御子の血による贖い


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/09/13)

引用聖句:エペソ人への手紙1章7節
7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサイ人への手紙1:14
14この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

ヘブル人への手紙9:14
14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヘブル人への手紙9:22
22それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

ヨハネの黙示録1:5
5また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、

今読んでもらった箇所は聖書の中心です。
ある兄弟が次のように書いたことがあります。「私はなかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませている弱い者です。」、いうまでもなくそういう気持ちを持つことは、ある意味で大切ですけどさらに前進しなければなりません。
すなわち感謝にあふれ、心から主を崇拝せざるを得ない兄弟姉妹を主は求めておられます。

イエス様を信じる者は多いかも知れないけれど、まことの礼拝者は少ないのではないでしょうか。私達は毎日曜日、聖書の話しだけでなく礼拝があります。でもそれは本当に礼拝なのでしょうか。
礼拝とは確かに祈り会ではありません。日曜日の礼拝のとき自分のため、ほかの人のために祈ることは適切ではありません。イエス様の十字架、イエス様の流された血潮こそが中心であるべきです。
なぜならばイエス様の代わりの死について考えると、確かに小さくなり、悔い改めに導かれ、そして真心から賛美することができ、主を崇拝せざるを得ません。

神の敵である悪魔は、悪魔への礼拝を求めています。イエス様にさえ礼拝を求めたのです。ちょっと信じられない。

マタイの福音書4:8-11
8今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
10イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
11すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。

もちろんこの悪魔は、人間を攻撃して人間の礼拝も求めています。まことの礼拝者になるために私達は、まず自分の罪の恐ろしさ、イエス様の流された血潮の尊さを知るべきなのではないでしょうか。
ですから今日もまた、この大切な点について少しだけ考えてみたいと思います。

今歌った賛美の中で、十字架で救われた喜びを歌いました。まごころからそう思えば、これこそがまことの礼拝のひとつの現れなのではないでしょうか。
昔、集まった人々がまだ少なかった時、私達はいろいろな家庭集会でも16ミリの映画を上映したのです。
若者ならばまだ使うことができたら良いでしょうか。だいたい科学映画。ある映画の題名は「命の赤い川」という映画だったんです。その中で血について多くのことが出ていたんです。

まず合衆国大統領のジョージ・ワシントンのことについて出ていたのです。彼は67歳で亡くなりました。死ななくても良かったのです。彼はのどが痛いと言って、急に亡くなったのです。100%医者のミスでした。
彼は医者によって殺されたと言っても言い過ぎではないでしょう。全く健康人の体でもこのような手当を受けたら必ず死んでしまうという手当だったのです。医者は病気を治すために、大統領から何リットルも血を抜いてしまったのです。

今ではあり得ない。でも当時はこのような治療が平気で行われ、その後も長い間続けられていたのです。
今日、それらの手当は殺人とみなされるでしょう。けどワシントンの時代でも許されないことでした。なせならば大統領がなくなった時、ベッドのそばには聖書が置かれていました。聖書の中にはっきり書かれています。

レビ記17:11、14
11なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
14すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。

聖書はおそらく血液学の教科書を除いて、ほかのどんな本よりも血とその大切さについて多くを語っています。ワシントンの時代には血液学の知識はなくっても聖書を信じることができたはずです。
無知と迷信のために、単純明確な聖書の御言葉を信じなかったために犠牲となった命の数は、とても数えられないほどです。
けども肉体の死よりも、霊魂の死のほうがもっと悲劇的で救いようのないものです。すなわち私達のために流された主イエス様の血は多くの人には信じがたいことでしょうけれども、本当なのです。

血は聖書の主題そのものです。聖書では始めから終わりまで何百回も血のことが述べられています。すなわち、血を流すことなしに罪の許しはあり得ない。
聖書の中心の言葉です。血を流すことなしに罪の許しはあり得ない。それから、イエス・キリストの血はすべての罪から私達をきよめます。罪の報いは死であると聖書ははっきりと言っています。
もちろんここで問題になることは、単に宗教的な迷信か、事実かということです。もし事実としたら、それは全宇宙で最も大切な事実であると言えましょう。私達の永遠の運命は、その事実を受け入れるか拒むかであります。

