引用聖句:ルカの福音書9章57節-62節
今日の話のテーマは「2種類のイエス様の呼びかけ」です。 1つの呼びかけとは、救われるために神の子となるための呼びかけです。我々の人生にとって、一体何が必要なのでしょうか。一番大切なことは、神の子となることです。そのために何が必要なのでしょうか。 まず第一に、自分の救われなければならないという必要性を感じ知ることです。それから第2に、人間的な努力は空しいということを知ることです。すなわち、自分も他人も宗教も、決して自分自身を救うことはできないということを知ることです。 すべての人間的な努力は、見込みなく望みないものです。聖書の救いとは、いったい何なんでしょうか。聖書の救いとは、もちろん罪の問題の解決です。救われた人は、自分の過ち、わがままが赦されていると確信できる人です。 罪のゆえに聖なる神の怒りのもとにある人間は、主と平和を持ち債務が支払われ、罪が赦され永遠のいのちを持つと聖書は言っているのです。けれどこれは人間や宗教によってじゃなくて、今日も生きておられ、我々の真ん中に臨在しておられるイエス様によってのみ与えられます。 なぜならばイエス様は、罪に対する聖なる神の裁きの的になられ、ご自身の聖い尊い血によって、債務を支払い罪を赦してくださるからです。この真理の事実を心で受け入れ信じる者は、主の平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができるのです。 すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することができません。どうしても救ってくださる解放してくださる救い主が必要であると、告白する状態に至らなければならないのではないでしょうか。 「主よ。私は今、罪人としてあなた様の御許にまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝いたします。」このようにイエス様に向かい言うことのできる人は幸いです。 このようにイエス様は望んでおられるから「おいで、ありのままでわたしの所に来なさい。」と呼びかけておられます。 もう一回まとめましょう。創造主なる神の子供となるためには、2つのことが必要です。第1は、主なる神の言われることを認めることが必要です。そして第2に、主を受け入れることです。けれど主は、いったい何を言っておられるのでしょうか。 主は絶対に癒されない罪の病、それは全く改善の望みがないと言っておられます。けれどもイエス様は、我々の身代わりになってくださいました。 そしてイエス様が成してくださった事は、本当に充分です。 そして第2は、イエス様を受け入れることです。 聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章17節の後半にあります。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」、ここでいのちの水とは、イエス様による救いの贈り物に他ならない。 ここにほしい者は受けるがよいとしるされていますが、人間が本当に欲しがっているかどうかが問題なのではないでしょうか。 欲すればそれを受けるに違いない。けれど、欲しいと思わなければ、将来は真っ暗闇です。 イエス様は永遠のいのちを与えるために決して強制するようなことはなさいません。欲しい者は受けると約束されています。受ける者は持つのです。 すなわちその人は、神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子供とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。 主の呼びかけとは、ただ主の子供となるための呼びかけだけではなく、主に従う、すなわち主の弟子となるための呼びかけです。 「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とイエス様は言われました。このイエス様の呼びかけとは、いったい何を意味しているのでしょうかね。 このイエス様の呼びかけとは、信じる者のために非常に大切な呼びかけです。 意味は、救われるために救われたのではない。仕えるために救われたからです。 救われていることは、まだ救われていない人々をも救いたいという思いを持つことです。まだ救われていない人々を救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は疑わしいものです。 イエス様は、救いを受け入れるように重荷をおろしてあげようと呼びかけられた後で、ご自分に仕えるようにとも呼びかけておられるのです。 けれどイエス様に仕えるということは、イエス様に従っていくとは、どういうことなのでしょうか。主について行くとは、まず、自分自身を否定すること。自分自身を捨てることを意味しています。 また、主についていくこととは、第2番目、自分自身を憎むことを意味しているのです。自分を憎むこととは、自分自身に対して信用を置かないということがどうしても必要です。自信に満ちた態度が、ダメにならないと主に従うことはできません。イエス様なしには、一歩も進むことができないというふうにならなければなりません。 すべてのことにおいて、「私の思いではなく、主の御旨が行なわれますように。」という思いをもって行動しなければならないのです。自分の思いを捨てて、主の御心だけを大切にすることがどうしても必要です。イエス様に従うことは、毎日自分の意思と思いとをイエス様に明け渡すことを意味します。 イエス様についていくこととは、3番目、すべてを捨ておくことをも意味しているのです。 ルカの福音書5:27-28
