引用聖句:出エジプト記3章1節-13節
先週に引き続いてモーセの生涯について一緒に考えてみたいと思います。 先週私たちは、いかにしてモーセが召し出されたのか、聖霊をうちに宿して主なる神に用いられる器になったかについて、3つのことについて考えました。 まず召しの条件。2番目、召しの方法。3番目は召しの理由だったのです。 いったいいつ主は、モーセを召し出されたのでしょうか。モーセが全く失望して、全くからの器となり、完全に明け渡した時に、主はモーセを召されました。 どのようにして、主はモーセにお会いになったのでしょうか。生きた主ご自身が、盛んに燃え上がる消えることのない聖なる預言的な炎によって、主はモーセにお会いになりました。 なぜ主は、モーセにご自身を現されたのでしょうか。主ご自身がいかなる方であるかモーセに示したかったのです。 けれどもそれだけではありません。主は、モーセにご自身の命を分け与えたかったからです。そして、モーセを器として、道具として、イスラエルの民の救いのために用いたかったのです。そのために主はモーセに現われたのです。 主の霊が、燃える炎となって、当たり前のなんのとりえもなく荒野の柴に燃え移り、盛んに燃えたことも話したのです。でもこの柴は、いったいなんであるかについては、話さなかったのです。 私たちは、神の山ホレブの荒野の柴のように、神の火に燃やされ、その火が消えず、聖霊が内に宿りいつも御霊の火によって燃やされ、御霊を包む着物のようにならなければ、まことの神の僕となることができません。 ところが、あの燃えた、消えなかった柴とは誰だったのでしょうか。言うまでもなくイエス様です。 モーセは、主イエス様を現すところの柴を見て、イエス様との交わりを持ちましたから、召し出されたのです。 主なる神がご自身を現されるときには、いつもイエス様を通してなさいます。 クリスマスは、神様が肉体を持って現われた日を記念する日ですけれども、主なる神はこの時も、イエス様を通してご自身を現しておられました。 また、主なる神は人間を救うために、御子を、主イエス様を犠牲になさったのです。 パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:19
主なる神は、主イエス様において、世をご自分に和解させました。 同じように、主なる神は、モーセに現われた時、イエス様を通して現われたのです。 そして、主なる神は、モーセにご自身を現すだけではなく、ご自身の命をモーセの中に注ぎたいと思って現われたのです。 あの偉大なる主は、モーセのような者の中に住みたいと心から望んでおられました。 モーセが主なる神によって召された後に、モーセの心には神の火が灯されていました。 聖霊が、モーセの心の中で燃えていました。その時、主なる神は、モーセを用いてイスラエルの民を救い出されました。 主なる神の御目的は、イスラエルの民をエジプトから導き出すことだけではありませんでした。主は、イスラエルの民を通して、ご自分を外に現したかったのです。 後に、民達に作ったあの幕屋に、主なる神の栄光が満ち満ちたと書いてありますように、幕屋は主なる神の栄光に包まれました。 主なる神は、イスラエルの民を通してご自身を現されました。同じように、聖霊の時代である今の時代にも、主は人々を救うだけではなく、救われた人々の、作っている家庭、主の体なる教会を通して、ご自身の栄光を現そうとしておられるのです。 かつて、モーセの時代のイエスラエルの民の敵たちは、幕屋を見て、神の栄光を見て恐れたように、今の時代にも、私たち神の民を世の人が見て、恐れおののかなければならないはずではないでしょうか。 けれども神は、どのようにしてイスラエルの民を救い出されたのでしょうか。まず、主が一人の人の所にやってきて、その人の内に宿り、その人を通して民を救い出されました。 とるにたりない小さな人間の中に宿リ賜うた偉大なる神だけが、人を救い得るのです。 イエス様は、当たり前の見栄えのない柴のようなお方でした。けれども、そのうちには偉大なる神が宿っておられたのです。 