5つのご命令


ベック兄

(春日部家庭集会、2003/07/16)

引用聖句:ユダの手紙1章1節-3節
1イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
2どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。
3愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。

ユダの手紙1章20節-25節
20しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
22疑いを抱く人々をあわれみ、
23火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。
24あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
25すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

ユダという兄弟はイエス様の肉体の弟だったんです。ヤコブもそうなんです。
イエス様が生きてる間、イエス様の弟たち、妹たちは全くもう無関心で、聞く耳を持っていなかったんです。彼は「信じなかった。」と簡単に言ってます。けども彼らはみんな見事に導かれただけではなく、彼らは「イエス・キリストのしもべ」と、喜びをもって言えるようになったのです。
結局復活なさったイエス様は、まずヤコブ、いわゆる長男だったんですかね、に出会ったんです。そして彼はエルサレムの教会の一人の長老になり、非常に恵まれた男になったんです。それから殉教の死を遂げるようになったんです。イエス様のために死ぬこととは大いなる特権であると彼は思うようになりました。
ユダも弟であり、導かれただけではなく主に用いられる器となったのです。

いわゆる未信者に対する要求とは、聖書を読め、研究せよなのではない。しっかりして立派になれなのではない。未信者に対する要求とは、正直、素直になってもらいたい。
悔い改めて信じなさい。悔い改めてから信じてもいいよ。すなわち受け入れられた、救われたことを信じてもいいよ。これは未信者に対する要求であります。
信者に対する要求はちょっと違う。ユダは今読みました個所によると、5つのことを要求したのであります。

1番目、築き上げなさい。霊的な成長の要求なんです。
2番目、祈りなさい。すなわち主との結びつきの要求であります。
3番目、待ち望みなさい。聖霊に対する備えの要求。
4番目、救いなさい。燃えてる愛の要求です。
5番目、憎みなさい。すなわち妥協のない態度の要求であります。

これは言うまでもなく救われるための条件じゃない。救われた人々が用いられるための必要条件であります。けどもユダは何を強調したかと言いますと21節に書かれています、「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。」20〜23節において、いろいろなことが信ずる者から要求されてます。ここで私たちは間違いのない警告を与えられています。
私たちは何をなすべきでしょうか?主は私たちから何を期待しておられるなのでしょうか?
ユダは3節の中で、ともに受けている救いについて宣べています。「罪の赦しを確信し、主のものとなってるすべての人は当然のことながら、全身全霊をもって主を愛すべきです。」
主は、どうしようもないだめな人間の愛を慕っておられます。

けども私たちはユダの手紙の中で、与えられているものはまず第一に、主に対するわれわれの愛が中心になるのではなく、われわれに対する主の愛なんです。愛されてるから愛することができるからです。
21節「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。」というみことばは、主の愛のうちに私たちが置かれてるということ、すなわちいつも主の愛に守られているということを意味しています。
主に愛されているということは最大の幸せです。どういう条件に置かれていても、もし全部真っ暗闇になっても、愛されてると考えると希望が湧いて来ます。主の呼び掛けとはそれなんです。

人間一人一人、全く個人的な呼び掛けとは「私はあなたを愛してる。」ということです。
けど自己追求によって、めくらにされないように、また不従順や恐れや心配によって罪を犯さないように注意しなさい。主との交わりを妨げるすべてのものを避けなさい。主は私たちを愛しておられるということを絶えず覚えながら生活しなさい。
これこそがユダの当時の信ずる者のに対する呼び掛けだったのです。結局愛されてる幸せとは、光の中に生きる幸せをも意味します。
絶えず光のうちに生きることは可能なのでしょうか。絶えずそのこと意識しながら、すなわち主が私を愛しておられるということを意識しながら生きることは可能なのでしょうか。
ユダは可能である、できると言ったのです。

ユダの手紙の中には二度同じ表現が使われています。すなわち守られている。なぜ?最初に、1節ではあらゆる信者が父なる神によって愛されてることだけではなく、イエス様によって守られているということが記されています。
24節でももう一度、イエス様が大いなる守り人であること、すなわち主があらゆる信者をつまずかないように守ることができ、傷のない者として大きな喜びをもって、栄光の御前に立たせてくださると約束されています。
手紙の最初の1節で、守られていることについて語られ、また手紙の終わりの24節でも、守られていることについて書き記されています。私たちは主イエス様に守られており、イエス様ご自身が大いなる守り人ですから、「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。」と要請されるのです。

私たちがどれほど心配され、どれほど愛されているか、一瞬たりとも忘れてはならないというのが主の命令です。けどもこのことがどのようにして実践されるなのでしょうか。
前に読んでもらいました20〜23節のみことばは、前に言いましたように、5つの前提条件について語っています。

