引用聖句:マタイの福音書22章32節-40節
読み続けても良かったけどね。これは面白い集会かもしれない。聖書だけ読んで終わり。神のことばでしょ。人間がしゃべっている言葉よりも、大切なのではないでしょうか。 もちろんどういう気持ちで読むのかが問題ですね。「主よ。語ってください、しもべは聞いております。」という心構えで読めば、非常にすばらしい。 人間に与えられている最高の宝物は、間違いなく聖書です。ヨシュアに与えられた約束をちょっと読みます。 申命記31:7-8
もちろんこのことばは、ヨシュアに与えられたことばだけじゃなくて、我々一人ひとりに与えられていることばです。それを読むともう嬉しくなる。もう心配する必要はない。主が先に進まれるから。 この主は「恐れてはならない。おののいてはならない。」と言っておられます。 もう一箇所読みます。ヨナタンに言われたことばです。 サムエル記第I、14:6
すばらしい約束なのではないでしょうか。 主がお救いになるのに妨げとなるものは何もありません。家族の救い、もちろん知り合いの救いも含まれています。家族の救いこそが、主にとってすべてであります。 歴代誌第II、20:17
歴代誌第II、20:20
歴代誌第II、20:21
後ろではないのです、 歴代誌第II、20:21
ドイツの聖書は、恵みと書いてないのです。愛と書いています。同じようなものです。その愛はとこしえまで。 歴代誌第II、20:22
一番大切なのはいったい何なのでしょうか。言うまでもなく、一番大切なことを知ること、また一番大切なことをすることなのではないでしょうか。 今、読んでもらいましたように、ある聖書学者たちは、イエス様に尋ねたのです。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」、イエス様の答えは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」 大切なのは何でしょうか。イエス様の答えは「あなたの神、主を愛せよ。」これは聖書全体の一番大切な戒めです。当時の群衆は、イエス様の話を聞いて、そして驚いたと書いてあります。 けど、イエス様は何かを教えようとしなかったでしょ。イエス様は道しるべではなく、道そのものであるから。イエス様は、真理について語ったよりも、真理そのものであられるから、自分自身を明らかにしようと望んだのです。イエス様の教えたことは、ですから一つの教えよりも、一つの呼びかけです。 皆、暗記している呼びかけとは、マタイの福音書11章28節でしょう。「すべて疲れた人、重荷を負っている人、寂しく孤独になった人は、」、しっかりしなさいなのではなく、「わたしのところに来なさい。」、おいで、待っているよ。 イエス様のところへ行くと、愛されていることを知り、解放され、大いに喜ぶようになるに違いない。主なる神は、人間がご自身を愛することを望んでおられる。 ちょっと不思議なことではないでしょうか。これはすばらしい人間の使命そのものです。 人間には、主なる神と愛の関係を持つことが許されています。人間以外の被造物、たとえば数えられない多くの天使たちからは、主は別に愛を要求なさいません。ただ服従だけ要求されていますが、人間からはそれ以上のものをお求めになるのです。 すなわち、主は我々に愛されることを望んでおられます。確かに不思議です。「あなたの神である主を愛せよ。」、これは最大のそして一番大切な戒めです。 主なる神は、我々の二心なき愛を求めておられます。主は、真心からの愛を望んでおられます。 ですから主は、私たちが愛しても愛さなくてもかまわないという具合には、私たちを自由勝手になさることはなさいません。愛することを命令しておられます。 どうしてでしょう。なぜならば、人間は、ただその時にのみ、人生の満たし、完全な喜び、真の自由を満たすことができるからです。 本当の愛は、主からのものです。主なる神なき本当の愛は、存在していません。真の愛と主なる神には、不可分のものです。主なる神は、愛そのものです。聖書は、神が愛を製造するとか、神が愛を送るとか言っていません。神は愛をお示しになりました。 ヨハネの手紙第I、3:16