イエス様は、見たところ普通の人間と少しも変わっておられませんでした。けれどもその中に、主なる神の炎が燃えていました。 ですから人々を救いに導くことができたのです。 モーセは召される前に、自らを良しとする柴でした。その時もモーセは所謂、火を持っていました。彼は燃えていました。でも、その火はエジプト人を殺してしまいました。主によってつけらた火でない異火は、実に悲惨な結果をもたらしたのです。 けれども、後に上から主によって火をつけられたモーセは、イスラエルの民をエジプトの奴隷から救い出すことができただけではなく、つぶやき逆らうイスラエルの民と40年の間、荒野を旅する忍耐がありました。 モーセの内に住み賜う主は、イスラエルの民を救いました。イエス様のうちに住み賜う主なる神は全人類を贖い出されました。 ペテロのうちに住み賜う主は、一日に3,000人の人を救い出されたのです。 空の器があり、そこに神の霊が満たされるとき、そこではいつも人々が救い出されていきます。 パウロは、そのことをちょっと違う言葉で次のように書き記したのです。 コリント人への手紙第II、4:7
私たちは、この宝を土の器の中に持っていると書いてあります。私たちは主の栄光、燃えて尽きない炎、聖霊を土の器の中に持っている。その計り知れない力は神のものであって、私たちから出たものでないことが現われるためです。 主が人間を用いられる条件は、まず私たちが、土の器=役に立たない空っぽの器となることであり、次に、自らの火を持たないことです。モーセは、私は語ることができないと、自分の無力さを主に訴えています。 このように、主なる神の条件を満たしたときにはじめて、計り知れない神の力が望んで参ります。そして、その時はじめて、私たちは、パウロと同じように、私たちはこの宝を持っているということができるようになります。私たちは持っていると言えるなのでしょうか。 モーセは数年の間、主を望み見て主の御心を行おうと努力し、主の民のことを気遣い救おうとしましたが、みんな自分の力で行いました。 けれども、今やモーセは主を見て、主を宿し、今度はモーセではなくて、モーセのうちに住み賜う主が働き始めたのであります。 モーセはもう、自分の力で自分の努力で主に仕えることをしなくなりました。その結果モーセは、主がすべてのことを御手のうちに収めて行って下さるということを身をもって体験したのです。 いまや主がすべてを行って下さいます。モーセに残された使命と言えば、ただこの主に従順に従って行くということだけです。燃えさかる柴によって、モーセに現われ、モーセを召された主についてちょっと考えたいと思います。 出エジプト記3:6
出エジプト記3:15
出エジプト記4:5
モーセを召された主とは、いったいどなたでしょうかね。今の箇所を見ると3つのことが言えます。 第1番目、アブラハムの神である全能の主。すなわちアブラハムの神は全能の神です。2番目、イサクの神である甦りの主。すなわちイサクの神は、甦りの神です。 そして、3番目は、ヤコブの神である清めの主。すなわちヤコブの神は清めの神です。主は全能のお方であり、甦りのお方であり、清めの神です。 まず第1番目、アブラハムの神は全能の神です。アブラハムの生涯を学んでいきますと、主が全能なるお方であることがよくわかります。 主なる神が全能であることが現われると、それはもちろん栄光です。主なる神は、アブラハムの生涯を通して、ご自身が全能なるお方であることをはっきりと示されました。 アブラハムはですから、神の栄光を拝しました。 使徒の働き7:2
栄光の神が、アブラハムに現われたと使徒の働き7章2節になります。全能の神が御手を差しのばし、アブラハムの上に置き賜い、行くべき道を、主の御心を示されました。 このアブラハムの神がモーセに現われたのです。この神は、モーセを通して働きたかったのです。アブラハムの神と、自らの名前の肩書きにアブラハムの名前をつけています。この結びつきと交わりの秘密はなんでしょうか。 聖書はたびたび、アブラハムは神を信じたと言っています。 ローマ人への手紙4:3
ガラテヤ人への手紙3:6