第一に、築き上げなさい。
第二に、祈りなさい。
第三に、待ち望みなさい。
第四に、救いなさい。
第五に、憎みなさい。

とあります。それぞれの意味を簡単に申し上げますと、

築き上げるとは、霊的に成長するという目標を持って生きることです。霊的な成熟が要求されています。
それから、第二番目に祈ることは、意識的に主に頼んで生きることです。絶えず御座についておられるお方と結びついてることが要求されます。
そして第三に待ち望むことは、主の再臨を喜びながら生きることです。間もなく主が再臨なさることに対して心の備えをすることが要求されています。
第四番目に救うとは、失われるたましいの救いのためにとることです。主の愛の対象である失われたたましいの救いのために燃えてる愛が要求されています。
最後に第五番目になりますけども、忌み嫌うとは、妥協のない態度で生きることです。聖なる憎しみが要求されています。

それでは詳しく順を追って見てみましょうか。

第一番目は、築き上げるという点です。

あなたがたは「自分のもっている、もっとも聖い信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。」と20節に書かれています。別の言葉で表現すると霊的に成長する目標をもって生きて行きなさいということになります。ということは霊的な成長が要求されています。
私たちはどのようにして、自分自身を築き上げるべきなのでしょうか?なぜ私たちは自分自身を築き上げるべきなのでしょうか?その答えはペテロの手紙第IIの3章18節に見出すことができるのです。

ペテロの手紙第II、3:18
18私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

聖書は何度も何度も、信仰に導かれた者に対して彼らが成長すべきことを要求してます。霊的に未熟な状態にとどまってはならない。霊的に前進しなさい。イエス様をさらによりよく知ることができますように。
主の家族に属することは確かにすばらしいことです。

けども信ずる者が霊的に成長せず、未熟な状態にとどまるならば、これは悲劇的です。こういう霊的な欠如は主の働きに対する大きな妨げです。
ここで書かれている、もっとも聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいというみことばは、ゆっくりと築き上げることが大切であると指摘しています。
ちょうど建物の場合においても、一つ一つの石を積み上げていくことによって、最後に建物全体が完成するのとちょうど同じように、私たちもまたイエス様をよりよく知るために、さらに一層主に似た者となることによって成長すべきです。

多くの信者は一つのしっかりした基礎だけをもっています。この基礎がどれほど大切であっても、その基礎だけでは生きていけません。
多くの人は1階だけ建ててそれ以上には先に進みません。その上に屋根がなかったなら、雨、風から守ることができないなのは当然ことです。そのような中途半端な建築はみんなの笑い者となり、中途半端なキリスト者も主の御名があがめられところにはなり得ないのです。
コリントには確かに、はじめられた者のその状態にとどまってしまった信者たちがいたのです。パウロの悩みの種でした。パウロは本当にその人たちに心の痛みを持って次のように書いたのです。コリント人への手紙第Iの3章からちょっと見てみましょうか。
ある信者たちに向かってパウロは、あなたがたのこと考えると絶えず感謝すると言ってたのです。コリントの人々に対して彼はそう言えなかったのです。

コリント人への手紙第I、3:1
1さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

彼らは結局赤ちゃんでした。なかなか成長しない。霊的に未熟だったんです。大人になっていなかったのです。パウロの悲しみ、痛みの種だったのです。
ユダは、もっとも聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいと書いたのですけども、信仰の基礎とは一体何なんでしょうか?もちろんみことばです。
どのようにすれば、私たちは自分自身を築き上げ霊的に前進するなのでしょうか?みことばによってです。
主はみことばを通して私たちに語り掛けることができ、そのみことばに私たちが従がう時、霊的な成長は速やかに行なわれます。自分の考え、自分の行為の土台がみことばであるならば、主イエス様をよりよく知ることが速やかにできます。

みことばに頼ると主は働くことができるのです。すべては主の言葉の上に築き上げられるべきです。そうすれば、主にあって主の強さの力によって強くすることができる。
またそうすれば主に愛されてる幸せについて、何かを経験するようになる。霊的な成長をするという目標をもって行きましょう。それこそわれわれの切なる願いでなければならない。
私たちは信者として、もう一度はじめから人生をやり直すことができるならば、全てのことをこれまでと違ったやり方で行なうなのでないでしょうか。疑いもなく私たちは、みなより一層みことばと主の約束に頼るようになるなのではないかと思います。

朝、静かな時をもつこと、すなわち飢え渇きをもってみことばを読むこと、祈ることは霊的な成長にとってどうしても必要なことです。このような静かな時を持たず、毎朝なんとかなると思う人はめくらになり、容易に脇道にへ行ってしまいます。
本当に毎朝、みことばに頼りましょう。「主よ。語ってください。しもべは聞いております。」この飢え渇きを持ってこの祈りを持って主に近づくと、主は必ず働いてくださる。そして結果として、愛されてることを新たに知ることができるようになります。