このレビは後で違う名前を持つようになったのです。マタイの福音書を書いた男です。 マルコの福音書10:28-30
絶対に損しない。後悔しない。イエス様の弟子たちは、確かにすべてを捨てました。 マタイの福音書4:19-20
マルコの福音書2:14
ルカの福音書5:27-28
外面的にはイエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや人を捨てることを意味しました。 マタイの福音書19:21
マルコの福音書1:18-20
ルカの福音書5章28節では、「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」とあります。今まで大切にしたものは、急に大切ではなくなった。もっと大切なことがあると解かりました。 今日のイエス様の弟子も、当時と同じようにすべてを捨てて、イエス様に従う決意を常に持っていなければならないのではないでしょうか。少なくても内面的には、そのような態度がどうしても必要です。 イエス様の当時は、多くの人々は確かにイエス様に従いました。福音書を見ると何回も同じことが出てきます。 マタイの福音書4:25
マルコの福音書3:7
マルコの福音書5:24
イエス様は、これらの群衆に対して多くの御業と奇跡とを行ないました。 けれど彼らは、本当にイエス様に従って行く心の備えがまだ充分には出来ていなかったようです。 ルカの福音書9:57-58
本当の意味でのホームレスなのはイエス様でした。 ルカの福音書9:59
父は死ぬまで面倒みなくちゃいけないから。 ルカの福音書9:60-62
イエス様は、確かに大変なことを言われた。 ヨハネの福音書6:60
ヨハネの福音書6:66
大部分でしょう、 ヨハネの福音書6:60
イエス様について行くとは、今話したように 第1番目、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味します。 第2番目、自分自身を憎むことを意味します。 第3番目、すべてを捨ておくことです。 「わたしに従ってきなさい。」すると彼は一切を捨てて、立ち上がりイエスに従っていった。レビは一切を捨てて、立ち上がりイエスに従っていったのです。 もちろんペテロは後で同じことを告白しました。 マルコの福音書10:28-30
イエス様の弟子たちは、確かにすべてを捨てました。彼らは網を捨てて、自分の職業を放棄しました。彼らは、父親一人を残して家族からも離れました。イエス様に従おうとする者は、結局すべてを捨てる覚悟ができていることが必要です。 このマルコの福音書10章30節に迫害という言葉が使われています。 事実イエス様に従うことは、散歩ではなく、戦いです。自分の考え、感情あるいは意思を否定するということは、決して簡単なことではありません。しかしながら、注意したいことは、ここで弟子たちがすべてを捨ておいたことが、決して大きな苦しみや犠牲に終わったのではない。むしろその百倍を受けることができたということです。 倍受けるのはすごいけれど、百倍だったらちょっと想像できない祝福なのではないでしょうか。もしもペテロが100%イエス様に従わなかったなら、彼の姑は決して癒されないで死んだでしょう。 表面的には、家族を捨てたように見えますが、実際には反対に得たのです。 イエス様のために捨てる者は決して損しません。今この世においても、大きな利益を受けることができ、しかも死んでからは、大いなる報いを受けるとしるされています。 パウロはそれを経験したから証しました。すばらしい証しです。彼は、イエス様だけしか拝むべきお方ではないから、刑務所に入れられるようになりました。 そして、刑務所の中で大変なことになった、後悔したのではない、喜びに満たされて告白しましたね。 ピリピ人への手紙3:7-8
だからイエス様は言いました。「そういうわけで、あなたがたは誰でも、自分の財産全部を捨てないではわたしの弟子になることはできない。」 絶対的な放棄こそ、主に従うことの土台です。 そのためにすべてのものから離れるという断固たる態度を、また決断が必要です。すべてのものを捨てて、主に従うとその結果、おのずから前よりもはるかに多くのものを得るようになります。 イエス様について行くこととは、今話したように、まず自分自身を否定すること、自分自信を捨てることを意味します。 イエス様について行くこととは、第2番目、自分自身を憎むことを意味します。イエス様について行くこととは、第3番目、すべてを捨ておくことです。 第4番目、イエス様について行くこととは、主のことばに留まることです。イエス様は、言われました。 ヨハネの福音書8:31