救いに至る信仰は、私たちと主なる神を結ぶ帯です。私たちは、信仰によって全能なる神と結びつくことができるのです。 信仰によって救われた二人のアブラハムの子供の体験について、ちょっとみてみましょうか。 ルカの福音書13:10-17
主によって、主の全能なる力を経験なさった女性は、「アブラハムの娘」と呼ばれています。 もう一箇所、ルカの福音書19章です。 ルカの福音書19:1-10
9節で「この人もアブラハムの子なのですから。」と語られました。もし私たちが全能なる主につながっているなら、神の全能なることは、私たちの生活を通して外に現していくはずです。 アブラハムの生涯を通して、それは明らかになりました。 ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙11:8
ヘブル人への手紙11:17
信ずる者の生活を通して、主の栄光が現われていくはずです。 「我はアブラハムの神、全能なる神である。」、神は、アブラハムと固い交わりを持っていました。ですから、神はアブラハムに私のしようとすることをアブラハムに隠して良いだろうかと言われたのです。 また神は、アブラハムを友と呼んでおられたのです。 イザヤ書41:8
「わたしの友、アブラハム」とあります。 ヤコブの手紙2:23
歴代誌第II、20:7
主なる神は、友なるアブラハムにご自身のご計画を全部告げられました。 主イエス様がどのようになさるかも、アブラハムは主に教えられ知っていたようです。 ですからイエス様は、ヨハネの福音書8章56節で次のように言いました。 ヨハネの福音書8:56
アブラハムは、もうすでにイエス様のことわかっていたとあります。このアブラハムの神が、同じ神がモーセに現われました。モーセは、アブラハムを友と呼んだ神が、自分にも現われ「わが友、モーセ」「わが僕、モーセ」と言われるのを知ったのでした。 モーセは、この主なる神との親しい交わりがどうしても必要なものであることを、もちろん深くわかったのであります。全能なる神、アブラハムの神が、3つの面を持ってモーセに現われたことをモーセは知りました。 そのひとつは、アブラハムの神は全能の力を持って自分を救い出されたと言うこと。2つ目は、主なる神が、その御力をもって自分を救い出されただけではなく、自分を選びされたということ。3つめに、アブラハムの神は、準備を自分のために全くなしてくださる。この3つをモーセは知ったのです。 モーセは、荒野の40年の訓練において教えられました。失敗も自らよく知っており、本当にむなしくなっていましたので、神の山ホレブで神の火を見たときに、失望のモーセに希望の火が灯ったのです。 この時以来モーセは、アブラハムと同じように、全能なる神との交わりが欲しいと思い続けるようになったのです。 それとともにモーセは、今自分に現われた神は、アブラハムの神であるばかりではなく、自分の神でもあることを深く知ったのです。私たちも同じように、アブラハム、モーセの神であるばかりではなく、私たちの神でもあることを深く知りたいものです。 モーセを召された主とは、どなたでしょうか。今話したように、アブラハムの神である全能の主、すなわちアブラハムの神は全能なる神です。 第二番目に、イサクの神である甦りの主。すなわちイサクの神は、甦りの神です。 イサクの誕生は、甦りの神の為し賜うた奇蹟でした。甦りの神は、すでに年老いた子を産めなくなった母サラから、子供イサクを産み出しました。 このようにして、産まれたイサクが大きくなった時主は、父アブラハムにその子イサクを生け贄として捧げよと命ぜられました。 けれどもアブラハムは、神が、人を死人の中から甦らせる力があると信じていたので、主に従順に従い、イサクを捧げるつもりだったのです。 すなわちアブラハムは、神がイサクを甦らせる力もあることを信じて、主に信頼したのです。主が、天から約束して言われた言葉をアブラハムは、信じたのです。 創世記22:17
アブラハムは主のみことばを信じていました。そして決して失望することを知りませんでした。 似てる約束はイザヤ書の60章の22節に書かれています。 イザヤ書60:22