神の御言葉である聖書は、私達に理論や単なる教えを伝えようとしてるのではなく、事実そのものを伝えようとしています。聖書は、私達を納得させるように書かれたものではない。事実を伝えているだけです。
私達がその事実を信じたら元気になる。どういう状況に置かれていても前向き生活ができるようになる。もちろん、どうして信じることができるか、神の御言葉だからです。わかったからじゃない。
いい気持ちになったからでも、ひとに納得させられたからでもない。神の御言葉であるからです。ですから「御子の血」という言葉こそが聖書の中心テーマです。

ペテロの手紙第I、1:18-19
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

救われたのはキリストの血によったのである。イエス様の血は尊いものであり、流された血は大いに愛されていることを意味しています。
考えられないほど愛されている証拠そのものです。イエス様の流された血とは、単なる教えではなく唯一の救いの道です。

ヨハネの手紙第I、1:7
7しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

これこそが良いニュースなのではないでしょうか。御子の血はすべての罪から私達をきよめる。御子の血こそが聖書の中心テーマです。

御子がなければ救いの道はない。なぜならイエス様は、「私は道そのもの、真理そのものです、私を通してでなければ父の所に行けない。」とおっしゃいました。
私達は聖書の事実を頭の中に蓄えている知識として知るだけでは、十分ではありません。生活の中に、どうしてもその知識が生かされていかなければ、日々を生活することができない。それほどに体験的に知らなければならないのです。
主なる神のご計画とはいったい何なのでしょう。イエス様はヨハネの福音書6章40節で次のように言われたのであります。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

良い行いをして、一生懸命努力する者ではない。信じる者はわかる者ではない。信じる者は永遠の命を持つ、けど御心はそれだけではない。
ガラテヤ人への手紙4章19節にパウロは、もうすでに救われた人々に、主の恵みに預かる人々に次のように書いたのです。

ガラテヤ人への手紙4:19
19私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

結局パウロは苦しい、つらい。救われるだけで十分ではないからです。「あなたがたが、キリストの形に造られなければならない。」
主の目的は、人間はみな救われ、主イエス様に似た者となること、主の似姿に似せられていくことであります。

ひとりひとりは、自分の強い点、弱い点を知っている。自分の一番弱い点も誰でも知っているのではないでしょうか。そして私達は、イエス様の御心にかなう勝利の生活を願い、それがために歩みましたけど結末は敗北に終わったことが多いかもしれない。
いったいどうしてでしょうか?まことの土台を持っていなかったせいなのでしょうか。聖書の知識を持っていなかったためでしょうか。
確かに人間は多くの悩みや苦しみがあるけど、それに対して主の備えは、ご自分のひとり子であられるイエス様です。

イエス様こそ唯一の答えであります。それはもう知ってると言われるかもしれない。けどもし本当の意味でそれを知っているなら、なぜ自分の力でまだ頑張っているなのでしょうか。なぜ自分の力で勝利の生活を送ろうと努力するのでしょうか。
イエス様だけが勝利の生活を送らせることができるのです。パウロは、勝ち得て余りあると証ししたのです。

ローマ人への手紙8:37
37しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

パウロは勝利の秘密を握っていました。それはガラテヤ人への手紙の通り、

ガラテヤ人への手紙2:20
20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

この勝利の秘訣をパウロは知っていたのです。信じる者にとって最も大切な箇所のひとつではないでしょうか。
かつてのパウロのことを考えれば奇跡そのものです。イエス様を信じる者を迫害しました。でも変わりました。私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子と言うようになったのです。

多くの人々は悩んでそして考えています。主はどうして私をこのようなお取り扱いの中にお入れになったのでしょうか。私にはどうして、こんなに悩みがあり、苦しみがあるのでしょうか。
それは自分自身が死んで亡くなり、自分のうちにイエス様が生きておられるというまことの知識に立てるように、主ご自身が導いておられるのです。

私達は確かにいろいろな悩みを持っていますけど、主はそこに応えます時に、間違いなくイエス様を私達にお示しになります。そのほかのどのような方法もお採りになりません。
確かに聖書は人間の過ち、わがまま、罪について多くのことを言っているのです。それだけではなく、イエス様の流された血の力、尊さについても多くのことを言っています。
パウロはおもにローマ人への手紙の中で、

