引用聖句:ローマ人への手紙14章8節
ちょっと前に今日の題は何?と聞かれました。ちょっと変わった題かもしれないけれど、「ABCからはじめましょう」という題を付けたらいいんじゃないかと言ってたんですけど。 ABCだってもう昔から習ったし、もうわかってるし大丈夫と人間は考えます。けどはたしてそうなのでしょうか。 100歳以上になったヨハネは、ヨハネの手紙第Iを書いたとき何と言いたかったかと言いますと、「愛する子どもたちよ。ABCに返りましょう。」、「もう一回始めから始めましょうよ。」と書いたのです。 今の読みました箇所を見ると、初代教会の人々とは結局、「主のため。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。」 われわれの生まれつきの性質はそういう性質じゃない。みんな自分のため。自分、自分、自分についてしか考えられない。 どうして主のためであるかと言いますと、私たちは主のものであるからです。罪の奴隷から贖い出された者としてわれわれは主のために生きるべきです。 主は自分自身の次のことばでもって明らかにしてくださったのです。 ヨハネの黙示録22:13
意味は、「わたしは初めのない、終わりのない永遠なるお方です。」 人間は何なのでしょうか。聖書は、消えてしまう霧にすぎない。 自分のみじめさを知ること。主の偉大さを新たに知ることこそが、ABCからはじまることなのではないでしょうか。 今朝、兄弟の納骨式があったんです。奥さまである姉妹は最後にちょっと言われたのです。 「私はみことばを信じています。しかし人間の思いもある。」、もちろんだれでも言わざるを得ないことなのではないでしょうか。 ある兄弟は面白い絵を描いたことがあるんです。 題名書いていなければちょっと何を意味してるのかおそらくピンと来ないし、わからないかもしれない。題名は「ふたつの心」 そして色々な線書いてるし、その題名の下でまたちょっと説明が書かれてるらしいんです。 霊の思い。それから肉の思い。ふたつの心、霊の思い、肉の思い。ある線は霊の思いを表わすものであり、別の線は肉の思いを表わすものです。 兄弟は描いたとき、おそらく数えなかったと思うんです。終わってから数えると、肉の思いの線はひとつ多かったんです。ちょっと困っちゃう・・・。 結局これこそがわれわれの経験でもないでしょうか。主のために生きたい!けど、なかなかうまくいかない。 パウロは当時のイエス様に出会った人々にいつも勧めました。「主のために生きましょうよ!」、自分のために生きる人は不幸になるに違いない。 ある人々にパウロは次のように書くことができたのです。「あなたがたは偶像を捨てて神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになった。」 結局救われた目的とは生けるまことの神のために生きることです。 「私たちはもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるため。」とパウロは何回も何回も強調したのであります。 主のために生きたいけどなかなかうまくいかない。 結局信ずる者のやってることは大体的外れなのではないでしょうか。的外れという意味のギリシャの言葉は「罪」です。 肉の思いによって支配されれば、すべては罪であると聖書ははっきり言っています。イエス様を信ずるようになったから、だから自分の思ってること、考えてることは正しいのではない。 ですから主は、よく引用される箇所なんですけれども、イザヤ書の55章の中で8節と9節、次のように書かれています。主がイスラエルの民に与えたことばです。 イザヤ書55:8
信ずる者 イザヤ書55:8
信ずる者 イザヤ書55:8-9
結局違う。全然違う。 3年半、イエス様といっしょに生活したペテロにイエス様は何と言ったかと言いますと、「わたしのしていることはあなたは今わからない。のちになってわかる。」 聖書を読むとよくわかります。すなわち信ずる者とはやっぱり大体肉の思いによって支配され、主のために役に立たない者であると。 祈るべきときに眠ってしまい、罪を告白し光のうちに明らかにしなければならないときに、人間は祈り始めたり、主がわれわれの従順を待っておられるときに、われわれは主に叫んでしまう。全部的外れです。 大切なのはいったい何なのでしょうか。ABCとは何なのでしょうか。3つです。 第一番目、主を知ること。単なる助け手として、救い主としてではなく、主として知ること。 第二番目、この主に心から喜んで信頼すること。 第三番目、この主によって満たされること。支配されることです。 大切なのは主について色々なことを知ることではない。主ご自身を知ることです。 イエス様は十字架につけられる前に兵士たちに捕まえられたとき、次のように言われました。 ルカの福音書23:28