弱気者を強くし、小さい者を大いなる者とするのは、甦りの神、イサクの神です。イサクの神が私たちに語りかけて下さったなら、この素晴らしい神にすべてをまかせましょう。 私たちを救い選び出された神は、甦りの力を持つお方です。死んで枯れてしまった炎をも、主は生き返らせることがおできになります。どんなに惨めに失敗してしまった者をも再び立たしめることがおできになります。 この神に信頼するなら、決して不可能なことはない。不可能なことを可能にする甦りの神であるのです。 甦りの神はどこに現われるのでしょうか。もしある人がゼロとなった時、その人に甦りの神は現われ賜います。 私たちは全く失望し、全く空の器となり、完全に自分のすべてを主に明け渡した時に、甦りの主は、私たちに現われるのです。 甦りの神は、アブラハムにも現われたです。ローマ人への手紙の4章にアブラハムの経験について書かれています。 ローマ人への手紙4:17-21
主なる神はご自分を現したいのです。ですから、人々を絶望の中に追いやります。 パウロの経験について読んでみるとわかります。コリント人への手紙第II人への手紙第I章です。素晴らしい証しです。自分の辛い経験についてです。 コリント人への手紙第II、1:8-10
パウロは、ことを大げさ言わない人でした。主なる神が、ご自分を現すには、これらの悩みと苦しみが結局必要だったのです。 エゼキエル書37:11-14
エゼキエルと言う預言者は、主なる神は冷たい死んだ石からでさえ子を起こすことができ、墓の中から民を甦らせることのできるお方であることを知っていました。 甦りの神は、死のにおいのする墓の中から、星のように多くの子孫を産み出すであろうと約束されたのです。 燃える柴を通して、甦りの神、イサクの神がモーセに現われました。そしてモーセには、その甦りの神は、その御力をもって、自分を通し、エジプトからイスラエルの民を導き出そうとしておられることを知りました。 はじめにモーセがエジプトの王、パロの宮殿で生活した40年の間に、モーセは自分で自分はいろいろなことをしてるし、自分でもう何でもできると思っちゃったのです。 次にモーセは40年間、ミデヤンの荒野で主の教育を受けました。しかしその時、モーセは、自分は何もできないことを悟ったのです。 それに続くもう40年、モーセは神と共に働きましたが、その時のモーセは、自分は主によってすべてのことができると確信して立っていたのです。それは、モーセが全能のなるアブラハムの神、甦りのイサクの神を目の当たりに、その力に預かったからです。 モーセを召された主は、どなたなのでしょうか。アブラハムの神である全能の主、すなわちアブラハムの神は全能の神です。 それからイサクの神である甦りの主、すなわちイサクの神は甦りの神です。 最後に短く、ヤコブの神である清めの主、すなわちヤコブの神は清めの神です。創世記の32章を見てみましょう。ヤコブの経験についての箇所です。 創世記32:22-31
ヤコブは、必ず主に祝福された者、解放された者として大いに喜んだに違いありません。イエス様が復活され弟子達に出会った時も、弟子達は主を見て喜んだと書いてあります。 ヤコブの神は清めの神です。ヤコブの神は清めの神であり、自我からの解放の神です。ヤコブと言う名前は、「あざむく者」と言う名前を持っています。 ヤコブはいつも自分の利益を考えていた者でした。主なる神は20年の間、ヤコブの自我の満ちる性質を、砕こうとして語り続けましたが、彼はなかなか砕かれることを経験しなかったのです。 ヤコブも、神に奉仕しようと思ったのです。けれどもヤコブのする奉仕は、全部自分の力で自分のためにするものでした。ヤコブのような方法では、主のご目的は達成されません。 主は、ご自分の方法を持ってご自分の目的を成し遂げられます。ヤコブは、それがわかるまで長い間かかったのです。 ヤコブは策略によって、長子の特権を兄エサウから奪い取り、父を平気で騙して長子の祝福を受け自ら妻を選び取りました。妻は、自分で選ぶものではありません。主から与えられるものです。また騙してラバンの富を奪い取りました。その結果はどうだったでしょうか。ヤコブは、ハランへ逃げ延びなければならなかったのです。 そして、ヤコブはベテルで神にお会いしましたが、汚れた自らが主に会ったとき、これはなんと言う恐るべき所であろうと叫んだのです。 ベテルは神の家という意味です。 テモテへの手紙第I、3:15
