引用聖句:ルカの福音書1章26節-56節
天の使いがマリヤに向かって「おめでとう」と言われたのです。どうしてであるかと言いますと、主はあなたとともにいるからです。主はともにおられる、と確信できる人々こそがしあわせではないでしょうか。 結局このマリヤとは、主に用いられたのです。どうしてであるかと言いますと、用いてもらいたいと切に望んだからです。 そして彼女の心構えはどういうものであったかと言いますと、「私はたんなる卑しいはしためにすぎません。みことばどおりになるように。」 ヨセフは確かに彼女が妊娠していることを分かったとき、考えられないほど悲しくなって、がっかりしたのです。自分でそれを公にすると、彼女はただちに石で殺されます。結婚しないで子どもを産むこととは許されていなかったのです。 けれども、もうひとつの方法があったのです。それを公にしないで、黙って彼女が離れれば、彼女はあの子どもの男と結婚することができる。そういうふうに決めたのです。心の中で。 けれども天の使いは、「ヨセフ、ちょっと違います。別の男はいません。彼女こそが卑しいはしためとして、何千年も前から救い主を生むために選ばれた者です。安心して彼女と結婚しなさい。」 イエス様がお生まれになるまで、親しい関係をもっていなかった。あとで、男が少なくても四人、女は少なくても二人産まれたのです。四人の弟たちの名前はちゃんと聖書の中に出てくるし、また、女たち、と、複数になっているから、少なくても二人なのです。 結局、「おめでとう。」、と言われたのは、あなたは愛されているからです。 主に愛されているとは、理性でもってつかめない事実ですけれど、もっともすばらしい奇蹟ではないでしょうか。どうして愛されているか。結局分からない。 ヨハネの福音書3:16
ローマ人への手紙8:32
イエス様の偉大さ、すばらしさはピンと来ないし、考えられません。けれども、人間はみな考えられないほど愛されている。言い表わせないほどの賜物であるイエス様こそが、その証拠なるものです。 確かに、イエス様はどうして遣わされたのかについて考えるべきです。結局、救いを与えるためです。救い主となるためです。どうしようもない人間に変わらない喜びを、死ぬ心に平安を、生きる希望を与えるためです。 イエス様は結局、罪人を招くために、失われた人々を尋ね出して救うために来られました。もう一ヶ所、ちょっと読みましょうか。 マタイの福音書1:18-19
正しい人はいない。ひとりもいない。と聖書は言っているのです。生まれつきの正しい人ではなかったのです。 私たちと似ていた者でした。わがままだったのですけれど、彼は悔い改められる恵みにあずかるようになり、よしとされ、義と認められた。彼は正しい人であって、 マタイの福音書1:19-21
この方こそ、新しい教えを教える、と書いていません。罪から救うお方です。パウロはことばに言い表わせないほどの賜物のゆえに神に感謝すると言ったのです。この主の言い尽くせない賜物の名前のひとつの大切な名前は、インマヌエルという名前です。 インマヌエルとは、神、われらとともにいます、ということを意味します。けれども生まれながらの人は、主なる神との交わりを少しも持っていません。これこそが恐ろしい事実です。 生きておられる唯一の主なる神は、人間をどうして創造されたかと言いますと、自分の代表者として、主の利益を代表する者としてお造りになりました。 この初めての人間とは、言うまでもなく、完全でした。この世界の99%以上の人々はそれを否定しています。 初めの人間は大したものではなかった。動物らしいものだった。何億年かかって立派になったそうです。この立派なる人間について、テレビを見ても、新聞を見てもたくさん書いてあります。 結局人間は考えられないほど目くらにされています。初めての人間は今のようなものではなかったのです。毎日、創造主と話し合ったり、交わったりすることができたのです。この地上の上だったけれど天国らしいものでした。 もう雲も無かったし、苦しみも無かったし、痛みも無かったし、もう最高でした。言うまでもなくこの初めての人間は、完全でした。 「どうして分かるの?」、と聞く人もいるかもしれない。