ヨハネの福音書15:8
イエス様に従うということは、多くの実を結ぶために主のことばに留まるということです。主のことばに留まるということは、主のことばをそのまま、主のことばそのものとして受け取ることを意味します。 聖書は、実際生活および信仰の実際問題に対して、最高の権威を持つべきものです。そのように絶対的な権威を持ったものとして、主のことばを認める者は、主のことばに留まるのみならず、主ご自身の内にとどまっているのです。 すなわちイエス様につながっており、より頼んでいる者です。そしてイエス様とつながって、イエス様により頼んでいると、おのずから実を結ぶ結果になります。 イエス様に従う者は、おのずから実を結ぶのです。すなわち我々の小さな奉仕を通して、多くの人々が救われるのです。 もちろんそのことを通して、多くの人が救われないとしたならば、私たちが本当に主に従っているかどうか、疑わしいと言えましょう。 イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味します。 イエス様は、自分のものについて次のように言われました。有名なヨハネの福音書10章4節「羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」 羊は、確かに愚かなものです。どうしようもないものです。けれどもどんなに愚かな羊でさえも、羊飼についていくんです。イエス様はそう言われました。 ヨハネの福音書10:27
イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではありません。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがない。けれどイエス様の声に聞き従わない者は、闇の中をさまようのです。そしていつも波のように揺れ動いて、定まることがないということです。 イエス様の弟子とされることの必要不可欠な状況は、徹頭徹尾主に信頼し、すべてを明け渡す献身です。 「主よ。主よ。」と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ主の御心を行なう者だけが本当の弟子であるとあります。 イエス様の弟子となると、その結果、必然的にいじめや迫害をともなうものです。 「弟子は師にまさることはない」と聖書に書かれているように、イエス様は死の受難を受けられたわけですが、イエス様の弟子とされた者も、迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことは、いわば当然であるといえましょう。 マタイの福音書5:11
同情すべきではない、 マタイの福音書5:11
ペテロも同じ事実について書いたのです。ペテロは経験者として、人を励ますために書いたのです。 ペテロの手紙第I、4:14
弟子は、あれこれと思い煩う必要はありません。師がすべてを良いように配慮してくださるからです。 もう一回、山上の垂訓にもどりまして、マタイの福音書6章25節から、よく知られている箇所ですけれども、大切なことばです。 おもに現代人にとって必要なことばです。 マタイの福音書6:25-34
主の弟子、すなわち主に従う者は、祈りにおいて自由と権威とを持っています。 イエス様は、こういうふうに祈りの大切さを強調したのであります。 ヨハネの福音書14:12、14
と、嘘じゃない、イエス様は約束してくださいました。 主の弟子すなわち主に従う者は、蛇のように賢く、ハトのように素直であるべきとあります。 マタイの福音書10:16
「わたしはあなたがたを人をとる漁師にしよう」とイエス様は言われます。「わたしはしてあげよう」と主は呼びかけておられます。すなわち私たちは、自分の力では人間をとることだってあり得ない。絶対にならない。それはすべて主のなさることです。私たちは、ただ主に忠実に従いさえすれば充分です。あとは主ご自身がすべてを成してくださるのです。 仕える能力、仕える力は、全部上から与えられるものです。イエス様が弟子たちをお招きになられた目的は、人間をとる漁師にすることでした。 イエス様が今日、我々一人ひとりを招いておられる目的も同じ、人間をとる漁師にすることです。 職業はお金を儲けるためです。そして私たちは真心から自分の仕事に従事すべきです。けれどもイエス様は、お金を儲けるために私をお救いになったのではない。主は、「わたしはあなたがたを証し人にしよう、人間をとる漁師にしよう」と言われました。それこそまさに主の招きの目的です。 もちろんイエス様に仕えることを第一とする者は、職務を行なうことはありません。そして決して損をすることはありません。 けれど、その反対に職業を第一にする者は、自分に与えられている使命を忘れ、損する結果になってしまいまうのです。 「わたしについてきなさい。」とイエス様は言われます。イエス様について行くということは、従順に従うことです。 イエス様の呼びかけは、非常にはっきりとしており、イエス様の考えておられることは、誰でも解かることではないでしょうか。本当にイエス様にだけ従うことによって、すべては根本的に変わってしまいます。 