引用聖句:列王記第II、13章14節-25節
ピリピ人への手紙3:4-14
今まで、何回もエリシャの生活について考えてまいりました。 彼はだいたい二千五、六百年前に主なる神によって遣わされた、福音を宣べ伝えた男でした。彼の生活を通して主なる神の力、いわゆるよみがえりの力を現わしてきたことを今まで見てきました。毎日の出来事によみがえりの力を経験したのは、このエリシャでした。 今日はエリシャの生活の終わりについて、ちょっといっしょに考えてみたいと思います。三つの出来事をいっしょに見てみましょう。 第一番目。主の救いの矢とは、主の完全な勝利を意味します。この矢は主の完全な解放と救いを象徴するものです。 第二番目。矢で地面を射ることです。これは、私たちは主の定められた目的まで前進しなければならないという、厳しい警告を意味しています。 そして第三番目。死んだ人はエリシャの骨に触れることによって生き返った。ここでよみがえりのいのちとよみがえりの力の秘訣が含まれています。 この三つの出来事は、エリシャの生活のすばらしい終わりではないでしょうか。エリシャの肉体は段々弱くなったのに、彼の精神的生活は満ちあふれたのです。エリシャの生活によって上からの力が現われました。この上の力は死より強かったのです。 ここでエリシャは、大変歳取った預言者であり、肉体は死にそうでした。けれどエリシャは失望や絶望を知らなかったのです。 イスラエルの王ヨアシュは下って来て、エリシャの顔の上に涙を流しました。死にそうなエリシャは自分で身を下ろして、王さまに「弓と矢を取りなさい。」と言いました。 王さまはエリシャの弓と矢を持って来た時、エリシャはまたイスラエルの王に「弓に手をかけなさい。」と言ったので手をかけた。すると、死にそうなエリシャでさえも自分の手を王の上に置き、そして二人とも一生懸命この弓を引きました。 この一体矢が寝台から開けた窓を通って、エリシャは、「主の救いの矢。」と叫んだのです。 この矢のうちに、よみがえりの力があったのです。ですから、この矢は、主の完全な解放と救いの象徴だったのです。 エリシャは、「シリアに対する救いの矢。」と言われました。すなわち、神の民の敵に対する救いの矢。これは悪魔に対する勝利を意味しています。ここで敵に対する勝利が問題なのです。 主のみこころはあらゆる敵に対する完全な勝利を与えることです。 主イエス様は十字架によって悪魔に完全に打ち勝ちました。そして私たち、主を信じ、受け入れた者はイエス様の完全な勝利にあずからなければいけません。これは主のみこころです。 ここでエリシャは、イスラエルの民に完全な解放を預言しています。 そして預言者が語るならば、それは主が語るのです。預言者が行なうならば、主が行なうのです。 この預言された勝利の象徴は、射った矢でした。けれどイスラエルの民の代表者である王さまの不信仰によって、この預言された勝利はすぐに成就されなかったのです。 今日でさえもイスラエルの民はまだ完全に解放されていません。しかし将来に、このイスラエルに対する預言は必ず成就されます。 けれど私たち、主に属する者にとって、この救いの矢はいったい何を意味しているのでしょうか。すなわち私たちも完全な勝利を経験すべきです。 過去におけるイエス様は、われわれの罪の債務から救ってくださったのです。現在における主イエス様は、私たちを罪の力から解放されたいと望んでおられます。未来における主イエス様は、私たちを罪の臨在から救うのです。 私たちは、赦された罪に対する平安を持っていますし、また打ち勝った罪の勝利を経験します。将来における私たちは、無くなった罪に対して栄光の日を待ちます。私たちはその時、罪を全く知らなくなります。 パウロはコリント人への手紙第I、15章26節に、ひと文章だけですけれど、 コリント人への手紙第I、15:26
とあります。最後の敵である死も滅ぼされます。 よみがえりの主イエス様は、私たちに、もうすでによみがえりのいのちを与えてくださいました。だから、最後の敵である死とは、主のからだなる教会のうちに、また、からだなる教会によって滅ぼされます。 しかし、どうして信ずる者の群れである教会のうち、また、教会によって滅ぼされるのでしょうか。なぜならば、イエス様はもうすでに死に対する勝利を得たからです。 そしてこの勝利を得た主イエス様は、今日、ご自分に属している人々のうちに住んでおられるからです。 勝利を得たかしらなる主イエス様は、今日、ご自分のからだによって、すなわち教会によって、最後の敵を滅ぼすということは、聖書にはっきりと記されています。 ちょっとエペソ人への手紙を見てみましょうか。よく知られているパウロの祈りなのです。 エペソ人への手紙1:17-23