完全なる神は不完全なものを造られないからです。ですから初めての人間はみな例外なく九百何十歳になりました。 兄弟の話によると、90歳から年配になるのですって。そうすればアダムは930歳になったし、メトセラは969歳になってしまったし。将来の千年王国になると、もしかすると人間はまた900歳になる可能性が十分あるのではないでしょうか。 イエス様は支配者です。そのとき猛獣も存在していないし、そうすれば雑草も無いし、もちろん食べ物も違うし、全部違います。 初めての人間は大学の教授よりも頭が良かった。証明はすべての動物に適当な名前を与えました。 置かれている環境もやっぱりすばらしい環境でした。毎日、創造主といっしょに交わることとは。結局神の目的は初めからありました。人間とともに住みたい。人間と親しい交わりをもちたい。そういう目的でした。 もちろん造られた目的は、主の愛に応えるためでもあったし、そしてアダムとエバは、やっぱり永遠のいのちをもっていてもらいたかったのです。 創造された、造られたいのちしかなかったのです。けれど造られたいのちであっても、もちろん終わりのないいのちです。けれども、それでも主は嫌です。 アダムとエバは造られたいのちではなくて、永遠のいのちをもっていてもらいたい。もしアダムとエバはいのちの木の実を食べたならば、その時に永遠のいのちをもつようになりました。けれども、悪魔に惑わされて、取ってはいけない木の実を取って食べたのです。 主に聞いたならば、主よ、主よ、こういうふうに言われたけれどどうしましょうか。分かりません。教えてくださいという態度を取ったならば、もちろん守られたのです。 祈らないことの恐ろしさは、考えられないのではないでしょうか。人間は自分勝手に行動すると、もうおしまいです。人間はいのちの木の実を食べようとしないで、恵みの提供を退けて、悪魔の誘惑によって、わざわいなる選択をしてしまったのです。 その結果はいったい何だったでしょうか。人間と主なる神との交わりは断ち切られました。エデンの園から追放されてしまったのです。結局、人間といのちの泉である主の結び付きが断ち切られたのです。 以前は確かに、信仰と愛の交わりがありましたけれど、今は恐怖と地上での交わりになってしまったのです。人間のわがままによって悪魔との結び付きが生まれたのです。 人間は悪魔の権力の下に入れられてしまったのです。悪魔は今や人間を合法的に支配するに至りました。喜んでいたでしょう。悪魔は。 おれは勝った。神のみこころはダメになった。人間は自分の奴隷になってしまった。自分勝手な行動によって人間は主なる神から離れ、暗やみにはいりました。人間の精神は主なる神に対して目くらとなり、死んだものになってしまったのです。 聖書の言っている死とは、いわゆる肉体的な死よりも、霊的な死を問題にしているのです。 人間のわがままによって人間の霊と主なる神の霊は分かれたのです。ですから人間の霊は主なる神の導きにもはや応じようとしなくなってしまったのです。人間の霊は主なる神に対して死んだものになりました。 この状態についてパウロはエペソ人への手紙第2章に次のように書き記したのであります。 エペソ人への手紙2:1-3
かつて私はこういう者であったとパウロは言ったのです。 創造主から離れるということは、霊的な死を意味します。人間の堕罪の一番大きな結果は、霊的な死でした。なぜならば、もし新しく生まれ変わらなければ、おしまいだからです。 もちろん主は人間をちゃんと注意したのです。創世記の2章17節を見ると書かれています。 創世記2:17
3章から見ると分かります。人間は禁じられている実を取って食べてしまったのです。だから死んだのではない。もちろん、のちでも肉体的には生きていました。そののちでも人間は欲し志すことができたから、たましいももちろん生きていたのです。けれども霊的に死にました。主との交わりは不可能になってしまったのです。 霊的な死とはいったいどういうものなのでしょうか。例えば人間の目は、目の前にあるものを、もちろん見るために備えられています。けれども、この目の視神経が急にダメになれば、目があっても何にも見えなくなります。天気が良くても、景色がすばらしくても、何にも見えない。