第二番目のユダの励ましの言葉とは、祈りなさい。
ユダの手紙20節「聖霊によって祈りなさい。」と書かれてます。すなわち祈るとは意識的に主により頼んで生きることです。御座についておられるお方と、絶えず結びついていることが要求されています。
祈りには二種類の祈りがあるでしょう。まず自分の願望や自分の関心事を言い表す祈りであり、もう一つは聖霊、みたまの願望とみたまの関心事とを内容としてもつ本当の祈りです。ヤコブは次のように書き記したのであります。ユダの兄だったのです。

ヤコブの手紙5:16
16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

意味は、みたまによる信者の祈りは奇跡をもたらすものです。真の祈りはみたまによって与えられた祈りです。そのような祈りは、従がって主から来て再び主に戻ります。ですから100%完全に適えられる祈りです。
ですからみたまによって祈りなさいと主は命令なさるのです。聖霊によって祈る信者は主の御座に座しておられる主と結びついてます。
聖霊によって祈る信者は意識的に主により頼もうとします。キリスト者にとってこれほど価値のあるもの、大切なものは他にはない。いかなる犠牲を払っても、引き上げられたイエス様との日々の絶えざる交わりが、われわれの人生の特徴とならなければならないなのではないでしょうか。
主との絶えざる交わりこそ考えられないほど大切です。

光の中を歩む者は主との交わりを喜ぶことができ、主に愛されている幸せを経験します。祈りつつ絶えず主により頼みましょう。たとえ私たちがどこにいようとも、何が私たちを動かそうとも、私たちは常に主のみもとに行くことができます。
主のところで私たちは重荷を降ろすことができます。なぜなら、主は私たちのために心配して、配慮してくださると約束してくださるからです。

祈りつつ主により頼むことは、みたまによってのみ可能です。パウロはこれを明らかにするために次のように書きました。

ローマ人への手紙8:26-27
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

初代教会の人々とは大部分は非常に謙遜で、へりくだった人々でした。「私たちは弱い者であり、私たちは何を祈ったらいいかわからない。」と彼らは確信したのです。だから彼らは主に頼るようになりました。
大切なのは主の働きであり、そして主の働きは次に信者たちの祈りに対する答えであり、従がって要求されてるのは聖霊による祈りです。主は祈りに対する答えとして働いてくださいます。
だから主の前に立ち続け、主から大いなることを期待することほど必要なものはありません。主との絶えざる接触は何ものによっても代えられません。意識的に主により頼みたいという意欲は、われわれが聖霊によって祈り、主が応え祝福し、主に愛されてる幸せを経験するカギのようなものです。

第三番目、ユダの手紙に戻りまして21節なんですけども、私たちの主イエス様のあわれみを待ち望みなさいと書かれてます。すなわち主の再臨を喜びつつ生活しなさい、やがて行なわれる主の再臨に対して備えをすることが要求されています。
主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした生活を送ってる信者が少ないのではないでしょうか。
イエス様は今日来られるかも知れない。そういう気持ちで生活すべきでないでしょうか。

イエス様は自分の再臨について、もちろん多くのことを言われました。イエス様に出会った人、新しく生まれ変わった人々とはもちろんイエス様の再臨を信じます。イエス様の再臨を信じない人はもちろん救われてない。
けどもイエス様の再臨を信ずることと、首を長くして待つこととはまったく違う。ヨハネの福音書14章を見ると、イエス様はご自分の再臨について次のように言われます。

ヨハネの福音書14:3
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

(テープA面 → B面)

・・・見送って弟子たちに、急に目に見えない世界から一人の使いが現れて言いました。

使徒の働き1:11
11そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

イエス様はまたおいでになる。
それから私たちは、新約聖書のいろいろな手紙の中で、主の再臨がたくさん指摘されていることを知ってます。イエス様は再び来られるということは極めて確実なことです。けども問題は私たちがイエス様の再臨を待ち望みつつ生活してるかどうかです。
ただ単に再臨を信じるだけじゃなくて、日々再臨を望むことこそが要求されてます。

ヨハネの手紙第I、3:3
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

別の言葉で表現すれば、私たちは主の再臨を意識しつつ待ち望んで生活しているならば、もっと注意深くなり、光の中を歩むことでしょう。
けど光のうちを歩む人生とか、日々聖められる人生というのも、自己中心の人生、自分だけを考える人生ではないのでしょうかと多くの人は尋ねるも知れない。
その答えはユダの手紙の22節、23節の中に見出されます。