19節、20節を見ると分かります。このよみがえりの力は、あらゆる敵の力にまさる権威を意味しています。よみがえりの力は勝利への道です。 イエス様は、すべての支配、権威、権力、権勢の「主」なのです。そして主なる神はイエス様を万物の上にかしらとして、単なる救い主として、助け手としてではなくて、かしらとして教会に与えられたのです。 この教会はキリストのからだである、と22節、23節に書いてあります。 だから、イエス様のからだである教会も、全体のよみがえりの力を経験すべきです。 私たち信ずる者は、あらゆる支配、権威、権力、権勢に対する勝利を得るべきです。 同じくエペソ人への手紙の3章の20節、21節をお読みいたします。 エペソ人への手紙3:20-21
とあります。十字架の完全な勝利を表わす道具は、イエス様のからだなる教会です。なぜならば、イエス様のからだである教会のうちに、よみがえりのいのちがあるからです。 だから私たちは今日、今日、よみがえりのいのちによって生きることを実際生活の苦しみと困難の最中に学ばなければならないのです。 これこそが多くの理解できないことの説明、また、解決ではないでしょうか。 私たちは困難の最中にイエス様のよみがえりのいのちを経験しなければいけません。ある人は思うかもしれない。 すなわち、なぜ私はいい働き場が無いのでしょうか。なぜ、もっといい両親がないのでしょうか。どうして私のうちがこんなに暗いのでしょうか。なぜ私だけに悩みが降りかかってくるのでしょうか。このような質問を持っておられるかもしれない。 イエス様は取りも直さず、あなたと親しい交わりを持ちたく思っておられるのです。 あなたが取りも直さず、イエス様のよみがえりの力を自分のものとするために、イエス様はあなたをそのような困難にお導きになったのです。 たぶんあなたはその導きを分かっていないかもしれない。 けれどイエス様はあなたを色々な苦しみ、困難、また、そのような理解しがたいことによってご自分を現わしたいので、あなたはよみがえりのいのちによって前進することができるようにそれをしてください。 高く引き上げられたかしらであるイエス様は、からだなる教会をお選びになりました。なぜなら、イエス様のからだなる教会によって、最後の敵である死を完全に滅ぼすためです。 イスラエルの王と預言者エリシャは、いっしょに矢を射ました。この矢はイスラエルのあらゆる敵に対する完全な勝利を意味していました。この矢は預言の矢でした。 イスラエルの民は、千年王国にすばらしい自由と大いなる栄光をもつようになります。 何回も言いましたように、この世で将来備わる国はイスラエルしかない。 イエス様は全人類の罪のために十字架の上に亡くなられ、三日目によみがえり、そして昇天されて、今日イエス様は、父なる神の右に座しておられます。 しかし、このイエス様こそが、われわれのうちにも生きておられます。 よみがえりのいのちとは何でしょうか。われわれの心におられる、よみがえったイエス様です。 もしこのイエス様が私たちの生活の支配者となると、私たちは主のよみがえりの偉大なる力を経験します。 コロサイにいる兄弟姉妹にパウロは次のように書いたのです。 コロサイ人への手紙1:27
信ずる者のうちにおられるキリストは、偉大なる力を意味しています。私たちのうちにおられるイエス様は、毎日の生活における勝利の秘訣です。 エリヤとエリシャの関係は、主イエス様とまことの教会の間を表わしています。 エリヤは昇天し、エリシャは二つの分の霊を受けました。主イエス様は昇天し、弟子たちは満ちあふれる聖霊を受けました。 エリシャは新約聖書のキリストに属する人々を旧約聖書で表わしています。エリシャはよみがえりの力で働きましたし、新約時代の主イエス様に属する兄弟姉妹も同じく、よみがえりの力で生きるべきです。 列王記第II、13:14
とあります。 これはとっても面白いところです。なぜなら、同じことばがエリシャに言われたのですから。 列王記第II、2:12