目は死んだものになったから。 つんぼの耳も同じでしょう。人が喋っても、鳥が美しく声さえずっても、すばらしいオーケストラの演奏を聴いても全く無駄。罪の耳はあらゆる音に対して死んでいます。人間は主に頼らないで行動したとき、霊的に死にました。人間は霊によって主なる神を認め、主との交わりを持っていましたけれど、霊的に死んだのです。 人間は主に対して応えなくなりました、人間はなおも、霊は持ち続けていましたけれど、主の霊、いのちの泉から離れてしまったから、その霊はいのちを持っていない。死んだものです。 確かに目くらは目をもっていますけれど、その目は見えません。同様に死んだ人間の霊は神を認めることができない。それは霊的な死です。 人間の霊は主なる神から離れると死んでしまう。これが霊的な死です。人間はイエス様との出会いによって新しく生まれれば、やっぱり違う。 昨日もここで兄弟の葬儀があったのです。彼は何ヶ月か前まで、やっぱり主なる神に対してまったく目くらでした。けれどイエス様の話を聞いたとき、どういう気持ちだったか分からないけれども、やっぱり欲しい、必要なのはそれだ。 彼は素直に祈るようになり、それから、心配から解放されたのです。前にお見舞いに行ったとき、「私の葬儀を宜しくお願いします。納骨式も御代田でやってもらいたい。本当は御代田で洗礼を受けたかったけれど、少なくとも納骨式をやってもらいたい。」と言って。 色々な問題があったのです。本当に集会でできるかどうか、悩んだり、心配したり、祈り続けた人はいっぱいいました。どうして可能になったかは分かりません。けれどもやっぱりうらやましい。「兄弟、おめでとう。」と言いたい。ここではなくて、天国でキリストとお祝いしたほうが、ずっといいのではないでしょうか。 結局、集会の人々は彼のことを何ヶ月間しか知らなかったのです。昨日の葬儀はここでいっぱいだったのです。みんな未信者。 もちろん彼らは彼のことをずっとよく知っているはずです。けれども、だからこそ彼がこういうふうに変えられたのは考えられない奇蹟です。 けれども彼もやっぱり奥さんに言ったのです。「やっぱりこの最後の何週間は一番幸せだった。」と言ったのです。これこそすごい証ではないでしょうか。 けれども、主に出会ってない人々とは結局、霊的に死んでいます。この霊的に死んでいる人々についてパウロは次のように書きました。 コリント人への手紙第I。生まれながらの人は、主の御霊の賜物を受け入れない、とあります。 コリント人への手紙第I、2:14
とあります。けれど主はご自分の御子でさえ、イエス様を遣わすことによって救いの道を開いたのです。イエス様が人間となることは、もちろん何百年、何千年前からはっきり旧約聖書の中で預言されていたのです。 イエス様は天地創造の前に、ひとつの珍しい名前をもっていました。神の小羊。結局、人間の代わりに犠牲になるお方。人間の罪の問題を解決するお方とは、人間がひとりもいなかったとき、もうすでにイエス様のもっておられた名前でした。 主なる神の人間のわがままに対する答えは、イエス様の犠牲の死でした。けれど死ぬためにイエス様はまず人間にならなければならなかったのです。 多くの人々はイエス様の誕生について考えます。けれど、どうして来られたのかについては、あんまり考えようとしません。 イエス様はどうして人間にならなくてはならなかったのかと言いますと、神として死ぬことはできないからです。イエス様が人間になることについて、初めて創世記の3章に書かれています。 創世記1章、2章、ヨハネの黙示録21章、22章は聖書の中で一番すばらしい四章です。罪と関係のない章です。けれど創世記の3章から問題が始まるのです。ヨハネの黙示録の20章までです。創世記3章15節の預言は次のようなものです。 創世記3:15