四番目になります。
22節、23節「疑いを抱く人々をあわれみ、火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみなさい。」
意味は救い出しなさい。失われてるたましいの救いのために行きなさいということです。主の愛の対象である失われたたましいの救いのために、燃えてる愛が要求されています。
私たちが主に愛されてることを意識しつつ生きる時、そしてまた光の中を歩むならば、他の人々もまた主の愛を経験し、闇から光へと移され、あらゆる束縛から主の解放へと移されることが私たちの関心事となります。
「救いなさい。」とは主の命令です。失われてるたましいの救いのために行きなさい。そのためには何が必要なのでしょうか?3つのことが必要なのではないかと思います。

第一は、内面的に心を動かされることです。
二番目、識別能力です。
三番目、研究性、切迫性であります。

第一に、私たちが主のためにたましいを獲得したいと思うならば、内面的に心を動かされることが必要です。イエス様について次のように書かれています。

マタイの福音書9:36
36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

私たちは正直に自らに尋ねてみましょう。私たちが心の支えもなく、生きがいのある人生の目標もなく、平和と真の喜びのない人たちを見る時、そしてまた羊飼いのない羊のように弱り果てて、倒れてる人を見る時、私たちもまた心を動かされるなのでしょうか。あるいは無関心なのでしょうか。
苦しんでる人は、われわれをあらゆる静けさから目覚めさせざるを得ないはずなのではないでしょうか。身をかがめて、倒れ、略奪され、襲われた者、もう自分の力では何にもできない人のために、助けてあげる備えのあるサマリヤ人のような人たちが求められてるなのではないでしょうか。

二番目、さらに必要なのは識別、霊的な識別能力です。私たちは何をどのようにしたらよいかを知るために、どうしても主に導いてもらわなければならない。敏感な判断能力と識別能力が必要です。
ユダの手紙の22節、23節によると、一つの区別がなされなければなりません。すなわちある人たちは債務が贖われなければ、主は罪を罰しなければならないこと、身代わり、あるいは勉強し、すなわちイエス様なしに生きる真の神の御手に陥ることが、恐ろしいことであるということを知らされなければならない。
そして別の人たちは主の大いなる愛、主の計り知れないあわれみについて知らされなければならないのです。

私たちは一人一人がどのように語るべきであるかを知るため、どうしても主の霊に導いていただかなければならない。
私たちは主に、人間を主に導きたいと思うならば、今話したように深く心を動かされること。二番目は正しい霊的識別能力を必要とします。

三番目、もう一つ、私たちは大いなる研究性、切迫性を必要とするなのではないでしょうか。主のしもべであるユダは、私たちが人々を火の中からつかみ出して救うべきであると言ってるんです。
たましいを獲得することは、もっとも研究を要する使命です。人は地獄に行かないように救われるべきです。ここでは世界観や宗教性ではなく、永遠の救いか永遠の滅びかが問題であります。
私たちは主に愛されてる幸せを、毎日経験してるならば、もはやまだ救われていない大勢の人々に対して無関心であることはできない。パウロはコリント人への手紙第Iの中で、次のように証ししたのであります。
彼は主に愛されてることわかったから、結局もう黙ることができなかった。

コリント人への手紙第I、9:16
16私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

コリント人への手紙第I、9:22
22(私は、)すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

ユダの手紙1:21
21神の愛のうちに自分自身を保ち、...なさい。

最後に短く、第五番目の点になりますけども、肉によって汚されたその下着さえも、忌み嫌いなさいとユダは書いたのです。別の言葉で言いますと、妥協のない態度で生活しなさいということです。
聖なる憎しみが要求されています。あらゆる罪深さ、不純、曖昧なことは避けられなければならない。もし私たちが罪に対してもはっきりとした態度とれば、主は祝福することができます。
創世記の中で、ヨセフについていろいろなことを書いてますけど、彼は誘惑された時、もう抵抗する力がないとわかって逃げてしまったのです。彼は何と言ったかと言いますと、どうしてそのような大きな罪を犯して私の神を汚すことができるでしょうかと。

私たちは見たり、聞いたり、手にしたりすることがたくさんありますが、それらのものは私たちを主から引き離そうとすることが少なくないでしょう。そういうときに、はっきりとした妥協しない態度とることこそが大切です。多くの信者はそれをしないので、愛されてる幸せについて何にも知らない。
パウロは信者たちに対して真剣に呼び掛けたのです。

コリント人への手紙第II、7-1
1愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

私たちは自発的に、断固としてこの態度をとる時にのみ、光のうちを歩み、主の全き愛を経験することができるのです。
ユダは信ずる者の成長のこをと考えながら書いたのです。まず、築き上げなさい。祈りなさい。待ち望みなさい。救いなさい。忌み嫌いなさい。




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