前に私たちは2つの点について考えてまいりました。すなわち、呼びかけておられる方とは誰でしょうか。その呼びかけは、いかなるものなのでしょうか。 最後に2つの点について簡単に考えて終わります。 3番目、呼びかけられている者は誰なのでしょうか。私たちは、呼びかけられた人々の名前また職業も知っています。すなわち、漁師であり、取税人でした。 それは決して簡単な軽い仕事ではなく、全力を尽くさなければできない仕事でした。呼ばれた人々は、決して怠け者ではなく、大地にしっかりと根を下ろしていた人々でした。そのように本当に忠実で、役に立つ者だけを主は用いることができるのです。 人間をとる漁師にするためには、そのような人材がどうしても必要です。そしてまた、肝心な時に迷ったり、ためらったりすることなく、直ちに行動を開始できることが大切です。 また彼らは、空理空論家や理想主義者ではなく実践家でした。イエス様に従った人々は主に従順でした。イエス様に従いたいと思う者は、結局すべてを捨てなければならない。 私たちがそのような決断をする時に、一見大きな犠牲をもたらすかのように見えますけれど、実際はそうではなく、むしろ反対に後で大いなる喜びと感謝と誉れがもたらされるのです。 最後に4番目ですね。その呼びかけは、我々に対していかなるものなのでしょうか。 イエス様の呼びかけは、今日我々にとっても、もちろん当てはまるものです。 私たちの周囲には、主なる神なく、生ける望みなき人々が大勢います。そのような人々の救いのためには、イエス様に従い、すべてをイエス様に明け渡すという断固たる決断が必要です。「わたしはしてあげよう」と主は言っておられます。 イエス様は、我々のお金や時間や力や能力を望んでおられるのではなく、私たち自身を望んでおられるのです。 「わたしについて来なさい」そのことが、私たちを主イエス様としっかりと結びつけるのです。 主に従いたいと思う人々は、以前の状態に留まることはできません。イエス様に従うということは、まさに100%従うことであり、そうでなければ本当にイエス様に従うことにはならないのです。 イエス様のなさることは、呼びかけることであり、我々のすることは従うことです。 「わたしは、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」「わたしは、学校において、台所において、会社においてあなたを証し人として用いたい」と主は言われます。 「弟子になりなさい。従う者になりなさい。人間をとる漁師になりなさい」というイエス様の呼びかけは、もちろん一人ひとりにも当てはまるものです。 イエス様の後ろについて行くということは、我々の人生に対して主のご計画を認め、受け入れることです。 イエス様の呼びかけは、直ちに従うことを要求します。そしてイエス様が我々に呼びかけておられることの理由は、まだ救われていない人々を救いに導くということです。 失われた者のためには、全き献身が必要です。 網を手にした人にとって、網それ自体は決して悪いものではなく、むしろ必要不可欠なのですけれど、彼らはその網をいつまでも手にしていることはせず、それを捨て置いて直ちにイエス様に従ったんです。 彼らは、網を持ちつづけるか、あるいはイエス様について行くかの二者択一に迫られたのです。 彼らは、イエス様との交わりは、自分の職業や家族よりも大切なものであることをよく知っていました。もう一箇所読んで終わります。主の呼びかけです。 エゼキエル書22:30
主は、用いられる器を必死になって探したけれど、誰もいなかった。 主は、従う者を探し求めておられます。「わたしについて来なさい。わたしは、あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」とイエス様は当時だけではなく、もちろん今日も呼びかけておられます。 私たちは、主の呼びかけに従い、主について行くでしょうか。それともエゼキエルの時代と同じように、主は捜し求めたが、見つからなかったということになるのでしょうか。 イエス様は、私たち一人ひとりを見ておられ、呼びかけておられます。 主は、私たちが価値ある者であるからじゃなくて、恵みによって変えられ得る者であることをご存知であられるゆえに、呼びかけておられます。 私たちは本当の意味で主に従う者なのでしょうか。 罪の赦しを得て、神の子供とされた後で、主はご自分に従うこと、すなわち弟子となることを望んでおられます。 今日、この世が必要としている者は、主に従う者すなわちイエス様の弟子になることと聖書ははっきりと言うのです。 イエス様の弟子だけがこの世の光であり、地の塩です。イエス様の弟子とは、この堕落していた時代にあって、主のみことばをしっかりと受け止め、主の御声に聞き従う者です。 毎日考えるべきなのではないでしょうか。私たちは、自己決定と自己支配とを続けていきたいのか、それとも献身と本当の自由との新しい人生を送りたいのかのどちらかです。 自分自身を否定することなしに、主に従い得ないのです。自分の考え、思いや気持ちは正しいと思う人も決して主の弟子となることはできませんし、用いられないのです。 自分勝手な道を歩むか、主についていくかのどちらかなのではないでしょうか。 |