こういうふうに主なる神は、蛇、すなわち、悪魔に言いました。この女から生まれる人は特に力強い方であることが預言されています。そしてこの方は女のすえであることもはっきり書いてあります。 普通子どもが生まれる時、いつも男のすえから生まれる、とあります。けれどもイエス様の場合、ご自分の誕生のために人間的なお父さんは必要なかったのです。だから、女のすえと聖書は言っているのです。 女のすえは悪魔のかしらを砕くと預言されました。この超人は悪魔に打ち勝つ、とも約束されています。結局、三つのことをはっきり預言されたのです。 救い主が女から来る。奇跡的に生まれる。 二番目。この救い主は悪魔に打ち勝つようになる。 三番目。救いの代価は苦しみである。結局、救い主の死である、とあります。 この預言はもちろん成就されました。イエス様は預言どおり、処女から生まれました。そして十字架で悪魔に打ち勝ちました。そして救いの代価は救い主のいのちでした。 もちろん旧約聖書を見ると、イエス様が人間となることは多く預言されたのです。旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中で、一番細かく書かれているのではないかと思いますけれども、ちょっと見てみましょうか。 イザヤ書7:14
インマヌエルとは前に言いましたように、救いの神、われらとともにいる、ということを意味します。 ここでひとりの人、すなわち、主イエス様のうちにふた種類のいのちがある、とあります。主なる神、すなわち、われら人間とともにいます。主なる神は人間的な外形をとるようになる、と預言されたのです。 9章にまた次のようにイザヤは預言したのであります。 イザヤ書9:6-7
イエス様は本当に普通の名前が与えられたのです。もし普通の人間だったら決してこのような名前をもっていないはずです。 この来たるべき救い主とはどういうふうに来られるか、どういうお方であるか、と聖書が言っているだけではなく、どこで生まれるのかもはっきり書き記したのです。ミカ書の5章2節。 東の国の博士たちは当時の王さまであるヘロデのところへ行って言ったのです。ユダヤの王が生まれる。いったいどこか。そして王は聖書を読もうとしなかったでしょうし、やっぱり聖書学者たちを呼んで確かめたのです。そして彼らはみな、王さま、分かってないのですか、書いているでしょう。ベツレヘムです。みんな一度に答えたのです。 ミカ書5:2
主イエス様の生まれる場所について、はっきりこういうふうに預言されました。もちろんイエス様の誕生の何百年前に書かれたものです。 聖書を読むと、主イエス様は、人間的な外形をとった父なる神の御ひとり子であったことが、だれでもが認めざるを得ません。 堕落した人類を救うために、主イエス様が人間になることがどうしても必要だったのです。自由意思をもってイエス様は堕落した人類を救うために、この地上に来られたのです。ご自分が人間になることは、本当に考えられない犠牲でした。 確かにクリスマスの時、多くの人々はイエス様の誕生について考えます。それで結構ですけれど、クリスマスとは決してイエス様の始まりではありません。この地上に来られたことしかなかったのです。 その前に、世が造られる前、イエス様はもちろん存在しておられたのです。十字架につけられるちょっと前にイエス様は祈ったのです。 聖書の中に残されているから弟子たちも聞いたようです。何を祈ったかと言いますと、ヨハネの福音書17章の5節を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの福音書17:5
世界が存在する前に、イエス様は考えられない栄光を持っていたのです。 パウロも同じ事実について、あとでコロサイ人への手紙1章の中で書いたのです。結局、世が造られる前に、万物よりも先にイエス様は父のそばで栄光をお持ちになった、と。 コロサイ人への手紙1:16
読むことができるし、信ずることができるし、けれども理解することができません。もう考えられないことです。 結局、イエス様によってすべてが創造されたのです。このすばらしい主イエスは、自由意思をもって堕落した人類を救うために地上に来られたのです。 遣わされる前にどういうふうになるのか、おそらくイエス様もはっきりわからなかったのではないでしょうか。けれどもやっぱり大変なことになると感じたに違いありません。パウロはこの犠牲について、ピリピ人への手紙の2章に次のように書き記したのです。 ピリピ人への手紙2:6-8