どうしてエリヤとエリシャについて同じことばが言われたのでしょうか。二人の預言者たちは同じことを経験したからです。 ちょっとだけ見ると、大きな差があったのです。すなわちエリヤは携挙を経験し、死をみないでそのままで天に引き上げられたのですけれど、エリシャは普通の死に方をしました。しかし、精神的にエリシャも携挙の経験をもっていました。 エリシャも上からの力によって、よみがえりの力によって死に打ち勝ちました。 例えば、やもめの息子を生き返らせ、預言者のともがらの学校で、ある日、野菜を料理しました。しかし毒物だったのです。すなわち、釜の中を食べると、死ぬものがありましたが、エリシャによって毒物は全部無くなりました。 また、死にそうならい病のナアマンはいやされました。一言で言えば、エリシャは毎日の出来事によみがえりのちからを現わしてきました。 このよみがえりの力は、死より強かったのです。死より強い力はよみがえりを意味しています。だからエリシャも精神的にはエリヤと同じ経験をもっていたのです。 パウロの生活を見ても同じことが言えるのではないでしょうか。 パウロの一番初めて書いた手紙は、テサロニケ人への手紙第Iでした。この手紙の第4章の15節に、 テサロニケ人への手紙第I、4:15
パウロは自分でイエス様の来臨を経験するということを期待していたのです。 けれどパウロは自分の生活の終わりに、テモテに次のことばを書いたのです。テモテへの手紙第II。彼の一番最後に書かれた手紙なのですけれど。 結局彼は将来のことも分かったし、信じたのです。 テモテへの手紙第II、4:6-8
この個所を読むと分かります。すなわちパウロは、主の再臨を経験することができない。自分の死に方もよく知っていました。 すぐあとで彼はネロという皇帝によって殺されてしまったのです。殉教の死を遂げるようになりました。 けれどもパウロはエリシャと同じように、よみがえりの力を経験して、精神的には携挙を体験したのです。 パウロの死は敗北ではなく、死に対する勝利でした。パウロの死は栄光に満ちたものでした。 イエス様の名のためにパウロの首は切られたと言われています。けれどもパウロは完全な信頼と完全な勝利をもっていました。パウロはよみがえりの力を経験しました。毎日の出来事によみがえりの力を表わしてきました。 この秘密は何だったのでしょうか。パウロは大喜びで次のように言うことができたのです。信ずる者にとって最も大切な個所のひとつでしょう。 ガラテヤ人への手紙2:20
「イエス様は私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった。」とパウロは主の恵みをほめたたえながら、証ししたのです。 もしイエス様が人のうちに生きていると、これはよみがえりの力を意味しています。 二番目の点です。矢で地面を射ることです。 これは、私たちは主の定められた目的まで前進しなければならないという、厳しい警告を意味しています。前に読みました、列王記第IIの13章18節。もう一回読みます。 列王記第II、13:18-19
寝台から開けた窓を通った一つの矢は、十分ではなかったのです。預言者エリシャは怒りました。死にそうな預言者は王さまより力強かったのです。 エリシャは王に、「あなたはどうしてやめたのか。どうして終わりまでいかないのか。」、「どうして主の完全なみこころにかなった生活をしないのか。どうして最後まで前進しないのか。そしてこの結果は、あなたはシリアを打ち破り、それを滅ぼし尽くすことができたであろう。しかしあなたはそうしなかったので、シリアを打ち破ることはただ三度だけである。」と。 不信仰のゆえにシリアを打ち破ることは、ただ三度だけであろう。これは厳しい警告を意味しています。私たちは主の定められた目的まで前進するかどうか問題です。 ヨシュア記の13章の1節。短い文章なのですけれど、次のように書かれています。 ヨシュア記13:1
結局、「今から。」 また、歴代誌第IIの25章の9節。ひと文章だけですけれど。 歴代誌第II、25:9
主はできる。もし私たちが不信仰によって妨げ者にならなければ。 もう一個所。 詩篇81:10
これは主の呼びかけであり、主の切なる願いです。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」 イエス様に属する兄弟姉妹はみな、自分の罪の悔い改めとイエス様を信ずることによってどんな信者でも永遠のいのちを得ています。けれど回心、すなわち新しく生まれることは終わりではなく、初めです。「初め」だけです。 もし回心が終わりであるならば、あのパウロの力を入れた書簡はわれわれに必要ではありません。私たちは使徒たちの厳しい警告に耳を傾ける必要はない。もしそうならパウロは祈りの中で戦わなくてもよかったはずです。実際にそうではない。 だからパウロは、ピリピ人への手紙の3章の10節、11節をもう一回読みます。パウロの心の奥底を、パウロの目指す目的について書かれています。 ピリピ人への手紙3:10-11