主は、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。聖書の中心なるテーマとはそれなのです。 聖書の中でよく出てくるサウロという男は、確かに長い間、イエス様を憎み、信じる者を迫害しました。いかなる人も、彼を間違った道から引き戻すように納得させることは、もちろんできませんでした。 彼は、どのようにしてイエス様を信じるようになり、イエス様を命がけで紹介する者になったのでしょうか。そのことを彼は、一つの文章で短く語っています。 ガラテヤ人への手紙2:20
キリストと言ったのです。彼は、何を瞬間的に解かったかと言いますと、十字架につけられたキリストは犯罪人ではなく、詐欺師でもなく、嘘つきでもなかった。なぜなら、復活なさり、今もなお生きておられるから。 生ける神は、確かに人間になりました。生ける真の神は、人間一人ひとりが受けなければならない罰を、ご自身の身に受けてくださった。主なる神は、ご自身で我々の救いのために身代金を支払う備えをしたと。 この愛は、当時のサウロ、後のパウロを圧倒しました。この愛は、彼の人生を根底から変えられました。彼は、全く違う人間になりました。すなわちこの愛は、パウロを迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求しました。 十字架は、何を語っているのでしょうか。「わたしは、あなたの創造主であり、またあなたの救い主でもある。愛そのものである。わたしは、自分自身を犠牲にし、苦しみの人、悲しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を払った。」と。 生ける真の神が、愛そのものであり、ご自身を捧げてくださったゆえに、主は愛されることを要求しておられるのです。 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」これが大切な第一の戒めです。けど、正直な人は皆、解かるでしょう。すなわち、自分の力では主の律法を、主の戒めを守ろうと思ってもうまく行かないと。 イエス様の御許に近づき、言うべきです。「私は、守りたい。しかし無理。できません。敗北者です。あなたが助けてくださらなければ、全く不可能です。私の内には何一つ良いものが宿っていません。」 自分の力によっては、全く自己中心的な生活を送ることしかできません。自分が降参することを公にすることは、普通の人間にとって最もいやなことなのではないでしょうか。 すべての宗教は、はるかに受け入れられやすいものです。というのはすべての宗教は、人間を中心に置き、人間が努力することを要求するからです。けれど生ける真の神は、人間が自分のダメな状態を認め、降参することを公にし、砕かれることを望んでおられます。 イエス様を愛する者は、イエス様を中心に据えたいと願います。イエス様を愛さない人は、自分が中心にないたいと思っています。 バプテスマのヨハネは、イエス様を愛した男でした。彼は「イエス様は盛んになり、私は衰えるべきである。」と告白したのであります。 イエス様に対する愛なしに、何かをすることは、肉的行動することを意味します。そして肉からは、何も良いものは出てきません。 一つのことは明らかです。すなわち人間は、全く堕落してしまった者、また自分のことだけしか考えられない者、そして自分の力でもって、主を愛することはできません。しかし、自分の債務を告白し、自分の無力さを、もはや隠さず、ありのままの状態で主の御許に来る者は、次のことを経験します。 すなわちイエス様は、ご自身の御許に来るすべての人を、喜んで受け入れてくださるということ。またイエス様は、主に告白されるすべての債務を赦してくださるということ、そしてイエス様が、内側から新しくしてくださるということです。 人生の空しさ、罪の泥沼から解放されたダビデという王様は、主を愛した人でした。次のように告白しました。詩篇18篇、よく読む箇所です。 詩篇18:1-2
どうしてダビデは、主を愛したのでしょうか。なぜなら、彼の多くの罪を赦していただいたからです。 彼は結局、赦されたと確信した時、主を愛せざるを得なくなっただけじゃなくて、心から礼拝する者となりました。 惨めさから脱出する道は、ただ一つ。箴言、ダビデの息子であるソロモン王は、次のように書いたのです。聖書全体の言っていることはそれでしょうね。 箴言28:13
聖書全体の言わんとしていることは、それなのではないでしょうか。 もう一箇所読んで終わります。 ヨハネの手紙第I、1:9
ヨハネの手紙第I、1:7
ダビデは、この道を行く覚悟をしました。そして、もちろん後悔しなかったのです。 |