結局自分を救うためにイエス様は、天国のすべての栄光を捨てたのです。イエス様にとって人間になることとは、考えられないことです。 イエス様は祈る必要がありませんでした。人間になる前。何でも知っていたし、何でもできたから。ですから助けを求める必要はありませんでした。 人間になることによって(人間は、失礼かもしれないけれど)、無力者、無能者になりました。 イエス様は、「わたしは何もできません。」と正直に言ったのです。確かに福音書を見ると、「嘘です、何でも出来たではないか。大嵐に向かって、黙れ、静まれ。」、静まりました。らい病人に向かって、「きよくなれ。」と言って、いや、出来たではないか。 けれどイエス様は、「違います、わたしのことを誤解しないでください。わたしは本当に何も出来ない。何もしたくない。わたしは大切ではなく、お父様、みこころを明らかにしてください。」 イエス様は自分勝手に行動したことがない。だから私たちは、イエス様のことは考えられません。何かあればやっぱり私たちは考えます。それから行動します。イエス様は考えるよりも祈ったのです。 「お父様。どうしたらいいのですか。動いてもいいのですか。いやしてもいいのですか。どうしましょうか。」、イエス様は絶えずこの態度を取ったのです。 何でも知っていて、何でも出来たお方にとって、考えられない犠牲でした。自分自身を無にしてくださったのは、結局イエス様です。ものすごいことでした。どうしてなのでしょうか。 コリント人への手紙第II、8章9節にその答えが書かれています。 コリント人への手紙第II、8:9
イエス様の貧しさとはどういうことであったかと言いますと、結局、「自分では何も出来ない。何もしたくない。」 イエス様は、「わたしは父から離れたら何も出来ない。何もしたくない。」、このイエス様に似た者となることこそが大切なのではないでしょうか。 ですからイエス様は、「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝です。つながっていれば、結び付けられていれば、OK。そうでなければ、全部むなしい。的外れ。」 天国の栄光をお持ちになったイエス様は、人間とともに、悪魔の奴隷とともに生活するようになったのです。 これもやっぱり苦しくて、苦しくてしょうがありませんでした。イエス様の気持ちをわかった人はいませんでした。ひとりも。 弟子たちだってイエス様は自分の十字架の死について話したとき、彼らは裏で奔走して、だれが一番偉いか。もう考えられない。 結局人間はもう自分のことしか考えられない。嘘つき。偽善者ですとイエス様は毎日経験しなければなりませんでした。 だからよく逃げたのです。ひとりで山へ上って、夜中祈られた。父と話すことができるのは、もうイエス様にとってすべてでした。 唯一の喜び。励ましだったのです。 イエス様は私たちのために本当に貧しくなった。私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためです。 もしイエス様が十字架の上に亡くなられなくても、ご自分が人間になることは考えられないほど大きな犠牲でした。イエス様はどうして人間になったのでしょうか。もちろん仕えられるためではありません。仕えられる権利をもちろんもっていたのです。 けれど、わたしは大切ではない。人間ひとりひとりは永遠に幸せになってもらいたいから、わたしはもう結構です。 マタイの福音書20章28節に、わたしが来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じですとあります。 結局イエス様は仕えるために来たのです。人間はあんまり仕えたくありません。無視されたら、あんまりいい気持ちをもっていません。イエス様は仕えるために来たのです。 どういうふうにそれが明らかになったかと言いますと、自分のいのちを贖いの代価として与えることによってです。 人間とはやっぱり仕えてもらいたい気持ちがあります。イエス様はそういう気持ちを知りません。ちょっとピンと来ないけれど、天国でイエス様は私たちに給仕する、と聖書は言っているのです。 もう考えられません。天国でもイエス様は私たちに仕えたい。天国で穴があれば、もうみんな姿を消すでしょう。恥ずかしくて。結局、そういう価値のない者です。 どうしてか、なぜか分からないけれどもイエス様は仕える者になりました。そして昨日も今日もいつまでも、そういう姿勢を取るお方とはイエス様です。 ヨハネの福音書の13章の中で、ペテロはちょっと反発したのですけれども、ほかの弟子たちももちろん同じ気持ちだったでしょう。 ヨハネの福音書13:4-5