パウロの目的というのは、死者の中からの復活に達したいというものでした。死人のうちからの復活と、死人の復活とは同じではないのです。 ギリシャ語では死人の復活とは、ただアナスタシスとなります。けれども、死人のうちからの復活とは、エクスアナスタシスとなっているのです。これは全く別々のものです。 回心を経験した者は必ず死人のよみがえりを経験します。この死人の復活のうちに、信者たちみんなが含まれています。永遠のいのちを持っている者は、必ず死者の復活を経験します。イエス様ご自身がこれを言われました。 ヨハネの福音書6:40
結局、わたしを見て ヨハネの福音書6:40
そして有名なテサロニケ人への手紙第Iの4章16節、17節。いわゆる空中再臨について次のように書かれています。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-17
このキリストにある死者と、この私たちは、人はみな熱心な兄弟姉妹ばかりであるというようなことは書いてないのです。 救いの土台はイエス様ご自身です。だから主の救いにあずかった者は、みな死人の復活を経験します。イエス様、すなわち自分の救い主として受け入れることは、本当にすばらしいことです。けれどこれは土台だけです。 この土台の上に立てる金、銀、宝石、木、草、藁の間には、大変な違いがあります。金、銀、宝石は燃えません。しかし、木、草、藁はたちどころに燃えてしまいます。コリント人への手紙第Iの3章ですけれども、パウロはこのことについて次のように書いたのであります。 コリント人への手紙第I、3:14-15
原語を見ると、「救われます」、となっているのです。 パウロの目的は、死者のうちからの復活でした。キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死の様と等しくなり、何とかして死人のうちからの復活に達したいのである、とパウロは書いたのです。 この目的を達するためにパウロは全生涯を主にささげたのです。永遠のいのちは贈り物としてもらうものです。人間の努力は必要ではありません。 同じように死人の復活も贈り物です。永遠のいのちを得た人は必ず死人の復活を経験します。しかし、死者のうちからの復活は「報い」なのであり、全生涯を主にささげた兄弟姉妹だけがもらうものです。 もし聖霊がわれわれの毎日の生活で考え、感じ、志すことを支配したら幸いです。そうなって初めて私たちはイエス様とともに御座にあずかり、支配者となることができるのです。 そうなって初めて私たちは報いとして冠を得、死人のうちからの復活を経験することができます。 この死者のうちからの復活を経験することができるために、この目的を達するためにパウロは追い求めたのです。もう一回、ピリピ人への手紙3章に戻りまして、3章の11節から。 ピリピ人への手紙3:11-14
これはパウロの目的でした。われわれの目的、われわれの態度はどうでしょうか。私たちはイスラエルの王と同じように、途中でやめるのでしょうか。 預言者エリシャは怒りました。「あなたはどうしてやめたのですか。」 どうして終わりまでできないのでしょうか。どうして主のみこころにかなった生活をしないのでしょうか。どうして最後まで前進しないのでしょうか。 私たちは永遠のために働くのでしょうか。悪魔の仕事はわれわれの目をくらませることです。けれど私たちは永遠のためにいきましょう。 毎日、一生懸命働くのは当たり前です。主に従う者は怠け者ではありません。けれどどういう動機で、どういう目的をもって働くのかが問題です。 コロサイ人への手紙3章23節を見ると、パウロは当時の主の恵みによって救われた人々に次のように書いたのです。 コロサイ人への手紙3:23
主に対して、心からしなさい。似ている個所なのですけれども、少し前になります。 コリント人への手紙第I、10:31
そうしたら初めてわれわれの仕事は永遠に残るのです。 私は何年か前に、ある若者のグループを見たのです。高校生だったでしょう。この学生たちはもう野蛮人のように、神社の階段を上ったり下りたりしたのです。少なくとも20分の間だったのです。 この結果は過度の疲労だけでした。たぶん運動会のためにかもしれない。 そしてオリンピック競技のために人間はもう何年間も必死になって一生懸命練習して、最も都合の良い場合にはメダルをもらうわけです。 ヘルシンキのオリンピックの跳馬競技である女性がメダルをもらいました。その女は前に中気でした。 しかし力を尽くして一生懸命、何年間か練習しました。オリンピック競技でさえも彼女は自分で馬に乗る、また馬から降りることができなかったのです。 けれど見事に優勝しました。パウロはそういうことを思ったのではないでしょうか。 コリント人への手紙第I、9:25
