書10:9
イエス様は単なる道しるべではなく、救いに至る門そのものです。この門を通る者は、すなわちイエス様を通る者は、救われます。 ですから ヨハネの福音書6章の37節に、 ヨハネの福音書6:37
信ずることとは、イエス様を通ることです。通って入る者は、救われます。まだイエス様のみもとに来ていないならば、今日それをしたいと思わないのでしょうか。 イエス様だけが唯一の神に至る、ただひとつの門、ひとつの道です。イエス様なしに、まことの神、唯一の神に至ろうとする者は、反対に、あわれな悪魔の奴隷となってしまいます。救われることとは、イエス様によって受け入れられることです。 四番目のことばは、ヨハネの福音書14章の6節です。 ヨハネの福音書14:6
ただ、イエス様を通って行く者だけが、真理に至るのであり、永遠のいのちを見い出すのです。イエス様なしの道は、偽りの道です。今こそ心の目を開けて、比類なきお方であるイエス様を受け入れましょう。 信ずるとはいったい何なのでしょうか。このことばによると、イエス様を通して父のみもとに行くことです。 初代教会の人々はみな、確信をもって宣べ伝えたのです。すなわち、 使徒の働き4:12
と。 五番目のことばは、ヨハネの福音書11章の25節。 ヨハネの福音書11:25
人間の罪は、いのちに至る道を遮断してしまいましたが、この問題をイエス様が完全に解決してくださったゆえに、「わたしは、よみがえりであり、いのちそのものです。」と言うことができたのです。 すなわち、イエス様を信じる信仰、そしてイエス様を心から受け入れることが、私たちを主なる神に、そして真のいのちへと至らせてくれるのです。 信ずることとは、この個所によると、永遠のいのちをもつことです。死んでも生きるとは、永遠のいのちをもつことです。本当に確信をもって死ぬこととは、すごいものなのではないでしょうか。 昨日もひとりの青年に出会いまして、彼の父親は、たぶん、もう十年前でしょうか、召されたのです。 医者はもう命懸けで色々なことをやったのですけれど、彼は頼んだのです。「先生。全部やめてください。逝かせてください。行き先はもう決まっているから逝かせて。」、そういう生ける希望をもって召されたのです。全部イエス様のおかげではないでしょうか。 六番目のことばは、ヨハネの福音書10章の11節です。 ヨハネの福音書10:11
ヨハネの福音書10:14
イエス様だけが良い牧者です。そして主イエス様は、ほかのものは偽りであるゆえ、わたしを信じ、受け入れなさいと私たちひとりひとりに迫っておられるのです。 まことのいのち、完全な満たし、全き平安、本当の安全は、全てイエス様によってのみ与えられます。 信ずることとは、イエス様のものになることであり、そしてイエス様のものになった人は、イエス様ご自身を知っているのです。すなわち彼らは、イエス様の流された血の赦す力を経験することができ、全ては赦された、忘れられたと確信し、喜びの声を上げることができるのです。 イエス様を信ずることとは、本当に最も大切です。イエス様について多くのことを知ることができるかもしれないけれど、このような知識を得ることによって救われ得ません。 最後の第七番目のことばは、ヨハネの福音書15章。まず1節です。 ヨハネの福音書15:1
ヨハネの福音書15:5
本当の交わりをもって初めて、ぶどうの木は豊かな実を結ぶのです。イエス様はぶどうの木であり、私たちはその枝です。 ここで動かすことのできない事実について書かれています。 枝は木とつながっていれば上手くいくし、つながっていなければ何をやってもむなしく、役に立たないということです。 イエス様と結び付いていない人は、残る実を結ぶことはできません。 イエス様との交わりをもっている人だけが、常に実を結んでいるのです。 私たちの人生は実りのあるものなのでしょうか。もしもそうでないならば、私たちは主と結び付いていないということの証明であることを知らなくてはならないのではないでしょうか。 「わたしを信じなさい。」とイエス様は言われた。これこそがイエス様の私たちひとりひとりに対する呼びかけです。 イエス様を信ずることとは、いわゆる人間によって作られたキリスト教という宗教にはいることを意味しているのではない。 イエス様を信ずることとは、ある教会で籍を置くことでもないし、聖書知識を得ることでもないし、より良い人間になろうと努力することでもありません。 イエス様を信ずることとは、ありのままの状態で、イエス様のみもとに行くことです。そしてイエス様を受け入れた者として、イエス様に従うことです。 そしてイエス様を信ずる者は、イエス様を通る者であり、父のみもとに行く人です。そういう人々は、受け入れられ、永遠のいのちをもつ者となり、そしてイエス様ご自身を知る者となります。 イエス様を体験的に知るようになった人は、「イエス様から離れたくない。イエス様をよりよく知りたい。」と思うようになります。 イエス様にとどまること。イエス様とひとつになること。木と枝のように。これこそ主が望んでおられることであり、われわれの望むべきことです。 まとめて見ると、不安と心配からの解放とは、イエス様をいのちのパンとして、世の光として、救いに至る門として、道として、真理として、いのちとして、また、よみがえりとして、良い牧者として、まことのぶどうの木として知ることです。 このイエス様は前に読まれましたように、はっきり言われたのです。「心配してはいけません。」 パウロはローマの刑務所の中で同じことを言ったのです。思い煩ってはいけません。主は背後に導いてくださる。主は近いのです。 ペテロの手紙第I、5:7
とペテロは当時、迫害された人々を励ますために書き記したのです。 |