ローマ人への手紙3:23-26
23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

ローマ人への手紙5:8-9
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

私達はキリストの血によってよしとされた、義と認められた、永久的に受け入れられたと初代教会の人は確信して証ししたのです。
聖書の中で確かに罪の事実について多くのことを言っています。簡単にまとめると罪の働きは3つです。

1:主なる神に対して隔ての壁ができた。
2:自分に対して良心の呵責が重荷となった。
3:神の敵である悪魔に訴えの根拠になってしまった。

まず主なる神に対して隔ての壁ができました。すなわち最初の人であるアダムは主なる神に対して不従順であったために、主なる神と人間との間に隔たりができてしまった。すなわち不義が、罪が、神と人間との間を隔てたと聖書は言っています。

イザヤ書59:2
2あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

したがって主なる神は全人類はことごとく罪の下にあると言われました。
おもにローマ人への手紙を見るとわかります。パウロによって書かれた手紙ですけれども、旧約聖書から引用された箇所は非常に多い。今の箇所もそうなんです。

ローマ人への手紙3:9-11
9では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
10それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

罪によって主なる神に対して隔ての壁ができてしまった。それだけではありません。
二番目、自分に対して良心の呵責が重荷となってしまったのです。罪を犯し、主なる神との間に隔てができてしまったので、人間は良心の呵責が生じました。
主なる神、聖霊なる神が人の心に働くとき、全人類はことごとく罪の下にあることを悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。放蕩息子の告白は次のようなものでした。

ルカの福音書15:8
8立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

主なる神に対して隔ての壁ができた。自分に対して良心の呵責が重荷になった。そしてもうひとつは、悪魔に対して訴えの根拠になってしまったのです。
私達は良心の呵責を持っていますが、悪魔はそれにつけこみ人間に、「おまえは罪を犯した。だめな罪人だ。」と言います。
悪魔は訴える者としてヨハネの黙示録に書かれています。

ヨハネの黙示録12:10
10そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

これは将来に対する預言の言葉です。前に言いましたように、主なる神も、人間も、悪魔も罪の事実を認めています。ですから3つの事柄、すなわち主なる神に対する罪、良心の呵責として悪魔の訴えを解決することが必要であり、大切です。
けどいったいどうしたらこの問題を解決することができるのでしょうか。先に言いましたように、人間のあらゆる困難、あらゆる苦しみに対する主の答えはいつもひとつ、すなわちご自身の御子である主イエス様。イエス様のなされた救いの御業、イエス様の流された血潮です。

この3つの問題も、すでにイエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって解決されたのです。
すなわち主なる神と人間との間を隔てている罪という壁は、イエスの血によってもうすでに取り払われたのです。主なる神と人間との交わりができるようになりました。
イエス様の十字架の血潮を良く知るなら、私達の良心の呵責は消えてなくなります。また私達が血潮の価値を深く知るならば、悪魔の訴えは効き目が無くなります。

このように、イエス様が十字架で流された血の力は無限に価値あるものです。主なる神に対し、我々の良心の呵責に対し、悪魔の訴えに対し、十二分の効果を持っております。
私達が霊的に進歩し成長をとげたいなら、どうしてもイエス様の血潮の限りない力を知る必要があります。イエス様が十字架におかかりになり、その時流された血潮の絶大な価値を知らなければならない。この知識なしにイエス様にお従いすることはできないからです。
ですから、この3つのことを聖書は強調しているのです。イエス様の流された血の働きとはいったいどういうことなのでしょうか。

1:壁の廃棄。主なる神との交わりが可能となった。
2:罪の赦しが提供され、喜びと平安に満たされる。
3:十字架の犠牲こそが悪魔に対する勝利。

父なる神ご自身のために血が流された事実について、聖書は多くのことを言っています。
確かに我々の贖いのために流されたに違いない。我々の罪が赦されて主なる神に近づくために流されたのは誰でも信じているし、喜ぶことができる。私達が主なる神に裁かれないようになるために、どうしても罪の赦しと贖いが大切です。
罪の赦しは宗教、あるいは教え、道徳的な行いによってはやってきません。ただイエス様の流された血の事実によってのみ罪の赦しがなされます。けどイエス様の血は、まず父なる神のために流されたのであり、人間のためではない。