主は私たちに、取るべき地はなお多く残っていると言っておられます。パウロは同じようなことを言っています。 すなわち、何とかして死者のうちからの復活に達したいのである。私がすでにそれを得たとかいうのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのです、と。 私たちは昔の王と同じようにやめようと思うのでしょうか。それともイエス様はもっともっと与えてくださることを確信しているのでしょうか。主の永遠に定められた目的が問題です。 これは散歩ではなく戦い。または競技です。競技をする者はリュックサックを背負っていませんし、重い靴を履いていません。 死者のうちからの復活に達したい者は、妨げになるものを全部捨てなければならない。 コリント人への手紙第Iの15章の41節、42節をお読みいたします。 コリント人への手紙第I、15:41-42
とあります。 イエス様によって受け入れられた人々はみな、死者の復活を経験します。そして、イエス様がはっきり、「わたしはその人たちを終わりの日によみがえらせます。」、と約束されたのです。 けれど、日と月と星との間に差があると同じように、死者の復活もまた同様である、とここで書かれています。 私たちは太陽の栄光がほしいのでしょうか。イエス様の栄光をほしいのでしょうか。主の定められた目的を達したいのでしょうか。 パウロは、「何とかして死者のうちからの復活に達したい。」、と言いまた、「私はキリストとともに十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」、と。 イスラエルの人々はみな主の民に属していました。新約聖書で言えば、みな救いにあずかった者だったのですけれど、彼らは不信仰によって荒野で死んでしまったのです。 多くの救われた兄弟姉妹は、火の中をくぐって来た者のように救われるでしょう。すなわち、残る実は少しもいないでしょう。なぜなら彼らは永遠のために働かなかったからです。 「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになる。」、とあります。エリシャはイスラエルの王に怒りました。なぜなら王さまは目的を達する前に止めたのだから。 もし私たちが主の永遠からの定められた目的まで前進しなければ、決して主に喜ばれることはできません。主の定められた目的まで前進しないことは、結局罪です。 初代教会の心からの願いとはどういうものだったのでしょうか。 コリント人への手紙第II、5:9
私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。 コロサイ人への手紙の中で似ている個所があります。「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加わえられますように。」と。 死んだ人はエリシャの骨に触れることによって、生き返ったと前に読まれました個所を見て分かります。ここでよみがえりの力、よみがえりのいのちの秘訣が含まれています。もう一回読みましょうか。 列王記第II、13:20
葬儀はもう終わってしまった。 列王記第II、13:20-21
とあります。 エリシャの骨に触れることによって生き返った人の経験は、われわれも経験しなければならないのです。この人は死んでしまいましたが、生き返ったのです。 放蕩息子に対しても同じことが言われています。このあなたの弟は死んでいたのに、生き返った、と。 人間の種類はただ二つあります。人間はたましいとからだが生きていますから、生きているように見える。けれど主なる神が人間を眺めた場合、人間はただ二つの種類、すなわち生きている者と死んでいる者の二つに分けています。私たちもこの二つの種類のうちのどちらかに属しているわけです。 主から見れば私たちは生きているか、死んでいるかのどちらかです。私たちは道を歩いている人を見て、あ、この人は確かに生きていると言います。私たちはそれを見て、その人のからだが生きていることを考えるのです。 その人は肉体的ないのちをもっていますけれど、その人の精神は死んでいるかもしれない。もし死んでいるなら、また生まれ変わっていないならば、主の目から見ると、その人は死んでいるのです。 次に、ある事務所で熱心に働いている商人を見てみましょうか。私はこの人こそは確かに生きていると言います。けれど私たちはただその人のたましいのいのちが働いていることだけを考えています。 すなわちその商人は考えること、感ずること、欲することができます。けれど主なる神の判断は全く違う。 主は、その商人は死んでいると言われるかもしれない。