ペテロの気持ちも分かります。「イエス様。いったい何をするおつもりですか。いや、笑い話ではないですか。イエス様、やめてください。」 イエス様はそうしたのです。普通の自由人はそれをしなかったのです。当時はお客様が来ると、やっぱりそういう習慣があったのですけれど、いつも奴隷のする仕事でした。 イエス様は喜んで奴隷の仕事をしてくださったのです。天のすべての栄光をお持ちになったイエス様は、仕える者となりました。 もう一ヶ所読みます。マタイの福音書15章。 聖書を知らない人々とは、この個所を読むとつまずきやすい。イエスとはいったいどういう方なのか、という気持ちになるのではないでしょうか。冷たいねぇ。分からない。理解できない。 マタイの福音書15:21-22
ダビデの子よ。あわれんでください。すごい祈りです。みこころにかなう祈りです。 マタイの福音書15:23
彼女は無視されたらしい。イエス様は聞く耳を持っていなかったらしい。そこで弟子たちは祈ったのです。 マタイの福音書15:23
ひどい祈りですね。 マタイの福音書15:23
イエスに頼みました。 マタイの福音書15:24-27
すごい。答えです。 主よ。あなたの言われているとおり、私は汚れた犬のような者です。大切にされなくてもいいような者です。あなたの言ったとおりです。 マタイの福音書15:27-28
もう嬉しくなったでしょう。 マタイの福音書15:28
「子どもたちのパンを取り上げ、小犬に投げてやるのはよくない。」とイエス様は言われました。 この女はユダヤ人、選ばれた民に属していなかった。カナンの女性でした。異邦人でした。そしてイエス様の話によるとユダヤ人は子どもであり、異邦人は犬のように汚れた者です。 イスラエルの民は主なる神によって選ばれた民であり、ほかの国々は異邦人であり、犬と同じような者です。 原語を見ると、もっと強いことばが使われています。「捨てられた犬。」「追い出された犬。」 もちろん聖書はイエス様が異邦人のためにも亡くなられたし、捨てられた、追い出された犬のような者のためにも、この父に乞われた代わりに死なれたのです。追い出された、捨てられた犬はもちろんだれにも属していないし、自分の家を持っていません。 けれどイエス様の生活はそういうものだったのではないでしょうか。イエス様は正直に言ったのです。 マタイの福音書8:20
乞食の乞食でした。 イエス様は殴られ、虐待され、最後に十字架につけられてしまったのです。私たちのために。 コリント人への手紙第II、5章21節とは、この一節も読みましたけれど、ピンと来ないし、分かりません。けれども天国へ行ってから必ず分かるようになります。 コリント人への手紙第II、5:21
罪を知らない方はイエス様しかいません。 神は、罪を知らない、罪を犯す可能性を持っていなかったイエス様 コリント人への手紙第II、5:21
意味は、すべての人間のすべての罪、過ちをイエス様はひとりぼっちで犯した者とされてしまいました。 もう永遠なる神ではありません。愛されている御子ではありません。罪のかたまりになりました。だからイエス様は十字架の上で地獄の地獄を経験したのでしょう。 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」、イエス様は見捨てられました。祈っても答えがありません。 この父の沈黙とは、イエス様にとって考えられない苦しみでした。けれども私たちの永遠の幸せのためだったら。わたしの思いではなく、お父様、みこころだけがなるように。イエス様はこの態度を取ったから、私たちは今日、このようにして喜ぶことができるのではないでしょうか。 イエス様は私のために死なれた、と本当に素直に信じ、受け入れる人は幸せです。幸いです。 |