もし私達がイエス様の血の価値を知ろうとするならば、私達はまず父なる神ご自身がイエス様の血をどのように考えておられるかを知らなければならないのではないでしょうか。
もし私達が、主なる神がイエス様の血をどのように考えておられるかを理解していないなら、イエス様の血は我々にとってどんな意味があるかもわからないはずです。
御霊が、父なる神が御子の血をどのようにお思いになっておられるかを私達に教えてくださる時、私達ははじめてイエス様の血のすばらしさを、尊さを知ることができます。

旧約聖書を読むと「贖いの血」が100回以上出てきます。そしていずれも贖いの血は人間のためであるよりも、主なる神のためであるとはっきり書き記されています。一番よく知られてる箇所を一カ所見てみましょうか。

出エジプト記12:12-14
12その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
13あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
14この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。

エジプトを出るに当たりイエスラエルの民はみな、傷のない子羊を殺し、その血を家の柱と鴨居に塗らなければならなかったのです。主なる神は、その血を見てその家を通り過ぎると言われたのです。
イスラエルの民が入り口の見える所に血を塗ったことは、主なる神がその血を見られるようにしたかったからです。人々は家の中で羊の肉を食べたのです。人々はその血は見えなかったのです。
出エジプト記で人々が殺した傷のない子羊とは、いうまでもなく主イエス様の雛形です。

主なる神は極みまで聖であり、義であられますから、罪ある人間を贖うために罪なきものを罪とする必要があったのです。
血を流すことは命を与えることです。なぜなら命は血になるからです。

ヘブル人への手紙9:22
22それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

多くの宗教はいろいろなことを教えているのです。なかなか良いことも教えている。だいたい聖書からも引用します。古い書物だから。
けれども、「血」という言葉が出てこなければ全く役に立たない。意味のないことです。血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはない。
イエス様が十字架で血を流された時に、主なる神はその御心を満足されました。「私は血を見るならば災いをくださずに、通り過ぎる。」、意味は、「私は私の子、イエス・キリストの血を見ると満足する。」と、父は言われました。これこそが、私達が知らなければならない永遠に変わらない事実です。

私達はイエス様を信じて救われる前に、我々の良心は曇って死んだようなものでした。けれども今、イエス様を信じる者として、不従順なときそれは私達の良心に敏感に響いてきます。
そのような時、私達は自分ばかりを見つめイエス様の血の価値を忘れてしまい、がっかりしてしまいます。私達の罪は、イエス様の血潮より大きいかのように考えてしまいます。

私達はどうしてそんなことになってしまうのでしょうか。私達は何かこの身に感じたいのです。そしてその感じ方によって、イエス様の血潮の価値を判断したいのではないでしょうか。いうまでもなくそれはたいへんな誤りです。
血潮はまず父なる神のために流されました。イエス様の血が、父なる神にとってどんなに全き価値を持っているかを知る必要があります。私達の感じることは大切なのではない。主の御言葉を信じることこそが大切です。
わかったからではない。書かれているからです。私達はイエス様の血潮の価値を知らなければならない。なぜならペテロは書いたのです。

ペテロの手紙第I、1:18-19
18ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
19傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

主なる神が、御子イエス様の血が人間の罪を取り除くのに十分である、そう言っておられるから、私達は聖なる神と人間を隔てる壁が全く取り除かれていることを信じることができるのです。
主なる神は聖であり義であられます。その主なる神が、血潮はすべての罪を覆うために十分であると言っておられます。

イエス様の流された血の働きを、罪の壁の廃棄について考えてきました。すなわちイエス様との交わりは可能となったという事実について考えて参りました。
今度は第二番目の点について、罪の赦しの結果について考えたいと思います。イエス様の血と、父なる神のご臨在のうちに入ることの関係について考えてみたいと思います。
私達はイエス様の血をよく知るならば、我々の良心の呵責は消えてなくなるのです。父なる神はイエス様の血を心から満足されました。このイエス様の血は我々にも十分であるはずです。