ヤコブは逃げていた時、表面的には富んでいましたけど、心のうちには満足がなかったのです。 ヤコブは、兄のエサウを憎んでいました。彼は、自分の家にいるのに平和がありませんでした。次に彼は、ラバンとも争ってしまいました。その結果、良心の呵責がヤコブを責めつけます。 ヤコブは、自分で自分を救おうと思いましたが、それは負い目を増すばかりでした。 このヤコブに神は、アブラハムと神として、またイサクの神として語りかけられました。神はヤコブを全く解放し、ヤコブの神としたかったのです。 次にヤボクの渡しでヤコブは神と相撲を取りました。その時に神はヤコブに、お前の名前はなんと言うのかと尋ねられました。ヤコブは、ヤコブ=欺く者ですと正直に答えました。 ヤコブは主なる神に追い詰められ、自分の罪を認め言い表したのです。その瞬間に神は、私はヤコブの神であると言われたのです。 神の山ホレブで、燃える柴の中からモーセに現われた神は、このヤコブの神でもありました。 モーセは燃える柴の前で、自分の自我の生活から解放されたいのだと知りました。 ヤコブを見捨てずに清め、ヤコブの神となられた神は、またその前に、モーセを清めとモーセの神となろうとされていました。 全能の神は、またアブラハムとひとつになり、アブラハムの神ともなった神でした。アブラハムが自分の弱さを認め、どうしても全能なる神の力を必要とし、それを求めたからです。 同じことがモーセにも起こりました。モーセは自分の無力さと、無能力を深く悟り、私は話すことができませんと言い訳をしました。その時にその場で、主は、私は全能にして為すあたわざること無く、アブラハムの神であると、全能なる御姿をモーセに現されました。 モーセが、何もできませんと告白した時、主は、それはいい、それは私の目指す所だった、何もできない器を通して、私は自分の思うことがすることができると言われたのです。 甦りの神はイサクとひとつになり、イサクの神と呼ばれました。なぜでしょうか。 イサクは、絶望の淵を何度も通りました。この望みのない状態のイサクと主は結びつきました。人が全く絶望しきった時に、主はご自身を現すことがおできになる。 モーセがエジプトの王子ではなく一介の羊飼いになり下がったときに、主はモーセに現われイスラエルの民を救い出し、イスラエルの民を救い出し、目覚めさせる甦りの神としての本質を現したのです。 そして、清めの神は、ヤコブと結びついて、ヤコブの神と呼ばれました。どうしてでしょうか。清めの神は、性格の弱いヤコブのうちにご自身を現したかったのです。ヤコブは、自らに絶望し、自分の罪を神に告白してから、神の御心にかなった器となりました。 この清めの神は、モーセにも現われました。この清めの神によって人殺しのモーセは、世界で一番柔和な人となることができたのです。 モーセの奉仕の底には、無力と、見る影もない涸れた骨、全く打ち砕かれた自己の生活がありました。このモーセに、全能なる神、甦りの神、清めの神が、満ち満ちてモーセの奉仕のすべてとなられたのです。 この学校に、主は、私たちをも導いておられます。私たちの場合は、40年一所で学び続けるということではないでしょう。訓練と、奉仕が並行してあります。 まことの奉仕は、主のために働くためではなく、全能なる甦りの清めの主が、空の器である私たちを通して、外に現われ賜うことです。 私たちは、この土の器が、主よりの宝を持つその度合いに従って、多くの人々を救いに導き、また、キリストの満たしにまで、至らせることができるのです。 一方では、主は、私たちを空にしむなしくし、また他方では、私たちを立て上げご自身の御姿に変えて行かれるのです。 私たちも、モーセと同じように「アブラハム、イサク、ヤコブの神」を自らのものとして、まことの神の僕となりたいものです。 |