過ぎ去った日、ある兄弟はこの御代田で天に召されたのです。その前に彼は家族の方々に何と言ったかと言いますと、「私のことで悲しんではいけない。イエス様のところへ行くからです。」 そのちょっと前に親戚とこのセンターグルグル廻って、それから義理のお兄さんに、「もし召されればこのセンターの納骨堂に納めてもらいたい。」と。ですから本人はやっぱり何か感じたのではないかと思います。 ずっと悩んでいた娘は、前夜式の時も葬儀の時もこのお父さんの言われた言葉を言われたのです。「私のことで悲しんではいけない。イエス様のところに行くからです。」と。 イエス様も結局、「わたしのことで悩まなくてもいい。泣かなくてもいい。わたしの死こそがあなたがたの喜びの源となる。わたしは代わりに死ぬからこそ、あなたがたは罪の赦しを得るようになる。」と言われたのです。 「自分の罪のために泣きなさい。徹底的に悔い改めなさい。」とイエス様は言われたのです。 一番醜い人間はどういう人間なのかな。「私は正しい。」と思い込む人なのではないかと思います。 「自分は正しい。頭を下げる必要はない。」と思う人は本当に醜い。かわいそうなのではないでしょうか。 イエス様は、「自分の罪のために泣きなさい。」と言われたのです。自分のそむきの罪を隠す者は、泣かない者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。あわれみを受けることこそが主を知ることです。 聖書の知らせとはいったいどうしてそんなにすばらしいのでしょうか。救われようと思う人はだれでも救われるからです。 罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをほしいと思う人は価なしにただで与えられると約束されているからです。 何と多くの人々は死ぬ前に言います。すなわち、「イエス様を知るようになったのは良かった〜。」 主を知ることこそが大切です。主を本当の意味で信頼できるお方として、自分のわがままを赦すお方として、自分を愛するお方として知るようになった者は信頼するようになります。 ダビデは次のように書いたのです。詩篇の37篇。非常にすばらしい、われわれひとりひとりのためにも書かれたことばです。 詩篇37:4-5
ダビデはどうしてこういうふうに書くことができたのでしょうか。やっぱり体験したからです。 主に信頼すると、主は責任を取って導いてくださり、心配してくださり、成し遂げてくださる。 118篇、同じくダビデの告白です。詩篇とは結局全部作者たちの経験そのものであります。 詩篇118:5-9
ここでダビデは2回、「主は私の味方。」と言えたのです。そうすると心配しなくてもいい。これこそが不安と恐怖からの解放そのものです。 34篇に戻りまして、ダビデはまた次のように告白したのであります。 詩篇34:22
安心して将来また死に向かうことができる。罪に定められない。 イザヤも同じく主に信頼する大切さ、必要性について次のように書いたのであります。 イザヤ書26:3
信頼することとは、もう任せることです。もう任せちゃったから心配する必要はない。 イザヤ書26:4
このとこしえの岩に頼れば心配する必要はない。 自分の置かれている環境を見たり、色んな問題について考えたりするともちろんがっかりします。心配します。不安定になります。だれでも。けどこの、とこしえの岩を仰ぎ見ると解放されます。見方変わる。 天国行ってみないっぺんにわかると思う。生きている間に愚かな者でした。心配したからです。必要なかったのに。だからこそ聖書の中で何回も何回も、「主に信頼しなさい。信頼する者は決して失望させられない。」 イザヤ書の50章の10節。これも本当にすばらしい作者の呼びかけであります。 イザヤ書50:10
主の存在を認めなさいじゃない。ただ主を信じなさいなのでもない。主に頼りなさい。拠り頼みなさい。 もう一ヶ所、12章の2節。12章の2節も本当にすばらしい、覚えるべき、新たに経験すべきことばです。 イザヤ書12:2
結局主は私にとって救いを与えるお方よりも、救いそのものです。このとこしえの岩に頼る者は元気になる。 主に信頼することこそが考えられないほど大切です。主に信頼することとはいったい何なのでしょうか。正しい生き方をするのではないかと言えます。 ローマ人への手紙の13章の中でパウロは、ローマにいる、一度イエス様に出会った人々に次のように書いたのであります。 ローマ人への手紙13:11
結局あなたがたイエス様に出会った、救いにあずかるようになった人々という意味です。 ローマ人への手紙13:11-14
ここで、「正しい生き方をしようではないか。」、正しい生き方とは、心から安心して主に信頼することです。正しい生き方をすることは目をさますことです。主の前に静まることです。主の前に祈り続けることです。 正しい生き方の根拠なるものは、はっきりとした目的をもつことです。 信ずる者のもつべき目標とはいったい何なのでしょうか。パウロはコリント人への手紙第IIの5章9節に次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:9