ヘブル人への手紙10:22
22そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

この御言葉は何を意味しているのでしょうか。今までは、主なる神と人間を隔てていた罪という名の壁がありました。そして良心の咎を覚えて苦しんだのですが、今はイエス様の犠牲の血が流され、この罪の壁は取り除かれ、贖われ、良心の呵責は消え去ったのです。
もし私達が、この永遠に変わらない事実の上に立ったのなら、良心の呵責は跡形もなく消えてしまうのです。主に近づくのです。はばからずして。
信仰生活の土台になるものは結局、イエス様の血は私のために流された。その事実なのではないでしょうか。

私達が祈るとき、何を土台にして祈るのでしょうか。イエス様の血なのでしょうか。それともほかのものなのでしょうか。私達はイエス様の血をくぐって、はじめて聖なる主の前に近づくことができるということをいつも考えているのでしょうか。
それとも今日は一日おだやかだった。主のために何かを行った。満足だというところから祈り心が湧いてきて、そのような気分を土台にしているのでしょうか。
もし気分を土台に祈るなら、それは絶望への第一歩なのではないでしょうか。気分の上に成り立つものでは決してありません。ただイエス様の流され血を受けるときにのみ平安があるのです。このことを知ることは本当に大切です。

ヘブル人への手紙10:19
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

ある時は、今日は注意深く一日の信仰生活を送った、いつもよりも多く祈った、多く聖書を読んだ、だから主の御前に近づくことができると思う人がいるかもしれない。
こんなことがあるかもしれない。朝ご飯のとき、うちのものと何かごたごたがあったり、面白くない手紙をもらったり、また朝、目を覚ましたときに気分がすぐれない、主との関係が何か思わしくないように思い、従って今日はよく祈ることができないということもあるでしょう。

私達は何を理由に、何を盾にとって主に近づくのでしょうか。定まりのない揺れ動く我々の感情をもとにして主に近づくのでしょうか。
それとも岩のように動かない土台、すなわちイエス様は私の罪のために血潮を流され、父なる神はそれを心から受け入れ満足して下さったという永遠に変わらない事実に基づいて、父なる神に近づくのでしょうか。

私達がいくら真剣に祈っても、主は聞き入れて下さいません。ただイエス様の血をくぐって近づく時にのみ、主はその祈りを聞き届けてくださいます。
イエス様の血は永遠にその力を失いません。ですから私達はいつも憚らずしてしかも喜び、主の御前に近づくことができるのです。
私達が何かをしたからではない。ただ、イエス様の流された血のゆえに主の御前に生きることができるのです。

エペソ人への手紙2:13
13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

イエス様を信じる者となった今も、ただひとつの理由を持って、すなわちイエス様の血潮のゆえに父なる神に近づくことができるのです。こういうわけで、私達はイエス様の血によって大胆にまことの聖所に入ることができる。
信仰生活の第一歩は、イエス様の血によって踏み出されます。そして信仰生活のひと歩み、ひと歩みも、イエス様の血によってのみ歩むことができるのを忘れてはいけないのではないでしょうか。

くどいほどイエス様の血によって話したのですが、これは一番信仰生活の初歩のことです。それはもうわかりきったことだよ、もういいなのではないかと思う人いるかもしれないけれども、一番困ることは、人間はその初歩を忘れやすい。
死に至るまで、やがて天に召される日まで、このイエス様の血によって歩み続けなければいけません。

イエス様の血は流されました。父はこれを全く良しとされたのです。ですから、血潮は我々にとっても十分価値有るものです。
私達はみな弱い者です。でもその弱い所を見ているだけでは決して強くなれない。
また私達は、この群は祈りに乏しい者なのではないでしょうか。けどそう考えているだけではなんにもならない。憚らずして、恵みの御座に近づきましょう。

主に言いましょう、「主よ。私達は、流された血潮の価値を深く知らない。けど、あなたはそれを良しとされました。だから血潮は私にとっても十分であることを信じます。イエス様の血潮をくぐって御前に近づきます。」
この態度をとると、主は大いに喜んでくださいます。




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