結局私たちは限りあるいのちについて話しますが、主は永遠のいのちについて話されます。 また、私たちは今度、イエス様を信じていて、死んだ人の葬式に参加します。その兄弟姉妹の屍を見ます。その時私たちはこの人は死んでいると言うかもしれない。 すなわち私たちはその人の肉体の死を考えているのです。その人はもはや考えることもできないし、動くこともできません。けれど主なる神は、この人は生きている、と言われます。主の言われることが当然です。 すなわち、亡くなった信ずる者の精神は生きている。永遠のいのちを受け、生まれ変わっていたのだからです。 ですからたとえ肉体は死んだとしても、実際には生きているのです。なぜならその人は罪や死によって侵されることのないいのちを持っているからです。そのいのちこそは主イエス様にあるいのちです。 霊的な死とは何でしょうか。霊的な死とは、生まれながらのいのちをもつことです。 主なる神の救いの道は、主イエス様といっしょになることです。イエス様と交際することです。ですからイエス様に言いましょう。「イエス様。あなたはいのちですか。そうなら私に永遠のいのちを与えてください。」 イエス様は「わたしのところにすぐ来なさい。たとえあなたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。」と言われます。 罪から自由になりたいと思いますか。 罪の縄目からすばらしい自由を得ることができる、と主は約束しておられます。イエス様は罪から完全に救い、自分の要求を完全に満たす力を持っておられるお方です。 よみがえりの力にいたる道とはどこにあるのでしょうか。いかにして私たちは主のよみがえりの力を経験することができるのでしょうか。イエス様の死と死の様と等しくなることによって、とパウロは説明しています。 イエス様の死の様と等しくなることは、よみがりの力の秘密です。ここで死んだ人はエリシャの骨に触れることによって生き返りました。 この人はエリシャの死の様と等しくなることによって生き返ったのです。よみがえりの力を経験したのです。その人は結局、ピリピ人への手紙3章10節を経験しました。すなわち、 ピリピ人への手紙3:10
ということを経験したのです。 イエス様の死の様と等しくなることは、よみがえりの力の秘訣です。これこそが覚えるべきことではないでしょうか。 イエス様の死は、普通の死ではなかったのです。ヘブル人への手紙の2章14節によると、イエス様は死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼした、とあります。 イエス様はご自分の犠牲の死によって死を滅ぼして、そして死の力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼしたのです。 私たち信ずる者は罪を取り除かれたばかりでなく、私たち自身も取り除かれたのです。私たちは主とともに十字架につけられたのです。パウロの告白とは本当に大切です。 「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きているのである。」 これは信ずる者にとって聖書の中で最も大切なことばではないでしょうか。御霊の呼びかけとは次のようなものでしょう。 「十字架を見よ。主イエスは汝の罪のみならず、汝の古き人とともに十字架につけられたことを知れ。且つ、汝の古き人、キリストとともに墓に葬られたことを知れ。見よ。 また主イエスのみ墓からよみがえられたことを知れ。汝は主イエスの勝利とよみがえりのいのちを汝のうちに受けようとしないのか。」 この御霊、聖霊の声に対する私たちの答えはいかがなものなのでしょうか。私たちは、「はい、よみがえりの力が私のうちに支配してもらいたい。」と願っているのでしょうか。 もしそうであればよみがえりのいのちの支配、力、自由を与えられるのです。 パウロは力、知恵、人気、権威、威厳などを持っていましたが、けれども彼は決心しました。前に読まれた個所です。 ピリピ人への手紙3:7-8
ピリピ人への手紙3:10-11
ヨハネの黙示録の中で、 ヨハネの黙示録3:21
とあります。すごい、すばらしい約束です。 主イエス様は人間ひとりひとりを用いようと望んでおられます。大切なのは、主をパウロのように大切にすることではないでしょうか。 自分のものは主の働きの妨げとなる。自分の最大の敵はもちろん自分の自我です。みことばは言っています。 「権力によらず、能力によらず、ほかの方法や道にもよらず、人間の計画にもよらず、わたしの霊によって。」と。私たちに、主に従えば主は豊かに祝福して、導いてくださるのです。 |