「これをやれば主は悲しくなるかな?喜ぶことができるのでしょうか。」と絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 われわれの目的とは、本当にイエス様を喜ばれることであるべきです。 正しい生き方をする人は罪を憎む者であり、イエス様を第一のものとする人です。 正しくない生き方をすることはいったい何なのでしょうか。すなわち、思い煩うことです。心配することです。主に信頼しないことです。 正しい生き方をすることは、地上における名声を求めないことです。自分の持ち物を少しでも多く持とうと願わないことです。結局主の誉れだけを求めることであり、自分をむなしくすることであり、イエス様を知る知識の絶大な価値を知ることです。 そういう生き方をする者は、バプテスマのヨハネのように告白します。「イエス様は盛んになり私は衰えなければならない。」 イエス様が中心になると、「私は嬉しい。自分のために何もほしくない。」、主に信頼する結果とは結局そういうものです。 ABCとは何なのでしょうか。 主を本当の意味で知ること。それから、主に信頼すること。もうひとつは、主に満たされることです。 聖霊なる神に信頼することだけではなく、支配されることです。 もう何回も何回も強調したことなんですけど、われわれイエス様を信ずる者として、御霊の働きに対して色々な態度を取ることができます。 例えば御霊の働きに対して無関心な態度を取ることができる。結局イエス様の栄光を現わそうと切に望んでる聖霊をまったく無視することが、キリスト者もできるのです。 確かにイエス様を信じ受け入れることによって、だれでもが聖霊の宮になってます。聖霊はその人の今まで死んだ霊の中に住むようになったからです。けども聖霊は自由に働くことができるかどうかは問題なんです。 自分が決定権を持っていれば、聖霊は働くことができない。そういう信者もいます。あるいは、聖霊の支配を部分的に受け入れる人もいます。 けど大体、自分が支配し、決定し、たまにみこころは何かと尋ねるにすぎないような兄弟姉妹がいます。そういう生活の結果は決して幸福ではない。みじめです。 もうひとつの態度は、聖霊にすべてを明け渡し、聖霊がすべての支配権をもつという態度です。「生きてるのはもはや私ではない。キリストです。」と。 聖霊に満たされることとは、もちろん気持ちの問題、感情の問題ではない。意思の問題です。 すべてを主に明け渡した時に初めて、私たちは聖霊に満たされます。したがって聖霊に満たされるための条件とは、やっぱり明け渡すこと・・・ (テープ A面 → B面) ・・・柔和、自制があると書かれています。もし聖霊だけが支配できるならば、御霊の実は啓示されます。御霊の実とは人間の努力の結果ではない。 われわれは御霊を無視するか、あるいは一部だけ支配権を明け渡すか、それとも全支配権を主に明け渡すのでしょうか。 色々な問題、悩みがなければもちろん人間は渡そうとしない。「いや。主のため。主のため。」と思っても、やっぱり結局自分のためになります。 最後にちょっとひとつの歌を紹介したいのです。前にしたことがありますけど、非常にすばらしい信仰の告白であります。 ドイツのアイドリンゲンのムッターハウスにひとりの若い女性がおはいりになって、もう結婚しなくてもいいから、やっぱりイエス様のためにだけ生きたいと切に望んだのです。はいるようになってから癌が発見されました。もう手遅れだと言われたのです。そのとき彼女は次の歌を作りました。 「主イエスよ。私は心配し、問題をもち、無力になると、 あなたは私にご自分の喜びを用意している。 あなたは愛でもって私のためになされた救いを信仰によっていただきます。 主イエスよ。あなたはあわれんでくださり、目標をもって私の一生涯を導き、 あなたの愛の表われとして、いつも最善をなしていてくださいます。 したがって安心して喜ぶことができます。 あなたは決して私から離れられない。 一時的な幸せよりも、まことの救いは私にとって大切です。 ですからあなたの御手から今の重荷を受け取ります。 あなたの導きを受け入れにくくても、私は確信しています。 すなわちすべてがあなたから来ている。 あなたの近くにいてみことばを聞くと、あなたを自分の避けどころ、 また助け手としてほめたたえられます。 あなたこそ私の人生を豊かなものにしてくださいました。 あなたは私のために大いなるみわざをなさいました。 あなたに愛され、そしてあなたの満ち満ちた富から豊かに与えていてくださるから、 私もまた愛することができます。 今からあなたの光のうちに歩みたい。 私は何をやっても、主イエスよ。どうか私を祝福してください。 喜ぶことができるために救われ、平安に満たされた者として 私は心からあなたをほめたたえます。」 いわゆるABCの習った結果とは、こういうものなのではないでしょうか。 |